蕎麦が寝間着を着るわけは

小石原淳

1.えいやっ!と思い切って布団をめくると、そこには蕎麦がパジャマを着て横たわっていた。

 実際に見たことはないのだけれども、私の母は昔、フードファイターをやっていたんだって。今ではあんまり聞かなくなったかもしれない。大食いや早食いで賞金や賞品を稼ぐ人のこと。

 若い女性のフードファイターがまだ珍しかったこともあってか、母は美人フードファイターとして結構人気があったみたい。優勝経験も結構ある。これは家に賞状やトロフィーがあるから、間違いない。

 母はいわゆるシングルマザーというやつで、昔から結婚したことはなかったのだけれども、付き合っていた男性はいたらしい。もちろん、私の父と呼べる人とも付き合い、同棲していた。だけど、私が小学一年生の頃、父は母と別れて、家を出てしまった。何が原因かは分からない。近所の人達が勝手な噂をしていたのは、あとになって知った。母がテレビに出て大食いするのが父は耐えられなかったんだとか、テレビ局に出入りする内に若い男性タレントと仲よくなっちゃって、父が嫉妬したんだとか。

 それはともかくとして、父と別れた頃を境に、フードファイターとしての母は調子を落としていったという。最初の一年間は微妙ながらわずかに勝率を落としていき、二年目には全然勝てなくなった。当時の私は理解していなかったけれども、母が色々と薬を試すようになっていたのは、この時期だったと思う。ああ、もちろん変な薬じゃないよ。幻覚を見て大食いしても平気な気分でいられるとか、神経を麻痺させていくら食べても満腹感が得られないとか、食べ物を吐いても速効で体力が回復するとか、そういった薬ではなくって、単なる胃薬。消化の進む薬を探していたんだって。

 それで……多分、その頃のことだと思うんだけど、不思議な夢を見た覚えがあるの。ううん、夢なのか現実なのか、あやふやなところもあって。一応、実際に起きた出来事だと思って、続きを聞いて。

 時刻は真夜中。午前三時とか四時とか、そのくらい?

 あ、私と母は畳の部屋に布団を敷いて、並んで眠るようにしていたの。いつも母が子守唄を唱ってくれて、私が先に眠りに落ちていたと記憶してる。

 その出来事があったときも、私はいつの間にか眠っていた。

 目が覚めたのは、ごーっていう地響きがしたかと思ったら、突然、がたがたがたって家や家具が揺れ出して。じきに、地震だ!って分かったけれども、すぐには身体が動かなかった。布団を被り直して、早く終わってと願うだけだった。

 三十秒ぐらいで地震は収まったと思う。ただ、結構揺れが強くて、枕元の目覚まし時計が倒れたり、タンスの上に置いてあった空の段ボール箱が落ちてきたりと、影響が出ていた。この分だと台所の食器なんかも危ないかも……なんてことを、小学校低学年だった私が考えたかどうかは覚えていない。布団から恐る恐る頭を出し、安全を確かめてから、身体も出した。そして当然、母の寝ている方へ駆け寄る。

 あんな強い地震があって、大きな音もしたのに、母は私の方に背を向けて、横になったままだった。まさか、何か重たい物が落ちてきて、頭かどこかにぶつかって……?

「お母さん!」

 急な不安に駆られた私は、叫びながら母の身体を布団の上から揺さぶった。何度も何度も。しかし応答がない。本当に意識を失っているんじゃないかと思えてきて、だからなおさら声を大きくし、手に力をこめる。

 それでも相変わらず続く無反応に、辛抱たまらなくなり、私は反対側へと回った。母の顔を見たくて。

「ねえ、お母さん、おかあ――」

 声が途切れたのは驚いたから。

 いえ、驚いたというだけでは全然足りない。表現が穏やかすぎる。

 だって、母の顔があるべき場所になかったのだから。その上、代わりにあったのは、茶色くてつぶつぶの模様が入った細長い物を束ねた――そう、蕎麦の束だった。

 その頃の私はアレルギー持ちでもないのに、何故かお蕎麦がだめで、嫌いになっていた。だから大好きな母が蕎麦になっているなんて、恐怖そのものだった。

 私はその場から後ろに飛び退き、尻餅をつく格好になっていた。多分、意味不明の悲鳴を上げて、気を失ってしまったみたい。

 次に気が付いたときはもう夜が明け始めていて、でも起き出すにはまだ早い時間だったと思う。母が私の前にいた。畳の上にぺたんと座り、私を優しく揺さぶっていたらしかった。

 もちろん、母の顔はちゃんとある。安心した私は泣きながら母にしがみついた。

「怖かったのね。ごめんね」

 母はそう言って、頭を撫でてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る