愛が照らす贖罪の道

夏希纏

前編

 母さんが死んだ。


 高校の校内放送で呼び出され、担任から告げられた訃報に病院へ駆けつけると、もう母さんは永遠に口を開かない状態になっていた。


 ぼうっと立ちすくむ。窓からは痛いくらいの太陽の光が、青白い母の顔を照らしていた。まじまじと顔を見てみれば、記憶にあるものよりも少しシワが増えていたことに気がつく。


 毎日顔を合わせていたのに、合わせられる状態だったのに、俺は顔を見ることもなく甘えていた。そのことに愕然とする。


「母さん、目を開けてくれよ」


 医者からはとうに『ご臨終です』と伝えられている。しかし、縋らずにはいられなかった。


 あと一言だけでも、母さんに届いてくれるかもしれない。そんな、叶うはずのない希望に。


 ベッド脇で「ごめん」「もっといい息子だったらよかったよな」「最後の一言くらい、訂正させてくれよ」と泣きながら訴える。何分経ったのか、時間が短く感じたのか。


 病室に顔を蒼白にさせた父さんが入ってきて、母さんに駆け寄る。


「俺より先に逝くなよ……」


 父さんはぽつりと声を漏らし、冷たくなった母さんの手に触れ──程なくして、俺の肩に手を置いた。


「母さんはお前がいて幸せだったと思うぞ。最期の日まで、母さんと過ごしてくれてありがとう」


 いったいどのような罵詈雑言を吐かれるのか。

 身構えていたからこそ拍子抜けして、温かい言葉に涙が溢れ出る。嬉しさからではなく、罪悪感から滲み出るものだった。


「……どうして、そんなこと言うんだよ。知ってるだろ、俺と母さんが交わした最期の言葉」


 ああ、まただ。

 心の中では反省するのに、口に出すことはできなかった。俺はいつもこうやって、他人の善意を責め立てる。


「知ってるさ。……もう取り消す機会はないけど、それを責める必要も、もうない。これからは気をつけるんだぞ」


 父さんは一旦言葉を区切って、絞り出すように言う。


「これが最期の言葉でもいいように、喋るんだよ……」


 頬に流れた一筋の涙が、窓から差す光に煌めく。


 エンゼルケアをしなければいけないので、俺たちは病室から出ることになった。諸々の手続きは父さんがやってくれるらしく、俺に与えられた役割は休むことと母さんの遺品整理だった。


 名残惜しくてもう一度母さんの顔を見て、もう十年も触れていなかった手を握る。伝わってくるのは『母』のイメージからは程遠い、ぞっとする冷たさと硬さだった。

 もっと、触れておけばよかった。


 後悔を胸に、病室を出る。生前言うことのできなかった、「ありがとう」の言葉だけを置いて。


   ◆


 俺は典型的な反抗期を迎えていた。


 将来に対する不安、理由のない焦燥感、自立願望、人の目。その思春期特有のすべてが合わさって、また俺自身も『反抗期』という言葉に甘えて、母親にはまるで不良のような態度を取り続けていた。……不良に見えるのならば、それは不良なのかもしれないが。


 母親が作ってくれたご飯をあまり食べない、夜遅くまで出歩く、ちょっとしたことで口答えをする。


 きっとよくあること。だから俺は特別悪い存在ではない、むしろ口うるさく注意するあいつのほうが悪いんだ。


 そんなことを思い続けて3年ほど経った、母さんが亡くなる前日のことだった。


 いつも通り23時を過ぎたあたりに帰宅すると、珍しく玄関先に母さんが立っていた。よくないことを重ねている自覚があっただけに、ぎょっとする。


「母さん、もう限界だよ」


 ぽつりと放たれた声に「ああ、そうか」とおざなりに返し、玄関を過ぎ去ろうとする。何か飲むためリビングへ入ると、冷めきった手作りの惣菜がテーブルの上に二人分、置かれていた。


「反抗期だからって我慢してたけど、疲れたよ。私はあんたに暴言を吐かせるため産んだんじゃないんだよ。幸せな家族に戻ることはできないの?」


 疲れ切った声が後ろから響く。晩御飯も食べずに俺を待っていたのだろう。

 いたたまれない。今すぐ謝るべきだ。母さんは声を殺して泣いている。


 悲痛な優しさと、自分のしでかした悪事に板挟みになって、苦しくなる。

 どのように行動するべきか──考えた結果、俺は。


「うるせぇな、死ねよ」


 自分のちっぽけな、薄汚れたプライドを守ってしまった。


「……ごめんね」

 深い影と悲しみを表情に宿し、フラフラと力のない足取りでテーブルに向かい、一人分の惣菜を冷蔵庫に入れる母さん。


 それが俺が最後に見た、母親の姿だった。


   ◆


「母さんが帰ったら、昨日の夜の暴言、ちゃんと謝れよ」


 翌朝、飯も食べずに学校へ行こうとする俺に、出勤前で慌ただしいはずの父さんが呼び止めて言う。


 母さんは朝早くから仕事に出ているから、父さんに事情を説明して伝言を頼んだのか。それとも単なる愚痴で俺のことを言ったのかはわからないが、顔が赤くなった。


 どうしてわざわざ父さんに言うんだ、自分の中で処理しろよ。


 心の中でも悪態を吐き、黙って玄関を出る。今思えば、そのときが最後の贖罪のチャンスだった。


 せめて本人がいなくても、母さんに生きているあいだに謝っておけば、このどうしようもない罪悪感も少しは軽くなってくれたのかもしれない。


 悪友と駄弁りながら授業を受けること2時間弱、俺は母さんが死んだことを知った。ストレスが原因と見られる心不全だそうだ。


 最後の贖罪のチャンスから、たった3時間後のことだった。

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