鉄檻とサメ

武州人也

第1話

 僕が六歳のころ、一度だけ遠くの水族館に連れていってもらったことがある。そのとき僕は広い水槽の中をわが物顔で泳ぐサメをえらく気にいって、しばらくはずっと「サメが飼いたい」なんて言って両親を困らせていた。サメなんて広い一軒家にでも住んでないと飼えないけれど、六歳のチビっ子がそんなことを知るはずもない。


 優しかった父さんは、僕が八歳のときに仕事中の事故で死んでしまった。本当に、突然のことだった。母さんも泣いたし、僕も泣いた。僕の家は、父さんがいなくなってなんだか暗くなってしまった。

 一年ぐらいして、母さんは再婚した。再婚相手は父さんより若くて背が高くてイケメンだった。だけど初めて見たとき、子ども心に、なんだかうさん臭いなぁ……なんて思っていた。

 継父は食事や健康に関して、独特な考えをもっている人だった。再婚してすぐのこと、継父が母子手帳を片手に、母さんを問い詰めていた。どんなことを言っていたかはっきりとは覚えていないけれど、僕に予防接種を受けさせたことを責めているみたいだった。二人の会話……というより継父による母さんへのお叱りが終わった後、母さんは僕に一言「お母さんのせいでごめんね。これからもっとちゃんとするから」と謝罪した。何について謝られたのかわからなかった。


 最初に変わったのは、食事だった。肉類と小麦製品が食卓からなくなり、雑穀米と野菜、海藻、豆類の料理しか出なくなった。無農薬だの有機栽培だの、食材のすごさを力説されても、肝心の料理が味気ないんじゃありがたみも何もあったもんじゃない。

 母さんの作る餃子が好きだった僕は、一度「餃子が食べたい」って要求したことがあった。そしたら母さん「あんなもの食べさせてごめんね」とだけ言った。あれだけ自信満々に作ってて、家族みんなが好んでいた餃子を「あんなもの」呼ばわりした母さんを、僕は怖いと思った。

 そのとき、ふと、母さんの後ろに何かが見えた。とても大きくて細長いものが、母さんの背後にふわふわ浮いている。


 浮いているのは、サメだった。流線型の体に、ピンと伸びた三角の背びれ。間違いない。水族館でみた、あのサメだ。確か名前をオオメジロザメっていったか……凶暴で、人を襲うこともある怖いやつだ。


「さ、サメ!」


 震えた声で叫んだ。ちらと振り返った母さんは、


「あんた驚かさないでよ」


 とだけ言った。そのとき、「あのサメは僕にしか見えていない」ということを知った。

 サメはリビングの中を、ぐるぐると泳ぎだした。大きなサメにとってマンションのリビングは狭くて、泳ぎもどこか窮屈そうだ。何周かした後、サメは煙のようにフッと消えてしまった。


 あんなにおいしくてすばらしかった母さんの料理は、めっきり味気なくなってしまった。ご飯の時間があまりにも苦痛なので、友達の家でもらうお菓子やジュースだけが楽しみになった。夕飯よりポテトチップスやチョコレート菓子の方がおいしいし、にがりやヨモギ茶よりオレンジジュースや炭酸飲料の方がおいしいに決まっているのだから、当然の成り行きだった。

 家のリビングにはたびたびサメが姿を現し、所狭しと泳ぎ回った。相変わらず、その泳ぎは窮屈そうだ。外の広い世界には出られないんだろうか。

 僕は図書館に行って、オオメジロザメについて調べてみた。全長は二メートルから三メートル。気が荒く、世界で三番目に人を襲っているサメらしい。他のサメと違って、海と川を行き来できる。といったことがわかった。わかったところで、リビングのサメについて突き止められるわけじゃないのだけれど。


 それからしばらくしたある日、学校で友達と遊ぶ約束をしようとしたら、友達にこんなことを言われた。


「悪い。武田のことは呼べねぇわ」

「え、なんで」

「お前のお母さんがさ、うちに電話かけてきたんだよ。ウチの子に毒の入っているヘンなもの食べさせないでって」

「毒? ヘンなもの?」


 僕は聞き返したけど、本当はアタリがついていた。友達の家でもらったお菓子とジュースのことだろう。僕がそういったものを飲み食いしてると知って、母さんが友達の家に苦情を入れたんだ。

 それから僕は、甘いお菓子や油っこいポテトチップスを食べる機会をすっかり失ってしまった。

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