はじめからをもう1度
PROJECT:DATE 公式
夏の陽
誰しもが後悔をしたことがあるだろう。
それは重いものかもしれない。
軽いものかもしれない。
例えば、今日の帰りにあれを買って帰って
こればよかっただとか。
他にも、昨日早く眠ればよかっただとか。
これらは軽いものに分類される。
反して、あの時ああしていれば
大切な人は居なくならなかっただとか、
こうしていれば今の私の人生は
大きく違って幸せだったはずだとか。
それらは重い後悔として
積み重なっていく。
美月「…帰らなきゃ。」
歩「え。」
美月「門限…」
歩「でも帰りたくないんでしょ…?」
美月「…。」
歩『…。』
私は、今になっても
重い後悔が頭から離れていなかった。
時折、この憎い思い出は
頭から離れてくれなくなる。
両手でぎゅっと離さぬよう、
冬場毛布を握りしめているように。
…。
その時決まって、私は不幸に苛まれる。
歩「ちょっと待ってて。」
美月「…?」
歩『…待って。』
声をかけたって勿論、
幼き頃の私の足は止まってくれない。
夢だ。
そう。
そうだ。
私は今、夢を見ているんだ。
分かっている。
分かっている。
それほどまでに縛られることなく
いっそのこと忘れて気楽に生きていれたのなら
どれほどよかっただろう。
実際、その選択肢もあった。
あったはずだ。
けれど、私はそれを踏み躙り
2度と視線を寄越さなかった。
何故か。
縛られているべきだと
思っているのかもしれない。
将又、縛られている自分が
好きなだけなのかもしれない。
…片隅に、認めたくない
濁った思考があることくらい
私だって気づいている。
これが正解だと、最適解だと
今でも信じてやめられない。
人との関わりを極力持たない。
それが正解だと信じきっている。
妄想も空想も、信じきってしまえば
現実になるのだから。
だからこの夢もきっと。
歩『待ってってば。』
歩「みーちゃん!」
美月「何?」
歩「今日、泊まってもいいって!」
歩『ねぇ。』
美月「え、泊まっ…?」
歩「そう!お泊まり会しようよ。」
美月「でも私…何も持ってきてないし、それに…」
歩「帰りたくないんでしょ?」
歩『違う。』
美月「…!」
歩「大丈夫、私の服貸すよ。」
美月「なんでここまでしてくれるの。」
歩『お願い、余計なことしないで。』
歩「だって、みーちゃんが本当の友達だから。」
歩『友達なんかじゃない!そんなやつ…』
友達なんかじゃない。
そう言い放った時、
背筋を優しく撫でるような感覚がした。
優しいはずなのだけれど、
指先がなぞった直後凍てついていき、
動けなくなるような。
声も出せない。
ずっと声は出せていない。
思っているだけ。
脳内で声をかけているだけ。
そりゃあ伝えられたはずのことも
伝わらないわけだ。
歩「どうしてそんなことするの。」
歩『…知ってる。』
美月「あははっ。」
歩「ねえ、なんで。」
美月「だって楽しいんだもーん。」
歩『…っ。』
歩「…ひどいよ。」
美月「えー?」
歩「ひどい。友達なのに。」
美月「でもみんなもやってるじゃん。」
歩「…ら…い……。」
美月「えー何ー?はっきり喋ってよー。」
歩「友達なんていらない!」
歩『…。』
自業自得だ。
自分の正義を振りかざすなんて
迷惑もいいところ。
そう。
迷惑なんだ。
人のためと思ってすることは迷惑なんだ。
お節介だ、意味のない行為だ。
寧ろ、人を傷つけるだけの愚行だ。
その結果がこれだもの。
…。
もう2度と人の家庭や事情には
踏み込まないようにしよう。
私は他人に興味なく生きよう。
友達なんて作らない。
いらないから。
踏み込んでしまったが最後、
傷つくのは私なのだから。
この選択は、これまでの選択は
私を守るためだったのだろう。
美月「大丈夫!」
歩「…。」
美月「歩ねえ、やっぱり今日帰ー」
°°°°°
歩「……………………ちっ…。」
昨日はバイトがあったから
家に帰るのはだいぶ遅くなってしまった。
見慣れてしまった夜道は
もう怖さなど身に纏っていなくて
あるのはただ閑静な道のみ。
人は数人通っていて
街灯のみが参勤交代の様子かの如く
きちんと並んでいた。
よくそんなに並んでて飽きないよな、と
内心馬鹿にしながらも
それもひとつの才能かと腑に落ちる。
こんなしょうもない会話でさえない会話を
脳内で常にひっそりと行っているのだ。
否、行われたのだ、勝手に。
早朝もいいところ、
今日はあまり深くまで眠ることができず
1時間半の睡眠となった。
普段に比べれば少々短いが
活動できないほどではない。
歩「…やな夢。」
ショートスリーパーであることを自覚したのは
いつだっただろうか。
気づいたら、という表現が
妙にしっくりくるのだ。
気づけば1日2、3時間の睡眠で
十分になっていた。
それが当たり前だと思っていたが故に
周りの人々の睡眠時間や
ほとんど寝てない自慢の時の睡眠時間を聞いて
初めは驚いたんだっけ。
「今日2時間しか寝てないんだよね」って
それは普通じゃないのか、と。
歩「…はぁ。」
昔から1人でいることが多かった。
というよりその道を選んだ。
特に高校に上がってからは
1人暮らしを始めたのもあって
会話という会話はものすごく減っていた。
グラフで表したらきっと
急降下していることだろう。
そんな事もあってか、
いつしか自分の頭の中が
1番の娯楽となりかけていた。
なんて滑稽な話。
だが、今回は例外だ。
こんな記憶を持つ頭なんて
なくなってしまえばいいのに。
歩「…。」
布団から足を出し、
素足のまま絨毯を踏んだ。
それからカーテンを開くには
まだ早すぎるから、
一旦はキッチンに行って
一杯の水を口に含む。
朝か。
そう実感する他なかった。
初めて変なことが起こって以降、
それこそ宝探しを終えて以降のこと。
私の知らないところで未だに
不可解なことが起こっているらしい。
遊留と…あいつ…雛が云々とか、
長束が戻ってきたのだって
関場と嶺に何かがあってこうなったとか。
よくわからなかったけれど
何かは起こっているらしい。
まだ終わっていないという暗示なのか。
私たちは今後一生こんな訳の分からない事に
巻き込まれながら生活していかなければ
ならないのだろうか。
それこそ精神を病む人も出てくるだろう。
たった短期間でさえ関場や嶺を筆頭に
不安定になっていたのだから。
…。
もしずっと続くのなら。
そう思うと奇妙な寒気が
背筋をぶるっと振るわせる。
快晴と言えるほどの夏が
たった今ここに仁王立ちしているはず。
なのに、唐突に人間を食う化け物の如く
変形してしまった気がした。
歩「あ。」
バイトの制服を洗濯して
いないことに気がついた。
明日には短い時間だが
シフトが組まれているので、
早めに洗わなければ。
居酒屋の方でバイトがあるときは
夜に洗濯機を回す。
室内でもいいから干せば
明日の朝や昼には乾くから。
今までずっとこんな生活スタイルをしているが
これまで何も言われた事はない。
角部屋だったのもあるのだろうか。
隣の部屋からの音は時々トイレを流す時だとか
大きいであろう何かを落とした時とか
そう言ったものは聞こえてきていた。
が、それ以外は全く。
元より防音対策が素晴らしく
できているのだろう。
前に小津町が家に上がって騒いだ時だって
隣人は文句ひとつも言わずにいてくれた。
騒音耐性があるのか耳が悪いのか
将又我慢しているだけなのか。
歩「あー疲れた。」
心からの本音が部屋を満たす。
音楽をかける気にも
テレビをつける気にもなれず
カーテンを閉めた後ベッドに
大の字になって倒れ込む。
今日はこの後単発バイトに行こうかと
悩んでいたのだが、
結局申し込みをすることなく今に至る。
店長やらが受験生であることを考慮して
折角シフトを減らしてくれたのだ。
その好意を踏み躙るのは
なんだか気が引けたのだ。
Twitterでは小津町に
バイトがあるだなんて適当言ったが、
それが嘘である証拠は見つからないだろう。
7月31日。
明日になればもう8月、夏真っ盛り。
受験生とはいえ、未だ志望校も決まっていない。
そろそろ焦りを感じ始めるべきなのだろうが、
前々から美容師になるのだろうと
イメージができてしまっていたが故に、
これから他の者になる想像がつかなかった。
とはいえ、美容室で働いているところを
想像できるかと問われれば別。
自分が職場に入り浸っている姿は
全くもって描けない。
そうしている間に、
夢の不快感は残りつつも
どのような情景だったか
段々とぼやけ始める。
思い出せないままもどかしさばかり募り
ぐるりと部屋を見渡した。
あーあ、簡素な部屋。
あとマネキンの首はいつも通り。
髪の手入れは先日したし…。
そこでひとつの棚に目がいく。
そこには、いつからか書き連ねられていた
日記があったのだ。
歩「…。」
私はいつからかまでは流石に覚えてないが
日記を書くようになっていた。
その日起こった大まかな事、
その時に思ったことを書くようにしてる。
大体の人は起こったことだけで
済ませているような偏見がある。
けれど思ったことまで書かなきゃ
残らないなんて漠然と思った。
スマホを持っても日記だけは紙に残し続けた。
何年も何年も。
昔からずっと。
…。
昔の日記を読み返すのも
たまにはいいかもしれない。
そうは思うけれど、体がついて行きたくないと
言わんばかりの抵抗をしてくる。
今度にしておこう。
あんな夢を見た後だ、過敏になっている。
あんな夢とは言いつつ
どんな色だったかは
霞がかり始めているけれど。
日記はここに引っ越してきてから、
つまり高校生になってからの分しか
ここには残っていない。
本屋とかで偶に3年日記とか売られているが
そう言ったものは購入せずに
100均とかで買った小さめのノートとかに
書き溜めていった。
そのせいかノートは世代交代し
何冊かに別れている。
費用は嵩んでいる気はするが、
ノートを変えるたびに時間が経ったのだと
実感出来るから好きだった。
今使っているノートは後2週間ほどすれば
また終わってしまうだろう。
歩「…はぁ。」
自然と息は漏れていった。
止めようとすら思わなかった。
流れるように起こる事象に、
私は抗おうだなんて思うことができなかった。
私は、私たちはと言ってもいいだろうか、
受け入れることしかできないのだ。
最初は否定するかもしれない、
怒りを覚えるかもしれない。
なんで私が、って。
けれど、いつしかその憤りは溶けて…
否、憤りを感じることすら
無意味に感じてしまって、受け入れてしまう。
受け入れる他なくなる。
確か死のモデルでも
そのようなことがあったはずだ。
心理学者が提唱したとかなんとか。
ネットサーフィンをしていたら
見かけただけなので
ほぼほぼ抜け落ちているけれど。
さて、単発バイトすら
行かないと決めた今日は
一体何をしようか。
時間ばかりが有り余る。
私が1番欲していないものなのに、
いらないものばかり募っていく。
なら欲しいものは何なのか。
歩「………欲しいもの…か…。」
キッチンから抜け出し、
気楽な服に着替えたのち
再度ベッドに背を預けるように倒れた。
スプリングが今日1番の仕事をしている。
私にもちゃんと体重があり、
体が存在していることを実感した。
欲しいもの。
ぱっと浮かばないあたり、
それなりに幸せな生活をしているのだろう。
家族に不満があるわけではない。
人間関係なんてなるべく
もたないようにしているから
不満はほぼない。
あると言えば小津町がやたらと
踏み込んでこようとすることくらいか。
それ以外は強く言い放てば
距離を取ってくれるのだから。
食事や今の生活に困っていることはない。
先日ゴキブリが出たために
スプレーを使って除去したくらい。
卵がどこかにあるかもと思えば
背筋がぞわぞわして気持ち悪い。
その程度。
だから、誕生日含め何が欲しいかと
親から問われると物凄く困るのだ。
お金だって生きれる程度あればいい。
キャリアアップしたいわけでもない。
したいことがあるわけでもない。
何となく生きている。
死にたくないから生きている。
歩「…。」
何で生きているんだろう。
それには目を向けないように。
刹那。
ぴーんぽーん。
ぴーんぽーん…。
そんな軽快な音が鳴り響く。
宅配だろうか、とは不意に思ったものの、
再度時計を確認した。
指し示されているのは4時半。
無論、朝のである。
歩「…何の用…。」
共通玄関のほうではなく、
私の家の前にいるらしいことから
お隣さん等だろうかと想像される。
共通玄関ならカメラあるし、
顔を合わせず声を交わすことができるのだが
家の前となればそうもいかない。
出る前に髪を軽くときながら
思案をめぐらせつつ、
なるべくはっきりとした声で返事をする。
いくら関わりを持ちたくないとは言え、
身だしなみに気を使わないのは
流石に気が引ける。
マナー的なものだろう。
歩「はい。」
声を明るくすることこそしかなかったが、
なるべく早くに出ようと思い
それとなく小走りする私がいた。
そして、温くなったままのドアノブを手にかけ
相手に当たらぬようゆっくりと開く。
そこには、女の子であろう人が1人。
白くオーバーサイズのTシャツに
下は黒いパンツ。
ボブほどの髪、4月当初の私くらいの長さの髪を
風に任せ靡かせていた。
華奢で弱そうな見た目、
日の元は苦手そう。
そう思わせるほど肌も白く、
生きている人間か否か不信感を抱いた。
知り合いではない誰かが立っていたことに
ぎょっとして瞬間動きが止まる。
じっと見つめたまま離さない瞳。
食われるのではないかと思うほど
気迫のある佇まい。
そんなに力があるようには見えないし、
なんなら非力の少女のよう。
けれど、何かが違う。
そう肌で感じるのだ。
言葉で言い表せない。
これが何となく嫌な気がする、
ということなのだろう。
私よりも身長が高いこともあり、
年上なのだろうかと過るものの、
どこか幼さの残る顔立ちだからか
中学生のようにも見えた。
歩「何か用事ですか。」
「…。」
歩「…。」
「…。」
頑なに返事をしないままに
こちらをじっと見つめてくる。
よくよく見てみれば鞄も持っておらず、
何もなしにここまで来たことが窺えた。
このマンションに住む人なのだろうか。
手を後ろに組んだまま
重心を移動することもなく
ただ立ち尽くしているのだ。
こんな朝早い時間に、だ。
憤りが募ってしまっているのだろう、
起きていたからよかったとはいえ
この時間からの来訪は迷惑だ。
その上、ひと言も喋らない。
気味が悪い。
歩「………あの、こんな時間にな…っ!?」
ひと言苦言を呈そうとした時だった。
不意に視界が天井を映したのだ。
何事かと思った。
天井のライトが目の奥に焼き付き、
そこが暗くなって見えづらくなる。
ふと、彼女の方を向こうとするも
首元に邪魔があり確と前を向けない。
ひゅ。
歩「…がっ…!?」
すーぅ。
空洞音のようなものが
脳内を満たしていった。
そのまま押されていき、
しまいにはバランスを崩して尻餅をついた。
それが最後、後頭部を強く打つ感覚があった。
何が起こっているのだ?
なにが。
そう思い、落ち着け落ち着けと
脳内で何度も繰り返した。
繰り返すうちに、
それとなく見えてきたものがあった。
首を掴まれている。
首を押さえつけられている。
床にぐっと、片手だけで。
歩「はっ…っ!?」
がたん、と扉が閉まるのを感じた。
室内に押し入られている。
それだけではない。
殺される。
殺されてしまう。
久々の危機感に冷や汗が止まらない。
心臓は早く打ち、助けを求めようにも
声を上げることができない。
片手とは思えないほどに力が強く、
後少しでも力を加えれば
骨が折れてしまうのではないかと思うほど。
圧迫感が気持ち悪い。
みし、と軋む音がしている気がする。
肺でもお腹からでも呼吸ができない。
できない。
できない。
歩「…ゃ……っ。」
°°°°°
その細さで出る力じゃないって程
手の力は異常に強く、
そのまま水溜りの方へ引き摺られる。
歩「…っ!…痛…!」
°°°°°
何故たった今それが想起されたのか
まるでわからなかった。
また、こんな経験をしているのか。
死にかけているのか。
死ぬのだろうか。
それとも、不可解の入口のひとつなのだろうか。
体は暴れている。
意図的に暴れているのだが、
頭の中は妙なほど冷静になりつつあった。
不可解の入口。
これまでは、宝探し、遊留と雛のそれ、
そして長束の帰還。
…。
もし、これが入口なのであれば。
もし、私に何か幻想のようなことが
起こるのであれば。
もし、別のどこかへ行けるのなら。
もし。
…。
もし、姿を消せるなら。
もし、行方不明になれるなら。
歩「はっ…かっ…。」
…。
…。
それなら、いっか。
…。
ほら、やっぱり受け入れた。
受け入れる他なかったでしょ。
体に力が入らなくなっていき、
暴れることをやめてしまった。
今だけは体と頭が別に動いているみたい。
今だったら悲しくても泣かなそう。
怒っているからって体温が
高くなるなんてことなさそう。
繋がってないように感じるから。
目を閉じかけたその時、
彼女の空いた手に何かが
握られているのが見えた。
何だろうか。
視界が霞む。
霞む。
締めてくる腕を掴んだが、
すぐに床に崩れ落ちるのを感じた。
もう諦めよう。
そう感じて目を閉じた。
その時。
何かが口内に落ちてくるのを感じたのだ。
半開きにでもなっていたのだろう、
何が液体がちまちまと流れている。
流れ込んでいる。
あなたの仕業だろうな。
誰かも知らない、彼女の。
***
歩「じゃあ…みーちゃんで。」
美月「えーあれだけ考えてそれなのー?」
歩「嫌…?」
美月「あはは、ぜーんぜん!ねね、明日も明後日も一緒に学校行こ!」
歩「え…?」
美月「だーかーらー、一緒に行くの!」
歩「えっと、今日と同じ時間?」
美月「うん!」
歩「わ、分かった…いいよ。」
美月「わーい!」
歩「結構強引なんだね。」
美月「そうかな?」
歩「そうだよ…私、み…みーちゃんみたいなタイプに会ったことないな。」
美月「じゃあ特別ってこと?」
歩「え?」
美月「特別ってことじゃん!」
歩「…ふふ、そうだね。」
美月「わがままってよく言われたけど特別は初めてかも!」
歩「そうなんだ。」
美月「私、歩ねえの特別なんだ!えへへ。」
***
たん、たん。
一定のリズムで揺れている。
まるでゆりかごの中のよう。
落ち着くペースなものだから、
段々と子供の頃を思い出が蘇ってくる。
小さい頃、それこそ眠れなかった夜は
お母さんが背中かお腹だかを
とんとんとしてくれたっけ。
呼吸とほぼ同じタイミングだったからか
すぐに眠くなってしまうの。
そして夢の世界へ行く。
私だけの脳内世界。
小さい頃は愉快な夢が多かった。
どんなものがあったかと問われると
それこそ何も覚えていないのだが、
感覚として残っていた。
近日見ている夢とは
大きく異なっているということが。
歩「……。」
とん、とん。
振動は心地いい。
電車に乗っているみたい。
乗り物は好きだったな。
車での旅行が好きだった。
今では行かなくなったけれど、
家族4人でゴールデンウィークは
山のほうに向かって、
残った雪で遊ぶの。
それから車中泊をする。
私たちは小さかったから
余裕で膝を抱えて眠れていたっけ。
もうこころは愚か、
私も出来なくなってしまった。
子供たちは成長したんだ。
時間が経ったんだ。
そうだ。
懐かしい。
私、子供だった。
歩「…。」
意識は一応覚醒しているものの、
目を開きたくない衝動に駆られ
そのまま全てを委ねた。
直前まで何をしていたか
まだ思い出すことができない。
これは夢なのだと割り切って信じて、
時間が過ぎるのを待った。
あぁ。
いつから5分はつまらなくなったんだろう。
小学生の頃の5分は黄金で、
その時間さえあれば校庭に飛び出し
ドッチボールをしたものだ。
子供の5分と大人の5分は違うと
よく言ったものだ。
…。
…。
子供の頃…か。
刹那。
ぎぃ、と音がしたかと思えば
温もりは離れていった。
そして冷たい冷たい風が
びゅうと強めに吹く。
どうやらおんぶされていたのか、
腹部からどんどんと
熱が放出されていくのを感じる。
高校生にもなって
おんぶされていたのかと思うと
気恥ずかしさで一度命を落とせるな。
優しいのか否か、
私のことを運んだのはいいものの
乱雑に投げ捨てるように
床へと転がした。
歩「い゛…。」
反射で目を開いてしまう。
視認するしかなかった。
そうなのだろう。
無彩色のラグが目に入る。
どうやら私の家ではない
どこかのようだった。
連れてこられたのだろうか。
ただ、室内であることは確からしく、
その上フローリングも映ることから
思っているより綺麗な場所らしい。
ああ。
力が床に吸われているよう。
腕からは骨が抜けてしまい、
頭からは気力が抜けている。
そのような、無気力無感覚が
私をこれでもかと襲ってくる。
呑まれそう。
それでも踏みとどまらなければいけない。
無意識だろうか、理性だろうか。
私の欠片が繋ぎ止めてくれたおかげで
再度目を閉じても開こうと思えた。
髪の短いその人は、
蔑むような瞳を向けることすらなく
興味がなくなったおもちゃを捨てる時のように
すぐさま背を向けて出ていった。
そして扉を閉めるのだ。
鍵なんてものは見当たらず、
ドアノブさえもぱっと見はない。
扉やドアなんて言えるのかどうか。
寧ろこれは壁ではないのか。
彼女はどうやってこの扉を閉めたのか。
見ている限りは触れていなかったので
自動だったのだろうか。
不透明な自動ドアと思えば
ひとつ納得はいくけれど。
歩「…いった…。」
床とぶつかった衝撃だろうか、
骨が軋むような感覚が
手足や背から波打つように伝った。
上半身を起こしてみる。
すると、思っている以上に
何もなかったようで、
苦しくなく息だってできるし
手足もちゃんとくっついている。
曲げようと思えば曲がってくれる。
一部分が自分の体ではなくなっている
なんてこともない。
歩「…誘拐…か…。」
ふと浮かんだのはその言葉。
ここは先ほどの人の家。
誘拐された、人質にされた。
そう捉えるのが妥当だろう。
私の家はそう裕福であるわけではないが、
ホームレスなどの人たちからすれば
室内で暮らせている分やはり
お金持ちと映るのだろう。
自分がどの基準に居るかによって
周りの比較基準だって変わるのだから。
歩「…。」
思っている以上に冷静なようで、
そっと喉元に触れた。
跡、残っているのだろうか。
鏡がないからわからないけれど、
相当な痛み、苦しみだったと記憶している。
そして、あの液体ー
その時だった。
背にある扉、室内側から不意に
きい、と音がした。
誰かがいるのだろうか。
根拠なく誰もいないと思っていたからこそ
どきっと心臓が跳ねた。
瞬時に振り返ることができず、
ひと間開けて首を回した。
誰なのだろう。
共犯か。
それとも、同じように誘拐されたのか。
ひとつ、好奇心。
ひとつ、期待だっただろう。
しかし、それは大きく
打ち砕かれてしまうのだった。
歩「…っ!?」
美月「…ぁ…歩、ね…?」
玄関に座る私に視線を向けるのは
紛れもなく苦い記憶にこびりついて離れない
あいつの姿だったのだ。
髪の毛は肩を越しているにもかかわらず
結ぶこともなくそのままで。
そして、どこかへいく予定だったのか
ワンピースを着用していた。
私はといえば起きてすぐに
着替えてからそのままの服装で。
扉から半分顔を出すようにして
現れたそいつは、
驚きのあまり口を閉じることを
忘れてしまったようだ。
口を見ると、どうしても
思い出してしまうことがあった。
°°°°°
美月「………ぁ…な、んで…っ…。」
歩「…。」
°°°°°
嫌なことばかり思い出す。
嫌なことばかり。
嫌なことばかり。
そればっかり。
あの雨の日はいつだって
最も簡単に想起できた。
それほど印象に残っているらしい。
私はさっさと忘れたいのに。
その場を立ち、どうにかここから
抜け出すことができないのかと
目の前にある壁同然の扉を押した。
取っ手がないから引くことはできず、
ただひたすらに押して叩いて
叫ぶことしかできなかった。
歩「ここを開けて、ねぇ!」
がんがんと手の側面が無言のままの扉を叩く。
ひりひりとしている気がするが
それどころではない。
あいつと一緒にいる方が
断然嫌なのだ。
それくらいなら舌を噛み切って
死んでしまいたいほどに。
歩「開けて、出して!」
美月「ちょっと」
歩「誰か!」
美月「落ち着いて。」
歩「ねえっ!」
美月「落ち着いてって言ってるでしょう。」
歩「…ちっ。」
扉から目を離して振り返ってみれば
あいつがいたのだ。
もうドアに隠れることもなく
ただそこに立って私に
声を飛ばす存在が。
落ち着いてはいる。
けれど、早く出たいのだ。
その理由があんた自身にあることくらい
分かりきっているはず。
これまでの事を忘れているはずがない。
だって、こいつは何度もごめんなさいと
口にしたのだから。
あの時。
°°°°°
歩「…。」
美月「…ごめん…なさい…っ。」
歩「…。」
美月「歩ね、ぇ…ごめんなさい、ごめんぅ…な、さぃ…。」
歩「…。」
美月「ぁ…私……歩ねえに、酷、いこと…ばっかり…。」
歩「…。」
美月「歩……ぇぐっ…歩ねえの、人生…こ、わしてごめんなさいっ…。」
歩「…。」
美月「ごめんなさいぃ…っ。」
°°°°°
ごめんなさいと何度も
自分の傷を抉るように
謝罪の言葉を口にしたのだから。
それが一体何に対してなのか
分からないほど私も馬鹿ではない。
忘れていないのだ。
忘れることができないまま
私たちは大人へと近づいているのだ。
会わないままがよかった。
会わない方がよかったのだ。
最初から、こんな出会いなど
なかった方がよかったのだ。
美月「…私もさっきここに」
何か話し始めているが、
微塵も興味がないために
横を通り抜けて部屋へと入った。
あの壁とも言える扉に
声を投げかけ続けていても、
無意味であるだろうことは
容易に想像できてしまった。
ただ、内装は集合住宅の中のひと部屋のよう。
マンション等であれば
隣人に声が届くだろうか。
ひとつ気になるのは玄関の扉。
あのようなものは
世間一般の家にはないだろう。
マンションのひと部屋を改造したのか、
それともまた別の場所なのだろうか。
もしかしたらここが
神奈川県ではない可能性だってあるわけだ。
海外は流石にないだろうが、
軽くひとつ県を超えていても分からない。
私自身、どれほど眠っていたのか
まるで見当つかないからだ。
奥に進んでみれば、
リビングダイニングがあった。
所謂普通の家だ。
ワンルームではないようで、
正面に更に2つの扉が見える。
それにはしっかりドアノブもついているようで
私の知る普通の扉と一緒だった。
美月「待ってよ、歩ね」
歩「一切話しかけないで。」
美月「…っ…でも…。」
歩「…。」
ぐうの音が聞こえてくるのではないかと
思うほどの静寂が一瞬にして
あたりを制した。
こいつのことだから
まだしぶとくくっついて
話しかけてくるかと思ったのだが、
自重したのかその場から
動くことはなかった。
私自身、大人気ない行動を
取っているという自覚はある。
子供だ。
こんなの、子供同等だ。
言い訳をすることが許されるのであれば
つらつらと言葉を並べたい。
私は、こいつが嫌いなのだ。
謝る謝らない以前に
さっさと関係を断ち切ってしまいたいのだ。
出会いたくなかった。
だから、出会いたくなかった。
自分の醜さが露呈するのだから。
リビングを見回すこともなく、
こいつからいち早く離れるべく
右の扉に手をかけ開いた。
ほんの数メートルのみ
廊下のような部分が存在し、
その先に部屋が広がっているよう。
歩「…うわっ。」
何も考えずとも、その声が出た。
部屋は広かった。
広かったのだが、間違いなく
私は居たくないと思うタイプの部屋。
言い換えれば、完全にあいつ用に
作られたかのような空間だった。
視界に広がるのは
圧倒されるほど多量の本だった。
床に積まれているものが多量。
たった2つしかない棚にも
ぎっしりと詰まっており、
日本文学ではなさそうな
背表紙のものまで映った気がした。
部屋は大層広く、まるで幼少期の頃
夢にまで見たお城のひと部屋の様。
ベッドにも工夫が凝らしてあり、
お嬢様が眠る時に使うような
無駄に広いもので。
ベッドまで一直線のみ足の踏み場があり、
他は全て本で埋め尽くされている。
立てかけるスペースもなかったのか、
教科書のように雑に上へと
積んでいるものが多数。
あぁ。
ここは違う。
それをひと目見た瞬間踵を返し、
もう片方の部屋の扉を開けた。
変な目で見られているような気もしたが、
気にするだけ憤りを感じるものだから
割り切るより他ない。
割り切れ。
どうでもいいと、割り切るんだ。
何度も自分に言い聞かせながら
もう片方の部屋を進んだ。
扉をきっちりと閉めて。
どんな部屋であろうと
私はこっちにいることにしよう。
あと何回か人を呼んでみて、
駄目であれば少し大人しくしよう。
無駄な力を使いたくない。
そして、極力早くここから出るのだ。
勿論、身の安全の話もある。
それ以上に、あいつも一緒の空間に
いたくはないのだ。
病的なまで嫌うこの姿は
きっと他者からしてみれば
滑稽に映っているだろう。
それこそ、精神的な病を持っているとも
捉えられたっておかしくない。
自分でも、わかっている。
わかっているつもりなのかもしれない。
分かっていると思いたかった。
自分は自分をコントロールできているという
自信を持ちたかったのだろう。
歩「…。」
扉を背に数秒立ち止まった。
またもや短い廊下があるのが見える。
あいつからすれば
どう見えていたのだろう。
1度目に入った部屋が気に食わなかったから
部屋を変えた薄情者と映るだろうか。
…。
今更じゃないか。
人の目なんて今更気にしたって
どうにもならないじゃないか。
どうにもなってこなかったじゃないか。
知っているじゃないか。
…。
私は知ってる。
他人に合わせて生きていたら
自分の人生が狂わされることを知ってる。
知ってる。
…。
知ってる。
歩「…ちっ。」
狂わされてばかりだ。
人生も調子も全て。
今だけは自分のせいではなく
他者のせいにしてしまいたい。
全ての責任を投げつけて
子供のように喚いていたかった。
その全ての感情を噛み締めて
漸く1歩、部屋へと踏み込んだ。
部屋全体は、先ほどの部屋に比べて
大層質素だった。
大層なんて言葉では済まないほど。
けれど、奴隷のようだというわけでもない。
部屋の広さは同じくらいだが、
隅に敷き布団がある程度。
小さな棚には日用品が詰められていた。
爪切りや綿棒、体温計なんてものが
視界に入っている。
そこには簡易ながら服も用意されていた。
あと、他にも扉があるのが見える。
先ほどの…本ばかりの部屋にも
同じものはあったのだろうか。
そして、この部屋は真っ白だった。
気が狂いそうなほど
真っ白…なはずだった。
天井と床の明度差がないが故に
今どこに立っているのかと不安になる。
棚や布団といった家具が
唯一この部屋を部屋として
成り立たせていたのだ。
真っ白だったであろう一面には、
プロジェクションマッピングのように
何かが映し出されている。
黒く細かい何か。
初めは虫だと思った。
小さい虫を映し出しており、
完全なる嫌がらせをしているのだと。
それは映像の関係上なのか
ゆっくりゆっくりと移動している。
ただ、これを映しているであろう機械は
どこにも見当たらないのだ。
機械すらも真っ白ならば、
天井のどこかにでもくっついているのだろうか。
この一面、ほぼ隙間なく
埋められている黒の斑点。
歩「…?」
気味が悪かった。
気味が悪いと感じていたのだが。
歩「これ…。」
しゃがんでよくよく床を眺めてみれば、
どうやら文字であることが窺えた。
数字、日本語。
確と読める。
時折映像だからだろう、
ぼやけてしまう時もあるのだが、
殆どが苦せず解読できる。
しかも、どの位置に立っていても
影になって映像が途切れる
なんてことはないことから、
壁自体が何か機械であるだろうと想像がついた。
だからなんだという話ではあるのだけど。
歩「…2022年…5月…………っ!」
数字。
そして日本語。
その先の言葉。
私はどうやら見覚えがあったようだ。
見たことがある。
そう感じた。
それもそのはず。
歩「……………私の…日記…。」
私の日記が一面に流れている。
その時の流れは大変穏やかで、
草原に寝転がって空を見上げている時のように
遅く感じるのだ。
文字の流れる速さが遅いからだろう。
この床から今見ている文字が消えるまで、
少なくとも30分はかかるのではないだろうか。
部屋の中心に立ってみる。
何も持ち物がなく、
部屋をざっと見回しても
スマホもテレビも何もない。
布団と棚だけの質素な部屋。
質素な。
歩「…。」
することがない。
それは普段から一緒だ。
時間だけを持て余していた。
ずっとずっと。
時にいいなと羨ましがられた、
時に嫉妬された。
けど、私はみんなの方が
絶対いいと思っていた。
ああ。
昔は…それこそ小学生低学年の頃は
人と違うのが嫌だったな。
普通がよかった。
けれど、転勤を繰り返す私の家は
到底普通とは言えなくて、
小さい頃は恨んだっけ。
今ではそんなことはなく、
いつからか受け入れ、
寧ろよかったことを見出そうと
躍起になっている時期もあった。
変わったのだ。
歩「…すぅ…誰かいませんか!」
日頃は出さない大声を出す。
これでもかというほどに。
内臓は声を出しているせいか
ぶんぶんと震えており、
手足の指先がじりりと痺れた。
喉が耐えきれず
切れたような痛みを感じる。
やはり、耐性はないようで。
歩「誘拐されたんです!誰か!」
適当なことを口走った。
ただ、希望は持たないままに
声を上げていた。
隣の部屋には流石に
聞こえているであろう声量なのに
あいつがこないあたり、
容認しているのだろうか。
それとも、既にあいつは試しており、
諦めているのだろうか。
喉がびりびりと痺れた。
中学時代、バスケに明け暮れていた夏が
ふと脳裏をよぎった。
どうして声を出すのか
理由を知った時は微々ながら感動したっけ。
どうだったか。
歩「…はぁ…。」
ひと息つく。
そこで漸く現実的なことを
考えざるを得なくなった。
このままずっと部屋に
いることになるのだろうか、と。
もしこのままここで
延々といることになるのなら
あいつといなければならないということ。
他にも、学校はどうなるのだろうとか、
バイトは、家賃は。
今になって不意に長束の顔が浮かぶ。
きっと長束もこのような状況に
陥っていたのだろうか。
しかも1人で。
歩「…………不安だったろうな。」
長束のことだから多少のことでは
へこたれないだろうが、
それでも人間だ。
くるものはあるだろう。
現に私だってそうだ。
うまく言い表せないが、
心臓の端をつままれているような気がしている。
風景も風景なので気が狂いそう。
端的に言えば不安なのだ。
…ああ。
世間的に見て姿をくらますことが出来ても
結局消えることはできなかったのか。
残念がる私が存在することに
心底驚いたのだが、
それ以上に眠気が襲ってくるもので
自然と布団の方へ足を向けた。
ただ、扉があるのはどうも気になって
らしくもなく眠たい目を
擦りながら開いてみれば、
そこはお風呂場だったよう。
ユニットバスだ、トイレも付いている。
そして狭い空間だと思えば
洗濯機も設置されていた。
無理やり取り付けたようで、
現実にはなかなかない配置で。
歩「この部屋、私が占領したらまずいんじゃ。」
普通の家は大体風呂もトイレもひとつだ。
ということはここは
共有スペースではなかろうか。
しかし、だ。
私の日記がこうも一面に流れているあたり
私の部屋であることは確かだろう。
間違いはないはずなのだ。
向こう側の部屋にも
ユニットバスがあるのだろうか。
もしそうならば、このマンションの
この一室は完全に
誘拐するために作ったようなものではないかと
結びついてしまうわけで。
この稚拙さは仇となるだろうか。
歩「……。」
疲れだろうか。
時計のない室内で、
あくびをすると共に目を擦った。
おかしい。
おかしかった。
私が眠くなるはずなんてないのだ。
まだ目覚めて数時間のはず。
どの程度移動していたのか見当つかず、
その時間次第なところはあるけれど。
時計がないのが
こんなにも不便だったなんて。
正確な時間など計り知れぬままに
安定した足取りで布団へ向かう。
とりあえず腰を下ろして
部屋を再度眺む。
閉鎖的。
気味が悪い。
慣れるまでは気分が害されるだろう。
歩「……窓がない。」
そのせいもあり、より窮屈に感じる。
肩身の狭い思いすら
呼び起こされそう。
歩「…………はぁ。」
ため息をひとつ。
いつまで座っていられるだろう、
すぐにでも後ろに倒れて
横になってしまいたかった。
けれど、そうしてしまえば
思考はぱったりと止まること間違いなし。
まだ考えていたかった。
考えている方が
少しばかり落ち着くものだから。
家族に迷惑をかけていることが
不意に浮かんできた。
身代金でも要求されているのだろうか。
どうなのだろう。
目的は何なのだろう。
あいつがいると知った今、
身代金を請求されたって
おかしくないとすら思える。
そしてこの部屋には窓がない。
ただし、その部屋の仕様はおかしい。
その点、ただの犯罪に巻き込まれたのではなく
これまで通り不可解なことに
巻き込まれたと思う方が妥当か。
優しく自分の喉に触れる。
今は声を出していないものだから
鈍く震えることなどないのだが、
それに当たり前だと感じれなかった。
…。
死んでいた可能性だって
大いにあったろうに。
歩「…結局…ほんとに何か飲まされたんだろ。」
記憶が曖昧なせいで
どうも明快ではないものになるが、
実際どうなったのだろう。
夢…ではなかったはずだ。
現実だったはずだ。
なら、一旦何だったのか。
直接体を溶かすようなものではなかったのか、
今のところ体や喉に不備はない。
睡眠薬を溶かしていたのだろうか。
なら納得はできないことはない。
その後すぐに意識を落としたのだから。
酸素不足が大きな要因だと
わかってはいるけれど、
それに追い討ちをかけたのだと思えば
ぎりぎり納得出来る。
本当かどうかは勿論
知りようなんてないのだ。
蠢く日記を読み返すのも
暇を潰すにはいい案だろうと思った。
早速足元に流れてくるものを見てみれば、
引っ越して1人暮らしを始めて
すぐらしいものが足先を掠めた。
少し足をずらして読んでみる。
靴下が邪魔に感じたので
裸足になりながら文字を追った。
今の字体からほぼ変わらないとは言えど
少し丸っこい気がする。
幼さの現れのようで、
口角が上がるのを感じた。
「今日から1人暮らし。
出来る限りは丁寧に暮らしたい。
荷物を解体するところから始めた。
掃除はこの前したからすっきりとしてた。
買い物にも行って冷蔵庫の中が漸く潤った。
こころの様子は気になるけれど
頑張っているのは知ってる。
時折会いに行こう。
感じたこと
とても新鮮、少し不安。
けどそれ以上に自由すぎて感心した。」
最初は予想通り引っ越して直ぐの近況報告。
どう言ったものを買った、
出費等書き出すノートは別に買おう、
水道代はどこで払うんだ、
虫が湧かないようにする
…結局直近で湧いたけれど。
料理頑張ろう、失敗してしまった、
学校が始まったけど中学と変わらなかった。
そう言った事ばかり。
周りに流れる日記も日付は近く、
そのままつらつらと流し読んだ。
だんだん生活が上手くなっているのが
この初め2、3ヶ月では顕著だ。
歩「そっか。あの頃パスタ茹でるので精一杯だったっけ。学校もあったし。」
今思えば当時の勉強の内容としては
とても簡単だったのに
何かと気持ち的には学校もある、
バイトもある、家事もあるって
余裕がなかったように感じる。
今よりもバイト詰めてたっけ。
あれ、どうだったか。
慣れない環境、慣れないことばかりで
切羽詰まっていたところは
大いにあっただろう。
中学も高校も今思えば
あまり変わらないというのに。
歩「バイトって1年の夏には決まってたっけ。」
中学卒業して間もない
子供とほぼ同義の人間を
よく雇ってくれたと思う。
しかも居酒屋だ。
どういった考えがあったんだろう。
そこは面接を受けた私も私だが
雇ってくれたお店もお店側だ。
ふふ、と思わず笑みが溢れる。
なんだかんだで今のバイト先には感謝していた。
後に高校にも1人暮らしにも慣れた頃、
時間を持て余していたので
追加で本屋のバイトを始めた。
理由は単純、近いし時給が割と良かったから。
しかし、本が好きというわけではない。
できる限りならあまり触れたくもない。
だって、今のあいつが読書を好いていることを
いつかの拍子に知ってしまったから。
それ以降、本屋のバイトは
どうも気が進まなくなった。
そして進むと試験の内容がどうだったとか
そう言った学生らしい面が増えてくる。
修学旅行はする予定だする予定だと
学校側は言いながら
結局コロナで潰れたのはいい思い出。
学校があるのは神奈川と
関東県内且つ東京が真横な事もあり
感染者数は多かった。
私としては面倒なイベントが無くなって
ラッキーとさえ思ったけれど。
他の日付では例えばだが
「今日は子供を連れた女性がいた。
子供がおやつをねだると今日はダメと
言っていて子供は駄々を捏ね始めた。
けれど女性は
「パパが今日は〇〇作ってくれるって」
と言って子供は満面の笑みだった。
感じた事
女性も子供も笑顔でいい家庭だなと思った。
きっとあの人の夫もいい方で
あの2人の間で過ごす子供は
きっと素敵な人になると思う。
子供は成長したらいい人と出会うのかな。
それとも良くない人に引っかかって
そこで途切れてしまうのかな。
全てが親からではなくその場その場で
出会った人たちの影響だって大いにある。
だからー」
と2ページ程に渡って書く事も屡々。
疲れている時はそれでも3行は書いていた。
なんなら今日起こった事よりも
感じたことの方が長くなることさえ
日常茶飯事と化していた。
癖だった。
出来事と感じたことを記すことが
癖になっていたのだ。
忘れないように。
この時何を感じたのかを
忘れないように、抱きしめるようにと。
歩「…。」
文字を追うと眠くなる。
学校の授業だってそう。
面白くないわけではなくても
文字は睡眠作用があるのか
瞼が重くなってゆく。
かくんと頭が下がったのをきっかけに
そろそろかと感じ、
後ろへと倒れた。
布団は新しいものなのか
比較的ふかふかだといえる。
まるでもてなすように。
歩「……。」
どうして眠くなってしまうのだろう。
普段ならこんな早くに
眠気が来るなんてありえないのに。
しかも、ここに連れて来られるまでも
眠っていたのだろう?
考えはまとまらないままに
掛け布団を身に纏うこともせず
そのまま瞼を閉じたのだ。
ごう、ごうと血が巡っているのがわかる。
耳鳴りがしている。
ああ。
そういえば、雨の日に切った
傷口はどうなっているのだろう。
赤い液体がとくとくと脈打ちながら
流れ落としたあの傷はー。
***
…。
…。
…。
***
…。
…。
…。
***
…。
…。
…。
***
「違うよ。違う。」
何の話だろうか。
全く覚えはない。
「もう特別じゃない。」
いつの話だろうか。
変わらず覚えはない。
「私たち、特別になりそびれたんだよ。」
どこで話したのだろうか。
依然として記憶はない。
「お互い失敗してね。」
きっと、記録にもない。
こんな話。
***
…。
…。
…。
***
歩「…。」
時間感覚がないに等しい。
夢を見ていたはずだが、
もう覚えていない。
夢とはそのようなものだが、
どうにももどかしいのだ。
重要な気がしてしまう。
ただ、断片的なものとして
机が見えたのは確か。
机と、あとは…きっと自分の手。
スキップされたよう。
時間を飛ばしてここまできた。
動画であれば、序盤から結末が気になり
後半までバーを動かしてしまったような。
本であれば初めから犯人を知るような。
将又、興味なくて飛ばしたか。
歩「…づぅ…。」
勢いよく上体を起こしたせいで
耳の奥できぃんと金属音が鳴り響く。
頭は重たいあたり、
相当眠ってしまったよう。
時折、コントラバスで
1番低い音を出した時のような
ぶぉーぅぅう…という音が反芻している。
思っている以上に
体調が悪いのかもしれない。
そもそもこんなにも眠くなったのは
初めてではない。
唯一思い出せるのは
インフルエンザの時だろうか。
私らしくもなく眠くなるのだ。
これまで眠らずとも過ごせる日々が
連なっていた代償のように、
不調の時は寝続けた。
今回もその類に似ている。
歩「…ぅ…。」
喉が渇いた。
それもそうだろう。
空調が効いているのか知れないが、
快適な温度ではある。
やはり、もてなしていると言った方が
腑に落ちるのだ。
人質にしたいだけならば
手足を縛り身動きを取れないように
した方が断然いい。
こんな整った環境なんて
作る必要はない。
何度思い返しても
現実ではないことは確かだろう。
だろうと言い、断言できないのは
まだどこか現実であると
信じていたいから。
ああ。
そういえば眠る前に叫んでたっけ。
そりゃあ喉にダメージもいくものだ。
上体を起こしたまま
しばらく動かなかったけれど、
漸く決心がついたのか
地に足をつけた。
ぺた、と冷えた感覚がする。
そうだ、裸足だったんだ。
だが、立ったというのに今更靴下を
身につける気にもならなかった。
今屈むことで頭に血がのぼるのは
まずいとそれとなく察したのだ。
そのまま頭の重みで
倒れてしまうのではないか
…なんて感じてしまって。
歩「…。」
ぺたり、ぺたり。
短い廊下を歩き、
見覚えのある扉を開く。
すると、変わらずリビング・ダイニングが
私を迎え入れてくれた。
電気が程々に暖色系であるため、
温かな雰囲気を纏っている。
家族が住んでいてもおかしくないとさえ
思ってしまうほど。
それ程、ここはできた家であり
同時に完成されてしまった家なのだ。
改めてぐるりと見回してみれば
リビングにも窓がないことがわかる。
ずっとここにいればいずれ
精神もおかしくなってしまうのではないか。
いや、私のいた部屋の方が
おかしくなるものか。
改めて部屋を見回すのだが、
時計や窓といった時間を
推測できるようなものは
一切見当たらない。
おまけにキッチンタイマーのような
ものすらないのだ。
歩「…はぁ。」
寝過ぎたためか、
体も頭も重たく感じた。
体が怠い、とはまさにこのことかと
身を持って実感している。
リビング、ダイニングとはいえ、
食卓、キッチンの他にもうひとつの
ローテーブルとソファだけ。
そして冷蔵庫やバスタオル等々のみ
用意されているよう。
あれ、洗濯機は自室にあっただろうか。
眠る前の記憶が未だふやけた指のよう。
正確になることがないまま今に至る。
1度玄関へと向かった。
もしかしたら開くかもしれないから。
髪は先ほどまで寝転がっていたために
ぼさぼさだろうけれど、
もし出れるのであれば
そのチャンスを逃したくないもの。
玄関を前に、裸足であることを
再度思い出した。
玄関マットを踏み、
そのままただの板のような玄関に
そうっと右手を添えた。
歩「…。」
ぐ、と片手で押してみる。
けれど、当たり前のように動いてくれない。
びくともしないとはまさに
このことなのだろう。
ただの鉄の塊の如く
扉とも呼べなくなったそれは
私の前に立ちはだかったままだ。
一旦、それに背を預けてみる。
歩「…。」
冷たい。
ひんやりと背を冷やしてくれる。
熱を持っている私から
ゆっくりと熱を奪っていく。
その感覚が妙に恋しかった。
だが、ここにいたって結局
どうにもならないのだろうと悟り、
壁を手で押して背を剥がした。
そこには私の熱と、
幾分かの皮膚が
張り付いているのではないかとまで
空想を広げたのだった。
裸足のままに歩き回っていると
食卓の上に紙が置かれていることに気がついた。
どこから持ってきたのか、
A4ほどの紙をメモとして使ったらしい。
誰かの…きっとあいつであろう文字が
連ねられていた。
ボールペンを紙の上に乗せ、
空調で飛ばないようにという
配慮まで欠かしていない。
そして隣には3冊の本が
きちんと底辺を揃え縦に積まれていた。
不意に思う。
私達は言葉によって崩されたというのに
私は日記、あいつは読書という形で
文字に触れ合っている。
学校では確かに触れ合わなければならない。
それは社会に出れば尚更。
しかし、好んで選ばなくなって
よかったことなのだ。
好んで文字と過ごすことを
選ばなくなってよかった。
なのに。
歩「…ちっ。」
回らない頭で自然と
舌打ちをひとつこぼした。
扉を隔ててはいるが
聞こえているかもしれない。
けれどそんなことはどうでもよかった。
周りからどう思われようと、
もう関係なかった。
関係などないのだから。
だから。
紙を遠目で眺めていたら
どうやら謝罪といった
主観的な文字列じゃないらしく、
それが分かってから手に取った。
からりからり。
ボールペンが泣きながら
転がっていってしまった。
相変わらず涙は見えないまま。
ここの構造やら
このリビングにあるものやらを
書き残してくれたらしい。
まず、冷蔵庫の中には
1人1食分が入っていたらしい。
後から付け加えられたのか
行と行の間に細々とした字で
補充されている旨が記されている。
あいつは下段を手にしたらしく、
もう片方のお盆は私のとしてくれ、
といった内容がひとつ。
この時点で文字を読んでも内容が入ってこず、
なかなかに難解だと感じたために
メモを手にしたまま冷蔵庫を開いた。
すると、下段と上段にひとつずつ
お盆に載せたままの食事が
配膳されていた。
トレーの上には幾らかのお皿があり、
片手で少しばかり引き出して
中身を確認したところ、
栄養バランスは取れていそうだ。
開いた扉側を見てみれば
いっぱいいっぱいに飲み物が
詰め込まれていた。
その様に驚いてぎょっとするほど。
その全てが水であり、
500mlのペットボトルだった。
ラベルもないことから
不自然極まりない。
歩「…実験用のモルモットみたい。」
殺す気はなく、あくまで私たちを
実験の資料にしたいだけ。
そのような意図が隠れているように見えた。
これからまだある程度
人間を集めてから
大きな実験をするような。
…。
疲れているのだろう。
ただの妄想を広げたって
不安という濁った物質が心に
浸水してくるのみで意味がない。
無駄。
そう。
無駄。
無駄なのだ。
…。
そうやって省いてきたものは
本当に無駄だったのだろうか。
歩「…。」
お腹が空いているのは確かであり、
頭が回らない理由もそれだと
雑破ながら断定したので、
上段のトレーを手に取り
肘で冷蔵庫を閉めた。
慣れた手つきで閉じたものだから
まるでここらは自分の家の中のように
思えてきてしまう。
だが、ひとつ瞬きをしてみれば
決してそんなことはない。
あいつがこのリビングに
突如として現れてくる可能性も考えたのだが、
のちに洗い物をするために
この距離を往復するのは
どうにも面倒だった。
距離とはいえど、たったこの間。
しかし、体は不調を訴えてくるせいで
その僅かな移動すら
億劫になっていた。
力の抜けかけた足で
4つある椅子のうちひとつに腰をかけた。
ぎい、と不快な音が鳴ることもなく、
しっかりとした商品だったようで。
ふかふかではなく、
年代を感じるような木で作られていた。
アンティークを少し齧った雰囲気。
嫌いではないけれど、
この部屋とあっているかと言われたら
全力で肯定は出来ないかもしれない。
色彩感覚には疎いので
私のいう感覚の話は
あまり信じない方がいいのだけれど。
1度メモを机に置き、
手を合わせて小さく口にした。
歩「…いただきます。」
こういう時に限って
丁寧な暮らしをしたくなる私は
もはや狂ってしまっているのだろうか。
それからは食事をとりながら
メモのその先を眺めた。
食べ物は勝手に補充されること。
そして、バスタオルも同様であること。
スマホやテレビなど、
外部との連絡が取れるものは
全て没収、また、そもそもここにはないこと。
あいつのいる部屋にも
風呂、トイレ、ある程度の服、ゴミ箱、
そして洗濯機はあること。
そこから数行隔て、
さらに時間をおいて追記したのか
まだ文字は途絶えていない。
料理は誰かが補充していること。
メニューは違ったこと。
飲食を双方しても、
6時間程経た現在何も体調の変化がないこと。
時間は自分の平均的な読了スピードを
参考にしているらしく、
ざっくりとした計算のため
鵜呑みにはしないでほしいこと。
風呂も使用したらしく、
服やバスタオルを次洗うようにと
まとめて床においたところ、
目を離した隙に何故か洗濯された状態で
洗濯機の上に置かれていたこと。
一睡を挟んだところ、
ゴミ箱の中にあったものは
回収されていたことなど
気づいたことをまとめてくれていた。
そして本は、私の部屋が
もし何もなくて暇だったという
気遣いでおいたらしい。
有名で見たことのある題名の本だった。
本屋のバイトで見たものだろう。
ただ、興味もなければ読む気もないので
開くことすらせず
再度メモを眺んだ。
歩「…6時間…。」
時間は憶測。
鵜呑みにはするな。
そうは書いてあるものの、
6時間という数字に目を疑った。
それは空腹にもなるわけだし、
喉の奥がひっついたまま声を出そうものなら
剥がれてしまうのではないかと
思うのも無理ないか。
信じられない、とは感じる。
私がこんなにも睡眠しているとは
信じられなかった。
正直、あいつのことは信用ならない。
もしかしたら隣の部屋にすら
既にいない可能性だってある。
けれど、態々確認する気は起きなかった。
個人の勝手だと割り切ってしまった。
…。
あいつはここから出たいのかどうなのか
まるで知らないけれど、
私はこのままこの部屋にいたって
全然構わないとさえ思った。
どこかにいってしまいたい。
そう考えたことは
幾度となくあったから。
死にたいだとか消えたいだとかは言わないし
そう深くまで思わない。
ただ、それらはどこか心の隅に、
蜘蛛の巣のように小さく小さく
巣を作っていただけ。
それが、時によく見える位置まで
移動してくるのだ。
目を向けないようにしていたとしても、
見つけてと言わんばかりに。
歩「…。」
気づけばお皿の上にあった
食べ物は無くなっており、
無事平らげたことに気づいた。
ながら食べとはそんなものだ。
1人暮らしをするようになって
余計にそう感じた。
そのままお皿を持っていき、
洗剤を発見したので
さっと洗うことにした。
トレーも軽く流してやる。
そして、いくつも重なっている
バスタオルの山からひとつ引き抜き、
シンクの横に広げてから
お皿が乾くように並べた。
何も考えないままに行動していると
どうも普段の生活と同じように動いてしまう。
あとはひと皿洗うだけとなったところで
ここは自分の家ではなかった、とはっとした。
歩「…今更…か。」
呟きと共に蛇口を閉め、
最後のお皿をからりと重ねた。
このお皿も、誰かが片すのだろう。
私たち以外の誰かが。
…。
それが誰であろうと
構わないとさえ思った。
流石に性別は気になるところだが、
きっと先ほど私の首を
これでもかと締めてきた
ボブの髪型をした女の子だろう。
何故か確信めいたものが
体内、そして脳内を巡っている。
心配しなければならないことのはずだが、
今の私にその情報を与えても
抜け落ちていくようで。
バスタオルを2つ、
それからペットボトルも2つ程手にして
部屋に戻ろうとした時だった。
重ねられた3冊の本。
そして、隣のボールペン。
メモの最終部分が目に入る。
もし、まだここにいるようであれば
下に丸をつけてほしい、と。
歩「…。」
ああ。
頭が回っていないと
何度感じたことだろう。
無視することも考えたのだが、
それは流石に子供過ぎないか。
大人気ないのではないだろうか。
ただ、書面上だ。
面と向かっているわけではない。
あいつのことは確かに嫌いだ。
だが、こういった業務連絡を
無視するのは違うと感じた。
1度持ったものを机に放ち、
かちりとボールペンを鳴らしたのだった。
…。
…。
…そうか。
私とあんたは関わり方を
間違えていたのかもしれない。
だって、ほら。
こういったビジネスのような
心のない関係なら
上手くやれるじゃないか。
***
…。
…。
歩「…。」
…。
あれからどれほど時間が経たのか、
私には測る術がなかった。
これをしていれば
大体このくらいの時間に
なっているだろうといった
基準になるものだってない。
ひとつ、私が持っているものとすれば
腹時計くらいだ。
普段なら睡眠周期も活用できるが、
6時間も眠っていたことに加え
既に眠気に襲われていることを見るに、
全く頼りにはならない。
歩「…。」
あれから長いこと
蠢く床を眺めている。
日記がつらつらと流れる様を見て
何か思うことがあるとするなら
懐かしいなと思うくらい。
あの日バイトで面倒な客が来たとか、
課題をし忘れたとか。
反面、いいことだって書いてある日もあった。
久々に帰省した時の
家族のありがたみについてだとか、
マイナーでいい雰囲気の曲を
見つけた時の嬉しさだとか。
ただ、大体は日々の、
多くの人が見落としているであろう
日常のことについてだった。
子供が道端で泣いていた、
男子中学生らがはしゃぎながら
下校していた、
高齢の方が道がわからず
訪ねているところを見かけた、
猫が走っているのを
写真に撮る人がいた。
様々。
様々だが、決まって変化のない
日々のことだった。
時折、試験前日だとか受験前、
人生の節目と呼ばれる日の日記も
流れては来ていた。
珍しいとは思うものの、
あまり惹かれなかったのも事実。
ひとつ気になることがあるとすれば、
日記の書き始めがいつだったのかということ。
小学生?中学生?
高校は確実に1年の頃から
書き溜めてはいる。
いつが始まりだったのか。
そして、受験や修学旅行、引っ越しとも
また違ったひとつの節目があった。
その日の日記を
まだ目にしていない。
もしかしたら床ではなく、
壁や天井に流れていたのかもしれないが
そこまで追う元気はなかった。
下を向くことで精一杯。
瞼を閉じなかっただけマシ。
そう言い聞かせた。
あの日、あの節目の日、
何を話したんだったか。
°°°°°
歩「…何してんの。」
「…!」
°°°°°
歩「…ふぁ…ぁ…。」
ゆっくりと4秒ほど
心の中で数えながら欠伸をした。
体力が異常な程にすり減っている。
もうだめだと警鐘を鳴らしている。
歩「…あー………くそ…。」
意図せず暴言が漏れる。
不便な体に苛立ちすら覚えた。
普段はこんなことがないからこそ、
その異常にいらいらしてしまう。
体調が悪い。
もう否定する術はない。
不調、不調だ。
タイミングとはどうしてこうも
悪いのだろうか。
悪いことばかり重なるのだろう。
いつもそう。
いつもタイミングに任せるしかなく、
いつもタイミングに負かされてきた。
歩「…っ。」
座るにも辛くなってきたので、
いっそのことと思い
腕を投げ出しながら再度後方へ倒れてみる。
ぼふ。
頭が布に包まれる。
布団が迎え入れてくれた。
底は必ずあるというのに、
まるでそれは存在していないよう。
深く深くまで頭の重さで
どこまでも沈んでいけそうだ。
冷たくとも暖かくともない
最も寂れた布団へ。
過去、何かしらで見た言葉を思い出す。
Twitterだっただろうか。
誰にでも優しい人は
誰にも優しくないのと同じだと。
***
歩「…っ。」
ぐらり。
目覚めてすぐ上体を起こしてみれば
頭を左右から押さえつけられ
揺さぶられたかのような振動が伝わった。
地震かと刹那危惧するも、
そうではないらしい。
どうやら立ちくらみの類のようで、
視界が水彩絵の具を使った時のように
じんわりと広がっていった。
そして、だんだんと焦点はあっていき
いつもの視界へと元通り。
歩「…あっつ。」
熱でもあるのか、
耳鳴りも止まない上、
頭痛もするようになってきた。
腹痛ならまだ耐えれるものの、
頭痛はどうしようもないから嫌いだった。
それ以上に考えだとか悩みなんてものは
いつまでもそこに居続けるから
更に嫌いだった。
私が忘れるまで、または時間が経つまで
飽きることなく私を見据え続けるそれらには
反吐が出そうなほど。
空調の温度を設定するような物はなく、
本来快適であるだろう部屋は
今となっては灼熱のよう。
きっと、この部屋の温度は変わっていない。
異常なまでに自分が熱いのだ。
そう分かるほどに不調なのだ。
久しく味わっていなかった
酔うような感覚、
喉の奥に何かが詰まったまま
癒着してしまったような違和感。
全て、全てが気持ち悪い。
気づけば水を飲み干しており、
からのペットボトルが並んでいる。
乱雑にゴミ箱へと投げたあと、
今のうちに水は取っておいた方がいいだろうと
覚束ない足取りながら
壁に手をつき扉を開く。
すると、変わりなくリビングがある。
電気が消されているなんてこともなく、
数分前、数時間前と
何ら変化がない。
一体どれほどの時間が経たのか。
まるで竜宮城のようだなんて思った。
もしかしたら、ここから出た時には
同級生は皆80代かもしれない。
第3次戦争が起こった後かもしれない。
海なんて干からびているかも。
…なんて。
変な夢ばかり見過ぎたせいか。
普段であればなかなか夢は
見ない方だからこそ、
1度見た夢の雰囲気は
それとなく記憶している。
しているつもり、か。
もう殆どこの頭には残っていないんだから。
歩「…っ。」
1歩1歩が苦しいとまでは言わないが、
辛くないといえば嘘になる。
メモを見やることもなく
冷蔵庫へと一直進、
躊躇うことなく開いた。
すると、またトレーは上下に
ひとつずつ配膳されている。
しかし、固形物を体の中に
入れる気にはなれず、
結局水1本のみを片手に
暫く冷蔵庫の前に佇んだ。
ふんわりと香る冷気。
首元すらうっすらと冷やす微風。
足りないとは思ったけれど、
ないよりは随分とよかった。
ぺたり、と足裏が鳴いたことで
裸足のままだったことに気がつく。
1度シャワーを浴びたい。
気持ちが悪くて仕方がない。
どうしようもない。
無力感にのし掛かられて、
どうすることもできなかった。
バスタオルは持ち込んでいることを
ぎりぎりながら思い出し、
それに伸ばしかけた手を引っ込める。
すると、微風が生まれ、
それに感化されたのか
漸く冷蔵庫の扉を閉めた。
歩「…ふぅ…。」
この場で一口だけでも
水分をとっておこうと思ったときのこと。
か、と音が生まれたのが
耳に入ってしまった。
それと同時に、視界内に映っている
扉が開いたのだ。
どうしてこうもタイミングが悪いのか。
また自分の運の悪さを
呪うことしかできなくて。
美月「…!」
歩「…。」
視線を合わせることもせず、
私は自分の部屋ばかりを、
行き先だけを見つめて
何事もないように足を運んだ。
頭がぐらぐらしていることなど
一切あいつに見せないように。
もう2度と弱みなど見せないように。
そのような気持ちは
十二分に持っていた。
弱みを見せたから
私は裏切られたのだ。
私は弱い人間だ。
自分でそれが分かっているから
心を開かないようにしてきた。
弱くなったのは、
人を信頼出来なくなったのは、
関係を捨てるようになったのは紛れもなく…。
…。
…こいつとの過去のせいだった。
そのような過去がなくとも、
もしかしたら別の形で
人との関わりを絶っていたかもしれない。
別の人間に裏切られていたのかもしれない。
ただ、私の経験した事実は変わらない。
かもしれないなんて話、
無限に広げられるのだから
参照しようがない。
私は、こいつを恨んでいる。
恨んでいる。
そう思い続けている。
この感情を忘れてしまえば、
これまで私というものを象ってきた全てが
粉になって泡になって消えてしまう。
私である理由がなくなってしまう。
弱いんだ。
他人のせいにして自分を成り立たせなければ
自分のこれまでを否定することになるとしか
考えられないのだから。
歩「…っ!」
余計なことを考えすぎたらしい。
ふらりと壁に手をつき、
膝から崩れ落ちそうになった。
壁はやはり冷たくとも暖かくともなかった。
ああ。
無機物は優しくないんだ。
所詮、そんなものだと
頭では理解しているつもりなのに。
なのに日記を残して、
無機物を残してそれに満足して。
生きた証を残したいわけではない。
むしろいつ消えたっていいと
思っているほどだ。
一体何がしたいのだ。
一体…
美月「歩ねえ…っ!」
歩「…っざ…。」
駆け寄る足音がする。
すぐ背後まできているようにも聞こえるが
まだ距離はあるのかもしれない。
三半規管が正常に機能していないのか、
ぐわりぐわりと耳鳴りは酷くなる一方だった。
加えて、音の距離感覚まで
鈍く鈍くなっている。
歩「話しかけないで。」
美月「…っ。」
歩「…もう勘弁して。」
言葉尻は掠れ、まるで独り言のよう。
それは命令なのかお願いなのか
私にも判別出来なかった。
それからはほとりほとりと
自分から何かを削ぐようにして歩いた。
大切なものを捨てるように、
これまでの思い出を捨てるように。
でなければ、この苦味は
私のことを解いてくれそうにないから。
文字の泳ぐ部屋に入り、扉を閉める。
文字の海に足裏を浸す。
ひたすらに深海へと踏み出す。
1歩1歩、着実に歩んでいく。
通学路の風景を、
小学校の風景を、
°°°°°
美月「歩ねえ!今日こそはドッチボールしようよ!」
歩「え、でも…苦手だし…」
美月「大丈夫!コツ教えてあげるから!」
°°°°°
丘上の祠の風景を、
裏山の風景を、
°°°°°
美月「私は絶対ピアニストになるわ!」
歩「そっか、みーちゃんピアノ上手だもんね。」
美月「いつか聞いてほしいなー。」
歩「聞きたい!」
°°°°°
地区センターの風景を、
あいつの家での風景を、
°°°°°
美月「これね、私が飾り付けたの!」
歩「え、そうなの?」
美月「うん!こことか、ここらへんとか、あとこの辺も!」
歩「…綺麗だね。」
美月「でしょ!」
歩「うん。1番綺麗。」
美月「えっへへ。」
°°°°°
私の家での風景を。
°°°°°
歩「大丈夫、私の服貸すよ。」
美月「なんでここまでしてくれるの。」
歩「だって、みーちゃんが本当の友達だから。」
°°°°°
思い出たちを、今だけは抱えてあげられない。
抱えたくない。
今も抱きしめていたら
きっと更に、ここから出たくなくなる。
もう足を引かないでくれ。
過去へ、私を離してくれ。
歩「…お願い……。」
気持ちの悪い汗が吹き出して止まらない。
この部屋には体温計があったのを思い出すが
それよりもシャワーを浴びて眠ってしまいたい。
このまま横になりたかったが、
衣服が肌に密着する不快感には敵わなかった。
頭の中の拭えない不快感も募るばかり。
記憶力が良いわけではない。
なのに、忘れたくても忘れられないのだ。
全て全てが、脳に根を張り剥がれてれない、
剥がせない。
爪を立てて剥がそうとするものだから
周りにどんどん傷が増えていく。
そして膿が出ても
治ることなく跡が残ってしまう。
…。
残ってしまった。
恐れず放置しておけば
きっと後にならなかっただろうに。
その後はふらつくままに軽くシャワーを浴び、
すぐに横になった。
横になった途端、
奥の奥の奥から手が伸びてきて
そっと私の意識を引っこ抜かれた。
髪も乾かさないまま眠るのは
何年ぶりだろうか。
歩「…。」
最後に天井に流れる文字を
薄まる意識の中、視線でなぞった。
11月12日。
歩「……あ…。」
『暗い雰囲気、放っておけなかった。』
忘れるなよって
語りかけられているような感覚。
『感じたこと
辛かった。』
そのひと言だけ。
別に疲れてもいなかった筈のこの日だけが
たった1行、ひと言で済まされていたのだ。
歩「…。」
忘れたくても忘れられないことばっかだ。
…。
何がしたかったのかな、私。
***
ざあざあと雨が降っている。
それも大雨。
傘を差していたとしても
いつか穴が空いて
頭に降り掛かりそうなほど。
しかし、雷が鳴っているわけではなく、
感覚的な話なのだが、
これはただの局所的な雨だと確信していた。
ついてない、と不意に思ったのだから。
「……。」
誰かが前にいる。
3、4歩ほどの距離を隔てて、
あなたが前にいる。
けれど、傘を傾けているせいで、
大雨が降っているせいで、
あなたが俯いているせいで
顔がよく見えない。
どんな表情をしているのか分からない。
歩「いつの間にかなってるもんだと思うよ。幸せって。」
私が勝手に話している。
今回は第3者視点ではなく、
私が私としてここに立っているよう。
また夢…らしい。
これも目が覚めた時には
朝の日差しに充てられた埃のように
きらきらと数秒舞ったのちに
舞台を終えたかの如く
満足げに姿を消すのだ。
そして、私たちが思い出せないと
唸るさまを見てきっと
愉悦に浸っているだろう。
「ーーー…ーーーーーーーー…。」
歩「なれるよ。あんたが今まで頑張ってきてこの高校入ったのだってそう。」
「……。」
歩「もっと簡単なことでもいいと思うよ。」
「…ーー……ーー…。」
歩「ご飯が美味しい。空が綺麗。よく眠れた。沢山話せた。そんなのでもいいじゃん。」
そんなのでもいいじゃん。
私は肩をすくめて、
多分、笑った…のかな。
結局、あなたの顔は未だに見えないまま。
ここにはいないのかな。
顔が見えなければ、
あなたの真意を知れなければ、
きっとあなたはそこにいない。
知りたかった。
触れてみたいとさえ思った。
儚く、息を吹きかけただけで
消えていきそうなその声、姿。
私が見ているから、と安心させたかった。
しとしとと雨が浸透していき、
鞄の中身は愚か骨の髄にまで水が
染み出しているのが伝う。
伝った。
ああ、きっとこの道を見るに
下校する時…だろう。
高校の通学路であることが
やがてじんわりと認識できた。
歩「……あのさ。…私は」
「ごめん。」
咄嗟に。
私の話を遮るように、
震えた声で制した。
ただ単純に寒いだけではないようで、
何かに怯えているみたいで。
その人は、傘を差していなかった。
体を震わせ俯きながら、
私へと言葉を手渡していた。
唯一聞こえた言葉が謝罪だなんて。
ぎゅう、と胸が締め付けられた。
歩「それは、何に対して?」
「……ご、めん…。」
歩「……。」
「…………ご、め……な、さ………ぃっ…。」
歩「………。」
どうして謝るの。
私、何も。
…何も。
不意に、裏山での出来事が
心臓をそっとなぞった。
あの時とよく似ている。
雨が降っていて、そして謝罪の言葉を貰うの。
謝らないで。
私自身、意地張ってばかりで
なかなか謝れないけれど、
反省してないわけじゃないの。
後悔ばかりしているの。
馬鹿みたいにプライドに縋って生きてるの。
捨てることができないの。
下手くそなの。
私は。
…。
私は、何もされてない。
あなたは何もしてない。
間違ってない。
…。
間違ってないことにさせて。
私が余計なことをしただけだから。
…。
あいつとの出来事は、
あいつが私をいじめ出したのは
私のお節介のせいだ。
あの時、私の家に泊まろうなんて言わなければ
今頃こんなことにはなっていなかった。
私はただ、守っていたかっただけ。
それが裏目に出たのだ。
曲がって伝ってしまった。
その後話し合うことなく
お互い誤解をしたままに今日まで至った。
そんな経験があるんだ。
だから、ね。
お願い。
顔を上げて。
歩「私、わかってるよ。だから大丈夫。」
…こんな言葉、私が吐くわけないよ。
そうだよね。
所詮、夢なのだから。
***
歩「…。」
…。
…どこだっけ。
…。
知らない天井には何やら
黒い粒が流れている。
…。
あぁ、そうだ。
日記の流れる部屋にいたんだったか。
最早体を起こすことすら面倒
…いや、面倒というより体が重い、か。
歩「…。」
けれど、喉は乾いている。
きっともう少し時間が経てば
お腹だって空いてくるはずだ。
…。
夏バテとは大きく異なっている。
コロナでなければ良いけれど。
仕方ないと思考を改め、
ゆっくりと上体を起こした。
それから手元に転がるペットボトルを拾い上げ
結露しきり微々ながら水分が
手に引っ付くままに水を飲んだ。
ほとり。
ペットボトルの底の部分から
水滴が何粒か垂れてゆく。
布団にしみを作るものの、
これもきっとすぐに乾いて消えてゆく。
傷になる前に。
跡になる前に。
夢のように。
歩「…っ。」
気づけば水を飲み干していた。
しかし、寝ている間に
相当の汗をかいていたようで、
肌着が既にくっついている。
悪夢を見たというわけではないはずなのだが、
よっぽど不快ではあったよう。
歩「…。」
何の夢だったのか
もう欠片すら覚えていないけれど、
大切なものだったような気がした。
掬おうとしたのに、
指の隙間から全てすり抜けてしまい、
残ったのは水滴だけ。
それすら、時間が経てば乾いて
私から見つけることは出来なくなる。
掌を見てみれば、
何ら変わりのない、皺のある手だった。
生命線だとか何だとか、
占いにはあまり興味がなかったから
知識はほとんどない。
小学生の頃は親指の関節部分の皺が
目の形になっていれば霊感があると
教えてもらったものだ。
…。
…。
歩「…ふぅ。」
ひと息ついてから
足に力を入れて立ち上がる。
膝が笑っているよう。
かくりかくりとしており、
バランスを崩せば
すぐにでも倒れてしまうのでは
ないかと思うほど。
それもそのはず。
立ち上がった瞬間、
血の気がさぁっと引いていくのを感じ、
ふと前を見てみれば
視界は混ぜられたのか
歪みに歪んでしまって頼りにならなかった。
慌てて壁に手をつき、
それが治るまでじっと耐える。
頭が両方から締め付けられているような
圧迫感を感じた。
きぃん、と変わらず耳鳴りはしている。
急を感じたあまりに
額にはぽつぽつと
汗が噴き出ているのが嫌でも分かった。
とりあえず足を踏み出す。
時間を置いたからか、
視界の歪みは治まってきている。
大丈夫。
まだ歩ける。
体調が悪いと弱気になったり
鬱になったりするというが、
実際にあることなのだろう。
実感している。
病は気からではなく
体からなのだろうな。
泳ぐ文字たちは気味悪いものと思っていたが
今となっては三半規管を
狂わすものになっている。
平衡感覚を保てているのか、
それとも揺れているんだか
正確なものが分からない。
水をとってくるだけ。
そう腹を括り、足を運び続けて
扉を開いたのだ。
すると。
美月「…!」
歩「…っ。」
タイミングとはどうしてこうも
悪いものなのだろうか。
そいつは食事中だったようで、
トレーを前に食卓に座っていた。
口をつけていないのか、
箸も持たずに座っているだけ。
お皿の中身はぱっと見たところ
減ってなさそうだった。
考え事でもしていたのだろう。
歩「…。」
暴言を口にしたいところだったが、
それすら無駄なことのように思えた。
力を削がれる思いをしてまで
毒を吐く必要などない。
喋ることすら疲れるのだ。
そのままそいつには目もくれず
冷蔵庫へと歩いた。
大丈夫。
いつも通りの歩幅なはずだ。
なんら変わりないはずだ。
つま先まで変わらず
私であるはずだ。
そうであるはずなのだ。
ポーカーフェイスが得意というわけではない。
嫌だと思ったら嫌な顔をしてしまうし、
辛かったらそれ相応の顔はする。
ただ、嬉しいだとか楽しいだとかの感覚は
鈍ってしまったのかもしれない。
人との関わりを最小限にしているのだから
それもそうか。
当たり前か。
きっとそれらにまたあてられれば
この感性は変わってくるだろう。
人間なのだから、変わって当然だ。
いつからか、変わった。
私も、それからー
歩「…っ!?」
不意に視界が揺らぎ、
反射的に膝をつく。
顔面から倒れることは免れたものの、
視界が安定することはない。
歩「…は、ぁ…っ…。」
ああ、これ。
これ、良くない頭痛だ。
そう感じた途端、
私はー
***
美月「歩ねえっ!?」
彼女を目で捉えて数秒。
目を合わせないようにと
背けた瞬間のことだった。
大きな音がしたと思えば、
歩ねえは冷蔵庫に片手をついたまま
その場で蹲っていた。
未練があるように手をつき、
やがて上体が崩れると同時に
手は離れていった。
その事態に慌てて席を立ち、
彼女の元へ駆け寄った。
すると、ぎりぎりながら意識はあるのか
ふー、ふーと荒い息をしながら
私のことを睨むように見やる。
美月「…っ。」
何故だかぎょっとしてしまい、
伸ばしかけた手を止めた。
けれど、このままではだめだと
内心、自分に脅迫しながら
彼女に手を伸ばす。
てんかんか何かかと思ったのだが、
よくよく見てみれば顔が赤い。
元よりそうだったかと
脳内を巡ってみるのだが、
昨日の記憶を引っ張ってくるに
こんなにではなかったと辿り着く。
そっと額へと手を伸ばしてみれば、
肌に触れる前から
熱気が掌に伝わった。
熱が篭ることが擽ったくて
すぐさま手の甲を向ける。
歩「……っ………やめ…」
私の手を振り払おうとするものだから、
空いていた片手で
彼女の手を押さえた。
ほぼ力は入っていないようで、
最も簡単に避けることができた。
その間も鋭い視線を感じることから、
今なお睨んでいるであろうことは
想像に容易かった。
額に触れてみれば、
じわっと焼けるような感覚が伝う。
汗をかいているからか、
密着するようにも感じた。
美月「酷い熱…。」
歩「は…なせって。」
美月「すぐにベッドに行きましょう。」
歩「…うる、さ…」
美月「肩貸すわ。腕、少し引くわよ。」
歩「やめっ…。」
私も私でぎりぎりな思いをしているが、
きっと今は歩ねえの方が辛いはずだ。
歩ねえの腕を引きながら
食卓の上に置きっぱなしにされた
食事をちらと見る。
それどころではないじゃないか。
そう思い、軽くかぶりを振って
腹や足に力を入れた。
歩「…っ…。」
歩ねえは立てるものの、
だいぶ力を削がれているらしく
肩にはそれなりの負荷がかかった。
身長は同じくらいだったために
そこまで不便ではないだろう。
彼女は抵抗することすらしなくなり、
ただ項垂れるようになった。
疲れているから話しかけるなとさえ
言っているように感じる。
そう感じてしまう。
美月「部屋入るわよ、いいかしら。」
歩「………ぅ…。」
美月「ごめんなさい。入るわね。」
歩「……水…。」
美月「水ね。後で持ってくるわ。今は一旦横になりましょう。」
歩「…ぅ……。」
身長が同じくらいということもあり
あまり持ち上がらない。
このままだと腰をやってしまうまで
そう長くないだろう。
力が持たずに1度その場で下ろす。
歩ねえは息を止めていたのか
より浅く呼吸をしている気がした。
歩「……ぅー……ぅ…。」
美月「ごめん、ごめんね。…もう1回行くわよ。」
腕に、腹部に力を入れて
ほんの少しだけ頑張ればいいの。
腕がきりきりとなっている。
腰がじりじりと焼けている。
こんな苦しさ、きっと一瞬。
なのに長く長く感じられる。
たった数秒の事はまるで
10分はかかったように感じた。
いつもの刺すような言葉がないあたり
本格的に参っているよう。
首元に触れている腕すら
暑くてすぐに離したくなるほど。
けれど、ここで離しちゃいけない。
歩ねえのことを放っておいてはいけない。
肩を回した腕の手首を
痛くないように出来る限りしっかり握った。
離さないよう。
もう間違えないよう、と。
そのまま食事も全て放置して
歩ねえのいた部屋へと向かう。
辿々しい足取りだが
歩いてくれるのは大変ありがたかった。
1人では運ぶことができなかっただろうから。
それほどの力はないことくらい
自分でわかっている。
空いた手で扉を開く。
ドアノブはやけに冷えている気がした。
きっと近くにいる歩ねえが
とんでもなく暑いから
相対的に冷たく感じるのかもしれない。
美月「…?」
部屋に入った途端、
随分と白い部屋がそこにはあった。
白い廊下がただただ迎え入れてくれるものの
何故か歓迎されている気はしない。
圧迫感さえ感じる始末。
怖気付いていても仕方がない。
そう心の中で唱え、
部屋の更に奥へと進むと。
美月「…っ!?」
そこには、異常な空間が広がっていた。
真っ白な中に黒い粒々が広がっている。
規則があるのかは知らないが
ゆっくりと流れていくそれらを見ていると
妙に気持ちが悪くなってしまう。
乗り物酔いと同じようなものだろうか。
部屋の奥には棚と扉、
そして敷布団が見えた。
こんな何もない部屋で
彼女は一体何をしていたのか。
想像したくない気で溢れ、
目を逸らすようにその部屋から出た。
こんなところにいたら
気がおかしくなってしまう。
歩「…は………?」
美月「反対側の部屋に行きましょう。無理させてごめんなさい。」
歩「や………」
美月「…あと少し、頑張って。」
1歩1歩踏み出して
なんとか私のいた部屋まで辿り着く。
その間にもきりきりと腕から全てにまで
響くような感覚が続いていた。
ベッドにまでたどり着き、
彼女から離れた時
体内の縮みが戻ったような、
解き放たれたような感覚に襲われた。
そこから抜け出すために、
不意に思い出したことを、
歩ねえが水を求めていたことを思い出し
すぐさまリビングへと走った。
冷えたペットボトルを手に
リビングをぐるりと見回した。
リビングに何かしら…
体温計や冷えピタと言ったものは
なかっただろうか。
私のいる部屋に入った基本的に
本以外のものがほぼなかったから
望みは薄いだろうけれど。
食卓の上にはまだ
手のつけられていない食事が
そのままにしてあった。
あのままで、相当な時間を過ごした。
それも、お腹が空かなかったのだ。
時計がないために
正確な時間はもちろん分からない。
本を読み、それとなく時間を計り、
周期的にこのリビングを訪れた。
その度に自覚した。
喉が渇いている、と。
それは水では満たされないものだと
私は十二分に分かっていた。
理解していた。
これほどまでに期間が開くのは
久々が故に怖かった。
トマトジュースもなければ
生肉のドリップすらない。
もちろんだが新鮮な血液が
置いてあるわけでもない。
限界が近い。
胃の底がふつふつとしている。
その感覚が嫌い。
煮えたぎるような苦しみに
耐えるしかないのだ。
ひとつ言うなれば、
彼女が倒れた際に怪我をしていなくて
よかったということだ。
勿論安全でよかったという意味合いでもあるが、
1番は私が正気のままでいられることに
安堵していたのだ。
いつまでも主体だから
見失うものが多いのだと
どれほど学んでも忘れてしまう。
°°°°°
美月「酷い熱…。」
歩「は…なせって。」
美月「すぐにベッドに行きましょう。」
歩「…うる、さ…」
美月「肩貸すわ。腕、少し引くわよ。」
歩「やめっ…。」
°°°°°
美月「…。」
余計なことをしているのだろうか。
彼女にとって嫌なことを
してしまっているのだろうか。
°°°°°
美月「…帰らなきゃ。」
歩「え。」
美月「門限…」
歩「でも帰りたくないんでしょ…?」
美月「…。」
歩「ちょっと待ってて。」
美月「…?」
---
歩「みーちゃん!」
美月「何?」
歩「今日、泊まってもいいって!」
美月「え、泊まっ…?」
歩「そう!お泊まり会しようよ。」
美月「でも私…何も持ってきてないし、それに…」
歩「帰りたくないんでしょ?」
美月「…!」
歩「大丈夫、私の服貸すよ。」
美月「なんでここまでしてくれるの。」
歩「だって、みーちゃんが本当の友達だから。」
---
美月「大丈夫!」
歩「…。」
美月「歩ねえ、やっぱり今日帰るね。」
歩「みーちゃん、待って。」
---
歩「待ってよ、待って!」
美月「…っ。」
---
歩「待っ」
歩ねえのママ「夜だからあんまり大声を」
歩「みーちゃん、帰るの嫌がってたんです!みーちゃん、怪我してたんです!」
美月「…。」
歩「だから、だから1日くらい」
美月「歩ねえ。」
歩「…っ。」
美月「また学校で!」
---
「雛さんもなんかされたことないの?」
美月「私?」
「そー。なんか勝手に決められてうざかったこととかないの?」
美月「…。」
ムカつくこと。
なかったと思っていた。
楽しく話していたし、
秘密基地だって楽しかったし…。
あ。
ひとつ。
ひとつだけあった。
お泊まり会をしようと言ったこと。
門限を破ったこと。
あれは元はと言えば
歩ねえのせいではないか。
無理にママから引き剥がそうとした結果
私は更なる被害を被ったのだ。
美月「あるよ。」
「まじ?やっぱり?」
「ねーねー、雛さんちょっと手伝って欲しいことがあるの。」
美月「手伝い?」
「うん。楽しいよ!」
「いーねいーね、仲間入りだぁ。」
°°°°°
あの頃の私は子供だった。
子供過ぎた。
きっとあれは好意だった。
けれど、私はそれを…。
°°°°°
美月「待ったわよ。」
波流「…うん、そうだよね。」
美月「お願い、早く。」
波流「ねぇ、美月ちゃん。」
美月「何よ。」
波流「…私からこう…吸血の提案はしたよ。凌ぐためにさ。」
美月「後でいい話なら後にしてちょうだい。」
波流「…1回摂取しないと話せそうにない?」
美月「波流。」
°°°°°
美月「…っ。」
ぎっ、と手元のペットボトルが鳴いた。
力を込め過ぎてしまったらしい。
思い出はこれだけではない。
いいものもある。
しかし、辛いものばかりを
多く反芻してしまうせいで
色濃く残ってゆくのだ。
いつまでも私は自分本位で動いているのだと
再認識せざるを得なかった。
ペットボトルは一部凹んでしまったが
すぐに戻ってゆく。
私と歩ねえの関係も
このように簡単に戻ればよかったのに。
苦い思いをしながらも部屋に戻り、
出来る限り苦いものを今だけは
抜け落とすようにと考えた。
今だけだ。
今はもっと優先すべきことがあるから。
歩「…。」
歩ねえは既に疲れ切ったのか
瞼を閉じて眠ってしまっていた。
水が欲しいと言っていたが
大丈夫なのだろうか。
ただ、揺さぶって起こすのも気が引けたので、
保冷剤がわりとして扱うことにした。
水なら大量にあったので
その都度冷えたものを持ってこればいいだろう。
冷えたペットボトルをタオルに包み、
脇の下へと挟む。
歩「…………ぅ…。」
嫌そうに身を捩っていたが目を開いておらず
少しもどかしそうに動いたのち
やがて寝息を立てるようになった。
そんな彼女をそっと見つめるだけ。
今になって漸く
彼女が2つ年上であることを実感する。
寝顔は幼げがあるものの
幾分も大人びたものになった。
私の知らない、あなたの顔。
いつまでも見つめていては
眠っていたとしても気が滅入るだろう。
そう思い、絨毯に置かれた
クッションに腰をかけて
本の山を見やった。
ここにある本は全て
私の家にあるものだった。
納戸にあるもの、現在私の部屋に
あったであろうもの全てが
この部屋に詰め込まれていたのだ。
このことに気づいてまず
1番最初に行ったのは
とある本を探すことだった。
それは、まるで本と本の間に隠れ
まるで見つかりたくなかったかのように
下の方に寝転がっていて。
山の中から本を1冊取り出す。
表紙を撫でると、古いものなのか
ざらついた感覚が指先を撫でる。
優先すべきことがあるから。
だから、今だけは忘れて、
はじめからのように
歩ねえに接してもいいだろう。
許されるだろう。
…。
美月「…許して…なんて言えないわよ。」
許してほしいだなんて
我儘にも程がある。
全てが今更なのかもしれない。
それでも…欲を言ってもいいなら
全てをやり直したかった。
エルマーのぼうけん。
手中には思い出が眠っていた。
その本を開くことなく
大事に大事に壁に立てかけ、
別の本を手にしたのだった。
***
歩「………。」
美月「…。」
これほど気まずい事が
今までにあっただろうか。
出れないままの家。
まだ彼女が眠っているからいいものの
ワンルームでなくてよかったと
安堵の息を漏らした。
時間を潰すために本を読み、
彼女は…歩ねえは只管横になっていた。
体が痛くならないのだろうか。
些か疑問に思うも熱があるのだから
仕方がないのだ。
歩「…。」
美月「…。」
歩「…。」
美月「…2人で過ごすの、いつぶりかしらね。」
歩「…。」
眠っているのだから
返事なんてなくて当然だと思って
話しかけている私がいる。
それどころか、起きていたとしても
返事なんてないだろうと思っていた。
…悲しい事、なのだろうか。
期待せずに話しかけるって。
それとも失礼なのか。
彼女に対して、失礼なのだろうか。
美月「……何年越しかしら。」
歩「…。」
美月「………答える気になんてならないわよね。」
歩「…。」
顔の表情なんて微塵も窺えない。
そう思ったら途端に心が軽くなる。
顔が見えなくたっていい。
見えなくたって歩ねえは
そこにいるのだから。
…。
歩ねえはとっくに知っているだろうけれど
薄情なの、私。
伝える気がないもの。
面と向かって言う勇気がないの。
美月「………ごめんなさい…。」
歩「…。」
美月「…っ。」
呟くように、落とすように
声を放るも届かない。
届いたのか視認できない。
あの時さえ、あの雨の中でさえ
目を見て伝えることはできていない。
私はただ泣きながら
喚いていただけだ。
謝る気持ちがあったのか
私でさえ不明瞭のまま。
何かを伝えなきゃと思った結果
あの言葉だったのかもしれない。
歩ねえの事が分からない。
分からない。
分からなかった。
今のあなたは不透明だった。
昔はそんな事あったっけ。
分からないなんて事あったかしら。
…そんな事…なかった気がする。
いつも一緒にいて、
一緒にいるのが楽しくて。
隣にはいつも歩ねえがいた。
…隣……。
いつしか、私が上になっていて
彼女が下になっていた。
だからあのいじめは起こってしまったのだ。
今では、上下すらなくなり
隔絶された空間でお互いの価値観を
築いていった。
そこに、お互いは関係することなく。
しかし、お互い過去に縛られたままに。
美月「…。」
歩「…。」
美月「…。」
ページを捲るももう内容は入ってこない。
回想に耽り意味もなく読んでるふりを
かましているだけ。
途中まで面白かった本なのに
急に内容が分からなくなっちゃったの。
美月「…。」
歩「……こ、こに来たら…。」
美月「……っ!?」
歩「……消えれる………って…。」
美月「…。」
聞いてるふりをすべきか迷ったけれど
歩ねえの言ってる事がいまいち分からなくて
本を開いたまま聞き入ってしまう。
こっちへころんと寝返りを打つこともなく
独り言を放つ。
まるで、私のように。
悪夢でも見ているのだろうか。
寝言だろうか。
消えれると。
…そう思っていた、ということだろうか。
それは何を示しているの。
何を考えてそう言ったの。
何で。
美月「…どうしてそう思ったのよ。」
歩「……。」
美月「…。」
寝言に返事をするのは
よくないとされているが、
それでも聞かずにはいられなかった。
私も私でおかしくなってきているのだろう。
話して気を紛らわせなければ
すぐにでも彼女の指先を
切ってしまいそうだった。
この部屋には、本に隠されて唯一
カッターが見つかったのだ。
それは、私が持っていたものに
随分と酷似している。
酷似どころかきっと同じものだろう。
それは、また本の山の奥底へと
隠したのだけれど、
認知してしまった以上
気になって仕方がないのだ。
気を逸らせ。
逸らせ。
そのために他の事を考えよう。
考えて。
もしかしたら寝言ではなかったかもなんて
思い始めてきた。
そう思うとそうとしか思えなくなってきて、
ちらと彼女の方を向くと
壁を向いて縮こまりながら
寝転がっている姿が見えた。
脇に挟んでいたペットボトルは
自由に遊び回った後のように
別の場所に転がっている。
美月「…寝てるの?」
歩「…。」
美月「……。」
その返事はなきままに5分は経っただろう。
きっとあれは、あの言葉は
寝言だったに違いない。
本当に眠っているかどうか
確認なんてしなくて良い。
もし起きていたらとてつもなく
嫌がるに決まっているから。
美月「…。」
嫌な顔をするの。
本人の前で、露骨に。
けれどそうされても仕方のない事を
私は過去にしてしまったのだから
これが罰というのなら
私は甘んじて受けよう。
仕方ない。
恨むべきは彼女ではなく
私自身の過去だ。
私の軽率な行動だ。
美月「……っ。」
歩「…。」
本の間にそこらにあった
綺麗なティッシュを挟み
足に力を入れる。
暫く運動していない気がした。
ずっと部屋の中だもの。
習い事も部活もなく本を読み漁るだけの
大変つまらなくてとても理想の日々。
人生の休暇。
足へと一気に血が巡りだすのが分かると
私は直立していたんだと理解する。
私の見込みでは
既に4日は経ている。
この喉の渇き具合、
本を読んでいる具合から
そのような計算になっている。
しかし、眠っている時間は特に
時間を推測することは難しい。
あくまで推測の範囲なのだ。
確実に言えるのは
1日は日を跨いでいるということ。
出来るだけ足音を鳴らさないように
彼女の付近まで行く。
確認なんてしなくて良い。
する意味なんてない。
したってあるのは不利益だけ。
そう分かっていても気になってしまった。
それから、自分の今の体質を呪った。
少しだけでも切れば
鮮血が溢れてくるのだから。
それを想像してしまってからずっと
口内では唾液の分泌が活性化している。
美月「…。」
歩「…。」
美月「…ねぇ。」
歩「……。」
歩ねえは返事をしてくれない。
眠っているのだから当たり前。
当たり前。
だが、とんでもなく不安になり
思わず顔を覗き込んでしまう。
すると膝を曲げ背中を丸め、
まるで何かから怯えているように眠る
彼女の顔が見えた。
眉間に皺を寄せていかにも
嫌がっているような表情だった。
そう、嫌がっているような。
美月「……そう、よね…。」
自己完結だろうか。
歩ねえにとって私は邪魔な存在で
2度とは会いたくなかった存在だろう。
世界一恨んで呪っているだろう。
なのに、助けてくれた。
あの雨の中、傘を投げ捨ててまで
私に血を与えてくれた。
それでも私は面と向かって
謝りに行けなかった。
行かなかった。
そして今、欲に溺れかけている。
そんな人間と1週間弱も狭い部屋の中で
閉じ籠りなんだもの。
それは。
美月「……嫌よね…。」
私は今まで歩ねえに避けられているのは
貴方の器が小さいからだなんて
決めつけているところもあった。
過去のことなんて忘れて
今のことに必死になれば良いのに、と。
けどそんなの違った。
過去から目を背け続けている私が
いけなかったのよね。
それに気づかず愚かに1番1番って
ほんと馬鹿みたい。
美月「………っ。」
もう1度。
もう1度やり直せるなら
私はやり直したい。
もう1度ごめんなさいをあなたに、
歩ねえに言おうとした時。
歩「…っ。」
美月「…!」
歩「…………なに…。」
うっすらと目を開けて怪訝そうに
私のことを見上げる歩ねえ。
何でここにいるんだと言わんばかりの視線に
耐えられなくなって目を背けてしまう。
美月「別に、何でもないわ。」
歩「……………邪魔…。」
美月「…っ。」
寝起きだからか酷く掠れた声にさえ
嫌悪は満ちるほどに込められていた。
いつかは話し合いをしたい。
あの日々のことを謝りたい。
けれど今は無理そうだと悟って、
悟らずとも諦めて私は
彼女から音もなく去った。
先ほどの場所へと
早く戻ってまた本の世界へ逃げよう。
逃避行の旅に出ようと。
現実から背中を向け続けようとした時の事。
ばたばたと棚から本が落ちるような音がした。
美月「ひゃっ…!?」
急な事で驚いてしまい変な声が出る。
とてつもなく上擦った声。
上擦りすぎて声が掠れた。
先程の歩ねえが想起されるも
忘れようと努力した。
美月「もう…なんなのよ。」
愚痴をこぼしながら
本を片付けるのは面倒だと
思いつつ振り返った。
…のだが。
本は散っていなかった。
ただしお手伝いさんが家にいる
なんてわけでも勿論ない。
そこにあったのは。
否。
そこにいたのは
ベッドの下で倒れ込む
歩ねえの姿だった。
美月「…歩ねえ……?」
寝ぼけて立ったら転けたか。
夢遊病…とかなにやらにでも
なっているのか。
彼女の普段の生活など微塵も知らない為
これが日常なのかすら判別がつかない。
慌てて近づくものの
歩ねえは小さく唸って動いてくれない。
うつ伏せで倒れこんでいるから
後頭部からぶつけたわけではなさそうだけど。
美月「歩ねえ!」
後頭部からぶつけたわけではないとは言え
さっきの大きい音は脳内に記憶されている。
相当な衝撃だったに違いない。
彼女の元にまで寄って
しゃがんでほんの少し観察するに
ちゃんと息はしている様子。
髪が顔全体にかかってしまって
また表情は見えないままだが
微かに口元が動いているような気がする。
音がない部屋なものだから
歩ねえの荒い息遣いも鮮明に聞こえた。
歩「……み…………ぅ…。」
美月「…水…?水…が欲しいのかしら?」
歩「…。」
歩ねえはさらに小さく丸まるだけ。
私に触れられるなんて
ただでさえ嫌だろうから
そう揺さぶりながら声をかけるも
苦しそうに顔を顰めるだけで
一向に動いてくれない。
これは無理にでも先ほどのように
移動するしかないらしい。
ただの熱ならまだマシだけれど
新型コロナウィルス感染症だったり
また別の何か病気だったり
したらどうしよう。
…それと。
美月「…無意識のうちに私が噛んでしまった…なんて事ないわよね…?」
さあっと血の気が引くのを感じた。
その可能性が否定できない。
否定してくれる人がいない。
不安、不安不安。
どうしよう。
もし歩ねえを私と
同じ目に合わせてしまったらどうしよう。
あんな苦しい思いを幼少期にさせて
今度は私が辛かったことを
歩ねえにまで擦りつけていたらどうしよう。
そんな仕打ちをしていたら。
もしもが浮かんでは
脳を程よく支配していく。
その様は水に墨汁を落としたよう。
思考はまとまらないけれど
一先ずベッドに戻そうと
腕を肩へ持っていく。
腕を上げるだけでかなり重い。
人間なんだって嫌でも分からせてくる。
また、認識するのだ。
歩「………ぃ…や…。」
美月「我慢して、お願い。」
歩「………嫌だ、って…。」
美月「…っ。」
声に覇気がない。
もう死ぬ直前なのかと見紛う程に
浅い息遣いに熱い手足。
歩ねえ。
お願い、消えないで。
…長束先輩が消えたという前例から
きっとこの不可解に呑まれたら
行方不明になれる、
消えれると考えたのかな。
消え、たかったのかな。
辛そうな息遣い。
辛そう。
私は昔この顔に
気づいてあげれなかった。
そんな回想はどうでもいい。
今は今の歩ねえに向かってあげなきゃ。
歩「………は……な…して…。」
美月「駄目よ。ベッドまで戻すから。」
歩「…水っ…。」
美月「冷たい水、すぐに持ってくるわ。」
歩「……さ…わんな…。」
美月「触るのは今だけ我慢して。行くわよ、せーのっ。」
歩ねえの力が入ってるんだか
入っていないんだかわからない体は
妙に重く感じた。
口ではぎりぎり反抗できるものの
体を動かすまでには至らないらしく、
思っている以上にすんなりと
戻ってくれた。
ベッドへと再度寝転がせた後、
緩くなったペットボトルを集めて持ち、
リビングへと向かおうとした。
美月「待ってて。」
歩ねえを珍しく直視してそう残した。
それから彼女の要望でもあった
水を取りに行こうとしたその瞬間。
袖が何かに引っかかったのか
腕に突っ張りを感じた。
何なのか確認する前に
何が答えか教えてくれたの。
歩「……待、って…。」
さっきよりも明らかに声を張り
明らかに滑舌を良くしようという
努力がみられる。
伝えようとしてる姿勢が伝わる。
美月「……今から水を取ってくるわ。だから少し」
歩「待って!」
美月「…!」
歩「………嫌…。」
美月「…何で。」
歩「………。」
美月「…っ…。」
かすかすな声で何を言うの。
彼女の袖を掴む力がきゅっと強まる。
胸の奥が鷲掴まれたみたいに
酷く酷く痛む。
急に声を荒げたと思えば
儚く消え入るように小さく。
本当に歩ねえ自身なのか
疑いたくなるような言葉。
私は耳を疑わずにはいられなかった。
美月「……歩ねえ…。」
歩「…戻ったら…いや……。」
これが歩ねえの本性だったの?
本心だったの?
歩ねえはずっとこういう風に
考えていたの?
すると私は今まで大きな間違いを
ずっと知らずのうちに重ねていたの?
歩ねえはずっと気づいてと言いながら
私に毒を吐いていたの?
この行動の意味が理解出来なくて
暫く返す言葉もなく固まってしまう。
袖を振り払うなんて事も出来ずに
固まってしまうの。
消えてしまいそう。
他人事のようにそう思ってしまう。
明日、否、たった今にでも
彼女はいなくなってしまうんじゃなかろうか。
とりあえず寝てもらわなければ。
歩ねえの体調が心配だ。
そう思って何とか言葉を紡ぎ出す。
私の言葉さえ覚束ない。
唇ってこんな風に震えるんだって今更知った。
美月「そんな事言ったって」
歩「あんな家、に…なんて…戻らなくていい…。」
美月「…っ!?」
歩「逃げて……いぃ……。」
途切れ途切れ。
歩ねえは、そう微かな声を私に。
…私に、ではないか。
過去の雛美月に言っていた。
歩ねえ。
歩ねえはほんとに馬鹿。
馬鹿馬鹿、馬鹿。
何で今になってまたそんな事を言うの。
あなたはこんなにも辛い状況で
言わなきゃいけない事なの?
…。
熱のせいなのよね。
そうよね。
そうよ、違いない。
…。
違いない。
°°°°°
美月「や、やめてよ!ママを殴らないでよ!」
ママ「美月…。」
パパ「ったく…美月、いいかい。パパとママは大切な話をしてるんだ。」
美月「話し合いじゃなかったでしょ。」
パパ「いい子だからもう寝ておいで。」
美月「嫌。」
パパ「…。」
美月「ママが嫌がってるんだからやめ」
パパ「うるさいな。」
°°°°°
違いない。
°°°°°
歩「待ってよ、待って!」
美月「…っ。」
---
歩「待っ」
歩ねえのママ「夜だからあんまり大声を」
歩「みーちゃん、帰るの嫌がってたんです!みーちゃん、怪我してたんです!」
美月「…。」
歩「だから、だから1日くらい」
美月「歩ねえ。」
歩「…っ。」
美月「また学校で!」
°°°°°
あなたは幼ながらにあの時、
何を察してしまったの。
何で話してないのに知ってるの。
何でわかってるの。
分かったように話していたの。
私は歩ねえのこと何にも知らないのに。
どうして歩ねえは私を見ているの。
歩「だ…から……。」
美月「…もう寝て。」
歩「…っ……。」
美月「…ゆっくり休んでちょうだい。」
歩「…。」
美月「…お願いだから。」
お願いだから、もう。
もう、休んで。
きっと歩ねえは
…いや、歩ねえも私と一緒で
ずっと苦しめられてきたのね。
歩ねえは少しばかり
私よりも自由に縛られず
生きているのではないかと
思っている節があった。
けれどそれは大間違い。
私よりもきっと重いものを
知らずのうちに背負って
今の今まで生きている。
あの日、私を泊めようとしたことを
後悔し続けているのかもしれない。
美月「…。」
あれは、私を助けるため。
…。
助けるためだったのだろう。
好意だった。
私は、私は子供過ぎた。
いつまでもいつまでも
敵意を抱いてしまっていた。
申し訳なさだと名づけながらも
どこか反感を抱いていた。
それが溶けて存在を消したのは
雨の日、血をもらった時だった。
…。
遅いよね。
何もかも…。
美月「……おやすみなさい。」
既に目を閉じていた彼女に
鈍く言葉の雨粒を流した。
***
あれから1食分程の周期を経て
本を読んでいた。
本を読んでいるのには
時間を計測する、暇を潰すため
という理由は勿論あった。
しかし、それ以上に
この飢えを紛らわせるためだった。
そうしていなければ
どうにかなってしまいそうで。
この対策にもそろそろ限界がきているよう。
文章の内容が何ひとつ
入ってこなくなってきた。
面白いとすら思えなくなり、
段々と頁を巡る手が止まりつつある。
美月「…。」
1度天を仰いでは
どうにかこの違和感を離してやろうと
水を数口分含む。
しかし、水でどうにかなる問題ではなく、
海水を飲んでしまった時のように
後にどんどんと苦しさが増すのみ。
美月「…………ふー……。」
長めに息を吐くことで
腹式呼吸をしていたのだと気づく。
暫く動かしていないこの体は
とっくに鈍り切っているだろうな。
もう1度天井を眺む。
そういえば、歩ねえの部屋は
何故あのような異物感で
溢れていたのだろう。
私の部屋は本ばかり。
今の生活に準えている。
もし、私と同じ基準で考えていいのだとしたら
あれは一体なんだったのだろう。
もし、各々が縛られているものだとしたら。
そんなことを考えては巡っていった。
そう考える間も無く
すぐに腹部への違和感に
気が向いて行くのだった。
どうすればいいのだか
私にはわからない。
渇望している。
喉を潤わせたい。
…。
歩ねえを怪我させたくない。
迷惑をかけたくない。
もう、これ以上
私の都合で振り回したくない。
美月「…ゔー…ぅ…。」
ああ。
限界が近い。
よろけながらその場を離れ
本に埋もれた金属を探した。
道中、ばたばたと本の倒れる音が
僅かながらしたものの、
今となっては気にする気も起きない。
粗末に扱っていることは
勿論胸が痛む。
普段なら、と付け加えておこう。
本に埋もれたカッターを手に取った時、
不意に歩ねえの方を確認した。
彼女はまだ眠っているらしく、
ベッドの上で毛布にくるまっている。
暑かったはずだが、
汗をかいて冷えたのだろう。
美月「…歩…ね……。」
このカッターを
彼女の指に少しだけ。
少しだけ食い込ませれば
私の求めていたものが、そこに。
私、歩ねえの隣にいたかった。
これだけは本当よ。
あなたの1番でありたかった。
小学生の頃に初めて会って、
それから大人になってもずっと
仲良しでいるんだって信じて止まなかったの。
お互い結婚して距離が離れても、
時々集まって食事に行ったりね。
そして思い出話に花を咲かせる。
そんな未来を見てたわ。
今でもそうありたいと思ってしまう。
希望ばかり描いている。
夢を見たいだけね、そんなの。
徐に歩ねえの近くに寄っては
ベッドの麓に座った。
勿論切る意図はない。
勿論。
だが、正気ではない分
どうしてもうずうずとしてしまう。
これをすれば解決する。
苦しくない。
この苦しみも終わる。
終わる。
…。
一時的に、でしかないけれど。
美月「…。」
歩ねえを前にして
自分の手を見つめた。
カッターを持った手、何もない手。
それから、ゆっくりとカッターを
自分の指先へと向け、
やがて突きつけた。
前にもこうしたことがあったっけ。
まずいことは知っている。
自分の血は泥のように
不味くて不味くて仕方がない。
そして腹は満たされない。
痛み損ではないか?
これをして何になる。
気を紛らわせることはできるだろう。
だが、紛らわせるだけ。
状況は変わらない。
ここを出るまで変わらないのだ。
美月「…ぅ……。」
変わらず、このまま。
あの裏山にある秘密基地が脳裏をよぎった。
私の思い出の場所で過ごした3日間のことが。
その時だった。
歩ねえがふと寝返りを打ち、
今まで背を向けていたのにも関わらず
こちらを向いたのだ。
そして。
美月「…っ!」
歩「…。」
ばっちりと目が合ってしまった。
元から起きていたのか知らないが、
寝ぼけてはいなさそう。
瞳孔も揺れていることはないようで
先ほどよりは随分と快方へと
向かっているらしい。
歩ねえは私のことをじっと見つめていた。
何かをいうこともなく、
ただ、黙ったままに。
私の手にはカッターが握られている。
それを理解した瞬間、
自分の中で恐ろしい何かを感じた。
切られる、と思ってあるのではないだろうか。
眠っている間に怪我させられると
思っているのではないだろうか。
この状況、否定は出来ない。
現にその考えだって浮かんだのだ。
ここで言い訳したとしても
彼女の目には醜く映るだけだ。
それならいっそ、勘違いされたままでいい。
…それが、今の私たちの間に
軋轢が生まれている理由ではないか?
歩「…。」
俯いた時だった。
ぽす、と布団の擦れる音を耳にし、
恐る恐る顔を上げた。
すると、ベッドから片手がはみ出ている。
掌を力なくこちらに向けている
彼女の姿があったのだ。
美月「…………ぇ…?」
歩「…。」
美月「…私が何しようとしているかわかってるの?」
歩「…。」
ぐい、と手を更にこちら側へと
伸ばしてくるだけ。
言葉は、私を、私たちを縛った。
それをなしにしたら、
私たちには何が残っただろう。
後悔は削げ落ちていただろうか。
1度カッターを手から落とし、
そっとその手を掴んだ。
暖かい。
暖かかった。
人の温もりだ。
人の。
大好きな人の。
歩ねえの。
歩ねえは顔だけを
反対側へと向けてしまったが、
手をしまうことはしなかった。
力を入れることも
振り払うことすらしなかった。
これは、単に元気がないだけでない。
先程は元気がなくたって
体調が悪くたって悪意を口にし
態度に表していたのだから。
違う。
違うのだ。
私を一部だけ許してくれている証拠なのだ。
今だけは、許してくれているのだ。
美月「…歩ねえ…。」
なら、この好意を無碍にするのは
私としてはしたくない。
それに、このままでいたとしても
改善はしないのだ。
そっと手を離してからタオルを手に
再度戻ってくる。
それから温もりの抜けないカッターを持ち、
歩ねえの手をとった。
直接血に口をつけることは
もう何週間もしていない。
その習慣はなくなった。
なくなっていた。
多くのことを実践して、
より多くのことを間違ってきた。
間違えたくない。
…。
あなたとの関係を、
はじめからやり直したい。
美月「…ありがとう、歩ねえ。」
人差し指の腹は不便だろうから、
側面に近い部分を少しだけ切る。
すると、じんわりと血が滲んできた。
血の出るスピードは遅く
絞ってしまいたいところだが、
これ以上深く傷つけることも
絞って痛めつけるようなこともしたくなくて
ただタオルで押さえてその時を待った。
下に染みず、タオルの表面を
少しばかり濡らすほどの血でしかないけれど、
それが随分と愛おしく見える。
それを、思う存分吸うのだ。
できれば飲めるほど欲しかったのだが
そんなことは言ってられない。
美味しい。
美味しい。
…。
…美味しい。
生きてる。
私、生きてるのね。
その美味しさのあまり涙が溢れそうだった。
ずっとこの香りに縋って居たいほど
今の私は飢えていた。
考えないようにしていただけで
相当な段階まで進んでいたらしい。
やはり、自分のことを見つめるのは苦手だ。
美月「ありがとう…ぁり…がと…っ。」
タオルを抱きしめ、
そっと歩ねえの手を握り伝えた。
伝わっているかは分からない。
けど、2人で話したのは
久しぶりすぎるものだから
擽ったくて仕方がない。
触れるのだって、何年ぶり。
°°°°°
美月「私も歩ねえの夢応援してるよ!頑張れー!」
歩「ありがとう、みーちゃん!」
°°°°°
思い出した。
私、歩ねえの笑う顔が大好きだった。
***
それから少し経て、
漸くタオルを手放せるようになってきた。
本当ならばもっと長い時間
吸っていたかったのだけれど、
キリがないことに気づいてから
深く呼吸してタオルを床に置いた。
けど、歩ねえの手は握ったまま。
中途、傷口に絆創膏を貼り
申し訳程度の処置はした。
美月「…ありがとう、歩ねえ。」
歩「…。」
何度目かのお礼を口にする。
けれど、返事はなかった。
何も言わないという意思表示は
私と話したくなんてない
ということかもしれない。
それでも私は伝えたかった。
間違えないように、と。
美月「…私、小さい頃のこと、勘違いしてたの。」
歩「…。」
美月「前に私が帰りたくないって駄々こねて、それで歩ねえの家に泊めてもらいかけた時あったじゃない?」
歩「…。」
美月「…あの後、まあ…想像通り色々あったわ。家庭内でね。」
歩「…。」
美月「それを危惧して泊まっていいよって言ってくれたのは、わかっているつもりだった。」
歩「…。」
美月「けど、時間が経つ毎にあれさえなければなんて思うことが増えたの。歩ねえのせいだって。」
歩「…。」
美月「…そのタイミングで歩ねえに対して不満がないかって上級生に誘われて、それで…。」
歩「…。」
美月「それで、私は許されないことをしたわ。」
歩「…。」
°°°°°
私は考えることをせず、
流されるままに手伝いをした。
初めは歩ねえに対して
小さな嫌がらせをする程度だった。
靴を隠したり、ロッカーのものを
他の人の机の上に置いたり。
それは次第にエスカレートしていき、
直接水を浴びせたりだとか
暴言を吐いたり、
所有物に暴言の書かれたメモ帳や紙を
ぺたぺたと貼りこんだり。
私も初めは躊躇ったが、
段々と日頃の鬱憤を晴らせるようで
楽しくなって行った。
快楽に身を任せてしまったのだ。
1人でも歩ねえに対して
嫌がらせをするようになっていた。
ある日、水を汲んだバケツを
彼女の頭の上でひっくり返した時のこと。
歩「どうしてそんなことするの。」
美月「あははっ。」
歩「ねえ、なんで。」
美月「だって楽しいんだもーん。」
歩「…ひどいよ。」
美月「えー?」
歩「ひどい。友達なのに。」
美月「でもみんなもやってるじゃん。」
歩「…ら…い……。」
美月「えー何ー?はっきり喋ってよー。」
歩「友達なんていらない!」
その翌日。
歩ねえは学校に来なかった。
その次の日も、更に次の日も。
…。
次の週。
歩ねえは引っ越したと聞いた。
親の都合らしい。
…。
…。
…私には、俄に信じられなかった。
私のせいだ。
私が虐めたからだ。
°°°°°
美月「…友達ならやらないようなことをした。」
歩「…。」
美月「……歩ねえが虐められているって、引っ越すまで…いや、私がいじめを手伝うまで気づけなかった。」
歩「…。」
美月「本当の友達って言葉の意味を…蔑ろにした。」
°°°°°
…。
…あぁ…。
だからあの時、
みーちゃんだけは本当の友達だからなんて
言っていたんだとその時思い知った。
きっとあの頃から歩ねえは
虐められていたんだと思う。
同級生から虐められて、
でも私の前ではそんな雰囲気
全く見せていなかった。
…。
°°°°°
美月「今なら、あの言葉の意味も泊まっていいよって言ってくれたあの好意も全て理解してるわ。」
歩「…。」
美月「…子供過ぎたのね。…こんなのは言い訳よね。」
歩「…。」
美月「………もっと早く気づいていたらよかった…っ。」
後悔は、募るばかり。
思い返すたびに募っては
崩れるなんてしてくれない。
勿論、溶けることだってしてくれない。
これを上手く噛み砕いて
自分の力にできる人は
上手く生きることができるのだろう。
私には、それが出来なかった。
だからそうして今に至ってまでも
引き摺りに引きずって、呑まれて。
そして抜け出せなくなってゆく。
もがくほど沈んでゆく。
美月「…歩ねえがどう思っているのか…いい感情ではないことは分かってる。昔から今に至ってまでも。」
歩「…。」
美月「ずっと言いたかったことがあるの。」
歩「…。」
美月「…ごめんなさい。」
歩「…。」
美月「今、こうやって刃物で傷つけてしまったことだっけそう。この前の雨の時だって。それから、小学生の時のことも…全部。」
歩「…。」
美月「…こんなにも謝るのが遅くなってしまってごめんなさい。」
歩「…。」
美月「…ずっと心残りだったの。」
歩「…。」
美月「ずっと…私が歩ねえのことを勘違いして傷つけたこと、後悔してた。」
歩「…。」
美月「だから…。」
…。
だから、何なのだろう。
もう1度やり直そう、とでも?
…。
言えるか、そんなこと。
散々なことをしておいて、言えるはずがない。
拒絶されても仕方のないことを
過去の私はしたのだ。
取り消せないのだ。
どうあがいても過去のことは
なかったことになんてならないの。
…。
だけど…。
歩「…………もう聞いた…。」
美月「…え…?」
歩「聞いたから…もういい。」
美月「…それってどういう」
歩「もう謝んなってこと。」
美月「でも…っ…。」
歩「私も勘違いしてたよ。」
美月「…?」
歩「あんたがただの嫌なやつだって思ってた。考えなしに動く馬鹿だって。」
美月「…そう言われても仕方ないわね。」
歩「けど、裏山であった時に違ったんだってわかった。」
美月「…。」
歩「苦しんでたのは私だけじゃないんだって。」
美月「…そう…なのね。」
歩「小さい時の私は考えが足りてなかった。これで合ってるって信じて疑わなかった。これが正しい未来への方法だって勘違いしてた。」
美月「…。」
きっと、お互いに想起しているのは
お泊まり会未遂の時の話だろう。
お互い、勘違いしていた。
お互い間違えていたのだろう。
そしてお互い本音を言い合えることも
間違いを訂正することもせず呑み込んで、
自分の中だけの温室で育ててしまった。
お互い、長い時間苦しんだ。
歩「だから、私も悪かったよ。ごめん。」
美月「…っ。」
歩「…。」
歩ねえはあくまでこちらを見てくれない。
どんな顔をしているのか分からない。
けれど、そこにいる。
そこにいるのは紛れもなく歩ねえなのだ。
昔とは大きく異なって、
お互い大きく変化して。
大人に近づいて、ここにいる。
謝られたのなら
返す言葉はひとつだけだった。
それは。
美月「………いいわ。」
歩「…。」
美月「歩ねえの間違ったこと、許すわ。だから…。」
歩「…。」
美月「……だ、から……私の過去の愚行を…許してくれませんか…っ…。」
それは。
それは、私が欲しかった言葉だった。
ずっと昔から後悔していた。
謝りたいと思うだけで
怖くて行動に移せなかった。
面と向かうことが怖くて怖くて仕方なかった。
けど、許してほしいと
延々と思い続けていたのだ。
ずっと。
…ずっと。
歩ねえから笑顔が消えた時から
ずっと、願っていた。
歩「…。」
美月「…っ……。」
あぁ。
無言が辛い。
こんなにも無言が辛いのは
いつぶりだろうか。
最後はいつだったろう。
家族内で話し合った時だっただろうか。
…。
都合のいい話すぎたんだ。
あれだけのことをして許せ、だなんて。
馬鹿みたい。
夢の見過ぎだ。
夢の。
美月「…。」
歩「……もういいよ。」
美月「………………………ぇ…?」
歩「…許すよ、全部。」
美月「え…何、で」
歩「あんたが言ったことでしょうが。」
美月「でも…っ…。」
歩「………それに、今まで意地ばっか張って話すのを避けてた私にも非があるよ。」
美月「…。」
歩「私が許してもらったんだから、せめて許させて。」
美月「……歩ねえ…っ…。」
ふわ、と心の鎖が解かれたような感覚に
蝕まれていった。
体はどこまでいっても
安心という毒で穴だらけ。
それでも嫌な気分じゃなかった。
むしろ嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
これまでの募り重ね続けた蟠りが
漸く解けて溶けてくれた。
まだ核となる微細な部分は
針のように残ってしまっているだろうけれど、
多くのしこりは波に持っていかれたのか
跡形もなく消え去った。
それと同時に目頭が熱くなり、
目がじいんと痛みに包まれる。
それも、それすらも嫌じゃなかった。
嫌じゃない。
嬉しかった。
嬉しかった。
歩ねえに触れられたことが。
嬉しかった。
歩ねえと話せたことが。
嬉しかった。
許してもらえたことが。
全て、全てが嬉しかった。
今だけはあなたの1番に
なれたような気がしたの。
握っていた手をぎゅっと
痛くないように、
包むように握り直した。
美月「…こっち向いてよ。顔を見てお礼が言いたいわ。」
歩「無理。」
美月「何でよ。」
歩「…。」
それからひと間何も返事がなく、
次の言葉を催促しようとした時だった。
手を握り返すこともなく、
こちらを向くことすらなく
壁に向かって放ったのだ。
歩「今、酷い顔してるから。」
耳がいいからだろう。
微かに震えているのが分かった。
***
あれからきっと1日ほどは経っただろう。
歩ねえの体調が良くなるまでは
この部屋を借りることにした。
結果、よく眠っていたからか
思っている以上に回復は早く、
もう食べ物を口にしても
何ら問題のないほどにまで快調へ。
言葉も難なく交わすようになった。
まだ時々恐怖からか
背中が縮み上がるような思いをするが、
歩ねえは変わり、私も変わったのだと思えば
段々と受け入れられるようになってきた。
そして何時なのかわからないが
ご飯を口にした。
2人で向かい合い食事を取るのは
何だか気恥ずかしくてたまらない。
けれど、幼い頃に戻ったようで
楽しい気持ちだって思い出した。
昔、給食の時は班で
食べなければならなかったから
学年外の教室になんていけなかったが、
秘密基地で並んでお菓子を食べたこと、
私の家に来て一緒に持ち寄ったお菓子を
話しながら食べたことなど、
たった数回の思い出がとめどなく溢れてくる。
思い出は記憶の海で揺蕩い、
煌めきを放っていた。
今は、どうだろう。
きっとかの風景も数年後、
それこそ10年後には
煌めいているものでありますように。
トレーを片付けた後は
意味もなく食卓に座り直した。
それは歩ねえも同様。
これからのことを話さなければならないと
双方感じていたのだ。
未だ、玄関の扉は開いてくれない。
そもそもノブがないのだから
出ようがないのだ。
おまけに窓すらなく、
壁を鋭利なもので
思い切り殴りつけたとしても
傷すらつかなかった。
その話をしたら歩ねえは引いていたけれど。
歩ねえは話している間、
ずっと肘をついて話していた。
その体制はもはや癖のよう。
食事中にこそしなかったが、
それこそ足を組むのと同じようなものだろう。
美月「どうしようかしらね。」
歩「ま、不便はないけど。」
美月「そうだけれど…いや、歩ねえの部屋は不便でしょう。」
歩「どこが。」
美月「見た目よ、見た目。酔わないの?」
歩「全然。」
美月「あの部屋にいたからか熱が出たのよ。」
歩「いや…それは違うと思うけど。」
美月「それを除けば…あとは時間が分からないだとか、そこの空気を吸えないとか。いろいろあるわ。」
歩「贅沢者。」
美月「人間として最低限度の生活はしたいわ。ここにいるとまるで奴隷のように感じるんだもの。」
歩「働かない囚人の気分。」
美月「でしょう?嫌だわ、そんなの。」
歩「ふーん。」
美月「あと、バドミントンだってできないし本も読み切ったら暇になるわ。」
歩「読み返したら?」
美月「いつかは飽きるじゃない。」
歩「年単位で話してない?」
美月「そうよ?」
歩「てか、運動できたんだ。」
美月「高校生になって始めたの。」
歩「何でまた。」
美月「やってみたかったのよ。これまでずっとインドアだったしね。」
歩「インドアってのが信じられない。」
美月「そうかしら?あと、ピアノも弾けないし。」
歩「へー、まだやってんだ?」
美月「そうよ。あ、そうだ。」
歩「何。」
美月「約束、ひとつ果たせてないことがあったの。覚えてるかしら。」
歩「約束?」
美月「そうよ。」
あれは、どこで話したことだったか。
確か。
…確か、私の部屋だっただろうか。
°°°°°
美月「うん!だって1番を取って褒めてもらいたいじゃん。」
歩「凄いなぁ。私こんなに頑張れないや。」
美月「えー、何か頑張ろうよー。」
歩「習い事始めても引っ越しですぐやめなきゃ行けなくなるから…。」
美月「あーそっかぁ。」
歩「ピアノ以外の習い事ってしてるの?」
美月「沢山してるよ!英語でしょ、お琴でしょ、習字でしょー」
歩「え、そんなに沢山!?」
美月「普通だよー。」
歩「普通ならひとつかふたつくらいだよ…。」
美月「でもほら、2週間に1回のやつもあるから!」
歩「そうなんだ、頑張り屋さんだね。」
美月「いい子でしょー。」
歩「すーぐ意地悪するところはいい子じゃないけど。」
美月「もー根に持たないでよー。あ、そーだ。」
歩「…?」
美月「いつかさ、ピアノの連弾しよーよ!」
歩「連弾?」
美月「知らないの?」
歩「わかんない。」
美月「連弾っていうのはね、ひとつのピアノで何人かが一緒に弾くことだよ!」
歩「え、私とみーちゃんが一緒に弾くってこと?」
美月「そう!やーろーうーよー。」
歩「無理だよ…私楽器はリコーダーしかやってないから」
美月「他にもカスタネットとか、タンバリンとかしたことあるでしょ!」
歩「…ある…けど」
美月「じゃあ大丈夫よ!私が教えてあげるから!」
°°°°°
美月「ピアノ、教えずのままだったわね。」
歩「あー、それね。」
美月「本当に覚えてた?」
歩「私が覚えてたのは連弾の方。」
美月「連弾…覚えてくれてたのね。」
歩「ま、嫌な思い出じゃなかったんで。」
美月「嫌なことは忘れた?」
歩「んなわけあるか。」
美月「…そうよね。」
歩「でも、全部が嫌なことじゃなくなったから。」
美月「…そう言ってもらえるだけでも幸いだわ。」
歩「あそ。」
歩ねえの返答はどれも
感想しているようだったけれど、
きっとそれは表面だけ。
内側は潤いを持っている。
じゃなきゃ、雨の日もさっきも
私を助けてなんてくれないでしょう。
美月「そうだ。なら、今連弾しましょうよ。」
歩「…は?」
美月「今するのよ、連弾。」
歩「ピアノないけど。」
美月「そんなの、机を叩けばいいわ。」
歩「それドラムじゃん。」
美月「いいのよ、頭の中で鳴らすの。」
歩「私ピアノ弾けませんけど。」
美月「ドラムだと思えばいいの。」
歩「やっぱドラムじゃん。」
美月「練習は本番のように、みたいなものよ。ピアノはドラムのように。ドラムはピアノのように。」
歩「適当言うな。」
美月「ふふ。ほら、隣に座って。」
歩「…はいはい。」
隣に人1人分の席を開け、
それから歩ねえが来るのを待つ。
面倒臭そうに席を立ち、
問題のないほど普通に歩いて
隣まで来てくれた。
ああ、擽ったい。
隣にあなたがいることが
こんなにも嬉しくて擽ったいなんて
小さい頃は知らなかった。
歩「何弾くの。」
美月「お互い知ってるのがいいわね。」
歩「でも、引っ越しのタイミング的に合唱コンクールは同じ年に出てないでしょ。」
美月「そうね…中学時代、何か歌った?」
歩「あー…Cosmosとか?」
美月「いいわね。伴奏やったから覚えてるわ。」
歩「え、歌う気?」
美月「鼻歌でね。一緒にどう?」
歩「弾くだけで結構かな。」
美月「分かったわ。じゃあ弾くわよ。」
目を閉じて、ひとつ呼吸をする。
緊張した時はいつだって深呼吸をした。
ため息にならないように
深く息を吸っては吐いた。
そして、今目の前の机には
黒鍵と白鍵が並んでいる。
左手は膝に乗せて、歩ねえに任せる。
背中を預けて、
重心をかけすぎないくらいの関係が
1番心地いいのだ。
そして、机を叩いた。
ぽろん、ぽろんと脳内では音が鳴っている。
歩ねえの指先は
随分と覚束ないものだったけれど、
それでも音が鳴っていた。
私たち、漸く約束を果たせたのね。
ピアノはないから
実際聞かせられてはいないし
連弾だってできていないのだろう。
そうだとしても、これが私たちの
約束の果たし方だったのだ。
私たちの後悔をここに置いていくために。
後悔のある選択の先で、
この後悔をよかったと
思えるようにするために。
お互い、知らない10年弱がある。
その間に、私たちは成長した。
大人に近づいた。
歩ねえなんて、後2年ほどで
20歳になるのだ。
お酒もタバコも手にできてしまう、
責任のある年齢になっていく。
時間が経ったのだ。
思っている以上に時間が経った。
いろいろと遅すぎた。
けど、遅すぎたとしても
何もしないよりは絶対いい。
今、胸を張ってそう言える。
だって、どれだけ遅くなったとしても
後悔を拭うことが出来るのだから。
少しだけでもよかったって思える方向に
人生は変わっていったのだから。
それから、あっという間に1曲は
終わってしまった。
歩ねえは疲れたのか、
それとも癖なのか直ぐに
肘をついていた。
余韻がないのかと思ったが
そういうわけではないらしく、
物思いに耽った表情をしている。
美月「…ふう…。」
歩「…。」
美月「ありがとう、歩ねえ。」
歩「…あのさ。」
美月「何かしら。」
歩「その呼び方、変えない?」
美月「え?」
歩「いつまでもその呼び方だと恥ずかしいんだけど。」
美月「終わってすぐそんなこと言うの?」
歩「ずっと思ってたけど言い出すタイミングがなかったの。」
美月「いいわよ、いつでも。…でも、他の呼び方ね…。」
歩「苗字。」
美月「今更?他人行儀すぎないかしら。」
歩「じゃあ何がいい?前は私が決めたから、今度はそっちで。」
美月「前って…。」
°°°°°
美月「なのに私、名前1回も呼ばれてないー。」
歩「…呼んだことないね。」
美月「呼んで呼んでー!あだ名でもいいからー。」
歩「え、えぇ…。まず名前知らない…。」
美月「え?うそー。」
歩「ほんと。まだ名前聞いてないよ。何年生かも知らない。」
美月「そっかー。私、雛美月だよ。美月!2年生。」
歩「2年生…2つ下なんだね。」
美月「うん!ねー、名前教えたから呼んでよー。」
歩「えっと…うーん…。」
美月「あだ名でもなんでもいーの!」
---
歩「じゃあ…みーちゃんで。」
美月「えーあれだけ考えてそれなのー?」
°°°°°
美月「よく覚えてるわね。」
歩「そちらこそ。」
美月「じゃあそうね…。」
これまで年上だからということで
親愛を込めて歩ねえと呼んでいた。
それがだめとなれば…
あーちゃんだとかそう言った類も
論外になるだろう。
だからといって苗字や
先輩呼びはどうにもしっくりこない。
そこでふと、思いついたのだ。
美月「…歩。」
歩「…ん。」
美月「歩って呼ぶわ。だから歩も」
歩「美月。」
美月「…!」
歩「…って呼べばいいんでしょ。」
美月「ええ、そうね。そうしましょうよ。」
歩「嬉しそう。」
美月「嬉しいもの。だって、まるで昔みたいで…特別になれたみたいだもの。」
歩「そうだね。…でも違うよ。違う。」
歩ねえは…歩は、
こちらを見ることなく机を眺め、
とんと絆創膏の貼られた手で
机を叩いてそう言った。
歩「もう特別じゃない。」
美月「…。」
歩「私たち、特別になりそびれたんだよ。」
なりそびれた。
それが正しい表現だと
妙にしっくりきたのだ。
歩「お互い失敗してね。」
美月「…そうね。」
ふと、彼女と目があった。
歩は綺麗な目をしていた。
前髪にかかることもなく、
透明で綺麗な色をした瞳。
それから、2人で力なく笑った。
笑い合った。
私たちの親密すぎるほどの関係は
もう小学生の頃に終わっていたんだ。
今はお互い、特別じゃない。
別の人が特別だから。
美月「今、私のことを大切にしてくれる人のことを、これからも大切にしなきゃね。」
歩「彼氏?それとも遊留?」
美月「波流よ。遊留波流。」
歩「…大切…ね。」
美月「歩も花奏のこと、見てあげなきゃね。」
歩「は?」
美月「今1番近いんじゃないかしら。」
歩「…ま、そうだろうけど。」
美月「失ってからじゃ遅いもの。」
歩「そうだね。」
その言葉には想いがあると
自分でも嫌なほど分かった。
これは、私たちにしか与えることができない
一種の重みだと思っている。
間違い続けた私たちが
得られたものなのだ。
歩「はぁ…もう1回玄関が開くかチェックして、駄目だったら考えよう。」
美月「そうね。なら行きましょうか。」
望み薄なのは分かっているが、
再度廊下へと踏み出し
板に成り果てた扉を見やった。
そもそもとして押し引きの関係で
開かないとは思うけれど。
歩「…いつになったら出れるんだろ。」
消えれるかと思った、と口にしていた歩は
いなくなってしまったのか、
とてつもなく外をご所望しているように思う。
そして、その手をそっと
扉に伸ばすところが見えた。
ふと、あの体温を思い出す。
人間の暖かさを。
…。
…ああ、本当に近くて遠い人に
なってしまったんだな。
そう感じた時だった。
ぎぃぃ、と重たい音を鳴らして
ふわっと春の香りそうな光が
差し込んできたのだ。
暖色系の光で視界は覆われ、
直視できないほどの光に
無意識のうちに目を閉じる。
歩「え。」
美月「えっ!?何をしたの?」
歩「押しただけ…。」
美月「嘘。」
歩「本当だって。重くないし、全然。」
美月「何でよ。」
歩「私だって聞きたい。」
美月「これ、結構前から開いてたのかしら。」
歩「さぁ。」
美月「…何だか損した気分だわ。」
歩「前に確認しにきた時は全然駄目だったけど。」
美月「いつ頃の話?」
歩「さあね、時間分からないし。倒れる前だよ、確実にね。」
美月「結構前ね。」
歩「だね。」
そこの扉を抜ければ、
どこかも分からぬマンションのようで
外は夕日一色に染められている様子。
夕方なのだろう。
家族には大きな迷惑を
かけてしまっていることだろうな。
この前の3日間のこともあるし
ひどく怒られることは
間違い無いだろう。
異様な一室から踏み出して
足元を確認すれば、
そこには私たちの荷物があった。
スマホからお金まで
そのままで置いてある。
よく誰も盗難しなかったなと
感心してしまうほど。
何から何まで訳の分からないことばかりだが、
考えるだけ無駄なのかもしれない。
今は妙に疲れが蓄積していることから
早く家に帰りたいとすら思ってしまう。
歩「…案外あっけないもんだね。」
美月「そうね。」
歩「何だったんだろ。」
美月「でも、私はここに来れてよかったわ。」
歩「そう?」
美月「歩はそう思わない?」
歩「あー…少しは思った。」
美月「素直じゃ無いわね。」
歩「今更じゃん。早く帰ろ。」
美月「そうね。帰りましょうか。」
手を繋ぐことはもう無いけれど、
隣を歩けているだけで
全てが無駄ではなかったのだと思えた。
今、歩が何を考えて何を感じているのか
隅まで知ることはできないけれど、
きっと悪い感情では無いと思う。
そうであって欲しい。
夏の夕暮れ。
秘密基地からの帰りを思い出すばかりだった。
***
あれから1週間が経った。
その拍子に日記を読み返したのだが、
まあそこそこには面白い。
歩「こんなことあったっけ。」
時折口に出しては読み進める。
小学生の頃は学校の宿題として
3行日記があるところもあったから
今度実家に帰った時は探してみようと思う。
結局、あの場所には何だったのだろう。
美月の通っている高校に
近い場所だったらしい。
帰るのには少々時間がかかったが
帰れないほどではなかった。
その後1度足を運んだのだが
人が住んでいるらしかった。
そして、ドアノブがないなんてこともなく、
窓だって当たり前のようにあった。
というのも、住んでいる人に
直接聞いたからだ。
インターホンを押して出るまで数秒、
最初は不審者に思われただろう。
そこで色々と聞いたのだが、
ずっとそこに住んでいる人らしく
ここ1年で家を貸したことはないそう。
そして極め付けはこれだ。
時間が進んでいなかったのだ。
正確に言えば、1時間程度しか
進んでいなかった。
家に帰り、日付を確認した時には
愕然としたものだ。
普通であれば1週間ほどは
進んでいていいはずなのに。
あれが4日進んでいるとかであれば
信じていたかもしれない。
しかし、1時間なのだ。
そんなはずがない。
現実としてあり得ない。
あり得ないのだ。
歩「…やっぱり、変なことが起こり続けてるんだね。」
日記は返事をしてくれなかった。
そのかわり、事実を延々と
突き続けてくれていた。
ふと空を見る。
朝日が燦然と部屋に降り注ぎ、
ラグマットの端が陽と遊んでいる。
今日も、普通の日が来たらしい。
この後午後になれば
どうやら小津町が訪ねてくるそう。
前々から連絡するようになったのはいいものの
結局ここに訪ねてくるのを
止める気はないらしい。
ため息が出そうになりながらも
一旦はそれを呑み、
スマホを弄っていると
すぐに受験関連の内容が流れてくる。
将来なんて考えられないと
何度も言っているのに。
未来なんてわからないって。
だから、こんな早くに
人生が決まるなんて
納得がいかないままだった。
歩「…。」
美容師になるのだろう、と
子供の頃からずっと思っていた。
それは、母親がずっとその道で
仕事をしていたから。
そして。
°°°°°
歩「美容師…かな。」
美月「美容師?いいじゃん!」
歩「えへへ、そうかな。」
美月「うん、凄いいい!何でなりたいの?」
歩「お母さんがね、美容師なんだ。」
美月「へぇ、それでなんだ。」
歩「うん。」
美月「私も歩ねえの夢応援してるよ!頑張れー!」
歩「ありがとう、みーちゃん!」
°°°°°
歩「…ほんと単純。」
頭を軽く掻く。
すると、はらりと髪の毛が1本落ち、
朝日を反射する。
そして、もうひとつの理由。
それは、かつての1番の親友が
夢を応援してくれたから。
もう1度、真っ新な土地に
1歩を踏み出せたような心地よさで
胸がいっぱいだった。
はじめからをもう1度 終
はじめからをもう1度 PROJECT:DATE 公式 @PROJECTDATE2021
★で称える
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