路(Memory)

井守ひろみ

第1話:嫌 -smile-

「行ってきます」

 何気ない日常が始まる。

「行ってらっしゃい」

 姉で大学一年生の蝶名林ちょうなばやしゆうが、あたしの声に応える。

 今日、姉が取ってる学科は二限目からだから、あたしより出るのが遅い。

 バストトップより少し長いあたしの黒髪が風に揺れる。

 染めようかとも思ったけど、調べてみると思いのほか面倒なことがわかって、それ以来このままにしようと決めた。

 明日からゴールデンウィークに入ることもあり、少し浮足立ってしまう。

 いつもの登校路を歩いていると、頭が冴えてくる。

 歩くと色々いいことがあるという知識はある。

 これまでのことを思い出す。

 中学を卒業して今の高校に通い始めた。

 その前は小学校を卒業したはず。それは覚えていない。

 覚えているのは中学の入学式から。


 3年ほど前の春先に、あたしの両親は交通事故で亡くなったらしい。

 らしい、というのもあたしには3年前より過去の記憶が無い。姉の夕も同じ。

 話によると、あたしを含めた家族四人で乗っていた車は、反対車線から進路を塞ぐように突っ込んできて正面衝突されたということだった。

 前の座席に乗っていた両親は助からず、後部座席にいたあたしたち二人は何とか助かったと聞かされている。

 けれども姉妹揃って記憶が無いため、実感が湧かない。

 対向車の運転手も息はあったものの、術後の回復段階で容態が急変し、力尽きて後を追った。

 事故後、姉妹二人は県境を一つまたいだ母方の祖父母に引き取られて今に至る。

 不幸中の幸いだったのは、姉妹で二人とも記憶を無くしたのは学校の切り替え時期の春休みに重なっていた。

 姉の夕は高校入学直前。あたしは中学入学直前。

 高校は元々少し離れた場所にあり、同じ中学から進学した人はごくわずかだったから、記憶喪失を悟られることはなかった。さらにその高校は実家よりも近かった。

 対してあたしのほうはかなり大変だったらしい。

 安全面の理由で学区外からの登校を原則として認めてない中学に進学する予定だったのと、祖父母の家からほど近い中学で親の急な転勤と引っ越しがあり、一人の生徒が欠員となったことと重なったから、歩いて10分ほどの中学に通った。

 急すぎて手続きが間に合わなかったものの、書類だけの問題だったため入学式から特例で入学して、後から書類の辻褄を合わせたらしい。

 こうして二人とも親がいない実家を離れて引っ越しをして、それぞれの学校に通い始めた。


 幸か不幸か、これまで自分に何が起きたのかという記憶が無いだけで、誰にいつ習ったのか分からない気持ち悪さはあるものの、計算はできるし読み書きもできるし、学校の教科書に載っていた内容は頭に入っている。

 自分がどう過ごしてきたのかだけが頭から抜けている。だから勉強はついていけるし、食べ物の名前も言える。

 いつどこで覚えたのかが分からないのは、さすがに落ち着かなく思うけど。


あやぉはよ」

 いつもの明るい声が耳に飛び込んできた。

 薮崎やぶさき瑠帆るほ

 記憶が無い中、中学で初めてできた友達。今は何でも気兼ねなく話せるあたしの親友。小学校含めてそれ以前の記憶がない事を知っている。小学校まで過ごしていたところとは別の新天地で生活を始めたこともあって、過去のしがらみがクリアになっていたのは助かった。

 栗色の長い髪は、軽くウェーブがかかっていてふんわり柔らかな空気を演出している。黒ストレートのあたしとは全く異なる。

 身長はあたしより少し低い155cmで、控えめながらもメリハリがあってしっかりと主張するボディラインは、あたしにも見劣りしない。

 少しタレ目なところが人懐っこさを象徴しているかのように見える。

「おはよう、瑠穗」

 隣に並んできた瑠穗を横目に歩みを進める。

「ねぇ聞ぃてよ」

「また惚気話のろけばなし?」 

「惚気なんかじゃなぃよ」

 瑠穗は中学の卒業式に告白されて付き合い始めた彼氏がいる。

 それなりでも気になっていた男子だったのと、その日を逃したらお互いに会おうと思わない限り、二度と会えない最後の機会だったから少しだけ考えてOKした。

「彼氏がね…」

「やっぱり惚気じゃないの」

「だから惚気じゃなぃってば。彼氏がね、連休に泊まりこなぃかって誘ってきたんだよ」

 あ行の発音が少し弱いけど、これが瑠穗の喋り方。

 最初こそ気になったけど、もう慣れている。

「だからそれ惚気よ。というか泊まりって色々と大丈夫なの?付き合ってからまだ二ヶ月くらいでしょ?」

 卒業後の春休みは長めだから毎日でも会っていると仮定しても、まだ恋人できたてで浮足立っている時期には違いない。

「ぃっぱい会ってるのに、まだ手も握ってくれなぃんだよ。だから少し焦れてきちゃったんだ」

 その泊まりで一気に距離を詰めようってことか。

「それは大切にされてるからでしょ。幸い同じ高校に上がったけど、早々に退学してバイバイなんて嫌だからね」

「?」

 言いたいことがわからないのか、首を傾げる瑠穗。

「例えば身重になっちゃったとしてそのままじゃ学校に通い続けられないでしょ?」

「だいじょぶ。薬使うから」

「ちょっ…簡単に言うけど、副作用があるの分かってるんでしょうね?」

 かなり生々しい会話になっているけど、流れからして仕方ない。

「彼の気持ちを確かめられるんだから、それくらぃ何ともなぃよ」

 まあ、本人がいいなら他人のあたしには止める理由もないけど。


 キャーキャーと廊下側で黄色い声が響き渡る。

「毎日毎日飽きないわね」

「なんて言ぅんだっけ、あの彼?」

「知らないわよ。興味ないもの」

 噂では容姿端麗成績優秀家柄極上、と完璧超人のごとく好条件が揃っているイケメンが1つ挟んだ向こうのクラスにいるらしい。

 いつも女子が取り囲んでいるから、その姿を確認する機会はない。

 興味ないから別にいいんだけど。

「どうせ女子をはべらせていい気になってる気障野郎きざやろうに違いないわ」

「彩はそぅぃぅ口の悪さが男を遠ざけてるのよ」

「別にいいわよ。猫かぶって取り繕ったところで、ボロが出て離れていかれるくらいなら、最初から寄ってこないでいれくれたほうが面倒ないもの」

 実際、前に告白されて付き合うか返事をする前に、告白された後で一度だけデートして判断してもらったことが何度かある。

 結果は全部告白の取り下げ。

 この歯に衣着きぬきせぬ物言いが無理らしい。

 かといって言いたいことを言わないで抱え込むとイライラして八つ当たりする、まである。

 だったら言って後悔する方を選ぶ。それだけのこと。

 口は荒っぽいとしても、仕草や立ち居振る舞いは他の女子と比べても遜色ない。

 むしろ外見だけなら並より上というのが瑠穗の評価。それだけに中身が残念と何度も瑠穗に指摘されている。

 むやみに足を広げたりしないし、身嗜みもしっかり整えている。

 多分周りから見ても、見た目は普通の女子として見られているはず。

 ただ口が荒っぽいだけ。だから残念な女子として見られている可能性はとても高い。瑠穗も多分同じ考えだろう。

「彩はせっかくぃぃものを持ってるんだから、もったぃなぃよ」

「いいものって何よ?」

「わたしより背が少し高ぃし、スタイルだってわたし負けてるよ。顔も整ってぃて黒ぃ髪もサラサラ。ミスコンで勝負したら勝ち目なぃよ」

「いいのよ。瑠穗が薬の副作用を構わないと言ってるように、あたしは今のあたしでいることに誇りを持ってるんだから」

「そぅ返してきたか…」

 結局あたしに寄ってくる男はみんな見た目だけで判断しているに過ぎない。

 お互いに無駄な時間を浪費しないよう、一度だけデートして試してもらっている。

 あたしにとっても相手を知るいい機会になっていることもある。


 放課後。

 あたしは瑠穗と一緒に美術部で活動している。

 まだ初心者だから、像や置物のデッサンで基礎を学んでいる段階。

 部室の中にある像や置物を集めてスケッチブックを開く。


 完全下校時刻になり、部活もお開きになった。

 そういえば近くにたい焼き屋がオープンしたのを思い出した。

 祖父母は粒アンコが好きだから、買っていってあげよう。

「たい焼き二つとアイスクリームバニラを一つください」

「はいよ」

 鉄板に衣やアンコを乗せて、みるみる内に出来上がっていく。

 焼き上がったたい焼きは紙袋に入り、アイスクリームがコーンに乗せられる。

 アイスはあたしが帰りがけに食べるつもりでいる。

 その最中、バッグに入っている財布を取り出…そうとしたら、ザアっと青ざめた。

「ないっ!?」

「ほい、420円です」

 周りを見回すと、銀行どころかコンビニすら見当たらない。

 預金を降ろすにしても、アイスがある以上あまり時間をかけられない!

「あのっ…!」

「これで払います」

 ふと、横から手が伸びてきて、男の声と同時に500円玉がトレーに置かれる。

「ほい、80円のお釣りね」

 なかなかフランクな客対応をする店員のおじさんが、お釣りをあたしの横から伸びた手に手渡す。

 呆気にとられたのと、そのやり取りが早すぎて、割り込んできた人が誰なのか確認することすら忘れてしまう。

「さ、行こうか」

 そう呼びかけられて、やっと我に返る。

 顔を確認するより前に、服が目に入った。

 ウチの制服だ。

 つまり同じ学校に通っている人ということ。

「あの、ありがとうございます。このお金は必ず返します。今、コンビニか銀行を探しますので、ちょっと待っていてください」

 ペコリとお辞儀をする。

「ああ、悪いけど先を急いでるんだ。待ってる時間はない。返してくれるなら連休明けにでも頼むよ」

「そうですか。あたし、1-Dの蝶名林ちょうなばやしあやと言います。クラスと名前を教えてください」

 ここであたしは、やっとその顔を確認した。

 思わず思考が停止してしまうほど、整った顔に引き締まった体つきをしている。

 一瞬、モデル?とさえ思ってしまう。

 サラサラの濃茶髪は長すぎず短すぎずで程よく切りそろえられていて、身長はおそらく175cmくらい。

「俺は月都美つづみりょう。1-Bにいる。さっきも伝えたけど、連休明けで構わないからいつでも訪ねてくれ」

 名乗った彼の言葉で再び我に返る。

「わかったわ。月都美つづみりょうくんね。このお金は必ず返します。ありがとう。それじゃね」

 足早に遠ざかっていく姿を見送り、意識が返ってきたのは手にしたアイスが溶けて手に滴った時だった。

 お買い物の前には、必ず財布と所持金を確認しておかなければ、と心に決める。

 それにしても、あのさりげなさと気遣いはすごいと思った。偶然通りかかっただけだろうけど、そんな刹那に状況を察してスマートに手を差し伸べる観察眼と機転はさすがに舌を巻く。

 あんな人が彼氏だったら、と思ってみたりする。

 けど月都美 陵…なんか心の奥に引っかかるものがある。

 それは別に恋愛的な意味ではなく、何か重要な…言葉にしにくいザラつきというか、ザワつくような何かが胸の奥で蠢いているを感じた。


 月都美は急ぐ道中、見知った人をその目に捉える。

「よう、ココ」

 ココと呼ばれた金髪ツンツン頭の男子生徒が振り向く。

「よーモテ男」

 光畑こうはた紘汰こうた

 月都美と同じくらいの背丈に髪型が相まって、どこか抜き身の刃物みたいな危なさを秘めた目つきだけど、これでも月都美の幼なじみだったりする。

「そんな急いでどこ行くんだー?」

「家族旅行だとさ。二時間後のフライトで出発するなんて無茶振りされた」

「旅行だー!?この連休を使っていくわけかー。楽しんでこいよー」

「ああ」


 連休は姉とお出かけしたり、瑠穗の空いてる予定に合わせて二人でおしゃべりして過ごした。


 連休明け。

 あたしは封筒に入っている借りたお金を手にして、1-Bの教室へ向かう。

「あの、1-Dの蝶名林と言います。月都美さんはいますか?」

「陵くんね。彼ならそこにいるよ」

 廊下に一番近い席の1-B女子に聞くと、指差す方を見る。

 見ると複数の男子がいて、そのうち一人は女子に囲まれている。

「どれ?」

「見えない?あの女子に囲まれている人よ」

「おっ、来たな。蝶名林さん」

 囲んでる女子の視線が一気にあたしへ刺さる。

「げっ!まさかこうくるなんて!」

 思いっきり体ごと引いて、しかめた顔を見られた。

 でも借りたものは借りたもの。相手が誰であろうと礼は尽くす。

「はい。借りたお金よ。あの時は助かったわ」

 もう二度と関わることのない人種だから、めいっぱいの作り笑顔で封筒を渡した。

「それじゃ用事は済んだから、これで失礼するわ」

「蝶名林さん」

「何ですか?」

「また来てくれよ」

「あたしも色々と忙しいから、時間があったらね」

 愛想笑いとさよならの意思表示を込めて振った手を送ってあたしは教室を出ていく。

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