第19話
話しているうちに頭がぼーっとしてきたのを感じて、彼は父と一緒に露天風呂へ移動した。
夏の露店は、濡れていると丁度いい暑さだった。どこかからか吹いてくる風がすごく気持ちいい。岩で囲まれた浴槽が二つと寝ころび用の浴槽があり、何人かの男たちが入って談笑していた。
「ところで、就職のことは考えてるのか?」と父は湯を肩にかけながら尋ねた。いつかはされるだろうと予期していた質問だったが、彼は表情を少し曇らせた。
「いや、全然。そろそろ考えなきゃいけない時期なのは分かってるんだけど。」
「そうか。それならそれでいい。」と言って、父はうなずいた。
彼は驚いて父の横顔を見つめた。てっきり何か言われるものだと思っていたからだった。彼の様子を見て、父は説明するように話し始めた。
「若い時に自分の進むべき道が見えないのは悪い事じゃない。むしろそういう方が普通と言ってもいいくらいなもんだ。高すぎる理想を追い求めて生き続けていると、いつか必ず失望が訪れる。目の前にあることを何でもやってみて自分に合う職業を探してみる、その程度で十分だ。」
「何でもっていうのは?」
「まさに何でもだよ。ただ、自分のやってることが人の役に立っているという誇りを持てる職業を選んでほしい。それだけだよ。」
父は夜空を見上げて少し目を細めた。視線の先には、夏の大三角が綺麗に浮かんでいた。
「世の中の人間ってのは仕事に優劣を付けたがるが、実際にはそんなものはない。有名になりたいとか、金持ちになりたいというのは自己中心的な人間の、中身のない独りよがりだ。大切なのは自分がしている仕事が、たった一人でもいいから誰かの役に立っているっていうことなんだよ。」
彼はじっと父の話を聞いて、小さくうなずいた。
長風呂の父を大浴場へ残し、彼はひと足早く脱衣場に戻った。天井に取り付けられた扇風機は、一定のリズムで首をゆっくりと回していた。
彼がバスタオルで体を拭いている間、隣では父親と笑いあう少年の姿があった。その無邪気な笑顔を見て彼は自分の心が少しほぐされたのを感じた。昔は自分にもこんな時代があったのだ、ということが今の彼にはとても信じられなかった。
ドライヤーで髪を乾かした後、彼は瓶の並んだ自動販売機の前に立った。
牛乳とコーヒー牛乳のどちらを買うか少し迷ったあと、彼は結局牛乳を買うことにした。久しぶりに風呂上りに牛乳を飲み干したくなったのだった。
ボタンを押すとコンベアーが回転して牛乳瓶がゴトッという音を立てて落ちてきた。その音は確かな重みを感じさせるような音だった。彼は瓶についたプラスチックの蓋をキュッと開け、中身をゴクゴクとのどへ流し込んだ。
久しぶりに飲む風呂上がりの牛乳は驚くほど冷たく、そして信じられないほどうまかった。彼は体中が、その美味しさにふるい立つのを感じた。それはまるで、彼の中の眠っていた何かが呼び起こされたかのような感覚だった。
「うまい。」と彼はつぶやいた。
脱衣場から出た所にあったマッサージ機に彼は100円玉を投入した。背中から足にかけて感じる振動に身を任せながら、彼はさっき父に言われたことを思い出していた。
「特別なことなんてしなくたっていい。」父はそう伝えたかったのだろうと、彼は思った。
彼は幼いころから、自分に何かを成し遂げるだけの才能や素質を感じたことが一度たりともなかった。そしてその諦めに似た気持ちは、成長するにつれてより強くなって行った。
彼は何か目標を持たなければと焦り、やること全てが中途半端になった。父はそんな彼の心を静かに見抜いていたのだった。
彼は思わず苦笑いして、スーパー銭湯の高い天井を見上げた。
俺がやっていたことってただのひとり相撲だったんだな、と彼は思った。窓の所にぶら下がっていた風鈴が、ちりりんという音を立てて揺れた。
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