第8話

夕方近くになると店内の客は少しずつ減っていった。

レポートがひと段落したところで彼が視線を上げると、丁度松岡さんがこちらへ歩いてくる所だった。

シフトが終わったのか、松岡さんは私服へと着替えていた。Tシャツにジーンズというシンプルな服装だったが、彼女の制服姿ばかり見ていた彼の目にはとても新鮮に見えた。


松岡さんは彼の前の席に腰を下ろすと

「藤本くん久しぶり。元気だった?」と嬉しそうな声で尋ねた。それは時が流れたことを感じさせないほど、自然な尋ね方だった。


「久しぶりだねほんとに。」と言って、彼は目の前の松岡さんを改めて見つめた。

歳月はいつの間にか彼女を大人の女性へと変えていた。彼女の目元には薄くアイシャドウが塗られ、耳には小さなイヤリングがつけられていた。


「調子は、うーんまあまあかな?」と言って彼は笑った。

「そっちは?」

「私も割と元気だよ。」と言って松岡さんもにこっと笑った。そして彼の書いていた原稿を指さして、

「それって大学の課題か何か?」と尋ねた。


「これ?うん。そんな大した課題じゃないんだけど。」と彼は答えた。

「どんな事書いてあるの?」

「内容はね、漱石、夏目漱石について。」


すると、彼女は思いのほか嬉しそうな表情になった。

「へー!藤本君って文学部だったんだ。私も高校生の時よく読んでたよ、漱石。」

彼は少し苦笑いして、

「俺は課題だから仕方なく読んでるだけだよ。好きなの?」と尋ねた。


「んー、高校の時こころが教科書に載ってたじゃない?あれで気になって漱石の全集を買ったの。」と言って、松岡さんは彼のグラスをちらりと見た。グラスの中の氷は完全に溶けて、わずかに残ったアイスコーヒーを薄めていた。

「でも、あっちの方が印象に残ってるかも。虎になっちゃう男の話。」

「山月記?中島敦の。」

「そう。あれは何回も読んだなあ。」と彼女は懐かしそうに言った。

「私の中にも虎がいるのかなって、思いながら読んでた。」

そう言って彼女は、昔を思い出すように斜め上の方を見た。


彼は思わずクスりと笑って、

「松岡さんの中にはいないんじゃない?」と言った。

「そっちは、何の学部に通ってるの?」

彼女は、法学部に通ってるのと答えた。大学は誰もが知る一流大学だった。

「おー、流石だね。」と彼が言うと、

「ううん。実際入ってみると普通の大学だよ?それに、実は私一浪しちゃってるの。」と松岡さんは言った。


クラスで一番優秀だった彼女が浪人した、というのは意外な事だった。

「そうなんだ。」と彼は少し驚いたように言った。

そこで会話が止まり、松岡さんは窓の外を見た。

つられて彼も外を見ると、小学生らしき子供が二人で、自転車を立ちこぎしながら通り過ぎて行くところだった。彼らが何か楽しそうに叫んでいるのが窓越しに聞こえた。外はまだまだ暑そうだな、と彼はぼんやりと思った。


やがて彼女は、窓の外を見たまま静かに

「言い訳になっちゃうんだけどね。」とつぶやいた。

「え?」と言って彼は横目に松岡さんを見た。

「高3の時、お母さんが亡くなったの。」と彼女は静かに言った。それはまるで、天気の話をしているかのような言い方だった。

「それで、勉強が手に付かなくなっちゃって。現役の時も一応受けるには受けたんだけど、やっぱり駄目だったの。」

松岡さんは机に視線を落とし、彼が残したストローの空き袋をくるくると指に巻き付けた。


彼は何と言ったらいいのか分からず、

「それは仕方ないよ。」と言った。彼は急にのどの渇きを感じたが、アイスコーヒーは既にほとんど水になっていた。

松岡さんは彼の表情を見ると、

「ごめんね、なんか暗い話になっちゃって。」と言った。

そしてストローの袋をぴんと伸ばすと、思い出したように

「藤本君この後って予定ある?ちょっと見せたい場所があるんだけど。」と言った。


松岡さんは喫茶店から出ると、裏手にある坂道を歩き始めた。

両側に木々が繁る細い道を5分ほど登ると、急に踊り場のように開けた場所に出た。

たどり着いた時には運動不足の彼は少し息が上がっていて、心臓を落ち着けるように胸に手を当てた。

「いつもバイトが終わった後に、ここへ来てこの景色を見るの。」と彼女は振り返って言った。


そこは、武蔵境の街が一望出来る場所だった。

辺りに高い建物はなく、商店街や家々がどこまでも眼下に広がっていた。夏の午後は長く、まだ明かりが付いている家は少なかった。そんな当たり前の風景が、人々の変わらぬ日常を映し出していた。


「ここに来ると、なんだか心が落ち着く気がするの。」と松岡さんは言った。

「確かに、すごく穏やかな気持ちになるね。」と彼は答えた。

木々の間からはそよ風が吹いてきて、夏の暑さを一瞬の間忘れさせてくれた。


「きっと、みんなこういう場所が必要なんだと思う。」と松岡さんは街を眺めながらぽつりと言った。

「こういう場所って?」

「なんだろう、来たら嫌なことを何もかも忘れさせてくれるような、そんな場所。ここに来たら、色々辛い事があったとしてもまあ何とかなるよねって、そう思わせてくれるんだよね。」

そう言いながら彼女は、近くのベンチに腰を下ろした。


彼も彼女の隣に座って少し考えていたが、

「俺、そういう場所って思いつかないかも。」と言った。

松岡さんは彼の方を見て、

「藤本君にもきっとあるよ。」と言って微笑んだ。

「どこかにあったはずなのに、忘れてしまっているだけ。みんな心に大切な場所があるはずなのに、その事を忘れて日々の忙しさに追われてるんじゃないかな?だからすぐに心が疲れてしまうんだと思うの。」


そう言って彼女は、うーんと気持ちよさそうに伸びをした。

「俺もいつか思い出せるかな、そんな場所のこと。」

と言って彼はため息をついた。

空を見上げると、遠くの方に小さく入道雲が見えていた。

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