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「そんじゃあ決まりやな。っと、勝負の前に、ジュリちゃん、これにサインしてや」
「なんだ、これ?」
「なにって誓約書や。ジュリちゃんを信用してない訳じゃあらへんが、口約束だけでは心細うてな。反故にされたら敵わんさかい。なっ、ええやろ?」
なんだよ、シューイチのヤツ。オレのこと、信用できないってか? それを言うならこんな胡散臭そうなヤツら、オレの方が信用できないぞ。まあ、どうせ勝つのはオレなんだ、確かにはっきりさせておいた方がいいかもしれない。
オレはシューイチから紙とペンを受け取り、ずらずらと並んでいる文章を適当に流し読むと、さっと下の方にサインをした。シューイチは誓約書を受け取ると先輩にもサインさせ、オレたちは勝負の舞台となるグラウンドへと移動する。
「そしたらゴール位置に立ってもらってる、アッキーの所まで先に着いた方が勝ちや。ほな、始めるとしよか。泣いても笑っても、これが最初で最後の一本勝負。
いくで、よーい……」
「ドン!」というシューイチの声を合図に戦いの火蓋は切られた。だが勝負はこの一瞬とばかり。スタートダッシュで一気に勝負を着けてやろうと考えていたオレの目論見通り、先輩は出遅れた。
なんだ。先輩ってば、たいしたことないじゃないか。大体、たとえ以前の実力は出せなくても、腐っても全国大会常連のスプリンターだったオレにこんな勝負を挑むこと自体、無謀な話だ。卑怯かもしれないけど、これで先輩から逃れることができる。
そんな未来に思わず心の中で笑っていたが、刹那、一筋の風がオレの横を吹き抜けた。それは優しく頬をなで、乾いた細胞に潤いを与えた。
「えっ……、あれ……」
うそだろう。だって、そんなはずは……。
「今のは、ミオ先輩……?」
一瞬間のできごとに脳がうまく働かず、風の正体が先輩だと認識されるまでに数秒の時間を有した。先輩はオレの横を通り過ぎ、軽い足取りで抜かして行ったのだ。
「悪いな、ジュリちゃん。部長は思い込みの激しい男でな。自分が一流のアスリートやと思い込んだらそれ相当のポテンシャルを発揮できる、まさに演劇をするためだけに生まれた男……。
部長のことをよく知らなかった時点でこの勝負、ジュリちゃんの負けは決まってたんや」
「そ、そんな……」
負ける……? もしかしてオレ、負けるのか……。
仮にも陸上界の期待の星、救世主と謳われていたオレが、たとえかつての実力が出せないとしても。たかが思い込みの激しいだけの、演劇バカに負けるなんて……。
神風をまとった背中に思い切り腕を伸ばすけど、羽の生えたそれは捕まえるどころか触れることすらできなくて。
オレの十三年間は、一体なんだったんだろう。今までオレは、なにをしてきたんだろう——。
空っぽのままゴールに着くと、パチパチと慰めとばかりの拍手が小さく響き渡った。
「へえ。ジュリちゃん、足、速いんやなあ。部長と僅差で残念やったけど、勝負は勝負。部長の勝ちや」
「ああ、愛しのジュリエット。ようこそ、我が演劇部へ。これから毎日、君と愛をささやき合いながら過ごせるなんて……」
「まるで夢みたいだ」と先輩はオレの汗ばんだ手を握りしめて、耳元でささやく。
ああ、そうですね。オレもこれがどんなに夢であったらいいか、と。むなしくも願うことしかできなくて……。
こうしてオレは不本意ながら己の意思とは無関係に、演劇という未知の領域に足を踏み入れることになってしまったようだ。
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