第4話

電話が切れてから、彼は履歴に残った松岡さんの電話番号を眺めていた。

スマホの画面が暗くなり、そこに彼の顔が映った。そのとき彼は、中学時代を思い出していた。


中学1年生という思春期の入り口辺りの時期に、彼は松岡さんと同じクラスになった。周囲では夏休みの前後から誰かの恋愛話が噂されるようになっていたが、彼はそうした話になると、適当な相槌を打つだけだった。

彼には恋愛というもののイメージが、まだ出来ていなかったのだった。


しかしその一方で、彼は席の近い松岡さんのことを何となく気にするようになっていた。

彼女は整って聡明な顔立ちをして、いつも長い髪を後ろでまとめていた。当時から大人びていた彼女は、クラスで学級委員を任されていた。そして松岡さんは、誰と話すときでも相手の目を真っすぐに見て話しをした。まだ幼さが残っていた彼には、そんな彼女が眩しく見えた。


夏の暑さがようやく通り過ぎた10月頃のある日、彼は下校途中で忘れ物に気付き教室へと戻った。

ほとんどの生徒が部活をしている時間帯だったので、予想通り教室には誰もいなかった。ベランダに通じるスライド式のドアは少し開いていて、長いベージュ色のカーテンを時折ふわりと膨らませていた。


彼が忘れ物を鞄に入れて帰ろうとした時、背後から

「藤本君?」と呼ぶ声が聞こえた。

彼が振り返ると、そこには運動着を着てテニスラケットを持った松岡さんがいた。

「部活はどうしたの?」と彼が尋ねると、彼女は

「お腹が痛くなっちゃって。」と少し罰が悪そうに答えた。


その後、2人は一緒に家へ帰った。どちらから言い出したということもなく、ただ何となくそんな流れになったのだった。

校庭の横を通る時、彼は誰かに見られていたら不味いなという気持ちで少し緊張していたが、有難いことに生徒たちは部活で精一杯な様子だった。


校門を出ると、お腹が痛いと言っていたのが嘘のように松岡さんは楽しそうに話し始めた。話題は彼女の家族の話と、飼っている柴犬の話だった。

家族や犬の話をしている時の松岡さんは、普段の大人びた様子からは想像も付かない、あどけない十代の少女に変わっていた。彼はそんな彼女を、ただ驚きを持って見つめていた。そしてその瞬間に、何か特別なものを感じずにはいられなかった。


彼女と話しながら帰ると、普段見慣れた景色がまるで違う世界のように見えた。

実のなり始めた銀杏の葉の間から見える木漏れ日は、何かを祝福するようにキラキラと光り輝いていた。

「もう秋だね。銀杏のにおいが結構してる。」と彼は言った。

「確かに。この匂いがすると、秋って感じだよね。」と言って松岡さんはうなずいた。

「小学生のころ、この実をよく踏んづけて遊んでたなあ。」

「あれ、踏むとすごく臭んだよね。」と言って、彼女はくすりと笑った。


いつも買い食いをする揚げ物屋の横を通り過ぎた時、おかみさんが2人に気付いて彼に小さくウインクをした。彼は少し恥ずかしくなって、気付かなかったふりをした。彼と松岡さんはそんな関係ではなかったけれど、勘違いされるのは意外と悪い気はしなかった。


そうしている内に2人は彼の家の前に着いてしまった。彼がじゃあと言おうとした時、松岡さんはニコッと笑って

「良かったらもう少し話さない?」と言った。


公園に行ってベンチに座ってから、彼も自分の事について松岡さんに話し始めた。

すると驚いたことに、彼女は彼の好きなゲームや漫画を既に知っていた。

「何でそんなこと知ってるの?」と彼が聞くと松岡さんは、

「だって藤本君が隣の人と話してるの、いつもよく聞こえるから。」と言って笑った。


ふと気が付くと、辺りはすでに夕暮れ時になっていた。

彼はベンチに両手をつきながら茜色に染まった空を見上げて、

「綺麗だね。」と言った。松岡さんも、

「ねー!」と言い、そこで2人の会話が止まった。

色付き始めた楓が、一陣の風に吹かれて小さく揺れた。


彼が松岡さんの方を見ると、彼女もそっと彼を見つめた。

松岡さんは、何かを言おうとしている様に見えた。彼は、なぜか居たたまれない気持ちになって目を逸らしてしまった。


その時公園のスピーカーから、5時を告げる「ふるさと」のメロディーが流れた。

彼にはそのメロディーが、いつもよりずっと長く、そして心に深く響いてくるように感じられた。2人はただ、黙ってそれをじっと聴いていた。


「ふるさと」が流れ終わったとき、辺りは夕闇に包まれていた。2人の上にある電灯が、ジジっという音を立てて点いた。

松岡さんは思い出したように立ち上がると、彼に笑顔で

「今日はありがと。楽しかった!」と言った。それを見た彼もふっと笑うと、

「もうお腹大丈夫なの?」と尋ねた。

松岡さんはあれっという顔をして、

「気が付いたら治ってたみたい。」と言った。


その翌日以降、2人は元の挨拶を交わすだけの関係に戻った。

そして別々の高校に入ってからは、顔を会わすことも無くなってしまった。

しかし彼には、あの公園のベンチで彼女に何も言えなかったことがずっと引っかかっていた。何か大事な物が通り過ぎてしまったような感覚が、そこにはあった。

あの瞬間はもう二度と戻っては来ないんだ、と彼はいつも思った。その事実は、彼を堪らなく切ない気持ちにさせた。

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