第23話

夏希さんは砂を指で触りながら、海の方を見て言った。

「私ね、大好きだった人に裏切られてからずっと無感覚になろうとしてたの。誰も信じられなくて、愛とか友情とかもうそんなのどうでもいいって思ってた。だけど東京を離れてこっちに戻って来てから、思い出したの。みんなのあったかさを。近所の人たちがびっくりする位優しくて、ピアノを教えてる子供たちも無邪気で明るくて。ああ、自分はここが好きだったんだってやっと思い出したの。もしあのまま東京で暮らしてたら、あんな何もない所になんて一生戻りたくないって思ってたと思うんだよね。」


彼はそれを聞いて、

「それって不思議だね。人生でどれが正しい道でどれが間違った道かって、案外歩いてみないと分からないってことなのかな。」と言った。

夏希さんはうなずいて、

「そうね。何だかミスチルのAnyの歌詞みたいだけど。」と言って笑った。


そして二人はしばらくの間、何も言わずただ夜の日本海を眺めていた。波の音だけが、二人を包み込むように響いていた。


やがて思い出したように、夏希さんが

「タク、そういえば彼女できた?」と尋ねた。

彼は笑って、

「いやぜんぜん。」と答えた。そしてこの夏に松岡さんとの間に起きた出来事を、簡単に話した。夏希さんは彼の話を聞くと、

「もー、中学生じゃないんだから。そんなの上手く行くわけないじゃない。」と言って笑った。

彼は恥ずかしそうに

「そうだよね。」と言いながら右手で軽く砂を掘った。

「でもさ、最近になって自分の中で分かったんだ。何で彼女とまた恋がしたくなったのかが。」


夏希さんは彼を見て、

「どうして?」と尋ねた。彼は両手を後ろについて、頭上に輝く星を見上げて言った。

「もし彼女にまた好きになってもらえたら、もう一度戻れるような気がしてたんだと思う。まだ、純粋だったころの自分に。」

夏希さんはしばらくの間彼を見つめていたが、やがて彼の肩にそっと手を置いて、「そっか。」と言った。

「私から見たら、タクは今でも純粋だけどなあ。」

彼は驚いて、「本当に?」お尋ねた。

夏希さんは笑って。

「うん。そーいうところ。」と言った。

「タクもいつか出会えるといいね。本当に大事だと思える人に。」

「そーだといいんだけどね。」と言って、彼は小さくため息をつき、砂浜の上で横になった。横になってみると夜空の星は、まるで目の前にあるかのように近くに感じられた。


「なんか昔からなんだけど、一人でも生きていけるならそれでいいような気もするんだよね。今の時代、誰かと一緒に居なきゃ困ることなんてないんじゃないかって。」

「確かに不便なことはないかも知れないね。」と夏希さんは言った。

「でもね、私最近になって感じるようになったんだけど、自分のためだけに生きてる人って絶対にいつか限界が来るんじゃないかって思うの。」


「限界?」と彼は寝ころんだまま尋ねた。

「うん。自分の目的を果たすためだけに生きている人は、きっとどこかで限界に気づくことになる。なぜなら世界は、私たちの思い通りになるために存在している訳じゃないから。だから人は人生のどこかで、自分以外の誰かのために、何かのために生きるってことを学ぶ必要があるんじゃないかな。」

そう言って夏希さんは、大きくなってきたお腹にそっと手を当てた。


「私ね、この子を妊娠してるって分かった時に思ったの。自分はまだ死ねないって。この子が私のことを必要としているから。」

彼は体を起こして、夏希さんの様子をじっと見つめた。その姿には静かな決意がみなぎっていた。


「お腹の音、聴いていい?」と彼が尋ねると、夏希さんは優しく微笑んでうなずいた。彼が夏希さんのお腹に耳を押し当てると、時々ごそっという音がした。新しく生まれてくる命が、動き始めているのだった。


帰りの車に乗り込むと、彼はほどなく眠りに落ちた。彼はまどろみの中で、夏希さんがまた何かの歌を口ずさんでいるのを聞いた。今度は、行きの時よりもずっと満たされた声で。

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