第4話 黒けきわが母

    04


 トキネは生き返ったわけではない。

 トキネを侵蝕した黒が、トキネと同化した。

 もっと端的に言うなら、黒がトキネになった。

 厳密に言えば、それはトキネではない。

 トキネにしか見えない、全然別の何か。

 トキネと同じ顔をして、トキネと同じ声でもって、トキネとは正反対の思考をする。

 単に意地が悪くなったのとはわけが違う。

 会話が成立しているようで、その実、悪意に満ちた毒を撒き散らすだけの異形。

 レーに見えていなくて本当に良かった。

 耐性がない善性にとって、あまりにも濃い致死の泥。

「おかえり、みふぎ」トキネだったものが笑顔で迎える。「自分で作った条件破らないように慎ましく禁欲してた? で、帰ったばっかのとこ悪いんだけど、いかがわしい種で孕んでないかチェックさせてくんない?」

「検査キットなんか使わなくても、この胎に何もいないことくらい見えてるだろ?」

 トキネの事務所の玄関。

 庇があるお陰で直射日光は避けられているが、そこそこに気温と湿度が高い。

 そうだった。

 ここは、避暑地とは違う。

 レーが怪訝そうにわたしとわたしの正面の虚無を見比べる。

「大丈夫だ。大丈夫だから、ここはわたしに任せて師匠のところに行ってくれ。そのまま修行に入ってくれて構わん。しばらく戻ってこんでくれるか」

「何かいるの? 誰が見えるの?」レーが首を振る。「駄目だよ、みっふーを二度と一人には出来ない」

「気持ちは有難いんだが、そうだな、例えるなら予防もなしに病原菌の中に丸腰で突入するイメージだな。絶対に感染するだろ? わたしなら大丈夫だ。むしろ、わたししか入れない」

「僕に黒が侵蝕するとどうなるの?」

「決まってるだろう。わたしが困る。手間が増えるからな」

 トキネだったものがレーに悪意の洪水を浴びせる。レーに聞こえていなくて本当に良かった。

 なかなかひどい人格否定だ。

「わかった。でも危なくなったり、ヤバいって思ったら連絡してね。修行中断してすぐ駆けつけるから。あ、みーちゃんどうしよう」

「みーを連れて東京暮らしは物件が限られるだろ? それに、なに、今生の別れじゃないさ。次に会うときは、わたしに安らかな眠りをプレゼントしてくれ」

「うん、みっふーも元気で。みーちゃんもばいばい」レーがわたしの手をぎゅうと握って、別れがたく手を離す。

 ありがとう。

 このままここにいてくれなくて。

 みーが、悲しそうな声で鳴く。

「へえ、たった一年で随分熟年感出てんじゃん?」トキネが鼻で嗤う。「でも残念。結婚なんか絶対させないし、二度と会わせてもあげない。みふぎが言ってた通り、今生のお別れってわけ。可哀相にね」

「可哀相の主語は、わたしじゃないな。無論、小張オワリ黎影レイヱでもない」

「えー、誰だろ?」

 みーがわたしの足に擦り寄る。この状況を怖がっている。

「ああ、その猫。猫じゃないの知ってた?」トキネがみーを抱き上げようとする。「あのとき死んだみふぎの赤ん坊の中身を引きずり出して、ちょちょいっといじくったらあら不思議、白い子猫になったんだよね。面白いからみふぎのとこにお遣いに行かせたら戻って来ないんだもん。そんなに楽しかったぁ?」

 みーが威嚇して、トキネの魔の手からすり抜ける。逃れるときに手を引っ掻いたらしく、トキネが自分の手の平をさする。

創造主お母さんに向かって、そうゆう態度はないんじゃない? 消されたい?」

「みー、逃げろ!」

 一目散に走り出したみーを、トキネが捉える。

 間に合わないことは叫ぶ前から想像がついていた。でも叫ばずにはいられなかった。

 確かに猫は苦手だった。猫どころが人間を含む生き物全般が苦手なのだ。

 単に慣れただけなのかと思っていたが、みーだけが特別だったことがようやくわかったというのに。

 知らないほうがよかった。

 みーは、みーと鳴くこともできずに、トキネの黒に吸収された。

「はい、おしまい。これで心残りは何もないよね?」

 お別れもできなかった。

 亡きがらもないから墓も作ってやれない。

 そういえば、わたしの子どもは。

「言ったじゃん」トキネが真っ黒い手を真っ黒の胸に当てる。「みふぎの赤ちゃんも、さっきの化け猫も、ぜんぶ、ここにいるわけ。人質ってやつ? 返してほしくば、違うな、一緒にいたいなら、私を祓おうだなんてよからぬこと考えないこと。わかったぁ?」

「お前を祓う? 何を言っている?」あまりに無力で笑えてきた。「これだけ世話になっておいて、恩を徒で返すなんて真似、義理堅いわたしにできるわけがないだろ?」

 トキネの黒い腕が私の肩に触れる。

「だよねぇ。よかったぁ。みふぎ、これからもうちの会社の役に立ってね? そのためにみふぎを生かしてるんだから」

 何を悲しんでいる。

 これまでと何ら変わらない。

 わたしは黒祓いの巫女。

 トキネの会社のために、死ぬまで黒を祓い続ける仕事をしなければならない。

 元に戻っただけだ。

 ちょっと寄り道が長すぎた。

 ここではない向こう側を知ってしまった。

 あっちはもっと。

 いや、隣の芝生が青く見えているだけだ。

 わたしのいるべき世界はこちら。

 黒く、ただただ真っ黒な闇。

 いつかわたしも染まるのだろう。

 この黒になる。

 わたしが呑み込まれたときは、一体誰がわたしを。

 いない。

 だれも、そんなニンゲンは。

 ■■■も、みーも、みんないなくなってしまった。

 ああ、だれか。

 わたしをこの黒から。












第4章 黒けきわが母




     1


 2週間後のお盆前、時寧さんの命日に、祖父さんと墓参りに行った。

 七回忌は去年済んでいたらしい。全然知らなかった。呼ばれていないのだから当然か。

 午前中からすでに暑い。首の後ろにじんわりと汗が滲む。

 経慶けいけい寺の奥の山は、そのまま墓地になっている。

 住職も立ち会ってくれたが、経をあげると、気を遣って先に寺に戻った。

 線香を供えて手を合わせる。

 死んだ自分は墓にはいないから泣かないで、という歌があった気がするが、確かにそうだ。

 時寧さんはこの下になんかいない。

「もっと早く連れて来てやるべきだったな」祖父が墓石を見つめたまま言う。

 蝉の大合唱がちょうどよく集中を削いでくれている。

 祖父がゆっくり立ち上がり、傾斜になっている地面の麓のほうを見遣る。経慶寺の本堂の屋根が見える。

 俺と眼を合わせる度胸がなかっただけだろう。俺と眼を合わせないように、何か他に見るべきものを探しているような視線だった。

「時寧に任せていた部署を伊舞が引き継ぐと言っていたが、あれはお前も関わっているんだろう?」

「も、じゃなくて、俺が、ですね。引き継げるものなら引き継ぎたいですが、俺には力不足で。前任者のような成果をあげられる確約ができません。あの部署はいつからあるんですか」

「質問の意図がわからんな」祖父が扇子で仰ぎながら言う。「あれば便利だが、部署を成り立たせる社員がいないなら、無理に存続させることもあるまい。そもそも不可能だろう」

「知ってるんですね。ぜんぶ」

 そうとしか考えられない。

 祖父は基本的に俺を放任しているが、俺を呼び出しても探りも文句も何もなかった。俺を呼び出した目的も、報告書の代わりというより単なる安否確認でしかなかった。

 この2年半。

 祖父が俺に伝えたのは、自分の死んだ妻の旧姓が納だったということだけ。

 無関心なのではなくて、最初からすべてを知っていたから、敢えて俺から聞く必要がなかった。

 みふぎさんがどういう状況で、みふぎさんがどうなってしまったのか、祖父は知っている。

 時寧さんのことも然り。

「鎌掛けか、尋問か。聞きたいことがあるならそう言えばいい」祖父がようやく俺を見た。「時寧も、源永もとえも、みふぎのような力はない。お前にだってないはずだった。ないと思っていたんだが」

「俺がみふぎさんの手伝いをしたのは、誤算だったということですか」

「誤算か。誤算。あり得なかったことが起こるのは誤算というのか」祖父が複雑な表情で自嘲する。「儂はどちらでもよかった。いや、そいつは言い訳だな。悪かったよ。お前を巻き込んで」

「祖父さんが謝る理由を説明して下さい」

「言ったろう。お前の祖母の旧姓を。それがすべてだ」

 想像できないわけではないが、これ以上追及するとまた知りたくもない事実を開示されそうだったので黙った。

 みふぎさんが俺の遠縁だったというだけ。

 たった、それだけだ。

「会長! 若!」車で待機していたはずの伊舞が声を張り上げながら斜面を駆け上がってきた。「社長が」

 隠れる場所は墓石の陰しかない。

 祖父のいる前で隠れるのも、祖父に悪いことをしているみたいでできなかった。

 違う。

 足が、動かなかった。

 社長が――母が、伊舞を押しのけて近づいてくる。

「もう父さん、私に内緒で姉さんに会わないでくれる?」母は、俺に眼もくれず、祖父に突っかかる。

 違う。

 俺はそもそも視界に入っていない。

 違う。

 母にとって俺は、この世に存在していない。

 空気か幽霊。

 ここには、自分の父と、社員の伊舞しかいない。

「姉さん、久しぶり。今日も暑いわね。まったく、こんな暑い日に死なないでよ。ここに来るまでに汗だくじゃない」母は墓石の前で屈んで手を合わせる。「父さん、線香余ってる? 会議終わって急いでたから用意できてなくて」

 祖父がライターで火を付けた線香を、母が供える。

 線香の煙が、風下の俺の顔にかかる。

 煙たくて顔を背ける。

「先生は来たの? 一人で来たいだろうし、暗くなってからなのかな。そうそう、そうだった。あんたの息子、ユキ、うちのメインプログラムにハッキングとかするのよ? 反抗期なのかしらね。こっちには伊舞がいるから別に被害はないけど、ちょっとお灸を据えてやってよね。きつーいやつ。これでも困ってるのよ?」

「予定はいいのか」祖父が尋ねる。「待ち人がいるようだが」

 伊舞の横で、見慣れない男(おそらく秘書)が何かを言いたげに腕時計と社長を見比べている。

「ありがとう。また来るわ、姉さん。元気でやってるから、心配しないでよね」そう言い残して、母は――社長は斜面を軽やかに下りて行った。

 後ろから秘書の男が追いかける。手帳を開いて次の予定を読み上げているようだった。

「さて、蕎麦でも食いに行くか」祖父が重たい空気を追い払うように明るい声を出す。「暑い日にはざるがいい。お前も来るだろ? 伊舞、一応確認してくれ。盆だから閉めてるかもしれん」

「わかりました」伊舞が後ろを向いてケータイを耳に当てる。

 本社が盆休みに入っているので、支部も準じたところで何ら問題はないだろう。緊急事態が起これば、そのときは伊舞の組んだプログラムが報せてくれる。

 それでも社長は休みなく働いているのか。

「亡くなったときのことを思い出さんように、ああやって動き回っているんだよ」歩きながら祖父が言う。「あの日は今日みたいに暑い日でな、盆休みだというのに朝から忙しなくしていてね」

「時寧さんはあの家で亡くなっていたんですよね」

 蕎麦屋は営業中とのことだった。

 祖父の車(運転は伊舞)に乗り込む。冷房が効くまで時間がかかるので、窓を開けた。風が生ぬるいが、車が動き出せば。いや、あまり変わらないか。

「誰が見つけたんですか? みふぎさんですか?」

「サネ、お前は、あの家で何をしているんだ?」祖父がちらりと振り返る。

 俺だけ後部座席にいるので。

ノウ家に依頼された仕事か?」

「話せば長くなるんですが、俺が小学生になった最初の夏に、あの家の噂を聞いて行ってみたら、たまたまノウ水封儀みふぎさんと初めて会いまして。それで、中に上げてもらったんですが、部屋があまりに汚かったので、掃除を買って出まして。そのあとずっと彼女は家に戻って来なかったんですが、家の維持をするために1ヶ月に一度は掃除に入っています」

「あくまで自主的にやっているんだな?」祖父は驚いたようだった。

「すみません、ちゃんと報告もしていなくて」

「誰かの役に立っているのなら問題はない。ほら、着いたぞ。続きは中でだ」

 11時。

 祖父の馴染みの蕎麦屋には前に何度か連れてきてもらったことがある。店内はそこまで広くないし照明も最低限で薄暗いが、こじんまりとしたところが飾っていなくて好感が持てる。客はカウンタに二人、テーブル席に家族連れ。店主が祖父に挨拶しに出てきて、奥の座敷に案内してくれた。

 この座敷もいつもの場所。祖父がいつ来てもいいように常に空けているのではないだろうか。祖父専用の席なのかもしれない。衝立で半個室になっているので、フロア客側からこちらは覗けない。

「話を戻してもいいですか」注文を終えたので祖父に向かい合う。

 俺の隣に伊舞、正面に祖父が座っている。

「時寧さんは」

久慈原クジハラ先生には、問題ないと言われとるが、いざとなったら」祖父が伊舞に視線を送る。

「いつでも」伊舞がケータイを手にしながらうなずく。

「何の話ですか?」

「何も知らんのだな?」祖父が言う。

「はい。ですから、何の話を?」

 祖父が茶を啜る。一拍置く意味合いだろう。

「祖父さん?」

「なぜお前があの家に出入りしていたのかはわかった」祖父が言う。「しかし、本当に憶えとらんとは」

 祖父は一体何の話をしているのだろう。

 伊舞は徹底して無言の立ち会い人と化しているし。

「あの、はっきり言ってもらって大丈夫ですけど」

「お前だよ、サネ」祖父がゆっくりと落ち着いた声音で言う。「お前が見つけたんだ。時寧が死んどったのを」

 ちり、と。

 頭の中で弾けるものがあった。

 でも掴もうとした手をすり抜けて消えた。

「お前のケータイの仕掛けについては、伊舞から聞いとると思うが」

 伊舞がすみませんでした、と頭を下げる。

「何度か機種変してるはずなんだが」

 まさかそのたびに?

 伊舞がなかなか頭を上げないのがその答えだった。

 俺にはだいぶ幼い頃からからリードが付いていたことになる。

「三十分間お前が移動しなかった場合、伊舞のところに報せが行くそうだが」祖父が言う。「この仕掛けの是非についてはお前たちのほうでやってくれ。本題とは関係がないからな。死んでいた時寧の傍にぼんやり座っていたそうだ。伊舞が急いで駆けつけたら、そんな状況だった。そうだな?」

「申し訳ございません」伊舞が再び頭を下げた。「若が憶えておられないようだったので、久慈原先生に相談して、若が思い出さない限りはあえて触れる必要もないとご助言をいただきまして」

「謝られても、憶えてないものは憶えてないんだ。だからお前が気にする必要はない。俺が殺したんじゃなければな」

「冗談でも言うものではない」祖父が強めに言い放つ。俺を諌めるように。「目立った外傷は何もない。あいつは怪我こそ絶えんかったが、小さい頃から病気一つしていない。それこそ警察にいろいろ聞かれたし、何度も調べさせたが、他殺でも自殺でもないという。敢えて云うなら自然死という不審死。死因はな、いまだによくわかっとらんのだ」

「祖父さんは思い当たってるんじゃないんですか?」

 黒だ。

 黒が侵蝕して。

「いまの話を聞いて、俺には思い当たっている死因があります」

「言わんでいい。言う必要はない」祖父が首を振る。「できたらしい。食おう。腹が減った」

 店主が衝立の蔭から顔を見せた。話が盛り上がっているのでタイミングを見つけられずに待機していたらしい。

 話を中断して、ざる蕎麦と天ぷらを食べた。いつもの味だった。食べ終わるのは、俺が一番遅かった。

「お前を葬儀に呼ばなかったのは、なにも源永に配慮してのことじゃない」祖父さんが蕎麦湯を飲みながら言う。「伝えるのが遅くなったな。お前のことは、ずっと伊舞に報告させていたし、久慈原先生にも相談をしていた。お前には、見えているのか?」

「見えたり見えなかったりですね。安定して見えてるわけじゃないんです。この仕組みについて、何か知ってるなら教えてください」

「本人が頑なに隠しているから敢えて槍玉には上げんが」祖父が言ったのは、従兄のユキのことだ。

 ユキには見えている。

 黒が見える。

「納の血を引いた男には、見えることがあるらしいな」

「女性の場合は、祓えるんですよね? みふぎさんやその母親みたいに」

「らしいな」

「ということは、時寧さんや母――社長にも」

「それはない」祖父は食い気味に言った。「ないんだ。それだけはない」

「そう言い切れる理由を聞かせてください」

「悪いが理由は言えない。言えないが、あの子らにはその素因はない」

「ないことにしたい、という祖父さんの願望でなくてですか?」

「悪いがこの話はここまでだ。伊舞、車を回してくれ」祖父が立ち上がる。

 納家との因縁は、俺が思っているより根深そうだ。

 小張オワリの家を嫌いな理由もここに関係しているのだろうか。

 考え事をしていたら、祖父さんの家に連れて行かれた。伊舞は玄関で待機するらしい。

 居間に通された。住み込み家政婦の手束テヅカさんが冷たい麦茶と水羊羹を持ってきてくれた。

「何かお話があるんでしょうか」祖父がなかなか口を開かないので先を促した。

 よく手入れの行き届いた庭木が見える。

「まさか、お前が見えるようになるなんて、思っとらんかったんだ」祖父がぽつりと言う。座椅子がぎいと軋んだ。「ユキの奴は事故みたいなものだが、お前にもそんなことをさせたくなかった」

「そんなことというのは、黒祓いに関わることですか」

 祖父の手が、結露で濡れたグラスをつかむ。

 飲むわけではなくて、ただ手の平を冷やしたかっただけのようだ。

「いい加減話してください。もう俺は当事者なんです。フィアンセだって、結局」

「掃除に行くのは構わん。だが、もうこれ以上関わるのはやめてくれ」

「祖父さんも見えているんですね?」

「黒に関わった者がどうなるのか、知っていたはずなんだ。だからこそもう二度とこうならんようにしたというのに。時寧がああなったのは、儂が止めんかったからだ。あの部署は廃止する。お前だって」

「質問に答えてください。時寧さんの遺言て何だったんですか?」

 祖父がゆっくり立ち上がり、部屋を出て行った。すぐに戻ってきて、見覚えのある水色の封筒をテーブルに置いた。

 宛名の代わりに時寧さんの字で、こうあった。

  みんなへ

「見てもいいですか?」

「時寧が死んでいた隣で、お前が握り締めていた」

「全然覚えてませんけど」

 確かに封筒は、一度ぐしゃぐしゃに握られたような痕跡があった。重しを載せてしわを伸ばした形跡もある。

 便箋が2枚。

「本当は5枚あった。すでにそれぞれの相手に渡してしまったから、全部じゃない。儂と、源永、ユキ、久慈原先生、それともう一人」

 みふぎさんだ。

「お前だよ。実敦さねあつ。まずはそれを読みなさい」

 なぜみふぎさん宛てになかったのか。

 それを考えながら眼を通した。


  あっくんへ

  もし最期の最後に会えなかったら読んでね

  もっちゃんにあっくんを産めってゆったのは、私

  だから、もっちゃんや父さんを責めないでね

  悪いのはぜんぶ私

  だから、私が死ぬのは全部私のせいの自業自得

  生半可に顔を突っ込んだせい

  あっくんはこうならないでね

  もしこの先万一見えちゃってもどこかのユキみたいに見ないフリが一番

  あっくんがずっと悲しい思いをしてたのも知ってるよ

  でもこっちには来ないように

  生きてれば、楽しいことがいっぱいあるよ

  あっくんに楽しいことがいっぱいいっぱい訪れますように

  私が言えた義理じゃないけど、地獄から祈っています

  地獄からって不吉か

  ごめんごめん

  変な感じになっちゃったけど、私はあっくんが大好きだよ

  あっくんの、実敦くんの幸せを願っています

  さようなら

  身勝手でお節介な時寧おばちゃんより


 なんで。

 これを。

「もっと早く見せてくれなかったんですか!」

 溢れて零れてきた。

 悔しさと悲しさといろんな感情がぐちゃぐちゃに煮え返る。

「見せたよ。お前が憶えとらんかっただけだ」

 頭の隅でちりちりと弾けるそれは、黒よりももっと深い。

 暗黒。

 その暗黒に呑み込まれていく優しい顔の女性は。

 誰だ?

「サネ! 大丈夫か?」祖父が俺の肩を支えてくれていた。

 顔が、

 なぜかテーブルの寸前に面している。鼻すれすれのところで停止していた。

 頭がくらくらする。

「少し休んだ方がいい。いま、先生を」

「大丈夫です。大丈夫だから、祖父さんが知ってることで、俺が憶えてないことを教えてください」

 祖父さんは、手束さんに頼んで薄い敷き布団を持ってきてもらった。泣いているのを誤魔化したくて、手束さんには顔を背けてしまったが。

 まさか。

「そこに寝なさい」

「だから大丈夫ですって」

「寝ないと話さんが?」

 もともと寝転がらせておけば、眩暈が起こったとしても倒れる心配はないだろうが、寝たまま話を聞くのは落ち着かない。

「黙って寛いどればいいんだ。夏休みに祖父さんの家に遊びに来とる孫なんだから」

 それはそうだが。

「話さんでいいのか?」

「わかった。わかりました。これでいいですか?」

 夏布団はひんやりとしていて気持ちがよかった。

 祖父さんは満足そうに頷いて、俺の近くに胡坐をかいて座った。

 そして、大きな手を俺の頭にのせた。

「儂の妻――お前の祖母の名は、納」

 みふぎ

「という。時寧が世話をしとったあの娘とは漢字が違うがな」

 どんな漢字と聞くよりも前に、祖父さんは古い写真を俺の顔の前に出した。

「みふぎさん?」

「そっくりだろう。吃驚したのは儂だよ。まるで生き映しの生まれ変わりだ」

 写真は、祖父さんらしき若い男とみふぎさんそっくりの祖母(順番的には逆だろうが)と、もう一人同じ年代の青年が並んで映っていた。場所はここの縁側だろうと思う。この特徴的な庭石に見覚えがあった。

 写真を裏返すと、祖母さんの名前の漢字表記がわかった。

 深風誼みふぎ

「随分印象が変わりますね」

「あの娘に会ったときにこれを見せたら、じゃあわたしもみふぎがいい、でも漢字が気に入らないから変える、と言って、水封儀みふぎと名乗り始めた。もともと本名で仕事をするのは危ないらしいからな。あの娘の母親も、本当は結ぶ舞いと書いてゆいまと読むのだが、むすぶという名にしていた」

 わたしもみふぎがいい、なんて。

 みふぎちゃんと同じことを言っている。

 ちょっと面白くて笑ってしまった。

「これ以上黒に関わるのはやめてくれ」祖父さんが言う。懇願のように聞こえた。「お前まであいつや時寧のようになるのは見てられん。あの家の管理も、お前だけにやらせるつもりはない。今後は本社のほうで」

「経慶寺や市内のあちこちに溜まった黒を、みふぎさんの家に集めて祓っていたんでしょう? それなら尚更、俺以外の人が出入りするのは危なくないですか? 俺にやらせてください。そもそも俺なんかどうなったって」

「お前は源永の息子で、儂の孫なんだ。どうなったってよくはないよ。何度も言っているように、源永がああなのは、少なくともお前のせいではない。お前が引け目を感じる必要はないんだ。堂々としていてくれ。お前は儂の自慢の孫なんだから」

 祖父さんが本心からそう言っているのはわかった。

 でもそれでも、俺の中で燻っているこれは、一朝一夕の励まし程度でどうにかなるものではない。

「今回の婚約者騒動は、時寧の遺言の一部だ。お前のところに現れたのは、人か黒か」祖父さんが時寧さんの手紙のもう一枚を俺に差し出す。

 読めということだ。


  父さんへ

  おとなしく父さんの言うことに従っていれば

  こんなことにはならなかったのかな。

  でも後悔はしてないよ。

  私は私のやり方で、会社の、父さんの役に立ちたかった。

  ユキのことはどうか放っておいてやってね。

  関わらなければ大丈夫って教えてくれたのは、父さんでしょ?

  ユキと、もっちゃんを守れるなら、私はなんでもした。

  だからどうかお願い。

  もっちゃんのこと守ってあげて?

  もっちゃんが関わらなくて済むように、

  

  

  

  ちがうちがう。ちがう。

  何書いてるんだろう、私は。

  ごめん、見なかったことにして。

  書き直すだけの時間がないの。

  もう私には時間がなくて。

  私はもうすぐいなくなる。

  死んでからもっともっと迷惑かけることになると思うけどそのときは―――


 この先が黒で滲んで読めない。

 文章の途中も黒で消されているが、そちらはかろうじて文字が判別できる。ボールペンぐちゃぐちゃに線が引かれているだけなので。

 この黒は、あの黒なのか。ただ塗りつぶしているだけの黒なのか。

 塗りつぶす?

 黒で?

 なんだ?

 この引っかかりは。

 みふぎちゃんのことを思い出して胸が詰まった。

「封が開けられていたんだ。お前が握り締めていたこれの」祖父が封筒を見せる。「座っていたお前の足元に、びりびりに破いた便箋が散らばっていたらしい。片面を黒く塗りつぶされていたせいで、もともと何が書いてあったのか、誰に宛てた手紙なのかはわからんかったが、何か思い出せるか?」

 片面が黒く塗りつぶされた便箋。

 つまり。

「時寧さんが、黒を」

 追い払った?

「時寧にそんな力はない。はずだ。納の血を引いている男には、根本的に黒を祓う力はないが、黒が見えたり、黒を一時的に追い払うことができるらしい。消去法で悪いが、あの場に時寧とお前しかいなかったのなら」

「俺が、やったってことですか?」

「時寧にできんなら、あの場に他に誰もいなかったのなら、お前しか」

「俺が時寧さんを祓ったていうんですか?」

「可能性の話をしとる。別にお前を責めとるんじゃない」

 ちりちりと頭の奥で爆ぜる。

 この黒い色は。

 誰なんだろう。

 誰が、

 誰か。

 黒を。

「なあ、サネ。最期に時寧が何と言っていたか。憶えとらんか」そう言って、祖父さんは片手で俺の両の眼を塞いだ。








     3


 掃除をすると言ったはいいが、前回はほぼ勢いで出向いたので満足とはほど遠く。

 なので早めに2回目の掃除に来た。

 8月の暑い日。

 ここに来るだけですでに汗まみれだ。

 呼び鈴を押す。

 返事はない。

 隠してある鍵で玄関を開ける。

「お邪魔します」万一眠っていて気づかなかっただけの場合を想定して挨拶もする。

 室内はしんと静まり返っている。

 靴を脱いで中に入る。

 誰かの、

 頭が見えた。

 あの人が寝転んでいるのかと思ったが、違う。

「時寧おばさん!!」

 なんで?

 なんでここに?

 時寧おばさんは、畳の上にうつ伏せに倒れていた。

 血が出たりとかどこか痛そうだったりはなさそうだったけど、病気のほうかもしれない。

 とにかく救急車だ。

 電話を持つ手が震える。

 救急車は何番だっけ。気が動転して思い出せない。

「みふぎ?」

「おばさん! 大丈夫ですか? おれです。実敦さねあつです」

「え、あっくん? ひさしぶりー」前髪の合間からのぞく時寧おばさんの眼が薄っすらだけど開いた気がした。「救急車呼んじゃった? 呼ばなくていいよ。病院じゃ私は治せないのよね」

「どういうことですか? 治らない病気ってことですか?」

「違うちがう。病気でも怪我でもないの。あっくん、私の周りに何か見えてる?」

「何を言ってるんですか? じいさん呼びます。だから」

 時寧おばさんの手が、

 おれの腕を掴む。

 ビックリするくらい冷たい手だった。

「お願い。誰も呼ばないで。呼んでも無意味だし、呼ばれるとむしろ困っちゃうの。本当はあっくんにも逃げてほしいけど、おばちゃんの最期のお願い聞いてくれる?」時寧おばさんは、おれを掴まえているのとは逆の手で水色の封筒を握らせる。「これにね、手紙が入ってるの。父さん、もっちゃん、ユキ、ダーリン、みふぎ、そして、あっくんへ。これ持ってここから出てってくれる?」

「何を言ってるのかわかんないです。なんで、こんなの」

 遺言みたいで。

「おばさん、おれは」

「お願い。私を助けたいなら、早く出てって? あっくん含め、家族もみんなを助けることになるの」

 時寧おばさんが何を言っているのか全然わからない。

「あっくん。あっくんに見えてないならよかった。本当によかった」時寧おばさんの冷たい手が、おれの腕を滑り落ちて畳を引っ掻く。

 苦しそうにうめく時寧おばさんを放ってなんておけない。

 事情が全然わからない。

「おばさん、どうしたんですか? おれに出来ることありませんか?」

 突然眼の前に、

 黒が。

 真っ黒い。

 時寧おばさんが黒に覆われて見えなくなった。

「おばさん? おばさん、どこですか」

「うそ」黒の中から時寧おばさんの声がする。「ウソでしょ。なんで、あっくんまで。私のせいなの? 私があっくんに? 嫌、いやだ。駄目、だめだ。やっぱり私」

 シナナキャイケナインダ。

 黒に突き飛ばされた。

「おばさん!」

「あっくん、聞いてる?」黒の中から叫ぶ声がした。「さっき渡した手紙の中から、みふぎに宛てた手紙を出して。早く!」

 みんなへ、と書いた封筒。

 声が切羽詰まっていたのでその通りにした。中身を傷つけてはいけないので、封筒の上の部分を震える手でゆっくり破いて。

 みふぎというのが誰のことはわからなかったけど、その人宛の便せんを見つけた。

「あった? そしたら、これ」黒の中から黒マジックが転がってきた。「これで便箋が真っ黒になるまで塗りたくって。お願い、早く!」

 そんなことをしたらこの手紙は。

「おねがい! 言う通りにして! 時間かかればかかるほど、あっくんが危険なの。おねがい」

 そうだ。

 文章を写真に撮れば、これを塗りつぶしたとしても。

 急いでシャッターを押して、保存して。

 黒マジックで便箋を真っ黒に。

「塗れた? 塗れたら、ぐちゃぐちゃに丸めて? それで、私を、私を包んでる黒を見ながらびりびりに破り捨てて? 早く!!」

 黒が。

 消えた。

 時寧おばさんの姿がやっと見えた。

「おばさん!」急いで駆け寄った。「大丈夫ですか?」

 時寧おばさんは、ゆっくり身体を起こして。

 にやりと不気味に嗤った。

「おばさん?」

「ちょっとおばさんて、なに? 私まだ三十なんだけど? さすがにおばさんはないんじゃない? ひっどいなぁ、あっくん。せめて時寧さんじゃない? ほら、言ってみて? 時寧さん」

「時寧さん?」

「そうそう、こっちのほうがいいよ。おばさんて呼ばれるのは結構きついしねぇ」

 時寧おばさん――もとい時寧さんは、人が変わったみたいに、俺を見て。

「まだ生きてたの?」

 そう言った。

「ああ、でも黒見えてるんだぁ。それなら使い道あるかな。みふぎがいま休養に入ってるから、戻ってきたら組んで仕事してもらおうかな。なんなら触媒になって、あわよくば後継者作ってくんない?」

「あなたは誰ですか」

「誰って、何言ってんの?あっくん」

「あなたは時寧さんじゃないですね?」

「ちょっとちょっと大丈夫? 黒見てビックリしておかしくなっちゃったぁ?」時寧さんが伸ばした手を。

 かわす。

 手が触れない距離まで後退する。

「時寧さんの身体を乗っ取ってるんなら、出て行ってください」

「面白いこと言うね。私は私」時寧さんの輪郭が、じんわり黒く滲む。「これが本当の私。こんなに頭がすっきりしたのって初めて。生まれ変わった気分だよ」

 違う。

 時寧さんは、

 そんな顔で嗤わない。

「出て行ってください。時寧さんを返してください」

「あのさ、聞いてなかった? 私のどこが時寧じゃないって?」

 会話をしちゃ駄目だ。取り込まれる。

 おれが逃げても追いかけてくるだろう。逆に怒らせて取り返しのつかないことになるかもしれない。

 さっき追い払った黒が、時寧さんに取りついているのなら。

 同じことをすれば、なんとかなるか?

「無駄だよ。私はそんな一時凌ぎじゃどうにもならないの」時寧さんから黒の粒子が伸びて黒マジックを奪われた。「はい、没収ね」

 ぼきり、と嫌な音がして。

 黒マジックがべきべきにへし折られた。

「で? ところで何しに来たの?」

「掃除です。これ」バケツと雑巾を見せた。「こないだゴミ捨てしかできなかったので」

「ふうん、学校サボって何してるかと思えば。ああ、でもいま夏休みか。精が出るね。みふぎに頼まれたの?」

「みふぎって誰ですか?」

「ここの住人。え、会ったことないの?」

「会ったことはあるんですが、自己紹介はまだです」

「そんな状態なのに、勝手に掃除とか買って出てるの? 面白すぎ。わかったわかった。あっくんのお人好しに免じてここ譲るからあとやっていいよ」時寧さんが俺の横を素通りしようとする。

「どこ行くんですか?」

「家に帰るの。ここ私の家じゃないでしょ?」

「なんで帰るんですか?」

「私手伝わないよ? あっくんが勝手にやってるだけでしょ」

 時寧さんが移動したのに、室内の黒が動かない。

 むしろ黒で室内が満たされているのがよくわかった。

 黒一色。

 こんなにも濃厚な黒の中にいたのかと戦慄するほど。

「じゃあね。綺麗にしてあげてね」

 黒が。

 時寧さんの周囲に集まってくる。

「ちょっと、来ないで。やめてよ」時寧さんが黒を振り払おうとするが、もがけばもがくほど黒が絡みついてくる。「やめてったら。なんでこんなにしつこいの? え、なんで? なんで、嫌。あんたたち死んだじゃない。なんで死んでるのに。やめて、やめて私はまだ死にたくないの。消えたくないの。いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 時寧さんの金切り声の断末魔と共に、時寧おばさんのフリをしていた何かがいなくなった。

 ふと、床に眼を移すと。

 うつ伏せの時寧おばさんがそこにいた。

「時寧おばさん?」

 返事はない。

 わかってる。

 時寧おばさんは、死んでいる。

 力が抜けた。

 床に座り込む。

 掃除をする気力はどこかにいってしまった。

 手を伸ばして、水色の封筒を拾う。

 みんなへ

 時寧おばさんが、みんなに宛てた手紙。

 遺言だ。

 これをみんなに渡さないと。

 開いてる。

 そうか。

 おれが開けたんだ。

 おれ宛の手紙って、あったっけ?

 あるんだろうか。

 おれなんかに言い遺す言葉なんかあるのだろうか。

 なかったら悲しい気持ちになるだけなので、見ないでおこう。

「時寧おばさん」

 返事は返ってこない。

「さよなら」

 ばたばたと誰かが家に駆け込んできた。

 そのあとはよく憶えてない。















     4


 眠っていたらしい。

 縁側に座る祖父さんの後ろ姿と、紅く染まった空が見えた。

「起きたか」祖父さんは振り向かずに言う。「疲れたか? あまり眠れていないのか」

 18時半。

 結構長いこと眠っていたようだった。

「すみません、すぐ帰りますので」

「せっかくだから、夕飯食っていかないか。みつさんがお前の分も作ってしまった」

 みつさんというのは、手束さんの下の名前。

「伊舞の分もあるなら」

「待っていろ」祖父さんが縁側から庭に出て、玄関のほうに歩いていった。

 もしや、ずっと玄関で待機していたのか。

 帰ってくれてよかったのに。

 違う。

 俺が見てないところで、俺の話を聞いていたのだ。

 しばらくして、祖父の後ろに続いて伊舞がバツが悪そうな顔を見せた。

「別に好きにしたらいい。聞かれて困るようなことは何もない」

 伊舞は言い訳を並べる代わりに、深々と頭を下げた。俺が謝罪の先手を打ったのがわかったのだろう。

「さあ、飯にするぞ」祖父さんが、台所にいる手束テヅカさんにも聞こえるような大きな声で言った。

 居間のちゃぶ台に、沢山の料理が並んだ。祖父さんと伊舞と手束さんと一緒に夕飯を囲んだ。

 大勢で食べると、ご飯はちょっとだけ美味しい味がした気がした。お腹がいっぱいという感覚も、ああこれなのかとちょっとだけ思った。

 食後のデザートは手作りのゼリーだった。半分凍っていて、冷たくて喉通りがよかった。

 この家は、祖父さんが社長を引退してから買った山合いにある。周囲に民家がないせいか標高のおかげか、夏でも夜はそこそこ涼しい。さっきから耳のあたりをぷーんと騒がせる虫が気になるが、念入りに蚊取り線香がたかれているので、いまのところ特にかゆみを感じない。

「祖父さん、庭でバーベキューと花火したら怒りますか?」

「儂をハブらんのなら、許可するよ」祖父さんが肩を竦める。「なんだ、急に。また来てくれるのか」

「夏休みに祖父さんの家に遊びに来る孫ってのを、もうちょっとやってみたかっただけです」

 祖父さんが何とも言えない表情をしたが、誤魔化すように顔を背けた。

 顔を背けた先に伊舞がゼリー(バケツサイズで大量アイス載せ)を頬張っていたので、祖父さんは結局正面を向いて頬杖をついた。

「時寧も源永もほとんどここには来とらん。二人とも早くに独り立ちしたからな。長いこと一人だ。たまにと言わず、気軽に来てくれたって別にいいんだ。気を遣う必要はない。なにせじじいの家だ」

 それでも泊まるのはやめた。着替えを持ってきていないともっともらしい言い訳をしながら。

 仏頂面の祖父さんが珍しく寂しそうな顔をしたが、夏休みはまだあるからと返した。自分でもビックリした。他人に思わせぶりなことを言うなんて。

 伊舞は車を持っていないので、山の麓まで下りて、大通りでタクシーを拾った。伊舞は後ろめたさなのか遠慮しているのか、いつもと違って沈黙を和ませるような世間話をしなかった。俺のほうも特に話すことはなかったので黙って窓の外を眺めていた。

 支部の前に到着した。

「このまま帰っていい」俺だけ車を降りた。「お疲れ様。休みは本社に倣ってくれていい」

「ありがとうございます」伊舞が窓を開けて軽く会釈する。「緊急の用事でなくても、ご用がありましたらいつでも」

 ここまでのタクシー代を伊舞に渡して、車を見送った。俺の渡した金は、会長経由で俺の口座に入る。俺に知られていることを、伊舞は知っている。お互いに知らないふりをしている。

 あの男(まさむら)のこともそうだ。お互いに知らないふりをし続ければ何の問題もない。議論する価値もないし、わざわざ話題にあげる意味すらない。

 私室に入って、みふぎちゃんが待っていることを期待したが、誰もいなかった。

 自分の部屋はこんなに静かだったろうか。

 急に電話が鳴った。

「こんばんは」伯父の久慈原先生だった。「そろそろ戻ってる頃かなと思って」

 なるほど。祖父さんが気を回した。

「俺は大丈夫です。心配かけてすみません」

「謝ってほしくてわざわざ電話したと思う? 実は近くまで来ててね。家にあげるの抵抗あるなら、ちょっとドライブしない?」

 3階のベランダに出たら、出入り口に横付けされた車が見えた。

「嫌ならこのまま話してもいいけど、できたら顔を見ながらのほうがいいかな」

「診察のつもりですか」

「不快に思ったなら日を改めるよ。僕が線香くさいのも気に障るかもしれない」

 そうか。時寧さんの墓参りに行った帰りか。

「わかりました。すぐ下ります」

「ありがとう。気休めの換気をしておくよ」

 確かに車内は線香くさかった。車内というか、先生自体に煙が染みついていた。暗くしていてもわかるくらいに、先生の眼が腫れていたが、敢えて言わなかった。

「ユキを誘ったらね、母さんそこにいないし、て言われてね」先生が困ったように頭を掻く。「それでも時寧さんに会うにはそこしかないんだ。あの家は、いまあっくんのところで管理してるんだっけ?」

「本題からでいいですよ」

 車は市街地を抜けて、海沿いを走る。どこまで行くんだろう。

「ドライブだからね、目的地はないよ」

「先生の気が済んだから帰るわけですね?」

「これでも支部長の勤務日を確認して誘ったんだよ? 専属の産業医が夜遅くに管理職(未成年)を連れ回してるわけだから」

「時寧おばさんのことで、思い出したことがあります」

 信号はない。

 ひたすらに走り続ける。

「あっくんが、そう呼ぶの、久しぶりだね」

「俺はあの日、あの家の掃除に行って、そこで倒れている時寧おばさんを見つけました。でも救急車を呼ぶなと言われて。あのとき無理にでも呼んでいれば、誰かに連絡していれば、時寧おばさんは助かったのかもしれない。俺のせいです。俺の判断ミスが時寧おばさんの死因です」

「慰めているわけじゃなくてね、誰もあっくんを責めてないよ。あっくんがあのとき話せなかった、ショックで封じ込めていた時寧さんの最期の様子を聞きたかっただけだから。とっくに気づいていると思うけど、僕はそのためにずっとあっくんを見守ってたんだ。公私混同甚だしくてさ、失望されても仕方がないよね」

 俺がもし同じ立場だったら同じことをしただろうか。できただろうか。

 愛する人の最期を見たであろう甥を、医師として観察しながら、家族として接する。

 8年間。

 ずっと辛抱強く待ち続けてくれた。

 無理にこじ開けないように、自分の手で開けられるように。

「祖父さんにもまだ話せてません。話すのは先生が初めてです」

「あっくんから言えそう? もちろんカルテには書かないよ。これは診察じゃないからね」

 点在する海沿いの外灯が、線としてつながる。

 闇の中に浮かび上がる光。

「あっくんが託された手紙だけど、今日持って来てるんだ。ダッシュボード開けてくれる?」

 水色の便せんが、折り目がつかないように硬いクリアファイルに挟まっていた。

 車検証の上にだいじそうにのせてあった。

「電気つけていいよ」

「ケータイの明かりがあるので大丈夫です」


  ダーリンへ

  ダーリン絶対泣きそうだなあ。

  泣かないでねって書いても無理そうだよね。

  だから、泣いてもいいよ。

  ごめんね。

  ありがとう。

  世界一、宇宙一、銀河一愛してる。

  そんなダーリンにお願いがあるの。

  そうゆう言い方も卑怯かな。でも赦してね。

  ユキが見えてるものだけど、それのせいで私が死んだの。

  だからユキが見えてるってゆっても、見ないように、

  関わらないようにくれぐれも言いつけて。

  ユキのことだから見えてるって誰にも言わないんだろうけどね。

  誰かに心配かけるの嫌がるでしょ?あの子。

  優しい子なの。

  ダーリンそっくり。

  あとね、もっちゃんのこともお願い。

  私が死んだのをあっくんのせいにするかもしれない。

  そんなことになったらあっくんを守ってほしいの。

  もっちゃんの過去はもっちゃんがどうにかするしかないけど、

  あっくんのことは私たちが守っていかないとね。

  あっくんもだいじな家族だから。

  もっと私たちを頼ってくれてもいいのにね。

  小さい頃、私たちの家で一緒にご飯食べたりしたの楽しかったなあ。

  また遊びに来てくれないかなってずっと待ってたけど遠慮しちゃってるのかな。

  折を見て声をかけてあげてね。

  きっと寂しい気持ちを我慢してるはずだから。

  最後になりましたが、まとまってなくてごめん。

  ダーリンへの手紙を一番最後に書いてるんだ。

  つらくて全然書けなかったけど、頑張って書いたよ。

  私はダーリンに会えて、世界一、宇宙一、銀河一幸せでした。

  だから、世界一、宇宙一、銀河一悲しい思いをしているあっくんをどうか、

  お願いします。

  染為そまためさんの愛妻 久慈原時寧より


 なんで一日の間にこんなにしんどい文面を2つも読まなければならないのだろう。

 息を吸って吐いて、不自然にならないように呼吸を整える。

 たぶん、先生にはお見通しだ。

 海沿いの駐車場に入った。

「みふぎさんも、同じ理由で行方不明なのかな?」先生はエンジンを止めてから口を開いた。

「行方不明ってのは、会社の見解ですか?」

「生きてるの?」

「よくわからないんです」

「あっくんは、いなくなる予定はないよね?」

「努力します」

「ちょっと歩こうか」

 先生が車から降りたので、後ろからついていった。不意打ちで駆け出せば、追いつける距離を保ちながら。

 夜の海は静かだ。

 人がいないせいかもしれない。

「寒くない?」先生が後ろを振り返る。

「いまのところは」

「ここね、時寧さんと初めてデートした場所なんだ」

 返答に困ったので黙っていた。

 先生はゆっくり砂浜を歩く。

「恥ずかしい話をするとさ、デートは後にも先にもその一回だけでね。お互い忙しいことを理由にあまり一緒に出掛けなかったけど、いま思えば、生きてるうちにやっとかなきゃいけなかったことって、けっこうあるんだよね。また今度、またいつか、て思ってたら機会を逃しちゃうんだ。まさか初デートが、最初で最後になっちゃうなんて思いもしなかったなあ」

「最期に会ったのが俺でごめんなさい」

「ごめんごめん、そうゆう意味じゃないんだ」先生が申し訳なさそうに駆け寄って来る。「あっくんでよかったよ。あっくんじゃなきゃできないことをしてくれたんだよね。逆に誰も気づかなかったらって考えたら、哀しくてやりきれない。時寧さんは、最期にあっくんに会えて嬉しかったと思うよ」

 波の音と心臓の鼓動が重なって聞こえる。

 寄せては返す黒いそれは、みふぎさんが祓った呪いと、みふぎさんが祓うのに使った水が合わさったものに見えてひどく複雑な気持ちになった。

 この大量の呪いを、みふぎさんはたった一人で抱えて納めている。

 しばらく海を見つめていた先生は、「帰ろうか」と呟き、元来た砂浜を引き返した。先生の背中を視界に入れるのがつらかったので、自分が往路でつけた足跡を見ながらついていった。

 21時。

 帰りの道は短く感じた。先生が気を遣って近道をしてくれたからかもしれない。

「今日は遅くまでありがとう。とゆうか、僕の我が儘に付き合ってくれてありがとう、だね」先生が支部に横付けしてから言う。

「先生は、おじさんは、どこまで知ってますか」

「またおじさんて呼んでくれたことが嬉しいから、正直に言うね。会長から全部聞いてるよ」

 やっぱり。

 祖父さんは全部知ってるし、おじさんにももれなく共有されている。

「祖母さんのことなんですけど」

「会長が言っていないのなら、僕が言うわけにいかないんだ。ごめんね。でもあっくんにも知る権利があると思うから、僕から会長に話しておくことはできるよ。回りくどいことしかできなくてごめんね」

 わかっていた。おじさんがどう返してくるのかくらい。

 駄目押しというやつだ。

「おやすみなさい」車を降りてから言った。

「おやすみ。何度も言うけど今日はありがとう。ゆっくり休んでね」おじさんが笑顔で手を振ってくれた。「よかったらまたドライブ付き合ってくれると嬉しいな」

「次は昼間のほうがいいですね」

「そうだね。休みの日に誘うことにするね」

 車の発進を見守らずに、そのまま支部の自室に戻った。

 適当にシャワーを浴びて、ベッドに倒れ込んだらすぐに眠気が来た。

 すごく疲れたけど、心地よい疲れだった。

 夢でみふぎさんに会えた。


 それから、半年が経った。

 3月になった。

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