矢作川の戦い

「殿、ご報告にございます」

 柘植衆の忍びが戻ってきた。

「ご苦労」

「今川軍は安兵を下がらせて矢作川の西岸に布陣しております」

「であるか」


 先ぶれの騎馬武者を走らせて安祥に援軍の到来を告げる。伏兵を警戒して10名程度の兵を向かわせた。


 安祥の兵は野戦で敗れたこともあり半数程度が戦えない状態だった。そして今川が猛攻を仕掛けていた理由がもう一つあった。


「三郎様、ご加勢ありがたく」

 一人の少年が平伏し、殿に礼を述べている。彼の少年の名を竹千代と言った。すなわち松平の嫡子である。

 西三河の旗頭となっていた松平一党の嫡子であり、岡崎襲撃の際には当主の広忠殿と老臣が居残り、若手家臣とともに脱出してきた。野戦に及んだのも竹千代救援のためというわけである。


「兄者、よくぞ竹千代を守り通した。武功はのちに報いますぞ」

「はっ、ありがたきお言葉」


 松平衆は兵力の過半を失っている。それでも200ほどの手勢が酒井忠次殿の手によってまとめられていた。

「……織田様、松平衆はすでに力を失っており申す。これまでのように盟を結ぶには力不足」

「それは竹千代の意であるか?」

「いえ……」

「気を使わずともよい。まずは今川を追い払う。その後に岡崎を取り戻す。そうして我が力となってくれればよい」

「は、ははっ!」

 立場を明確にはしていないがすでに力の差は歴然となっている。松平家は事実上織田家の家臣となるのだろう。


「一刻も早く岡崎を取り戻さねばな」

 殿は竹千代殿を慰めている。父親を討たれ、本拠を追われた。まだ8歳の子供には酷なことだろう。


「夜襲は……無駄でしょうな」

 兵力は相手が優勢だ。こちらの兵は那古野と鳴海の兵ほか、殿の馬廻りを集めても4000余り。

「死人兵相手ではな。天田の話を聞いて一つ試したいことができた」

「なるほど」

「されば明朝の出陣で?」

「うむ」

「……援軍をもう少し待ちませぬか?」

「それはあり得ぬ」


 矢作川の向こうでは異様な光景があった。疫病で倒れた人々が死人の軍勢に加わっているのだ。


「……なるほど」

「数が合わんのだ。初めに岡崎を襲った兵は1万余り。天田が鳴海に向かうまでに千以上を討ち果たし、鳴海では三千を討ち取った。であっても安祥の包囲には7000ほど。よもやとは思っておったがな」

「時間はあちらに味方するということですな。承知仕った」


 先陣はうちの手勢に決まった。そしてなぜか殿の馬廻りが同行している。というか、俺と馬を並べていた。


「ほう、貴様の手勢はなかなかの武者がそろっておるのう」

「はっ、殿の薫陶のたまものかと」

 朝早く起きて鍛錬をした後政務を執り行い、昼の鍛錬として弓の稽古を行い、暇さえあれば鍛錬している。

 馬を走らせて川で泳ぎ、剣術稽古を行ったあと鉄砲稽古に励む。そのような主君を目の当たりにしている馬廻りや小姓衆も同じく鍛錬に励んでいた。

 というわけでうちの配下にも同じように鍛錬に励んでもらった。幸いにして俺にはレベルやステータスが見える。なので、レベルアップした配下には褒美を与えていた。するとやる気を出した兵たちはさらに鍛錬に励む。実にいい感じだ。


「うむ、精兵を抱えるは武門の誉れ故な。ようやっておる」

 殿よりお褒めの言葉をいただき、周囲の兵たちの士気が上がった。


「おおお、おおお、おおおおおおお」

 川を挟んで敵陣に向き合う。向こう岸から吹いてくる風には死人たちが垂れ流す腐臭が含まれ、怖気を振るう兵もいた。

 聞こえてくるうめき声は地獄の亡者のごとく。生きている者を地獄に引きずり込もうとするかのよう。

 

「ふむ、なんとも痛ましき有様であるな」

 眉間にしわを寄せ、不機嫌な様子を見せる殿に、小姓らが顔色を変える。

「ええ、では……」

「まあ、待て。我が一つやってみようぞ」


 殿が一人、刀を手に矢作川の岸辺に降り立った。榊が握られ、安祥城の井戸から汲んできた水を竹筒から振りかける。


「かけまくも畏き織田劔神社の大前を拝み奉まつりて恐み恐みも白さく。大神等の広き厚き御恵みを辱なみ奉り高き尊き神教えのまにまに 天皇を仰ぎ奉まつり

直き正しき真心もちて誠の道に違ふことなく負ひ持つ業に励しめ給ひ家門高く身健かに……世のため人のために尽しめ給へと恐み恐みも白す」


 しゃらんと鈴が鳴る。祝詞を唱えつつ、榊を振る。水滴がぱらりと飛び散り、キラキラと陽光を跳ね返した。

 すらりと刀を抜き放つ。

「諸々のまがごと、罪、穢れ、有らんをば……祓え給え、清め給え……」

 朗々と唱えられる祝詞に、織田勢はしわぶき一つ漏らすことなくその言葉に聞き入る。

 そういえば織田家の発祥の地は越前の織田の荘。劔神社の神職であると聞いたことがある。

 ふわりと背後から風が吹き始める。再び振るわれた榊から飛び散った水滴が風に乗って霧となり死人の群れに降りかかる。


「ぐごごごごごごご……」

 いつの間にか向きの変わった風は清浄な光をまとって死人の群れに降りかかる。するとジーンの祝福と同じ効果があったようで、ボロボロと死人の身体が崩れ始めた。


「おお、神よ……」

 ジーンとジルが殿にひざまずいて祈りをささげている。二人の祈りの力も加えて祝詞はさらに朗々と響き渡る。


「信盛、いけい!」

「はっ!」

 身じろぎ一つせず、ボロボロと崩れていく死人の群れを尻目に、その中心にいた今川の兵に向け、佐久間勢が突撃を始める。

 今川の兵は1000あまり。佐久間殿の率いる鳴海の兵は1500。それも、死人の軍勢が滅んでいく今、ただの合戦である。

 であれば、これまでも対今川の前線に立っている佐久間勢は怖気ることなく喊声を上げて突っ込んで行く。


「盾を出せ!」

 防ぎ矢が飛んでくるなか、盾をかざして突き進む姿は』まさに尾張の精兵であった。

 ぶつかり合った直後は互角にもみ合っていたが、徐々に佐久間勢が押し込み始める。左右に振り分けた備えが徐々に側面を突いて蹴散らし始めたのだ。

 

「……かしこみかしこみもうすことなり」

 祝詞の終わりの言葉をつぶやくように告げると、殿はがくりと膝をついた。

「との!?」

「う、ううむ。なかなかに疲れるものよのう」

 

 今川の兵は必死に佐久間の兵を防ぐ。しかし、数と勢いの差はそう埋められるものではなく、さらに殿の様子を見るに雪斎も同じように疲労の極致にあるのではないか?

 さもなければあれほどまでに脆い采配をするとは思えない。


「ぐはっ!」

 雪斎の胸に矢が突き立つ。その瞬間、周囲に漂っていた死人が崩れた後にたゆたう靄のようなものが雪斎に向けて集まりだす。


「いけない! すぐにあの老人を討ち取らないと!」

 ジーンが慌てたように走り出す。同じくジルも剣を抜き放って走りだした。

「死者の王が生まれる」

 ジルの一言はとてつもなく不吉な響きを伴っていた。

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