第15話 涙のわけ
「母さんの、指……?」
にわかには信じがたい。だが、それが冗談であるはずもなく、あまりのショックに視界が揺れた。頭の中は真っ白で、意識が飛んでいきそうな感覚を覚えた。
「事故の状況はわからない。でも、これは母親が悠真を必死に守ろうとした結果だ。実際、悠真はまだ生きている」
あの事故のことを思い出すのは非常に辛い。だがあの凄まじい衝撃の中で俺が生きていたのは、単なる偶然や奇跡ではなかった。母さんの俺に対する愛情が、俺を救ったのだ。
俺の目には自然と涙が溢れていた。その涙は悔しさによるものだ。母さんや父さんは死ぬ間際まで俺を愛してくれていた。でも、今の俺にはそれを返してあげることはできない。彼らに対する愛を感じることも、俺の脳にはできない。それが何よりも辛くて、何よりも俺の心を蝕んでいくのだ。
「直後の手術で、俺は君の母親の指を脳から取り除こうとした。でも、衝撃で粉々に砕けた指の骨を完全に回収することはできなかった」
先生はタブレットをもう1度俺に見せてきた。今度は今の脳の画像だ。
「CT画像にはそれがまだ写ってる。見えずらいが、ここに破片が残ってる」
涙で視界がボヤけてしまい、俺にはハッキリとはわからなかった。だが、非常に小さい異物がまだ俺の頭の中に残されているという事実は、受け止めることにした。
「6年間続いている頭痛の原因はこれで間違いない。そして腫瘍ができたのもこれのせいだろう」
「……」
「腫瘍ができたのは脳の中心部だ。まだかなり小さいから手術は不要だが、これが大きくなれば話は変わってくる。大脳辺縁系にさらなる影響を及ぼし、また何か違う感情を失う可能性も否定できない」
それが俺に残された冷たい現実だった。それは非常に残酷で、俺の感情を容赦なく踏みにじった。母さんへの言葉にならない悲しみが胸に溢れ、同時にこれからの自分に対する漠然とした不安や恐怖感を覚えた。
高森先生はそんな俺の姿を見かねたのか、俺の頬に流れる涙をハンカチで優しく拭いてくれた。
「母親のことを黙っていてすまなかった。まだ中学生だった悠真には、早すぎる気がしたんだ」
「……はい」
それは理解しているつもりだ。高森先生の優しさがあってこその行動なのだろう。
「何を泣いてるんだ。頭に小さなデキモノができただけだ。大したことはない」
「……」
「もし何かあっても、安心してくれていい。俺がいる。若葉もいる」
高森先生がそう言うと、若葉はとうとう我慢できなくなったのか、突如として泣き始めてしまった。
「お、おい若葉。お前が泣いてどうするんだよ」
「ご、ごめんなさい……」
高森先生は困惑していた。それでも若葉は泣き止むことができず、俺たちに泣き顔を見られないように壁のほうを向いた。
俺はその一連の光景を、なぜか微笑ましく見ていた。親身になって涙を流してくれる彼女の姿は、俺がいつも通り笑えるぐらいの元気を与えてくれた。
「ちょっと悠真!笑わないでよ!」
そう言う彼女の声はまだ鼻声で、その言葉がさらに俺と高森先生の笑いを助長した。
「もう……」
俺たちを見て呆れている彼女だったが、その表情はどこか明るかった。途中からは彼女も一緒に笑っていた。
「もう十分元気そうだな。退院は一応明日でいい。今日はここでゆっくりしていけ」
「ありがとうございます」
「若葉ももう遅いから、早く帰れよ」
「いや、私はもう少し……」
「そうか。あまり遅くなりすぎるなよ」
そう言うと、高森先生はすぐに部屋を出て行った。残された俺たちは目を合わせると再びクスクスと笑った。何が面白いかなんてわかるはずもないが、ただこうやって笑っていられるのが幸せだった。
「なあ、若葉。俺が倒れる前にどんな話してたか覚えてる?」
「え……、いや、思い出せないな」
「人にはそれぞれの恋があるって話」
「あ〜、してたしてた」
「頭のことは心配だけど、俺の恋が見つかるまでは頑張りたいんだ」
「うん。応援してる。でも無理はしないでよ」
「それでさ、1つ気になるんだけど、聞いてもいい?」
「うん。いいよ」
「若葉にとってさ、恋って何なの?」
「え?私?」
若葉の表情には焦りと困惑の色が見えた。誰もが自分だけの恋があるのであれば、俺は若葉の恋が知りたい。それを知ることで、俺の恋を見つける参考になるかもしれない。
「そう。教えてよ」
「うーん、なんだろうな……」
若葉は顎に手を当て、ぼーっと窓の外を眺めている。その答えを自らの中から見つけ出し、言語化するのはそれほど簡単でもないらしい。
「強いて言うなら……」
「強いて言うなら?」
「悲しいことは2人で一緒に泣いて、嬉しいことは2人で一緒に喜ぶっていうことかな」
「それが若葉の恋?」
「うん。そういう人と一緒にいたいかな〜」
面白い考え方だ。きっとそれはお互いを深くまで知って、信用していないとできることでは決してない。そうやってお互いを高めあい、2人だけの関係を築いていくのだろう。彼女にも早くそういう人が現れてほしいものだ。
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