マヒメ

葉島航

第1話


 山並みの向こうに陽が沈んでいく。

 幹線道路には、信号待ちの車が列を作り始めている。車から発せられるライトと夕日の淡い光が混じり合い、交差点は照明で照らされた舞台のようだ。

 交差点の角に、古ぼけてはいるが小ぎれいな市役所がたたずんでいる。間隔を空けて、商業ビルやファミリーレストラン、コンビニが点在する。村とも呼べそうなこの小さな町で、唯一「市」らしい趣をもった場所だ。

 車のドアが開き、一人の男が躍り出た。文字通り、躍り出たのだ。手足をくねくねと動かし、右折車線を歩く。ライトにその顔が照らされる。男が浮かべているのは満面の笑みだ。何が楽しいのか、口角はこれでもかと上に上がっている。そのまま男は交差点に進む。

 交差点でも、男は踊り続けた。手を不自然に上げ下ろしたかと思えば、足を曲げお辞儀のような格好をする。動きには、パターンもリズムもないように思える。クラクションが響き、すぐ隣を車が通過しても、彼はそれをやめようとしない。

 男は顔を上げた。変わらぬ笑顔のまま、虚空の何かを見つめている。そこへ、猛スピードでトラックが迫った。


 山並みの向こうに陽が沈んでいく。

 少年は、窓から薄暗い空を眺める。父は出張、母はパートで帰りが遅い。

 彼は退屈していた。仕方なく、先ほど消したばかりであるテレビの電源をもう一度つけ、ゲーム機を接続する。押し入れを開け、父の棚をあさる。ここに成人向けのゲームが入っていることを、彼は知っていた。

 最近はオープンワールドというゲーム形式が流行っているらしい。ゲームの世界で何をやっても自由、というやつだ。謎を解いたり、ミッションをクリアしたりする必要はない。

 父の持っているこのゲームも、そのオープンワールドを採用しており、やろうと思えばゲーム内で大量殺人だってできるのだ。

 母が帰ってくるまでに、たっぷり二時間はある。父の帰りはもっと遅いはずだ。早めに終えてゲームカセットを元通りにしておけば、ばれることはないだろう。

 少年はカセットをゲーム機本体にセットし、プレイし始めた。

 三十分も遊んでいただろうか。少年がゲーム内の住人を、五人ほど惨殺したときだった。能天気なゲーム音楽に混じり、コンコンというノックの音が聞こえた。

 少年は身を固くする。その音が、二階の玄関から聞こえてきたからだ。

 少年の家には、出入り口が三つある。一つは玄関、一つはキッチンの勝手口。そして、二階の玄関だ。もともとこの家は父方の祖父母といっしょに暮らすための二世帯住宅として建てられた。室内では階段でつながっていて行き来できるのだが、玄関だけは分けようと祖父が提案した。少年がもっと幼いころに、祖父母は亡くなってしまい、二階の玄関は使われることがなくなった。少年がいるのは、その二階玄関の横にある部屋である。ノックの音は、間違いなくすぐそばから聞こえてきた。

 祖父母の友人が、間違えて訪ねてきてしまったのだろうか。しかし、ここ数年そんなことは一切なかった。少年はいぶかしみながら、二階玄関を覗きに行く。

 玄関のドアは、すりガラスの引き戸になっている。建設時、引き戸にすることを母は嫌がっていたが、もともと田んぼに囲まれた平屋で暮らしていた祖父母に、引き戸の方が扱いやすいからと説得されていた。

 すりガラスの向こうに、誰かの影が見えた。女の人だろうか、スカートをはいているのが分かる。陽がほとんど落ちかけているからか、影はぼんやりとして、色も判然としない。

「ミズカワさん」

 不意に、声を掛けられた。すりガラスの向こうで、女が話しかけているのだ。向こうからは見えていないはず、と考えながらも、少年は身を固くする。

「ミズカワさん」

 女の声は一本調子で、壊れたテープレコーダーのようだ。人の声を録音して早回しすると、こんな感じになるのだろうか。

 何より、少年の姓はミズカワではない。母も、祖母も、旧姓はミズカワではない。

 誰かの家と間違えているのだろうか。しかし、間違いだったとして、ここの二階までやって来るだろうか。二階玄関に続く階段は、しばらく使っていないせいで草も生え、登ってこられる状態ではなかったはずだ。

「ミズカワさん」

 声と同時に、またコンコンとノックがされる。

 少年は口をふさいだ。女の手が、すりガラスのてっぺんに見えたからだ。

 女の胴は異常に長いらしい。すりガラスの向こうで、手と胴の長い女が、斜めに腰を折ってこちらを覗き込んでいる様子を想像してしまう。

 電話がけたたましく鳴った。少年は飛び上がってしまう。早くこの音を止めなくては、と彼は思う。電話の音が女に聞こえていないか不安になったのだ。

 電話の子機は、先ほどまでゲームをしていた部屋にある。少年はそろそろと部屋に戻り、受話器に手を伸ばす。

 しかし、躊躇した。もし、電話の相手が父や母でなかったら、どうなるだろう。あの女が超常的な存在だった場合、電話をかけてくることも容易いのではないか。 電話をかけてくる幽霊など、メリーさんをはじめ、挙げるときりがない。

 しかし、このまま電話が鳴り続けるのも嫌だ。女がすりガラスに耳を押し当て、音を聞いている様が目に浮かぶ。迷った末、少年は子機を取りあげた。

「もしもし」

「おい、ぼうずか? 一人か?」

 がなるようなだみ声が電話の向こうから聞こえた。隣の家に住む、田所のおじさんだ。もう五十近いはずなのに、いつもサングラスをかけ、後ろになでつけた短髪を金色に染めているものだから、少年は怖がっていた。学校帰りに、田所が庭で煙草を吸っているところに行き会うと、必ず、「おう、ぼうず、帰りか」とドスのきいた声を掛けられる。はあ、まあ、などと生返事をしてやり過ごすのだが、少年は心底あの人が苦手だった。父と同郷らしく、それもあってか日ごろから野菜を分け合うなどの付き合いはあったが、母は少年と同じく、少し怯えているようだった。

「ひ、一人です」

「どこの部屋におるんじゃあ」

「に、二階です」

 田所の舌打ちが聞こえた。慌てた様子でまくしたてる。

「ぼうず、ええか、絶対に玄関を開けたらいかんぞ。今、二階の玄関に、悪いもんが来とる。絶対に開けたらいかん。呼ばれても、返事したらいかんぞ」

「分かりました」

 少年は、少なからずほっとしていた。苦手とはいえ、大人が事態に気づいてくれているのだ。

「あっ、いかん」

 田所が声を上げた。その切迫した声音に、少年はまた身を固くする。

「窓の方に行きやがった。カーテンは閉まっとるか?」

 慌てて窓に目をやると、カーテンは閉まっているが間に十センチほど隙間が空いている。

「閉まってるけど、少し空いてます」

 言った瞬間、カーテン越しに、ぺたりと手のひらが窓へ張り付くのが見えた。

「その部屋から出よ! 早く!」

 言われるがまま、少年は部屋から走り出た。しかし、どこの部屋にも窓はあるのだ。カーテンが閉まっているかどうかも分からない。少年は廊下にしゃがみこんだ。

「どこにいたらいいですか」

「窓のないところじゃ。トイレでも、廊下でもいい」

 自分の選択が間違っていなかったことが分かり、少年は安堵の息を漏らす。そして、今は廊下にいることを伝えた。

「そのままじっとしとれ。おいちゃんが何とかしたる。いいか、そいつはマイメじゃ。絶対に目を合わせたらいかんぞ」

 玄関を開けてはならない、カーテンを開けてはならない、目を合わせてはならない。少年は、田所から言われたことを反芻する。田所は、あれのことを「マイメ」と呼んだ。幽霊なのか、それとも妖怪なのだろうか。

 しばらく廊下で震えていると、外から小さな足音が聞こえた。田所だろうか。もし、母だったらどうしよう、と少年は考える。仕事が速く切りあがって、帰ってきたところに、マイメと出くわしてしまうかもしれない。

 足音の主は、下の道路から、「おい」とか「こっちじゃ」とか叫んでいるようだ。その声は、確かに田所だった。田所が、おそらくは壁に張り付いているマイメを引き付けようとしているのだ。

 少年は手を合わせて祈った。マイメがどこかへ行ってしまいますように。田所も、無事でいますように。

 そのとき、カチャンという音が聞こえた。すぐ近くだ。少年は顔を上げる。少年のいる廊下の左手には寝室がある。右手には、トイレがある。

 少年は、トイレの窓がいつも開いていることを思い出した。天気予報が晴れの日は、母が換気のために、少し開けたままにして、それから仕事へ行くのだ。

 トイレの窓は、幅が小さく、大人ではとうていくぐり抜けることができない。しかし、先ほどすりガラス越しに見たマイメの影を思い出すと、腕や胴は異様に長く、そして折れそうなほど細かった。それに、そもそも人知を超えた存在なのだ。どんな隙間でも、入り込んでしまうのではないか。

 少年はじりじりと後ずさる。トイレからは、カタリカタリと音がする。後ろには、二階玄関がある。飛び出してもいいが、もし外でマイメが待ち構えていたらどうすればいい。

 ミシリ、と嫌な音を立てて、トイレのドアがわずかに開いた。

 少年が目を見開くと同時に、細くて長い腕が、その隙間から伸びた。

 ――マイメだ。

 声にならない悲鳴を上げて、引き戸を開けようとする。しかし、手が震えてしまい、さび付いた引き上げ式の鍵をなかなか開けられない。

 その間にも、腕は伸び続け、蟹の足を思わせる指は、カリカリと廊下の床をひっかいている。やがて、ドアの向こうから長い髪の毛が伸び始めた。髪の隙間から、光る両目が見えた気がして、少年は必死で手元に視線を固定する。

 目を合わせてはならない。

 目を合わせてはならない。

 目を合わせてはならない。

 がちゃりという音がして鍵が開いたとき、少年が出るより先に、田所が飛び込んできた。少年の肩を強くつかみ、外へ放り出す。

「早く逃げろ、たわけっ」

 その声に背を押されるようにして、半ば転げ落ちるように少年は階段を降りる。

 どこへ行けばいいかも分からず、母のパート先を目指して走った。車で数分の距離が、とてつもなく長く感じる。

 近くを歩いていた主婦に保護され、母に連絡がいくころには、少年の足は靴下が破れ血がにじんでいた。

 田所は、二階の廊下に、血まみれで倒れていたらしい。それ以上の詳しいことは教えてもらえず、少年一家は、しばらく母方の実家に身を寄せることになった。おそらく、事件性があるかどうかなどの調査などが入るのだろう。しかし、警察が少年に話を聞きに来ることはなかった。

 数か月後の休日に、少年は父に病院へ連れていかれた。 父と共に、エレベータに乗り、どこかの階の四人部屋へと向かう。

 そのベッドには、田所が寝かされていた。さすがにサングラスはしておらず、どこか臆病な顔にも見えた。

「おう、ぼうず、久しぶりだな」

 変わらない調子で言う田所だが、右腕の肘から先が無かった。

「災難だったな。お父ちゃんも心配してたぞ」

 ということは、父は何度か田所に会って、話をしているということだ。この件は、大人たちの間でどう片付いたのだろう、と少年は不安になる。まさか、田所が不法侵入のうえ少年に危害を加えようとした、というような話にはなっていまい。

「マイメはな、わしらの故郷で有名な化け物なんじゃ。なあ」

 父もうなずく。少年は意外だった。父は、そういった非科学的な存在を認めるような人間だとは到底思えなかったからだ。

「目を付けられたのは運が悪かったが、腕一本で済んだのは幸運じゃった。マイメもしばらく大人しかったのに、なんでまた出てきたのかね。ぼうず、あのとき何をしとったんじゃ」

 ばつが悪かったが、ここでごまかしてもしょうがない。嘘を言えば、それは田所が払った犠牲につばをかける行為になると、少年は子ども心に思った。

 正直に、ゲームで人を殺していたと伝える。田所は左手で、少年の頭に軽くげんこつを落とした。

「化け物を呼ぶには十分じゃ、ボケぇ」

 そう言って田所は笑った。

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