第3話 鉄のように荒々し

     1


 あの日もこうだったのかもしれない。

 楽観的には考えられないが。

 早く早くと気が急く。

 場違いなのはわかっている。

 きっと、すぐに終わってくれるはず。

 みふぎさんと再会したのも束の間、みふぎちゃんを連れて、玄関の外で待つことになった。

 それはそうか。

 7歳のみふぎちゃんに黒祓いの儀式を見せるわけにいかない。

「わたし、見たことある」みふぎちゃんがとんでもないことを言っている。「黒いのがね、しゅーって消える。わたしがやるとちっちゃくなるだけだけど、お母さんがやると黒いのいなくなる」

 ああ、ビックリした。儀式の結果のほうの話でホッとした。

「みふぎさん、じゃなくて」紛らわしいな。「お母さんに会ったことあるのか?」

「さっき会った」

「いや、そうじゃなくて、ここに来る前に」

「あるよ。お母さんのお腹にいた」

 ええと、そうゆうことでもなくて。

「育ててくれたのも、命を救ってくれたのもトキネおばちゃんだけど、お母さんがいなかったらわたしは生まれてない」

 そうゆう当たり前の話をしてるんじゃないんだ。

 伝わらない。

「あっくんのお母さんは?」

「悪い、その話はしないでもらえるか?」

 日が陰ってきたとはいえ、屋外で立ったままだと汗が噴き出てくる。タオルハンカチで首に垂れてきた汗を拭った。

「なんで?」

「したくないんだ。悪いけど」

「なんでしたくない?」

 しつこいな。

「お母さん、嫌い?」

 頼むから、その話だけはさせないでくれ。

「あっくん?」

 大きく息を吸って、ゆっくり吐く。

 落ち着け。怒鳴っちゃいけない。こんな子ども相手に。

「誰にでもしたくない話はあるんだ。そうゆうときには無理に聞いちゃいけない。わかってくれ」

「じゃあお父さんは?」

「俺の言い方が悪かった。俺の両親の話はどっちも駄目だ」

 みふぎちゃんは、俺の眼をじっと見て、悲しそうな顔で頷いた。

「わかった。ごめんなさい」

「わかってくれたらそれでいい。怒ってもないし、嫌いになったりもしない」

 この微妙な空気をなんとかしなければ。

 早く儀式が終わらないものか。

 時計を見たら、まだ5分しか経っていない。

「イマイさんのこと、聞いていい?」

 みふぎちゃんはどうしても俺の話を引き出したいみたいだった。

 伊舞の話ならまあいいか。両親に比べたら人畜無害に等しい。

「喉乾かないか? ジュース買おうか?」

「さっき飲んだ」

 自販機もコンビニも見える範囲にないので、ここから離れないといけない。どのくらいの時間待てばいいのか言われてないけど、ここから離れるのは何となく嫌だった。自分の提案を自分で潰していた。

「イマイさんの話して?」

「あいついくつに見える?」

「うーん、お父さんとお母さんと同じくらい?」

 2年前に会ったとき、シャオレーさんが確か25歳だった。みふぎさんも同じくらいだとすると。

「残念。もっと上なんだ。見えないだろ? 時寧さんより上なんだ」

「いくつってこと?」

「37」

「お兄さんじゃなくておじさん?」

「それ伊舞に言わないでくれるか?」

 童顔すぎるからみんな勘違いしているが、割と年齢を重ねている。俺も時々忘れる。

「俺を育ててくれたのは、祖父さんと伊舞なんだ。だからあの二人には感謝してる」

「わたしもトキネおばちゃんに恩がある」

「同じだな」

「うん」

 そうか。同じだ。

 だからみふぎちゃんは、時寧さんの役に立ちたいと思ったのか。

 いまならよくわかる。

 そうゆうことだったのか。

「悪かったな。時寧さんのこと悪く言って」

「いい。あんまりいいひとじゃないの、知ってる」

 なんだ。知ってるじゃないか。

「お母さんが言ってた」

「また会えてよかったな」

「お母さんがわたしに会いたいかはわかんない」

「会いたいだろ?」

「追い出された」

 いや、それは全然別の事情があったりするんだが。

「あっくん、暑い? だいじょうぶ?」

 ちょっとぼーっとしてきた。

 そろそろ家の中に入らせてもらいたいが。

「だいじょうぶ?」

 時計が全然進んでない。

 いや、止まってないか?

 ケータイで時間を確認しようと思ったけど。

 手に力が入らない。

 なんだ、これ。

 あっくん。

 そう呼んでくれるのは、誰だろう。

 黒が。

 消えていく。

「みふぎさん!」

「若、大丈夫ですか?」伊舞が顔をのぞきこんでいた。

 ここは、自室のベッドだ。

「若が倒れてるって聞いて、急いで迎えに行ったんです。久慈原クジハラ先生が診てくれて。あ、さっきまでいたんですけど、軽い熱中症だそうです。はい、これ。飲んでください」

 スポドリをゆっくり口に入れた。

 美味しい。

 味がした。

「ああ、ほんとに。若が無事で良かった」伊舞が俺の手をぎゅうと握る。

 痛かった。

 ので、手を離した。

「ごめんなさい。つい」

「なんで俺がいるとこわかったんだ?」

 みふぎちゃんもいない。

「若のケータイから着信があって。GPSを頼りに、て。あ」伊舞がしまったとばかりに口を押さえる。

「俺のことが心配なのはわかるし、別に監視されて困るようなこともしてない。でも、さすがに」

「すみません」

「以後やらないとは言わないんだな」

 ということは、伊舞の一存で勝手にやっているわけではない。

 祖父か。

「別にいい。好きにしてくれ」スポドリを飲み干して、空のペットボトルを床に置いた。

 ケータイからは確かに伊舞に電話を入れていた。

 18時半に履歴が残っている。

「かけた憶えないんだが」

「でもかかってましたよ?」

 みふぎちゃんだろうか。

「白いボヤっとしたあれ、いま見えてるか?」

「白い? なんです?それ」

「一週間前に俺がフィアンセを連れてきたときに見えてただろ?」

「フィアンセ? え、なんですか? いつの間にそんなお相手が? 会長が持ってきた縁談ですか?」

 20時。

 みふぎさんの家に行ってから2時間経過している。

「え、あの、若、フィアンセって?」

「もういい。忘れてくれ」

 おかしい。

 みふぎちゃんがここにいないのがその証左だ。

「お腹空いてないですか? 何か買ってきましょうか」

「いい。スープでも飲む」

「作りますね」伊舞が2階のキッチンに下りていった。

 しん、と静かになる。

 みふぎちゃんが持ってきたリュックが見当たらない。トートバックも、スケッチブックもない。

「みふぎちゃん?」

 呼んでみたが、返事はない。気配もない。

 黒も。

 見えない。

 ああ。また、

 この空虚感を味わわなければいけないのか。

「作ってきましたよ」伊舞が戻ってきた。

 マグカップが温かい。

「ここ一週間、臨時の仕事が立て込みましたからね」伊舞が椅子を持ってきてベッド脇に座る。「明日は休みにしてます。雨の予報もないです。なので、ゆっくりしててください」

「臨時の仕事が入った経緯なんだが」

「有難いですよね。組合長が宣伝してくれたお陰ですかね」

「そうじゃなくて」

 黒祓い。

「時寧さんの仕事まで受け継いでいたのは知らなかったですけどね」

「誰がそんなこと言ったんだ?」

「え、あの、それは」伊舞が言い淀んだときは。

 だいたい祖父。

「祖父さん、起きてるかな」私用のケータイを持った手を。

 伊舞に止められる。

「ちょっと話を聞くだけだ」

「会長は何も関係ありません。全部、私が」

「何を隠してる?」

「隠してるって、そんな」

「知ってることをぜんぶ言ってくれ」

 伊舞が、ゆっくり眼を逸らす。

「もういい。祖父さんに」

「時寧さんは、亡くなったんですよね?」

 だと聞いている。

 俺は葬式に呼ばれなかった。

「私はそうゆうのわからないんでアレなんですが、ユキを問いただしたら、いないわけじゃない、て。どうゆうことなんですか?」

「俺もよくわからない」

「若も関わってらっしゃるんでしょう? 時寧さんが世話してた、納家の娘と面識が」

「あの人も亡くなったよ」

「行方不明と聞いてます」

 会社的にはそうなんだろう。

「行方不明の娘に、子どもがいたとも聞いてます」

「その子も死んだ」

「教えてください。若は、何を知ってるのか」

「祖父さんに報告するんだろ?」

「残念だけど、報告先は僕だよ」3階の入り口に男が立っていた。

 視界に入れたくなくて、足の辺りを見た。

 すでに靴を脱いでいる。

「約束を違えるな」部屋に入るなという意味を込めて強めに声を発する。「会社の関連施設、社員の家、社員には接近禁止だ。帰れ」

「私が呼んだんです」伊舞がその男と俺の間に立つ。「時寧さんの後任です」

「誰が任命した? 勝手にやってるんだったら赦さない」

「久しぶり、あっくん。見ない間に大きくなったね」男は入口の壁にもたれて動かない。「急に倒れたから心配して見に来たんだ」

 全部わかった。

 俺の私用ケータイに細工をしたのは伊舞じゃない。

「端末買い直してくるから退け」

「いまから? 送るよ」男がキーを手の中で弄ぶ。

「いますぐ出ていけ。祖父さんを呼ぶ」

「義父さんをこんな夜中に呼びつけちゃ申し訳な」

「お前の父親じゃない!」男に焦点を合わせたくなかったので、伊舞を睨んだ。「お前、何やったのかわかってるのか?」

「時寧さんのやってた部署は、うちには必要です。なくなっては困ります」伊舞が真面目な顔になる。「会長にも社長にも許可を得ています」

「それはお前がやると言ったからだろ? お前の独断で下請けに出すな」

 こんな奴にやらせるくらいなら。

「俺がやる。俺がやるなら問題はないはずだ」ケータイを耳に当てる。「祖父さんに連絡した後に、警察を呼ぶ」

「ごめん、かねいらさん。せっかく入れてくれたのに。やっぱり帰るね」男がそそくさと出て行った。

 急いで鍵をかけた。

 ドアを背に、伊舞を睨む。

「弁明はあるか。聞きたくないんだが」

「じゃあ言いません。てわけにいかないでしょうね。すべて白状します」伊舞が苦笑いして両手を挙げる。「お察しの通り、若のケータイのそれは、私がマサに頼んで作らせました。GPSは端末からはオフにできません。同じ場所で30分以上移動しなかった場合、私の端末に着信が入るようになっています。もちろん、学校に行っている間は私がオフにしています。若の身の安全のためです」

「俺に黙ってやってたってのよりも、それを作らせた発注先が何よりも悪いな」

「だって誰も若の心配をしないんですよ? 事務所に張り付けになっている私が若を守るには、この方法しか」

「俺を思ってやってくれたってのはわかった。そっちは別にいい。本当に好きにしてくれて構わん。だが、何度も言うが、あの男を俺に近づけるのだけはやめてくれ。虫唾が走る」

 窓を開けて換気をする。

 あれが吐いた空気を吸いたくなかった。

 夏の夜の生ぬるい風が入って来るが、ずっとマシだ。

「会社に黙って付き合いがあるのか?」

「誤解を承知で言いますけど、社長にマサを紹介したのは私です」

 伊舞の胸倉をつかんだ。

 伊舞は抵抗しなかった。

「わざと誤解させるような言い方をするな。誤解をしないように言い替えろ」

「どう言葉を尽くしても、同じ内容にしかなりません。私のせいで、社長とマサが出会ったんです」

 じゃあ、

 つまり。

「お前が俺なんかに付き従ってるのは、ただの罪滅ぼしってことか?」

「否定はしません。私が紹介しなければ、あんなことにはならなかったんですから」

 伊舞をつかんだまま床に叩きつけた。

 伊舞が仰向けにひっくり返る。

「私とマサは同罪です」伊舞が天井を見つめたまま口を開く。「なのに私だけ赦されているのはおかしい。何度も何度も会長に言いました。マサだけに罪を背負わせるのはおかしい。私にも背負わせてほしいと。でも、会長は私のせいではないと仰るんです。気にするなと。社長だって、私が断らなければ私を秘書にすると言ってくれたんです。おかげでやっとわかりました。これが、私への罰なのだと。人格を否定されているマサを見つめながら、一生会社に、その罪の結果に向き会えと。そうゆうことなんです」

 だからどうして、

 俺の周りの大人はいつだって。

 俺が聞きたくないことまで全部明るみにして眼前に付きつけるんだ。

 そんなこと、

「知りたくなかったな。墓まで持って行ってくれればよかったのに」

「私の弱さを見せつけて申し訳ないと思っています。いい加減、誰かに話さないと耐えられなかった」

 でもそれは、

「俺じゃなくたってよかったんじゃないか」

 よりにもよって。

「渦中の中心人物じゃないか。最悪だ」

 力が抜けて座り込む。

 生ぬるい風が室内に充満している。

 そろそろ窓を閉めたいが、立ち上がる力が入らない。

 なんで。

 お前にも裏切られたら俺は。

「今日はもう帰ってくれないか。片付けは俺がやるから」

「わかりました。お先に失礼します」伊舞が足に着くくらい深く頭を下げて、足早に出て行った。

 ベランダに出なくたってわかる。

 支部に横付けされていた車が、伊舞が出てくるのを待って、発進したことが。

 おそらく、倒れた俺をあの車に載せてここに運んだのだろう。

 伊舞は自分の車を所持していない。

 でもそんなの、社用車を借りれば事足りる。

 とするなら、さっき言っていた過保護な仕掛けは、あの男のところにも共有されるのだと考えたほうがいい。

 いつからかわからないが、あの男に四六時中生存確認されていたということだろう。

 不快すぎて眩暈がする。

 エンジン音が聞こえなくなったのを待って、窓を閉めた。

「だいじょうぶ?」突然みふぎちゃんがソファに座っていた。

「いたのか」

「ううん、さっき来た」

「聞いてたか」

「うーん」みふぎちゃんが身体をよじって首を傾げる。

 おそらく、聞いていたことを誤魔化している。

「別にいい。本当のことだ」

「ごめんなさい」

「シャオレーさんは? みふぎさんも、終わったのか?」

「終わったけど、またずっと会えない」

「シャオレーさんも?」

「お母さん、黒と一緒になる。でもお母さんいなくならない。お母さんに戻るの時間かかる」

 黒祓いの方法論がちょっとわかった気がした。

「みふぎちゃんは?」

「夏休みの間いる」

 あと一ヶ月程度。

「お母さん無理した」

「みふぎちゃんを留まらせるためにか?」

 みふぎちゃんが頷く。

「俺に協力できることはないか? その、みふぎちゃんたちがいなくなったあとに」

「お母さん、時間かかるけど戻ってくる。待ってて」

 また、

 先の見えない待機を強いられるのか。

 たった一人。

「俺も連れてってくれないか」

「だめ」

「なんでだ」

「あっくん、死んでない」

「殺してくれってことだよ。もう沢山なんだ。もう、この世にいたくない」

 闇に沈んだような顔。

 みふぎさんが言っていた。

 いままさにそんな顔になっているのだろう。

「だいじょうぶ? あっくん」みふぎちゃんが俺の肩に触れる。

 触れているはずなのに、温かくも冷たくもなかった。

 熱のない無機質な塊が、肩にのっているだけ。

「大丈夫に見えるか」

「だいじょうぶにして?」

 大丈夫にしろ、たって。

「だいじょうぶにしないと」

 黒が。

 這い寄る。

「もう見えてないんだ。いま、どうなってる?」

「まずい」みふぎちゃんがスケッチブックを開いて、画材を手に取る。

 黒の色鉛筆。

「動かないで」

 視界が。

 黒に、

 沈む。











     2


 母親には好きな人がいた。

 婚約もしていた。父親(俺の祖父)に挨拶も済んでいた。

 誰もが祝福していた。

 ただ一人の男を除いて。

 浅樋アサヒ雅鵡良まさむら

 母親と結婚するはずだった男の兄。

 兄はすべてを持っていた。

 およそ手に入るものはすべてその手に入るはずだった。

 ただ一人の女を除いて。

 母親は、その兄が大嫌いだった。

 自分に気があることも知っていた。

 知っていた上で、弟のほうを選んだ。

 選んだというより、そもそも兄は選択肢の外だった。

 弟は、本気で彼女を愛していた。

 愛しているからこそ、生まれて初めて兄には譲れないものができてしまった。

 ずっと勝てないと、劣っていると思っていた自分を、彼女は選んでくれたから。

 二人は学生結婚をしようとしていた。

 幸せになるはずだった。

 見兼ねた兄は強行策に出た。

 彼女を無理矢理組み敷いた。

 その事実を聞かされ、弟は絶望し失踪した。

 失踪した先で自殺したらしい。

 一人残された彼女は、産みたくもない不要な命を産んだ。

 それが、

 俺だ。

 だから俺は生まれるべきでなかったし、一秒でも早く死ぬべきだ。

 そうだった。

 ずっとずっと死のうと思ってた。

 なんで忘れていたんだろう。

「忘れたままでいいぞ」遠い声がした。

 姿は見えない。

 眼が開かない。

「生きていくことに決めたんだろ?」

 首を振る。

 もう沢山だ。

 ずっと信じていたあいつに。

「裏切られたくらいでなんだ。わたしなんか、小さい頃からずとトキネに利用された挙句、とどめを差してる。わたしが殺したも同然だ。トキネが黒に侵食されるのを黙って見てたんだからな」

 それとこれとは次元が違う。

「違わない。しかし、もうわたしは死んでるしな。死人がどうのこうの説教垂れたところで何の価値もない。好きにするといいさ」

 そっちに連れてってほしい。

「弟子が心配だから残したあの子の頑張りを無駄にしたいんならな。黒を受け容れて、黒に汚染させるがいいさ。ただ、相当な苦痛がお前を待ってる」

 このまま生きてるよりはマシ。

「そうか、お前はずっとそうやって苦痛に耐えてきたんだったな。じゃあ別に苦でもないのかもしれないな。何度も言うが、このままお前が黒に呑まれるとみーも黒に戻る。せっかくみーが初めての夏休みを謳歌してたところだったのにな。それだけが残念だな」

 どうしてそうやって、情に訴えるのか。

「なんでもするさ。お前が生きることを選んでくれるのならな」

 どうして生きないといけない?

「死なないとわからんよ。死んでからようやっと思い当たる。ああ、生きてればよかった、てな。死人からできる忠告はそのくらいだよ。ああ、結局説教を垂れてるな。いかんいかん」

 いま、どうゆう状況?

「どうって、生と死の狭間てやつだな。お前が死にたいんならそのまま眼を瞑ればいいし、生きたいんなら」

 生きたいなら?

「手を伸ばすといい。みーの小さい手がお前を引っ張り上げてくれる」

 いま、どこに?

「わたしがいるところなんか、一つしかないだろ? 万年引きこもりの不眠症持ちだぞ?」

 不眠症は関係ないと思われる。

「そういえば、死んでからはよく眠れるようになったな。毎晩ぐっすりだ。なにせ死んでるからな」

「そのジョーク、よくわかんないんですけど」

 声が、

 出た。

 みふぎさんが笑ったような気がした。

「もう大丈夫だな。わたしの家、綺麗に保っていてくれて礼を言うぞ。ありがとう」

 どういたしまして。

 手を、

 伸ばす。

 温かくも冷たくもない無機質な塊が触れた。

「あっくん!!!」

 気づいたら、みふぎちゃんの眼の前にいた。

 いや、床に仰向けに倒れている俺をみふぎちゃんがのぞきこんでいた。

 視界の隅に天井が見える。

「あっくん、よかった。もう、だめっておもった」みふぎちゃんが小さい手で顔を覆う。

 手を伸ばして、小さい肩に触れる。

 震えている。

「お母さんが助けてくれたんだよ」

「お母さんが?」みふぎちゃんの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 手を伸ばせる範囲にティッシュボックスがない。

 ゆっくり上体を起こす。

 眩暈がしたので、頭を押さえる。

 大丈夫。

 もう、

 大丈夫だ。

 ティッシュをまとめてみふぎちゃんに渡した。

「羨ましいな」

 思わず口から零れた。

 小さい声だったので、みふぎちゃんには聞こえていなかったようだ。

 みふぎさんのところみたいな家族だったら。

 みふぎさんみたいな母親だったら。

 シャオレーさんみたいな父親だったら。

 みふぎちゃんみたいな、愛された子どもだったら。

 ないものねだりにもほどがある。

 俺が、ずっとずっと欲しかったもの。

 欲しくても絶対に手に入らないもの。

 時寧さんにも、みふぎさんにも叶えることができない。

 俺が欲しいものは。

 生まれたときから、たった一つ。















     3


 次の日は支部を休みにした(伊舞が気を回しただけ)ので、朝のラジオ体操後に、みふぎちゃんと一緒に経慶けいけい寺に出向いた。

 俺は知らなかったのだが、あの九九九階段は修行用の関係者裏口であり、観光用のもっと平易な正面口が存在していた。逆になんで知らなかったのか、意味不明すぎて恥ずかしい。

「どうしてわざわざ困難なほうから来るのか、謎で仕方なかったんだがね、なるほど。よほど足腰を鍛えたいと見える」住職は、莫迦にするような呆れたような視線を向けた。

「このたびは、僕のありもしない評判を市内全域にまで広めてくださってありがとうございました」俺は営業用のお辞儀をした。「夏休みといえど絶え間なくご依頼が舞い込んでくれまして。この通り、お陰さまで、息切れなくあの九九九階段を上がれるほどに体力は維持できていますね」

「それはよかった。会長の鼻もさぞ天狗だろうね。自慢の孫が八面六臂の大活躍じゃないか」

 朝のお勤めはすでに終わっているが、宿坊の空き室に案内された。人払いのためだろうか。

 中はひんやりとしている。単に冷房がきいているだけかもしれないが。

 畳敷きの和室。中央に長方形のちゃぶ台があり、向かい合って座椅子が置かれている。みふぎちゃんは縁側にある椅子に座った。

 障子は開け放っており、窓の外に庭木がよく見える。

「お嬢さんのことだ」

 案内役の坊主が二人分のお茶と最中を置いて退室したあと、住職が重い口を開いた。

「長らく行方が知れなくてね。の君なら、何か知っているかと思ったんだが」

「通称専門家の僕しか知らない本当のことと、表向きの、つまり会社うちの言い分とどっちをお聞きになりたいですか」

「聞くまでもないだろう。何のために君を呼んだんだ」

 それはそうか。

 自分でも嫌味な質問だったと思う。反省しよう。

「みふぎさんは、あ、えっと、あの、みふぎさんでいいですか」

 本名は俺も知らない。

「お嬢さんがそう呼ばれたいと思って付けた名だ。呼んでやってくれると有難い」住職の目元が幾分か和らいだ気がした。

 ああ、この人は。

 みふぎさんの行く末を知っている。

 知っている上で、逃げ場をなくしたいだけだ。

「厳密には亡くなってはいません」

「生きているわけでもないんだろうに」住職が俺の後ろの壁をねめつける。

 何かが見えているのか?

 みふぎちゃんは、椅子に座ってじっとしている。動いてはいない。

「生きているんなら、私のところに文句の一つでもぶつけにくるはずだよ。孫の君と最後に顔を出したのは、いつだったかな。最近のような気もするし、だいぶ昔のような気もするね」

 2年半だ。

 わかっていないはずがないので、敢えて口にしなかった。

「みふぎさんがいなくなってから、家に行かれましたか?」

「ばい、じゃなかった。ムスブさんの家か。行っていないが? ああ、そうか。そうなんだな」住職がゆっくりうなずく。「あそこに、いるのか?」

「黒ってわかりますか? みふぎさんが祓っていた、ニンゲンの悪意の塊です。あれをあの家に集めて、浄化してるんです。時間は長くかかるらしいですけど」

「いまも、死んでも尚、その黒というのを祓い続けているのか」

「はい」

 住職は、なんということだ、と苦々しく呟いて、皺だらけの手で顔を覆った。

 沈黙が圧し掛かる。

 喉の奥が詰まる。

 お茶を飲もうとしたが、熱すぎて駄目だった。

「これは、会長に抗議をすべきなのかね」住職が言う。

「止めませんので、ご自由にどうぞ」

 住職が目頭を押さえて、顔を伏せる。

 みふぎちゃんが、住職の隣にちょこんと座って、ひーおじーちゃん、と声をかける。

「いま、何か?」住職が急に顔を上げたが、左右を確認して首を振った。「あ、いや、なんでもない」

「実は、みふぎさんのお子さんを連れてきています」

「どこだ?」住職が立ち上がった。「息子か?娘か? どっちだ」

「えっと」

 困った。

 息子でもあるし娘でもあるし、何と答えればいいのか。

 みふぎちゃんに目線で確認する。

 みふぎちゃんは、身体を捻って首を傾げた。

 だから、

 どっちなんだ?

「あの、性別に関しては、その、一言では言い表せないような、だいぶ入り組んだことになっていまして」

「わかるように言ってくれるか」住職が怪訝そうな顔をする。

 ええい、仕方ない。

 最重要関係者の俺をここに呼んだという覚悟は本物だろう。

「生まれたときは息子だったんですけど、時寧さん、ああ、えっと、会長の長女ですね、僕から見ると伯母ですが、その伯母が、女として育てればみふぎさんと同じ力が授かるのでは?という妄想に取りつかれまして、その」

「ひ孫がいたのか。知らなかった」

「生まれてすぐに亡くなったらしいので」

「言葉を選べなくて悪いが、時寧ちゃんがお嬢さんの子どもを殺したのか?」

 察しが抜群によすぎて背筋に稲妻が走る。

 て、ちょっと待って。

 時寧ちゃん?

「とすると、時寧ちゃんが亡くなったのも。そうか、全部つながっていたんだな」

「あの、ご存じだったんですか」

「まさか私と会長の関係を知らんのか。幼馴染だよ。腐れ縁というのか。時寧ちゃんはお嬢さんの遊び相手になってくれていたからね。時寧ちゃんの葬儀はここで出したんだ」住職が手元の数珠を鳴らす。

「葬式に出てないので」

「そうか」住職は俺がガキだから呼ばれなかったと思っている。「ひ孫の名はなんというんだね」

 俺は、みふぎちゃんに確認してから本名を伝えた。

「そうか。そうか、いい名前だ。長男も、孫も、ひ孫も私より先に逝くなんてな。親不孝ならぬジジイ不幸だ。そう思わんか?」

 みふぎちゃんが住職の傍らで、ひーおじーちゃん、と呼んでいる。

「あの、いま左側にいるので、最中をあげてみてください」

「食べるのかね?」住職が俺の顔と自分の左側を三度見くらいする。「こうか?」

 包み紙を外した状態の最中を、みふぎちゃんがつかんで口に入れる。

「消えた?」

 やはり一般人には奇奇怪怪現象じゃないか。

 みふぎちゃんは、眉を寄せて俺のお茶を奪う。口の中に張り付いたのでビックリしたのだろう。

「茶まで。どうなってるんだね?」

「いやそれは僕が知りたいくらいです」

「ところで、お嬢さんの婿は誰なんだ? 私のところに挨拶がなかったが」

 気づいてしまいましたか。

 気づかなくてよかったのに。

「知っとるんだろ?」

「怒りませんか」

「どうしてだ?」

「あとで聞かないほうがよかったって言ったって、遅いですからね。小張オワリの長男です」

「小張? まさかエイスのガキか? なぜ、よりもよって」住職は筆舌に尽くしがたい不快顔になったが、しばらくして深く息を吐いた。

「ちなみに、彼も亡くなっています」

「知ってるとも。桓武カンム君のところの解体現場だろう? ニュースになっていた」

 そういえば、みふぎさんと一緒にラジオの報道を聞いた。

 住職はしばし、俺伝いでみふぎちゃんをコミュニケーションを取った。

 二人とも楽しそうだった。

 孫のみふぎさんには比較的厳しい態度を取っていたように思えたが、ひ孫のみふぎちゃんには甘々で。部外者は立ち会いたくない居たたまれない光景だったが、俺がいないと会話が成り立たないので仕方がない。意味を取らずに翻訳機に徹した。

「朝早くからありがとう」住職が立ち上がった。「いつまでも話していたいが、そうも言っていられん。外まで送ろう」

 みふぎちゃんが住職と手とつなぎたがったのでそう伝えた。住職のなんともいえない表情が印象的だったが、見なかったことにした。

「モリには勝てんな」住職が剥げ上がった頭を掻く。「何十年経とうがやられっぱなしだ。悔しいな」

 モリ?

 森?

「こちらの話だ。さあ、帰りなさい」住職がひ孫の名前を呼ぶ。「会えて嬉しかったよ。お嬢さんたちと仲良くね」

 みふぎちゃんが、ひーじーちゃん、ばいばいと手を振る。

 住職がこちらの姿が見えなくなるまで動こうとしないので、振り返らずに経慶寺を後にした。

「あっくん、見えてない?」みふぎちゃんが足を止めずに言う。

 黒が。

「いるのか?」

「付いてきてる」みふぎちゃんが真剣な顔で頷く。

 経慶寺の境内から出て、駅まで戻ってきた。

 駅の東側の小高い山に経慶寺があり、西側のメインロードを進んだ商店街の一角に支部がある。

「ここは人が多い。移動しよう」

「海行く」

「徒歩だと30分くらいかかるんだが」

「いく」

 海水浴に向かう面々の合間に紛れてひたすら南に歩いた。

 すでにだいぶ日が照っており、途中自販機で飲み物を買って熱中症予防をした。

 9時半。

「水着着てきた」みふぎちゃんがトートバックを俺に押し付けて、ワンピースを脱いだ。

 砂浜を横切ってひとけの少ない建物の陰に。

「さっきより多い」みふぎちゃんがきょろきょろと周囲を見渡す。

「何人いるんだ?」

「囲まれてる」

 ところで、黒が見えなくなってるのにみふぎちゃんのことははっきり見えるのはこれ如何に。

「あっくん、ちょっと離れて」

 言う通りに数メートル後方へ。

 みふぎちゃんがぶつぶつと何かを呟きながら、スケッチブックを開く。

 黒のクレバスを塗りたくる。

 みふぎちゃんの方法では、追い払うしかできないと言っていたが。

 ぐしゃぐしゃに丸めた画用紙を、ビリビリに千切って。

 風に散らさずに、

 口に。

「なにを?」

 してるんだ??

 両肩を掴む。

「追い払うしかできないのやだ」

「吐け」

「やだ」

「頼む、やめてくれ」

 みふぎさんが経慶寺から帰って来たときの姿がよぎる。

 あのときだって、自分に黒を集めて。

「自分を犠牲にしないでくれ」

「お母さん無理して残してくれた」

「そんなことをしてほしくて残したんじゃない。みふぎさん、お母さんは夏休みを楽しく過ごしてほしくて」

「もういいの。じゅーぶん」みふぎちゃんが首を振る。

「みふぎちゃん」

 お願いだから。

「また来週追い払いに来ればいいだろ? ほら、そうすれば毎週海に来れる。それでいいだろ?」

「いいの。じゅーぶん楽しかった」

「みふぎちゃん」縋りついて願っても届かない。

 自分の寂しさを押しつけてはいないか。

 またたった独りこの世に取り残される不公平さを呪っているだけではないか。

「あっくん、おねがい。あっくんのいるこの町を守らせて」

 放っておいたら、時寧さんのような犠牲者が出る。

 経慶寺には黒が溜まりやすい。住職もいつ犠牲になったっておかしくない。

「あっくん」

 手を、

 離す。

「ありがと」みふぎちゃんが眼を瞑って、口の中の黒を。

 呑み込む。

 ごくん、と喉が鳴って。

 みふぎちゃんの姿が。

 黒に。

 染まる。

「あっくん、最後のお願いきいて?」

 みふぎちゃんの声は、ひどくノイズがかって聞こえた。

「最後じゃなくても聞くが?」

 みふぎちゃんがスケッチブックを指さす。

 まさか。

 嫌だ。

「わたしを描いて破って?」

 首を振る。

「きいてくれる?」

 嫌だ。

「あっくんにしかできない。あっくんもできる」

 俺の死んだ祖母の旧姓は、ノウという。

 俺も納家の血が流れている。

 そうゆうことなのか。

「でも俺には」

 見えたり見えなかったりするのはなんだ。

 従兄のユキははっきり見えているのに。

 どうせならこんな中途半端な力じゃなくて、みふぎさんんたちの役に立つ力が欲しかった。

「できるよ。バックの中に、黒い色いっぱいある。同じ色さがして、ぬって?」

 トートバックを砂の上でひっくり返す。

 黒い画材が転がる。

 この中から、同じ色を。

 黒い絵の具。

 黒いクレヨン。

 墨汁。

 2Bの鉛筆。

 黒の色鉛筆。

 黒のクレバス。

「あっくん、早く」

 どれも同じ黒じゃないのか?

「あっくん」

 みふぎちゃんの声がどんどんノイズにまみれて。

 みふぎちゃんの姿がどんどん黒に侵食されて。

 わからない。

 違う色を塗ったら失敗になるのか。

 間違った色を選んだらどうなるのか。

 考えたくない。

「おねがい、あっくん。わたしがしゃべれるうちに」

 黒は、

 黒だ。

 ぜんぶ。

 ぜんぶを画用紙にのせて、両手でこねくり回した。

 真っ黒。

 しわしわになった画用紙をぐちゃぐちゃに丸めて。

「ありがと、あっくん。さよなら」

 びりびりに破いた。

 黒が、

 飛び散る。

 みふぎちゃんもいなくなった。

 遠くで波の音が聞こえる。

 靴を脱いで海に入った。

 真っ黒な手が見えた。

 入水なんたらに思われたのか、監視員が複数でやってきて組合長のところへ連れて行かれた。

 面倒くさかったので、仕事をしていただけだと嘘を吐いた。

 いや、嘘ではないか。

 よほど顔色が悪かったのだろう。

 祖父か伊舞に連絡すると言われたので、仕方なく救護室で休んでいくことにした。

 真っ黒の手が乾いている。

 落ちるだろうか。
















     03


「涼しいな」

 窓際にベッドを移動して(動かしたのは僕)、みっふーが寝転がる。お気に入りのラジオを付けるが、お馴染みの番組が地理的な問題で聞けないのはちょっと物足りなさそうだった。

 8月の軽井沢。

 窓を全開にすると風が通って気持ちがいい。湿度が全然違う。夜はむしろ寒いくらい。ただ、蚊が多いので対策は必要だが、蚊取り線香を調達すれば大丈夫だろう。

 別荘なんか、一生縁がないと思っていた。いや、縁は一生ないのは間違いないが、まさか自分が住むことになるとは。しかも、みっふーと一緒に。

「浮かれている場合じゃないぞ」みっふーが僕の顔を見て言う。「お前にはやってもらわなきゃならんことがある」

「婚姻届と式場探し?」

「頭働いとらんな。ちょっと走って来るか?」

 みっふーのために馬車馬のごとく働く気満々だったが、みっふーの預金通帳を見て優先順位が変わった。

 最短コースで免許を取って、車を買った。みっふーが後ろで寝転がれるようなワゴンにした。

 これで買い物は問題ない。

 みっふーの蓄えがあれば、この一年何もしなくても余裕だったが、それでもさすがにみっふーのヒモのままいるのは心苦しかったので、避暑地に集ったセレブを相手にする会員制総合娯楽施設で短期バイトをすることにした。

 敷地内の一角で、安眠マッサージを掲げる若干胡散臭い男の雑用に就いた。

 僕があまりに怪訝そうにしているのが気に障ったのか、身をもって体験しろとのことで、施術用のベッドに寝かされた。頭皮のマッサージをされて、気がつくと熟睡していたらしい。

 これだ。

 と思ったが、会員制なのでみっふーは呼べない。

 なんとかして、万年不眠症のみっふーに体験してもらう方法を考えながら、日々の雑用をこなした。

「何か企んどらんか?」

「みっふーほどじゃないよ」

 適当に鎌をかけたが、あながち外れてもいなかったらしい。

 みっふーが指をくるくると回す。

「トキネはほどなく死ぬ」

 猫の鳴き声が聞こえた。

「あそこまで黒が侵蝕した状態でわたしから離れたら、黒に呑み込まれるのを止める術はない。一ヶ月はもたんだろうな。下手すれば数週間か」

 猫が鳴いている。

「つまり、わたしはトキネが死ぬのをわかっていて見殺しにしたことになる」

 猫が。

「ちょっと見てこい」

「はいはい」

 玄関の外に、白い子猫が縋りついていた。カリカリと爪とぎをしている。

「なんで猫が」みっふーが迷惑そうにのぞき込む。「追い返せ」

「えー、可愛いじゃん」猫を抱き上げる。「ほら」

「首輪はないな。でも敢えて付けていないかもしれん。こんな所にいる猫なんか、カネ持ちの道楽の犠牲者だろう。もしくはただの迷子か。わたしらが勝手に所有しているのがバレてのちのち面倒なことになっても構わん」

「じゃあ、バイト先でそれとなく探してみるよ」写真を撮った。「だからそれまで、面倒看てもいいよね?」

「命を軽々しく扱いたくはないんだが」

 みっふーが、猫から一定の距離を取っていることに気づく。

 猫を近づける。

 みっふーが離れる。

 猫と追いかける。

 みっふーが逃げる。

「ねえ、みっふー。もしかしてさ」

「生き物は苦手なんだ」みっふーが顔を背ける。「わたしに近づけんでくれ」

「はいはい」

 今日の買い物はキャットフードを追加するとして。

「みっふー、名前、何にしよう?」

「情が移るぞ?」

「名前ないと不便じゃん」

「好きにしろ。話を戻すが」

 白猫が僕の腕の中からねじり出て、みっふーの足に擦り寄る。

「ああ、もう、こっちに来るな」みっふーはベッドまで逃げるが。

 白猫がジャンプしてベッドにのってしまった。

「下りてくれー」

「みっふーのこと、好きみたいだね」白猫を挟んで、みっふーの横に腰掛ける。「僕のほうがもっとみっふーのこと好きだけど」

「おちおち寝てられん。ケージに入れてくれ」

「猫はケージに入れないよ」

「とにかくそいつを持っててくれ。話ができん」

 白猫を抱くと、みーみー鳴いてみっふーを見つめる。

「あ、みーちゃんは? みーちゃんはどう?」

「なんでもいいって言ったろ。一方的に懐かんでくれ」

 白猫にミルクをあげて、みっふーから離すことに成功した。

「どこまで話したか。ああ、トキネはほどなく死ぬ。わたしのところに連絡は来んだろうが、葬式は経慶寺であげるだろうな。クソジジイがうちの会長とそこそこの因縁でな。いまから参列者一覧が眼に浮かぶ」

「みっふーは罪悪感を感じてるの?」

「罪悪感か。面白いことを言うな」みっふーが白猫に背を向けてベッドに寝転がる。「トキネが黒に染まったのは自業自得以外の何物でもない。わたしとは何ら関係がないし、トキネの独断が功を奏したことは、これまで一度たりともない」

「時寧氏の評価低いね」

 白猫がミルクを飲み終えて、僕の膝にのる。

 温かい。

 そして、そこそこ重い。

「あのじゃじゃ馬をもらってくれた、心の広すぎる聖人に感謝したほうがいい。わたしの主治医でもあるんだが、先生を悲しませることになるのが、心残りといえば心残りだな」

「みっふーは時寧氏が嫌いなの?」

「姉代わりの相手に好きも嫌いもないな。いなくなったらいなくなったで寂しいかもしれんがな」

 ああそうか。

 時寧氏がいなくなることを、心でなく頭で理解しようとしている。

 感情はそう簡単に割り切れるものじゃないのに。

「あのさ、悲しいなら、泣いてもいいんだよ?」

「死んでから泣くことにする」

 それから一週間も経たないうちに、久慈原クジハラ時寧ときねが死んだ。

 直接聞いたわけでも、連絡があったわけでもないが、みっふーがそう言ったので間違いはないだろう。

 神奈川の最高気温は35度を超えていた。みっふーがラジオで天気予報を聞いていた。

 暑い暑い夏の日だった。

 その日、僕はバイトを休んだ。朝からベッド上でぼんやりしているみっふーの傍に寄り添っていた。

 白猫のみーちゃんも、一緒にいてくれた。

 結局みーちゃんの飼い主は見つかっていない。引き続き探すつもりではあるが、正直見つからなくてもいいかとも思っている。

 みーちゃん、このままうちの子になればいいのに。

「トキネはわたしになんか関わらなかったら、こんなことにはならなかったのにな」

「責めてるね」みーちゃんを床に下ろして、みっふーの肩に手を置いた。「泣くならいまがいいと思うよ」

「泣き方が思い出せん。親が死んだときだって泣いたかどうか」

「僕が死んだら泣けそう?」

「わたしを置いていく気か?」

「一緒に逝こうってこと? それってプロポーズ?」

「お前が相変わらずでホッとするよ」みっふーが寝返りを打ってこちらを向く。

 その顔が泣きそうな顔に見えて、力の限り抱き締めた。

「痛いぞ。いきなりなにを」

「僕が見てなかったら泣けそう?」

「見てないわけじゃないだろ? 聞いてるじゃないか」

「じゃあ耳も塞ぐよ。そうしたら」

「みーが見てる」

 みーみー泣いていたみーちゃんが、空気を読んだのか、軽やかに歩いて隣の部屋に消えた。

「ほら、誰も見てないし、聞いてないよ?」

「いちいち気の利かん男だな、お前は」

 そのときみっふーが泣いたかどうか、僕は知らない。なにせ見てなかったし、聞いてなかったんだから。

 翌日、僕はマッサージ師に土下座して弟子入りを頼んだ。

 彼は理由を知りたがった。当然だ。

 僕は正直に言った。僕は嘘が下手なので、泣き落しをしようと思った。

 同棲している彼女(妻と言いたかった!)が、極度の不眠に苦しめられている。僕は彼女をぐっすり眠らせてあげたい。彼女をここに連れてくれば早い。でも、彼女には何の伝手もないし、ただの一般人だから、ここには連れて来られない。あなたを雇うお金も、自宅に来てもらうことも僕にはできない。だから、僕があなたからその秘儀の一旦でも学ぶことができれば、彼女を不眠の地獄から救うことができるかもしれない。

 マッサージ師は、困ったような迷惑そうな顔をして、大きな溜息を吐いた。

 そして、諦めたようにこう言った。

 そんな莫迦は、お前が初めてだと。

 結論から言うと、マッサージ師は僕の弟子入りを了承してくれた。だいぶしぶしぶではあったが。

 師匠(すでにそう呼んで差し支えないだろう)は、言った。何年もかかったが、ここで貯めたお金で東京で店舗を出せることになった。オープニングスタッフを募集している。可能なら、自分のやっている技術に賛同してくれるスタッフが望ましい、と。

 9月末。

 軽井沢の期間限定営業の最終日の翌日。師匠は、みっふーの元もとい、僕らの間借りしている別荘を訪れてくれた。

 僕が出張費と施術費を脳内で計算しながら見守る中、みっふーはものの数十秒で眠りに落ちた。

 師匠は、出世払いでいいというカッコよすぎる台詞を置き土産に、東京へ帰った。

 僕は初めて寝顔を見ることができた喜びのあまり、内緒でみっふーに口づけた。

 みーちゃんがばっちり目撃していたのでご飯の量を増やした。完璧な口封じだ。

 10月。

 11月。

 12月。

 翌年1月。

 2月。

 3月。

 新年度4月。

 5月。

 6月。

 7月。

 あれから一年が経ち、猶予が満了となる8月を迎えた。

 あっと言う間だったような、長かったような、充実していたような。

 ただ一つ学んだことがあるとすれば、軽井沢という所は、冬に暮らすには向いていないことだ。身に染みてわかった。ここには夏にしか来てはいけない。秋も春もない。短い夏と、長い長い冬があるだけだ。

「本当にその格好で帰るのか?」みっふーが後ろの荷台で寝転がりながら、何度も何度も同じことを尋ねる。「いまなら間に合うぞ? お前の一族がおかしいと裏付ける証拠に成り下がるだけだ」

 バックミラーに映っている。みっふーがどうでもよさそうに仰向けに寝転がっている姿が。

 その脇に、みーちゃんが気持ちよさそうに添い寝している。

「みっふーが気にしてなさそうだし、どうでもいいかな、て」

「まったく、師匠は何も言わんのか。ボンクラにもほどがある」

 僕は、長髪のウィッグをかぶって、丈の長いスカートを穿いている。端的に言うと、女装をしている。

 師匠の安眠マッサージの記念すべき一号店は、無事オープンに漕ぎつけた。東京まで出向いて店を手伝いがてら、直々に指導を受けている。

「このほうが女性のお客さんの受けがよくてね。やっぱり男が見てるところで眠るの抵抗ある人多いみたいで」

「客を欺いているだけじゃないのか? それなら師匠も女装しないと筋が通らんぞ」

「俺はまだ師匠の施術に立ち会うだけだし、お客さんが安心して眠れる環境を作る役目だからね。アロマ焚いたり、タオルケット掛けたり」

「わたしは一日でも早くお前が師匠の技を盗んでくれるのを期待するだけだな」

 窓を開けると、懐かしい風が顔を撫でた。

 僕らは、鎌倉に帰ってきた。新しい家族を連れて。

「それは任せてよ。筋がいいって褒められてるんだよね」

「頼むぞ? 東京に通うのは面倒くさくて仕方がない」

 みっふーの自宅ではなく、時寧氏の事務所に向かった。みっふーの胸のざわざわを早急に解消する必要があった。

 待ちかまえていたかのように玄関が開いて、みっふーが後ずさりした。

 僕には見えないが、

 みっふーが見たのは、

 紛うことなき久慈原時寧だった。

 みーちゃんがみーみーとうるさく鳴いた。

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