モンスター・イン・ホール
大垣
モンスター・イン・ホール
僕はトイレに居た。
わざわざトイレで何をしていたかと言うのは随分馬鹿らしいのであえて言わないが、とにかく僕は午後の太陽の光が窓から淡く染みだす、そんな優しい家のトイレに居たのだ。
そして僕はトイレットペーパーを必要としていた。しかしペーパーホルダーに手を差し出すと、それが全く空であることに気がついた。僕はホルダーの下からストックを取り出し、新しくセッティングするために空の芯を勢いよく取り出した。
その時だった。
「おい、捨てるのはまだ早いんじゃないか?」
僕は映像の一時停止ボタンを押したようにピタッと止まった。声がした。ような気がする。が、すぐに空耳か何かだろうと思いまた再生ボタンを押したように動きだすと、手早くストックを入れ替え、ペーパーを巻き取って水を流した。
しかし立ち上がった瞬間再び、
「おい、無視するなって。まだ早いって言ってるじゃないか」
その声は確かにはっきりと聞こえた。だが家の中に僕以外の人はいない。窓の外からでもない。
「ここだよ。ここ」
辺りを見回す。誰もいない。気でも違ったかなと僕は本気で思い始めた。
「お前が手に持ってるトイレットペーパーの芯」
僕は直ぐに左手を見た。確かにトイレットペーパーの芯が握られている。
「中を覗いてみなって」
僕は何が何だか分からなかったが、とりあえず声の言うとおりに、望遠鏡で惑星でも観るようにして恐る恐る芯の中を覗いてみた。
「おう」
中にはトカゲのような、小さな竜のような生き物が一匹、寝っ転がって頭の後ろで手を組み、こちらを見ていた。
「おわっ」
思わず僕はペーパーの芯を放り投げた。芯はトイレの床にコロコロと軽く転がった。
「おい!いきなりぶん投げることはないじゃないか」
芯からはそう声がした。
「初対面でこう、びっくりされると何か結構ショックだなぁ。初めて知ったよ」
ため息混じりの声が聞こえた。僕はしばらく固まっていた。
「まぁ落ち着けよ。もう一回覗いてみてくれないか。これじゃ落ち着いて話も出来ない。なに、別に嚙みついたりとかはしないって。そんな野蛮な生き物じゃない」
僕は触るのすら幾らか躊躇ったが、やっとのことで意を決し、芯を拾い上げた。そして再び中を覗くと、確かにさっきと同じトカゲのような生き物が一匹居た。
「やぁ。どうも」
「どうも」
僕はトイレットペーパーの芯に向かって言った。何だか凄く馬鹿らしいような、夢でも見ているような気がした。
「あー、君の聞きたいことは分かるよ。俺が何者で、どういう生き物で、なぜ喋れて、そしてどうして家のトイレットペーパーの芯の中にいるのか、大体そんなとこだろ?」
「はぁ」
「まあ立ち話も何だし、落ち着いて話せるところまで行こうじゃないか。いや、ここのトイレが俺にとってはベストなんだが――君にとってはそうじゃないだろう」
僕はトイレから出てリビングに芯を両手で丁寧に持って行った。そしてテーブルの上にそっと置いてみたが、穴の中と目線が合わないので雑誌やら本やらを積み重ね、改めてその上に置いた。
「うん。いいじゃないか。ここがリビングという場所か。本で読んだ通りだ。」
「ずっとあそこにいたの?」
「そう。案外あそこも悪くないんだぜ」
トカゲはそう言いながら穴から身を乗り出して興味深そうに首を曲げながら辺りを見回していた。
「それで君は何者?」
僕はやっと一番重要な質問をすることが出来た。
「ああ、そうだったな」
と、トカゲは向き直って僕の方を見る。
「俺は穴に住んでる生き物だ」
トカゲはそう言うと満足気な顔をした。どうやらトカゲの説明は終わったらしかった。
「つまりただのトカゲってこと?」
(ただのトカゲが喋るだろうか)
「いいや。全く違う。俺たちは穴という存在が生み出す別の次元空間の中に住んでるんだ」
トカゲはそう言った。なんだか妙だぞと僕は思った。
「別の次元?」
「そう。穴、分かるよな?ドーナツの穴、鼻の穴、耳の穴、何かの巣穴、マンホール、レンコンにコイン……。世の中色んな場所に穴がある。そう。穴は『存在』するんだ。何もないのに。それ自体は空洞、空っぽ、虚空、無なのに『存在』している。何となく分かる?」
「何となくね」
僕は小さなトカゲがまるで大学の講師のように饒舌に喋るのが可笑しかった。
「しかし実はその空洞には意味があるんだ。いいか、穴には何かしらが欠落している。そこにあるはずの何かが。だから穴なんだ。大体の穴は何かしらで埋められる、補充することができる。墓穴に土を被せるように、鍵穴にはそれに合う鍵が必ずあるように。でもドーナツの穴をその生地で補充したら?それはドーナツではなくなる。しかし空洞である必要があるし、何かしらで満たされる必要もある。つまりはドーナツやトイレットペーパーの芯のような穴には、虚な空間が生まれた時、物質ではなく、別次元の空間が安定のため補填するように存在することが可能になっているということだな」
トカゲは爪のある細い指を一本、ぴんと立てて説明した。
「余り説明したこともないから分かりずらかったかもしれんが……要は穴にはそれとセットでもう一つ別次元があるという訳だ」
「そして君はそこに住んでいる生き物、と」
「そういうことだな。でも心臓のような臓器もないし呼吸もしてない。君らの至らない……いや失敬。君らとは全く別の世界の存在だ」
ふぅん、と僕は何やらしばらく感心した気持ちになった。全く知らない世界があるものなのだ。
「でもどうして急に僕の前に現れたの?」
「む。まあ俺たちの間じゃ人間の前に現れるのは御法度というか、別に興味もさほどないだけなんだが……。まあ最近になって俺たちの間である、ムーヴメントがあってな。それを機に人間の世界を知っておこうと思ったんだ」
「ムーヴメント?」
トカゲは急に暗い顔つきになって俯いてしまった。
「南米あるだろ。ブラジルとかチリがある辺り」
「うん」
(よく知っている、とは言わなかった)
「そこの地面に今、小さな穴が空いているはずだ」
「まあ、ひとつぐらいあるだろうね」
「俺たちの中で、その穴をどんどんデカくしていこうという計画がある」
「穴を広げるってこと?」
「そう。俺たちにとって穴っていうのは至上かつ絶対の存在なんだ。それがなければ生きていけないからな。別次元の空間の大きさ、快適さ、安定さはこっちの穴とある程度リンクしてて、だから良い穴をいつも求めてる奴らがいる。南米にあるのもその動きの一つなんだ」
別にいいじゃないか、と僕はトカゲに言った。どっかの南米の穴がちょっと大きくなったぐらいで僕は困りはしない。
しかしそう言うとトカゲははぁ、と一つ溜息をついて頭をポリポリと掻いた。
「その大きさが問題なんだ。奴らはその穴で地球全てを飲み込もうとしている」
「地球全て……?」
「46億年もの間地球のあった場所に地球がなくなる。すると宇宙の中に、ぽっかり大きな穴が浮かび上がるのさ。半永久的に埋まることのないかつ広大で究極の理想環境が構築されると踏んでいるわけだ。本当に実現するかは知らんがね」
つまりは地球が滅ぶということかと思ったが、あまり実感が湧かなかった。
「そんなに嬉しそうじゃないね」
僕はトカゲに言った。
「最初は俺だってこころ踊ったさ。何せ理想郷だからね。でもなぜかそのことを知ってから、段々とこっちの世界に興味が湧いてきたんだ。勝手なもんさ。それまでどうでもよかったのに、いざ無くなると思うとこの世界のことを知ってても良いような気がした。あの狭い穴の中だけじゃなく、色んなものをね」
「その穴はいつ頃完成するの?」
「さあ、何しろ小さな穴だからな。千年、二千年、ゆっくりやるはずさ」
千年か、と僕は思った。千年後の地球なんて、僕にとってはどうでもいいものだ。
「それまで君は?」
「そうだなぁ、とりあえず外の景色が見たいから、お前のカバンの中にでも入れてくれないか?おっと、くれぐれも芯は潰さないでくれよ」
「まぁいいよ」
僕は立ち上がって窓の外を見た。空はもう雲の少ない、透き通った秋の空だ。
「サグラダ・ファミリアとかすぐ行ける?」
モンスター・イン・ホール 大垣 @ogaki999
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