ー灼夏ー ACT.14
朝方の気温は――もはや不明。
まるでドライサウナのように、流れ出る汗すらコンクリートに落ちた瞬間に蒸発していく。三人ともとっくに脱水症状を起こしているが、それでもなお立っているのは精神力のおかげか、あるいはこの島の異常な力のせいか。
「で、ありゃ一体何なんスかね」
「タコだかウミユリだか。少なくともこの世にいていいものじゃない」
「生き物かどうかすら怪しいっつー……」
「となれば、ボクたちが取れる手段はひとつだけだ」
「?」
「“深く考えるな”だよ」
白ワンピースをまとった触手の群れは人型に戻ったり崩れたりを繰り返していた。にょん、と伸びた触手が宙に舞う麦わら帽子をキャッチし、そのままニジノの胴体に回る。
ニジノは抵抗せず、あくまで落ち着いて身を任せている。彼女はまるで暑さなど感じていないかのようだ。
触手がグネグネと動くたび、周囲に向日葵が咲いていく。
あつい
「船は?」
「まだ。でも、たぶんもうすぐ来るかと」
「それってカン?」
あつくない?
「こういう、何もかも常識外れの状況でアテになるのはカンだけなんスよ。……って、前にアネキが言ってたんで」
「なら、それを信じる。それなら早くニジノさんを引き剥がさないと」
誰に言われるでもなく、ホトハラはもう一度前に出る。前衛を務めるのは自分の役目――それ以上に、ニジノに対しては自分の手でケジメをつけなければならない――と分かっているからだ。
「んじゃ行きますか」
あ つ
怪物が勢いよく身をよじらせる。大きな触手の塊が切り離され、ホトハラに向かって放たれた。ホトハラは拾い直したバス停看板ブレードを振り抜き、それを打ち返す。放物線を描いて飛んでいった触手の塊は防波堤のコンクリートに叩きつけられ、黒いシミと化した。振り抜きざまに地を蹴って再び怪物の元へと走り出していくホトハラの横を、もう一つの小さな影が素早く通り過ぎる。
「ホトハラ上等兵」
「ご無事でしたかね、ムーア特技兵」
「僕が。あいつをとめる。その隙に。目標を達成。せよ」
「イエッサー」
あつあ あつあつあ
人ならぬ素早さでムーアが駆ける。行く手を阻むように大量の向日葵が発生するが、彼が一瞥するだけでそれらはすぐさま萎び枯れ、コンクリートの地面に倒れ込んでいく。さらに触手も伸びるが、彼の身体には少しも届くことはない。
「この島には。ひまわりなんて。咲かないんだ」
その言葉は静かな怒りに満ちていた。
ムーアの接近により、ニジノを拘束する触手の一部が水分を失い乾燥していく。拘束が解け、そのタイミングでホトハラが一気に駆け寄る。
「アンタはこっちに来るんだよ!」
ホトハラが手を伸ばす。その腕に新たな触手がまとわりつく。振り払う先から次々と伸び、ニジノの奪取を妨害する。
この こ はまだ ここ
ここここここ
ニジノは魂が抜けたように呆然としている。
口元に、ほんの少しの笑みを浮かべながら。
ここここここ に いたががががが ってるるるるるるるる
よ
―――
ニジノは視線を移し、海を見る。
――水平線の向こうから、一隻の船がやってきた。
ああ、もう迎えがきちゃった、と彼女は思う。
楽しい夏休みも終わり。ほんの一夏の思い出。優しく接してくれた島のみんな。静かで涼しい夏の夜。おいしい料理。夜中に食べた甘いスイカ。夏祭り。どれもが都会の中にあっては決して体験できなかったもの。もし台風が来なければ、もっと素敵な夏になっていただろうか。みんなは気にしないでいてくれたけど、結局この島は壊れてしまった。
手を引かれる。船が来る。そうして“夏”が終わる。
―――
だめ
―――
「ぐあああっ!」
ホトハラが痛みに叫ぶ。
ニジノを引き寄せるべく掴んだその腕に、一輪の小さな向日葵が咲いていた。
「ホトハラ!」
エビナが悲鳴に近い声を上げた。駆け寄って助けだそうとするが、その周りを向日葵が囲んで妨害する。
「任せろ」
代わって立ち上がったのはクモカワである。大ぶりなSOGナイフをナタのように振り、向日葵を刈り取りながら進んでいく。刈る。進む。刈る。踏みしだきながらさらに進む。どこまでいっても向日葵。また向日葵。そして向日葵。異常活性された“夏”は行き場を失い、あちこちに向日葵を咲かせていく。
「船が来たらしい。もうここは持たん。先に行っていろ」
「でも……ホトハラが」
「どんな時でも、危機に陥っている部下達を救出するのは隊長の役目。仲間は必ず助ける。それこそが軍人なのだ」
クモカワはこの期に及んでまだ相変わらずの口調だったが、今はそれすらも頼るしかない。彼の言う通り、ここはもう持たないだろう。港町だけではない。この島自体がもう持たない。
だめ だめだめ
このののこここここは ここに のこる って
「ホトハラ上等兵!」
「ああああああああ畜生!」
「口を閉じていろ! 舌を噛むなよ!」
そうしてホトハラ達の元に辿り着いたクモカワは、ホトハラの腕に咲いた小さな向日葵の茎を掴み、根に絡み出した腕の肉ごと無造作に引き抜く。その痛みに、ホトハラが声にならない声を上げる。
「ひっ、引き抜く時は……抜くって……」
「残念ながらモルヒネはない。だが軍人なら痛みは耐えるものだ」
「他人事だと思いやがって!」
肉ごとむしり取られて出血しながらも、ホトハラはまだニジノの手を掴んでいる。そこにクモカワの手も加わり、二人はなんとかニジノを触手から引き離そうとする。
だめ だめ だめだめだめ
触手の群れは抵抗を繰り返す。無作為に暴れる触手をムーアが制し、ニジノを救う二人の血路を開く。暑さと異臭、向日葵と不可解な触手に彩られた、地獄のような光景。
「ムーア上等兵! お前も撤退しろ! 船まで行くぞ!」
叫ぶクモカワに、ムーアは視線を合わせる。そして、ふ、と笑う。
なつは まだ おわらない
「クモカワ大尉。自分は。ここに。残ります」
―――
あつ い
―――
神は思う。
――あのまま“夏”に取り込まれていれば、それはそれで楽だったかもしれない。二度と正気を取り戻すことなく、この島で暮らすことが出来ただろう。元よりこの島から人はいなくなっていた。信仰を得ることもなく、朽ちていくだけの神の一柱となっていたのだから。
だが、神はさらなる狂気を知った。そうして再び目を覚ました。
この島にもう人はいない。それは仕方がない。それでも、あのよく分からない外来種になど明け渡したくなどない。向日葵に埋め尽くされるなどもってのほかだ。神は狂気を知り、その中にある“抗う心”を見た。
「これは上官命令だ」
「ではその命令にさからいます。これよりムーア特技兵は。部隊を。離反します」
この島を守るのは、自分の役目だ。
信仰と共に生まれた神は、ここで自我を得た。
「僕は。軍人から。この島の神に。戻ります」
「……俺にとっては、お前が何者であろうと関係ない。お前は俺の部下だ」
「ありがとう。ございます」
だから思い出せ。強く念じろ。
「――ではムーア特技兵。これよりこの島をベトコンどもの手から守れ」
「それは“お願いごと”ですか?」
「“命令”だ。援軍が来る……いや、俺達が再びここに来る、その日まで」
自分の役目は、ただ一つ。
「来てくれますか」
「ああ。それまでは、ここがお前の島。お前の基地――『フォート・ムーア』だ」
「……さー。いえっさー。ムーア特技兵。めいれいをすいこうします」
この島を――正しい“ナム”にする。
―――
もうかえっちゃうの?
―――
そして。
先に辿り着いたエビナが船へと乗り込む。ゆらゆらと揺れる船体に足をとられながら、転がり込むように。
「おい、エージェント・エビナ。着いてそうそう何だが、色々言いたいことがある」
「手短に」
船を操縦していたタコがペットボトルの水を投げ渡す。エビナは礼もそこそこに一気に三分の二ほどを飲み干し、残りを頭から被った。
「一つ目。お前のその格好は何だ」
「聞かないで」
「二つ目。あそこで暴れてる気持ち悪いヤツは一体何だ。向日葵……触手……いや、今まで不思議なモンは多く見てきたが」
「……“夏”だよ、エージェント・タコ。この島を乗っ取っていた……バケモノだ」
「じゃあ三つ目だ。他の奴らはどうし――」
「今来る。ぜったいに」
太陽が昇ると共に、いよいよ気温は上昇していく。
触手と向日葵の暴走をムーアが単体で食い止めるその隙に、ホトハラ達は船に駆け込んでいった。
「っ、ホトハラ! その腕!」
「なぁんてことねえッスよセンパイ」
「……心配したんだぞ。キミだけ残したら、ボクはここから降りるつもりだった」
「仲間の信頼には応えるものだって、アネキが言ってましたんで」
タコは船体のクーラーボックスから続けて人数分の水を取る。残り三人分。ホトハラ、ニジノ、そして――予想外の脱出メンバーであるクモカワ。
ホトハラとエビナはお互いに肩を預けるようにして座り込み、半日ぶりの水を勢いよくあおる。異常な日光に照らされ続けた船体の上は火傷するほど熱かったが、そんなものはお構いなしだ。
「終わった、んスかね」
「たぶんね」
ボトルの水を飲み干すホトハラの喉がぐびぐびと鳴る。
「傷、大丈夫?」
「今は痛くないッスよ、今は。……手が動かなくなるかどうかは、帰ってからじゃないとわかんないッスけど」
「良くなるといいね」
―――
二人の任務は成功した。エージェントが“夏”に関わる任務について、それを達成できる確率は半々。達成してなお生き残れる確率は、そこから数割。その数割を彼らは掴んだ。けれどそこに達成感はない。達成したとしても、戻ってまず受けるのは賛辞の言葉ではなく、スクリーニング検査と――そして記憶消去だ。あれだけの長時間“夏”に晒されたのだから、その後の処置は徹底的なものになるだろう。
「ありがとうございました。センパイ」
ホトハラは大きな身体を屈め、エビナに寄った。
「こっちこそ。キミがいなかったら、ボクはとっくに“夏”に飲まれてた」
「任務なんで……とカッコつけたいところッスけど……まあ、仲間ってのは大事にしとくもんだって言われてたもんで。行動も言葉も、全部、アネキの受け売りッスよ」
「そういうのこそ“カッコつけてる”っていうんだよ」
二人は顔を見合わせて笑う。
本土に帰れば、この任務も記憶もすべて忘れるだろう。
けれど、それまで二人は“仲間”のままだ。
「まあ、とりあえず」
「うん」
「ええと……もしかして、同じこと考えてます?」
「うん」
「じゃあ、言いましょうか」
「そうだね」
「せーの」
「せーの」
「「もう二度と、こんな島なんて来たくない」」
―――
一方……駆けつけに渡された水も飲まず、港に目を向ける人間が二人。
一人はクモカワ。彼は船に乗り込んでなお少しも表情を和らげない。
彼にとって、この任務は成功であり失敗だ。部隊の裏切り者である大佐はこの手で葬った。
「だが、部下を全員救うという任務は――」
そこまで呟いて言葉を止める。否、あれは失敗ではない。ムーア特技兵は任務内容を更新した。それだけのことだ。刻々と変わる戦況に対応するのが軍隊で、そこに私情を挟むことは許されない。
「……俺は必ず還る。ペンタゴンの援軍と共に。いや、援軍など無くとも、俺一人ででもここに還るだろう」
―――
もう一人はニジノ。彼女もまた、助けられたという実感も沸かぬまま、呆然と港町を見つめていた。彼女に課せられた任務は成功だった。けれどそれは、彼女の想いとはまったく別のものだ。
あの場所はニジノにとっての“理想の夏”だった。無垢なまま“夏”に放り込まれたニジノは、その状況をひとつも疑うことなどなかった。夏期休暇に胸を躍らせながら降り立った港町。それらの美しい景色ははもうない。あの涼しい空は今や灼熱の気候に飲まれ、優しかった人々はみな溶けてしまった。夏が終わり、来た時と同じ船で帰る。たったそれだけなのに、何もかもが変わってしまった。
ねと、と例えようのない感触を首の後ろあたりに感じる。手に取ってみると、小さな触手の欠片が彼女の肌にこびりついていたらしい。はたき落とすでもなく、ニジノは周りの人間に見つからぬよう掌の中に包み込む。間もなくそれは乾燥し、あの腐葉土のような臭いを残しながら干からびていく。
の
―― たのしかった?
頭の中で声が聞こえる。ふと顔を上げると、離れていく港町のコンクリート埠頭に、白ワンピースの少女が立っていた。彼女はこちらに手を振っていた。他の人間はまったく気づかなかったが、ニジノだけはそれが見えていた。
た の しかった?
「うん」
よかった
ニジノは島に向かって手を振りかえす。例えそれが“夏”の見せた幻想であっても、間違いなくあれは彼女自身の思い出だ。楽しいこともたくさんあった。それだけは彼女にとっての事実だ。
ニジノの顔に笑みが戻る。
熱波に包まれ、壊れゆく島に向かって呟く。
「楽しかった。また来るね」
―――
こうして、彼らの“夏”は終わった。
また きて ね
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