遠いあの日の約束
深雪 了
Ⅰ
―君は時の輪を巡って、私のところへ帰ってきてくれた。
それが私にとってどれだけ尊いことだったか、君はわかるだろうか。
カスタードクリームパン、クロワッサン、北海道小豆のこしあんパン、よもぎパン、オニオンチーズパン、食パン・・・焼き上がったパン達を陳列棚に並べていく。
午前六時四十分、もうすぐ開店の時間だった。
私—新井楓は地元の駅前のパン屋で働いていた。パン屋の朝は早い。午前七時の開店に合わせて私は朝五時から出勤している。
正直早起きは大変だけど、その代わり上がりは午後の二時だった。
私は実家暮らしをしていて、母は看護師の仕事をしていた。父は数年前に足を悪くして生活にいくらかの手助けが必要なのだけど、母が夜勤になることが多いので、私が早い時間に上がれる仕事を選んだのだった。
開店して少しすると、客がぱらぱらと入り始めてきた。大抵は朝食や昼食を買いに来た通勤客や学生だった。
スーツ姿のサラリーマン、通勤用であろう小綺麗な私服を着た女性、制服姿の女の子・・・みなが自分の好きなパンをトレイに乗せ、店を巡回している。
商品を陳列棚に並べたり、レジを打ったりするのは私のような女性の社員やアルバイトの女の子の仕事だった。店長はいたが男性で、店先に立つのは女性の方が良いだろうとの方針で基本的に表には出て来ず、パンを焼いたり事務作業をしていることが多かった。
「新井さん、お疲れさま」
二時になって今日の仕事が終わると、休憩室で事務処理をしていた店長が声を掛けてきた。店長は確か三十八、九歳くらいで、太い眉とどこか人を和ませる言動が印象的な人だった。
「お疲れ様です。今日始まったフォカッチャ、売れてましたよ」
「それは良かった。マネージャーに良い報告出来るよ」
マネージャーというのはエリアマネージャーのことだった。この店はチェーン店なので、この辺り一帯を統括するエリアマネージャーという人物が存在していた。
更衣室に入った私は着替えると髪を整え、化粧を直した。
「じゃあ、お先に失礼します」
身支度が終わった私は店長に声を掛け、店長の返事をあとにパン屋を裏口から出た。
外へ出た私の心はいつもより少し弾んでいた。今日は金曜日で、夕方から恋人の中原佑馬と食事をする約束になっていた。今日は母が夜勤ではないので私は自由に出歩ける日だった。
佑馬は二十八歳の私より四つ年下の二十四歳で、一般の商社に勤めていた。やや色白で中性的な顔立ちをしていて、黒くてさらさらとした短髪の青年だった。本人は男らしさがあまり無いとコンプレックスを感じているようだったが、私は温厚な性格も含めて好きだった。
彼と会ったのは二年前で、その日私は仕事が終わった後近くの喫茶店で紅茶を飲みながら本を読んでいた。
そして読書に熱中してきた頃、私はテーブルの上に置いておいた紙のしおりを床に落としてしまった。それは掃除が行き届いた床を小気味良く滑って、2つ隣のテーブルまで飛んでいってしまった。
その時そこのテーブルに座っていた青年がしおりを拾って私のところまで持ってきてくれた。それが佑馬だったのである。
「ありがとうございます」
私がお礼を言うと、彼はいえ、と言って落ち着かないそぶりを見せた。
普通ならそこで終わりのはずだった。しかし彼は私のもとを立ち去らず、あの、と言葉を続けた。
「・・・あの、僕、普段はこんなことしないんですけど、・・・あなたのことがとても気になって、良かったら、連絡先を教えてもらえませんか」
え、と私は固まって彼を見上げた。「こんなこと」とはナンパのことをさすのだろう。とりたてて美人ではない私でもこういう経験は何度かあったが、突然のことで驚いてしまった。もちろん普段の私は声を掛けられたからといって応じるようなタイプではない。しかし目の前の彼は顔を赤らめて必死の様子だった。それだけ本気ということだろうか。
それに彼はどこからみても誠実そうな青年に見えた。それらのことを踏まえて、私は応じてみてもいいかもしれないという気持ちになった。
特に何の変わり映えもしない、それが私達の出会いである。
夕方になると私は、私と佑馬の家の中間地点の駅前に居た。金曜日の夕方なせいか、仕事を定時で切り上げて飲みに行くといった感じのサラリーマンが目立つ。
その流れていく人混みを見ながら私は佑馬を待った。時折吹く夕方の風に私の髪がなびく。鞄から鏡を取り出して乱れがないか確かめた。肩くらいの長さの茶色い髪で、ウェーブがかかっていた。パン屋の更衣室で見た時と同じように整っている。髪型のチェックを終えて顔を上げると、居酒屋の呼び込みをしている人や、ティッシュか何かを配っている人達が目に入った。
そして少し待っていると、スーツ姿の佑馬が小走りでやって来た。
「お待たせ。突然お客さんの所に行く用事ができちゃったんだけど、間に合って良かったよ」
少し息を切らせる姿も彼だと爽やかだった。
「お店予約してくれたんだっけ?」
私が聞くと佑馬はうん、と言ってスマートフォンを操作した。
「ここからすぐだから、行こうか」
そして私達は佑馬の予約した居酒屋に入った。店内は居酒屋によくある薄暗いオレンジの照明で、安いという感じはしなかったけれど、高級すぎるという程でもない、手頃な値段でそれなりに美味しいものが味わえそうな店だった。
「今日は少し大変だったよ」
席に通されておしぼりで手を拭くなり、佑馬はそう言った。
「さっきの、急にお客さんの所に行ったって話?」
私が聞き返すと、佑馬はうん、と頷いた。彼は文具メーカーの営業職だった。
「百貨店のお客さんから、急に来てくれって言われて。新しい商品を置きたいんだけど、見映えも考慮して決めたいから商品を何種類か持って来てくれって言われちゃってさ。いきなりの事だったから焦ったよ」
困ったような笑顔を浮かべる彼は、それでも大して迷惑そうな素振りはしていなかった。
「客商売は大変ね」
テーブルに置いてあったグラスに二人分の水を注ぎながら私は言った。
「君だって客商売じゃないか」
私が差し出したお冷をお礼を言いながら受け取ると、佑馬は一気に半分くらい飲み干した。
「私のなんかは、佑馬の仕事より全然シンプルじゃない。パンを売って、それでおしまい。客商売に焦点を絞れば、それだけよ」
「まあそれはそうなんだけど」
そして飲み物といくつかのつまみを注文すると、私は「早速だけど」と言って自分のバッグから包みを取り出した。それを佑馬へと差し出す。
「誕生日おめでとう」
佑馬は昨日二十四歳の誕生日を迎えたところだった。今日の食事はその祝いのためだった。
「ありがとう。開けていいかな」
「もちろん、どうぞ」
私が答えると、佑馬は慎重に包みをほどいた。その中には茶色い革素材のカードケースが入っていた。
「新しいのが欲しいって前言ってたから、いいかなって」
佑馬はカードケースをひっくり返したり中身をぺらぺらと開けたりした。
「うん、ちょうど欲しかったところだよ。デザインも落ち着いていていいね。大事にする、ありがとう」
彼は穏やかな笑みを私に向けて言った。その癒し系の笑顔を眺めながら、プレゼントが気に入ってもらえたことを私はひとまず安心した。
それからは色々な料理を食べながら、普段通りの会話をしていた。仕事のことや友達のこと、父の足の具合のことなど。私達はどこにでも居る普通のカップルだった。少なくともその時の私はそう思っていた。それが後の佑馬の衝撃的な告白を聞いて、一変することになる。
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