第68話 腕時計とネックレス

 私は、油まみれの体を清めた拓人さんとバスタブで差し向かいになった。

「俺ね、留学することに決めたんだ」

「えっ、絶対留学嫌だって言ってたじゃない!? どうしたの」

 私は思わず拓人さんにしがみついた。

 本当に聞き分けの悪いわがままな子供そのものだと思いながらも、私の体は私の心を忠実に表現した。



「今の俺じゃ、若葉ゆいの隣に立てっこないって思うようになったんだ」

「どうして。私がしっかり立っていられるのは、拓人さんがいるからだよ。拓人さんは私のいかりだよ」

 若い彼には重すぎる言葉だと思いつつも、私の口からは本音があふれ出た。


「拓人さん、私は何一つ変わってないよ。ただの駆け出しで、オーディションも落ちてばかり。事務所の接待の数合わせで、今日だって終電近くになっちゃった。私は」


「陽さんから昔のゆいさんの事を詳しく聞く機会があったんだ。あんなに辛い目に会いながら、死んだように生きながら、それでももう一度自分を信じて立ち上がったゆいさんは、とてつもなく強い人なんだって分かった」

 安パイの人生を効率よく歩こうとばかりする自分に嫌気がさしたんだ、と拓人さんは乾いた笑いをもらした。


「そんな格好の良い話じゃないの。小さい頃にモデルになりたいと思ってたのに、小平に来てからそんな夢を全部封印して過ごしてた」

 夢を忘れてから何年経っただろう――。


「モデルになるチャンスを周りの人たちが二回もくれたのに、八方ふさがりの視界で過ごしていた私は、その善意に気づくことすら出来なかった。モデル稼業を引退するような年になって初めて、モデル稼業の真似事を始めただけの無名の新人なの」


「それが凄いんだ。強い気持ちがある人だから、強い魂だから出来る事だよ。俺はその強さに比肩ひけんできる存在じゃない。少なくとも今の俺は、それに釣り合う男じゃない。そう思ったら、ぬるま湯を脱しなきゃって思うようになったんだ」

 温くなった湯から体を引き上げると、拓人さんは私をバスタオルで包んだ。


「ゆいさんが好きだよ、好きなんだ。でもこのままじゃ、俺もゆいさんも飛べない。飛べないままでいて良い訳が無い。ゆいさんも、俺も。このままじゃ、ダメなんだ」

 私は立つのもやっとだった。

「ゆいさん、勝手に決めてごめん。でも、俺の決意は揺るがない。交換留学生の応募書類も出すし、夏の短期留学の日程も決まった」


 こたつにへたり込んでうつむきながらも、私は心のどこかでこの日が来ることをずっと覚悟していたじゃないかと思った。

 これが私が思い描いていた未来予想図。二人の関係は拓人さんが東京のキャンパスに戻るまでの期間。そう言い聞かせていたのは私自身ではないか――。

 それが少しだけ早まっただけの事、それなのに。


「ゆいさん、泣かせてごめん。ごめん。こんな誕生日にしちゃってごめん」

 拓人さんはそう言いながら小さな箱を私の手に握らせた。

「本当は誕生日プレゼントも一緒に選びに行きたかったんだけど。勝手に決めちゃってごめんね」

 泣きながら震える指で包装を解いた私の目に飛び込んできたのは、ピンクゴールドのネックレスだった。

 ピンクゴールドのハートにはめ込まれた小さなダイヤモンドが、私の涙をはじいた。


「どうしたらいい、どうしたらいいの。私、拓人さんと離れたくないよ、嫌だよ」

「ゆいさんと別れるつもりじゃないよ。俺、ゆいさんが好きだよ。好きだからこそ」

 ネックレス片手に子供のように声を上げて泣く私を、拓人さんは困り果てたように抱き寄せて何度も背中をさすった。




 あやされるようにセミダブルベッドで眠りに落ちた私が目を覚ました時には、拓人さんはいなかった。

「仕事いかなきゃ」

 拓人さんからもらったクリスマスプレゼントの腕時計は、午前八時を指している。

 私は腕時計とネックレスをつけると、手早く薄手のワンピースに着替えて玄関ドアを開けた。

 夏が、少しづつ近づいていた。


※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

 

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