3話 名前
夜になると、リンの家は暗闇に包まれ、壁の穴から差し込む月の光だけが部屋の中を照らしていた。月の光が差す所には丁度寝床があり、二人はそこで肩を並べてお互いの事を語り合っていた。
「改めて、ワタシはリン。君は?」
「私は・・・すみません、実は何も憶えていないんです。」
「記憶が無いの?」
「はい・・・自分の名前はおろか、自分が何者でどこから来たのかも。」
海の上で彷徨っていた棺桶の中に入っていた・・・そんな事は言えなかった。それを言ってしまえば、彼女も自身と同じ異形の者だと勘違いしてしまうかもしれないとリンは思った。
(けど、もしかしたら彼女もワタシと同じ異形の者なのかも・・・。)
思い出すのは棺桶の中から抱き起した時。最初に頬に手を当てた時、死人のような冷たさだった。だが、彼女はどういう訳か目を覚まし、再び温かさを取り戻していた。
リンのような異形の者は産まれてから異形だったのではない。死して尚、死の恐怖に怯え、生に執着し、異形の者へと変化して現世に蘇る。その際、生きていた時の記憶や心は消えてしまい、人に危害を加える化け物になってしまう。
リンの隣に座る少女はその過程に似ていた。だが、彼女には明らかに心が残っている。
(記憶は失ってるけど、ワタシと同じく心は残ってる。ワタシと同じ特異な例・・・いや、だけど彼女が異形ならもっと早くに目覚めていたはずだ。)
次にリンの頭に浮かんだのは少女の背にあった紋章。彫られたものでも描いたものでもない。まるで体の内から浮かび上がってきたかのようなあの紋章。
(あれが関係しているのか?)
「リンさん?」
考えに耽っているリンの顔を覗き込むように顔を近づけてきた少女にリンは、ほんの少しドキッとした。夜に見る海や砂浜で取れる綺麗な貝殻よりも、少女の酷く整った美貌の方が美しく綺麗だった。
「ご、ごめんなさい!少し考え事を・・・。」
そう言いながら、リンは枕元に置いていた本を手に取り、それを自身の膝の上で開いた。
「その本はリンさんの?」
「ううん。たまに海に流れ着いてくるのにこういう本が混じってあって、これはその中でも綺麗な状態だったんだ。」
「どんな本なんですか?」
「主人公はロア王子。王子は攫われたメリナ姫を救うため、リンと呼ばれる悪い国王と戦う・・・そんな話だよ。」
「リンって、リンさんと同じ名前。」
「実は、ワタシの名前はこの本から借りてるんだ。」
「どうして悪い方の名前を?」
「この国王はメリナ姫を亡くなった自分の奥さんと面影を重ねちゃって攫ったんだ。寂しさを拭う為・・・それが何だかワタシと似ていたから。」
そう言うリンの表情はとても悲しげで孤独に見えた。少女は本を手に取り、パラパラとページをめくっていき、あるページの所で手を止めた。
「この、ミリアっていう人が亡くなった?」
「そう・・・けど、あんまり描写が無くて、どんな人か分からないんだ。それだけじゃなくて、このリンっていう人の過去も書いてなくて、本当に悪い人だったのかも実際分からないんだ。」
「ふーん・・・それじゃあ、私は今日からミリアという名前を借ります。」
「え!?けど、メリナ姫の方が、その・・・。」
本の中で描写の無いミリアではなく、彼女のように美しい容姿だという事が書かれてあるメリナ姫を進めようとしたが、恥ずかしくて言い出せなかった。
「このミリアという登場人物と同じく自分の過去も無い・・・でも、リンさんは私を知っている。だからこの名前に決めたんです。」
「ワタシだけが君を、ミリアを知っている・・・。」
自分だけという特別感に嬉しさを隠し切れないリン。その感情が表情に出ていたリンをミリアは可愛らしく思い、思わず笑みがこぼれる。自分の感情が表情に出ていた事に気付いたリンは恥ずかしくなり、シーツで表情を隠すように覆う。
「・・・これからよろしくね。ミリア。」
シーツから口元だけを出し、リンは呟いた。
「うん。よろしく、リン。」
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