ー灼夏ー ACT.7

 人々の願いは時に大きな力をもたらす。

 その願いが切実であればあるほど、力は高まっていく。


 晴れてほしい。なぜならば、それらは明日の生活に繋がるから。

 雨が降ってほしい。なぜならば、それらは生きることに繋がるから。


 彼はそこに住む人々の願いの力強さを感じ取っていた。

 だから愛おしく、だからずっと見守っていきたいと思っていた。


 それでも時代は移り変わっていく。やがて人々は自分達の力で明日をつかみ取れるようになり、不便な島から人は少しずつ姿を消していった。けれど。それもまた人間の強さなのだと彼は考えた。だからどうとも思わなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。長閑で穏やかな暮らしなど、今も昔も何処にもないということだ。島で暮らそうと、街で暮らそうと、何処へ行こうとも、日々を暮らすためには懸命に生きなければならない。いつの時代も、それは変わらない。彼自身がいつまでも変わらないのと同じように。


 だが変化は不意に訪れた。“彼女”が島を支配したのだ。


 ある意味では彼女も同じ存在だった。だから自分も取り込まれてしまったのかもしれない。人々の願いを受けて彼女が叶える“理想”がひどく歪なものだと気付いたのは、何もかもが手遅れになってしまってから。遙か彼方から訪れた彼女は、人々の願いを取り込み、そして歪ませる存在だった。善意も悪意もなく、ただ無邪気に。ただ何の感情もなく。深い闇をたたえたあの黒い石版のように。

 そのうちに彼女は“ものがみさま”と呼ばれるようになった。彼もすっかり取り込まれてしまっていた。あるいはこれも楽園かもしれない。あるいはこれも願いのカタチなのかもしれない。皆が幸せそうならそれでいい。そう思ってしまってもいた。そうして彼は変えられてしまった。それを為すだけの力があの“ものがみさま”にはあった。


―――


 そんな中、彼はひとつの心に出会った。この島を取り巻くモノに抗う強い魂に触れた。どんな状況でも決して諦めない人の強さに出会った。例え狂気の果てに辿り着いた魂であったとしても、それは確かに強さだった。

 晴れてほしい、という願いも聞いた。それは長く久々に聞いた、強い強い願いだった。“夏”に支配されたはずのこの島に、まだ人の想いが残っていることに気付いた。


 そして今。


 再び変化を遂げた彼は、ここにいる。


―――


 夜になっても気温は下がらない。

 昨日までの“涼しい夏の夜”などというものは存在しない。令和の猛暑は夜さえも塗り潰す。湿気と熱のこもった夜風が、島中に吹き渡る。


「“表”の港にタコのダンナが迎えに来るのは明日の朝だ。日が昇るのは五時くらいだな。もっと早いかもしれねえし、遅いかもしれねえ」

「確証は?」

「あるわけねえよ。でも無線で言いたいことは伝えた。それを信じるしかねえ。それまでにオレ達は“ゆるふわちゃん”を助けて、アンタは“大佐”と決着をつける。そしてこのイカれた島から抜け出す。全員で」

 この島はもう壊れてしまった。台風に吹き飛ばされ、そして台風一過の猛暑にやられて、やがて“夏”を作り上げていたあらゆるものが崩れ落ちていくだろう。それだけでも彼らの成し遂げたミッションは大義の成果だ。後は――無事に逃げられるかどうか。

「オレはこんなところで死にたくねえ。みんな死にたくねえ。だからセンパイも助けた。こんな場所からは一刻も早くオサラバして、こんなクソみたいな記憶もすっかり消してもらう。アンタだって命は惜しいだろ?」

「命など惜しくはないが、この戦争に決着をつけるという使命がある。そのために死ぬわけにはいかない」

「まあ何でもいいけどよ」

 眠りについているエビナの横で、ホトハラとクモカワは順番に休息を取る。時間は惜しくとも、彼らには少しの間だけでも身体を休める必要があった。この熱帯夜では、快適に眠ることなど出来はしないが。


 ぱちん、とホトハラは自らの腕を叩き、止まっていた蚊を叩き潰す。残っていた虫除けの塗り薬は、ほとんどエビナに使ってしまった。


「ひとつ聞いてもいいか」

「んあ」

「この者は、お前にとっての何なのだ」

 寝息を立てるエビナを差してクモカワが言う。エビナはムーアを抱きかかえ、空調服に身を包んで眠っている。なぜあんな水着?を着ているのかを喋ることはなかったが、察しはつく。というか、カニエの仕業以外に思い当たるフシなどない。

「……強い戦闘力やサバイバルスキルがあるわけでもない。作戦に必要な能力やタフネスはすべてお前が持っていると見たが」

「単純だよ。訓練の時、センパイはオレに勉強を教えてくれた。他の連中はオレに声も掛けなかったのに、センパイだけがフツーに接してくれた」

「それだけか」

「そんだけだよ。聞けば向こうも同じような状況だったらしくてな。早い話が“はぐれ者”同士だったってわけだ。元々、エージェントにマトモな奴なんかいねえんだけど」

 ホトハラはクモカワを見る。そもそも“マトモな奴”ではこの状況で生き延びることはできない。だから自分たちは元よりそういう扱いなのだ。

「力が強いかどうかなんて、この“夏”の中では大して関係ねえ。ただ心だけは別だ。一人でいたんじゃ、あっという間に取り込まれちまう。だからオレもセンパイのことが必要なんだよ。お互いに背を預けられることが重要で、オレにとってセンパイはそういう存在だった。センパイも……そう思ってくれてるといいけどな」

 アンタはどうなんだ、と言いかけてホトハラは言葉を飲み込む。見れば分かる。クモカワは一人になったから狂った。ただ、取り込まれるかわりに別の狂気を見い出した。それだけだ。


―――


 あっついね


 よるになっても あっつい


 あーあ ねえ みて うで

 こんなところ さされちゃった


―――


 ――全身が総毛立つ。


「誰か!!」

 クモカワが立ち上がり、カービンを構える。眠気に誘われかけていたホトハラも、エビナも、ムーアも、全員がその気配に気付いた。


 それは、既に彼らの目の前にいた。


「ニジノ!!」

 闇に浮かぶワンピース水着姿の女。ホトハラはその名を叫ぶ。

 ニジノはそこに立ち なにしてるの? 無邪気な笑みを浮かべていた。

「こんなところで何してるの?」

 なにしてるの?

「それはこっちの台詞だぜ」

 答えながらもホトハラはじりじりと後退し、ニジノと距離を取った。彼だけではない、その場にいる全員が すずしいところにいこうよ 突然現れたニジノを警戒している。正確にはニジノ本人ではなく――背後にいる“それ”に。


 気温が下がる。先ほどまで蒸し暑かったはずの場所が、先ほどまで蚊や虫が鬱陶しく飛び回っていたはずの場所が――肌寒いほどに涼しくなっていく。


 麦わら帽子に白ワンピースの少女。


 ……だったもの。

 …………少女だった、何か。


 クモカワは無言でカービンの引き金に指をかけた。

 ホトハラは慌ててそれを制する。

「何故止める!」

「アイツに当たったらどうすんだ!」

「奴は既にベトコンどもの内通者と組んでいる。もはや救出すべき対象ではない」

「そりゃそうかもしれないが……いや、でも、やっぱダメだ」

 それは単なるカンでしかなかったが――ホトハラには、ニジノ自体は“まだ”マトモであるように見えた。もちろん既に“夏”に侵された存在なのには違いないが、カニエやガトウのそれとは別の――……明確に、何が違うのかと言われれば説明し難いが。

「とにかくダメだ」

「貴様、上官の判断に逆らうか」

 クモカワはカービンを構えたまま。エビナは目の前に佇む“それ”が理解できずに呆然とし、ムーアを抱きかかえたまま硬直している。そしてムーアは……怖がることもなく、無表情で、じっと“それ”を見つめていた。

「イカれてようがなんだろうが、こっちはあの“ゆるふわちゃん”を連れて帰ってこいって命令受けてんだよ。それに」

 ホトハラは腰を低く落とし、一歩一歩と前に出る。“それ”に近づくたびに例えようのない異臭が鼻をつき、全身が警告を放つ。それでも彼は誰よりも前に出る。

「どうも“臭いの元”はそこにいるみてえだしな」


 なつ  なつ あっついね なつ


 わたしの

 どうなっちゃったの?


 白いワンピースが あはは 夜の闇に浮かんでいる。そこから生えているのは細く透き通るような肌の手足……ではない。ぬらぬらとした粘液に光る あはははははは 触手が全身を覆い尽くしている。もはや少女ではない。この世のものですらない。

 それでも、ご丁寧に、麦わら帽子はちゃんと被ったまま。


「やっぱり。きみは。そういうそんざいだったんだね」


 みんな みんな


 あはははは

 なつ は みんな


^^ ^^ ^^ ^^


 たのしい?


^^ ^^ ^^ ^^


 ――“それ”は名状しがたきもの。

 地獄のような猛暑に晒され変質した、かつて“理想の姿”であったもの。


 みんな は なつ が            すき?


 ホトハラ達の周りを囲むように向日葵が咲き、すぐさま黒ずんで枯れていく。枯れた向日葵は触手となり、蠕動を繰り返す。

 ぶびゅ、と粘ついた音と共に触手が一斉に伸びた。それらは空中で弧を描き、正確にホトハラに向けて襲いかかってくる。


「ニジノ! こっちへ来い!」

「なんで?」

「なんでもクソもあるか!!」

 ホトハラが駆ける。コンマ数秒前まで まだ だいじょうぶ 彼のいた場所に触手が突き刺さる。

 この しまには まだみんな いるから

「この子は私を連れて行ってくれるの。私が望んだ、あの景色に」

「そんなモノがここにあるわけねえだろ!」

 ニジノの元へと駆け寄る。ニジノの あははははは 手首を掴もうと伸ばした腕が触手に遮られる。そのうちの一本が ははははははは ぬらりと蠢き、ホトハラの二の腕に巻き付く。ようやく現状を理解したエビナが まだおわりじゃない! あまりの恐怖に叫ぶ。


 銃声。


 ホトハラを引きずり込もうとしていた触手が、クモカワの放ったカービンの銃弾を受けて吹き飛ぶ。血とも粘液ともつかない何かがあたりに飛び散る。

「この子は私と一緒にいてくれるのに!」

 ニジノの背後から、無数の触手が放射状に伸びてくる。それらは彼女を優しく包み込む。ニジノもまた、安寧を浮かべて受け入れる。

「あっ、あっ、あああ……」

 エビナは嗚咽に噎ぶ。

「全員、撤退しろ!」

「またかよ! 今度は後進じゃなくてか?!」

「撤退だ!」


 どうして ?

 なつ すてきなななななななな なななつつつつつばばあばばば

 まだまだだだだだだだままままま


 なつはかわらない

 みんなが おねがいするかぎり


 ニジノを包んだまま、怪異はゆっくりと浮上していく。涼しい風が再び林に吹き、得体の知れない異臭を運んでくる。決して逃がすまいと、周囲の黒い向日葵達はいよいよ高く咲き誇る。


 その瞬間。


「この島に。ひまわりは咲かない」


 エビナに抱かれていたムーアはその腕を優しく解き、すっと立ち上がった。

「ムーア、くん?」

「クモカワ隊長。独自行動を。申請します」


 彼が立ち上がった瞬間、周りを囲んでいた異形の向日葵達が身悶えるように苦しみはじめ、種を飛ばしながら次々と爆散していく。

 その、子供らしくたどたどしかった口調は一転し――。

「皆は。港に向かって。ください」

「……」

「あの人も。他の人達も。今。この島で動いている人達は。きっと。同じように。そこに集まってくる」

「こちらは心配するな。だがお前はどうする、ムーア特技兵」

「僕は。別の任務を。果たします」

 二人の視線が交錯する。やがて。

「……申請を許可する。ただし必ず帰還するように。これは命令だ」

「イエス。サー」


 敬礼をひとつ取ると、ムーアは飛翔した。尋常ではない跳躍力で、空へと浮かびはじめていた黒い触手の塊へと……自ら飲み込まれるように。


―――


 やがて静寂が訪れた。


 あたりを覆っていた空間が払われたのだろう、ふたたび湿気を含んだ熱帯夜の空気が戻ってくる。そして先ほどまで怪異がいた場所には、黒曜石のようなものでできた長方形の石版が転がっていた。


 ホトハラはそれを手に取る。


 ――こっちへ おいで


 頭の中に聞こえる声を無視し、彼はそれを無造作にポケットへとねじ込んだ。 

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