した切りすずめ
京京
第1話 した切りすずめ
外は降り頻る雪で一面銀世界だ。
珍しい。
この大都会でここまで雪が降るなんて。きっと今頃、社会はこの雪の所為で大混乱に陥っているだろうな。
この街はなんと脆弱なんだろうか。不夜城と揶揄され、人の欲望を際限なく叶えてきたはずなのに。それに反比例するかのように自然の気まぐれにはとんと弱かった。
「どうした? すずめ?」
そう言っておじいさんは暖かいコーヒーを持ってきてくれた。
私はそれをベッドに座ったまま受け取る。
カップに注がれたコーヒーからは苦い香りが漂った。
ミルクと砂糖を入れてやっと飲めるようになるその苦い液体を一口飲む。
あぁ苦い。
でもあの味に比べればマシだろう。
苦いのは嫌いだ。
私の名前はすずめ。偽りの名前だ。おじいさんと初めて出会った時に名乗った昔の渾名。
意外と気に入っているので咄嗟に出てしまった。
それ以来、私はすずめ。
私はまた窓の外を見る。
あの日も雪が降っていた。
私は親から捨てられた。
親だけじゃない。
世間からも捨てられた。
全てに絶望し行く当てもなく、彷徨う内に深夜の公園に辿り着いた。
そこが私の棺桶になるはずだった。
もう疲れた。眠ろう。例えこの命が明日無かったとしてももういい。
そんな気持ちだった。
そこでおじいさんに出会った。
「行くところがないならおいで」
そう言って連れてこられたのがこのアパートだった。一人暮らしには広い二LDKのアパート。
私はおじいさんに甘えた。
その先にあるものが何となくわかっていたけれど、私は迫りくる死よりも楽な方を選んでしまったんだ。
でも後悔はなかった。
それから私はずっとここに住んでいる。
おじいさんは一週間に一回ほどここへきて私と他愛のない世間話をした。
おじいさんはコーヒーを飲みながらテレビをつける。いつものルーティーンだ。
流れているのは私が興味のない野球中継。
おじいさんは煙草に火を灯し、コーヒー片手にその電子の映像を眺める。
いまだにルールのわからない野球を二人で見ているこの間、きっと私は幸せを感じていたんだろうな。
自然と笑っていたのだから。
野球は時間通り終わる。
おじいさん曰く昔は延長して決着がつくまで放送してくれたらしい。
それを懐かしみながら、煙草の火を消した。合図だ。
おじいさんは服を脱ぐ。
日焼けした褐色の肌に筋肉が逞しく脈動した。
おじいさん、というにはその身体は若い。
グレーの髪もオールバックにしていて、見た目だけなら四十代でも通用するだろう。
おじいさんの本当の年齢は知らない。本人が「還暦を越えた」といっていたから勝手に私は『おじいさん』と呼んでいるだけだ。
全てが嘘かもしれない。
でも、どうでもよかった。
私は抵抗せずおじいさんの全てを受け入れる。
部屋の電気が消えた。
服はすぐに脱がされる。
生まれたままの姿で重なる二人。
激しい息遣いと鼓動のように規則正しい音だけが響いた。
おじいさんは私を愛してくれる。
親から、世間から、捨てられた私を愛してくれた。
それが一時の性の捌け口であっても私は構わない。
ただ、愛されているというこの瞬間だけが私を私でいさせてくれた。
おじいさんは私の全身を愛撫し、そして力強く、私を犯した。
喘ぐ私を抱きしめる。
何度も、何度も、重なり、疲れ果てても、それは続く。
暗闇の中で、夢のように、愛という幻を私達は二人で追いかけた。
永遠に繋がっていたいけれど、終わりはやってくる。
その証かのようにおじいさんは私の口元に自らの男根を持ってきた。
いつも通りだ。
私はそれを咥えた。
そして訪れる終幕を知らせる波濤。それが私の口の中に広がる。
苦いコーヒーの味をも掻き消すあの味。
噎せ返るのを我慢して私はそれを呑み込んだ。それは罪の味だ。甘美な思い出を裂く咎の味だ。
私はどこかでそれを嬉しいと思っていたのかもしれない。
だっておじいさんが私を愛してくれた結果なのだから。
全てを終えるとおじいさんは服を着て出て行った。
そして部屋で一人、私は眠りにつく。
そこには何もない。
愛だなんだとほざいたけれど、それが偽りなのはわかっていた。
現実から目を背けるように私は眠る。
いつもそうだ。
欺瞞でもいい。耽溺でもいい。
愛されているという夢の中で、現実を忘れて眠るこの瞬間だけが本当に私は幸せだった。
眠る直前に私は外を眺める。まだ雪はしんしんと降っていた。
そんな生活が暫く続いたある日、不意に部屋のチャイムが鳴る。
おかしい。
おじいさんは鍵を持っているはずだ。
チャイムなんて鳴らす必要がない。
いつも、勝手に鍵を開けて入ってくる。
何かの勧誘だろうか。だったら面倒だな。そう思いながら出るかどうか迷っていた。
またチャイムが鳴った。
仕方ない。
私は意を決して扉を開けた。
瞬間、激痛が顔を襲う。
痛みのため蹲った。床に鮮血がポタポタと落ちる。鼻血だ。
無様に血を流す私は顔を抑えながら見上げた。
そこにいたのは修羅のような顔をしたおばあさん? だった。
激しい怒りに身を任せた鬼の如きその人は蹲る私を蹴り飛ばす。
どこにそんな力があるのか。私は廊下の端まで吹っ飛んだ。
「この泥棒猫が!」
私は脇腹を抑えながら咳き込む。
おばあさんは倒れる私に跨り、何度も、何度も殴った。
流石に恐怖を感じた私はおばあさんを押しのけ部屋の奥へと逃げる。
その時、背中に激しい痛みを感じた。同時に熱さも。
悲鳴を上げながら振り返るとおばあさんは手に包丁を持っていた。
包丁には赤い雫が着いている。私の血だ。
そうか、私は背中を切られたんだ。
混乱の中、私は部屋の中に倒れる。
おばあさんは包丁を持って私の胸倉を掴んだ。
「お前ごときが! お前みたいなやつが! 殺してやる! 殺してやるからな!」
髪を振り乱し、牙を剥き出しにしたその貌は般若のようでとても人とは思えなかった。
私は死を直感する。
そこへ。
「やめろ!」
おじいさんだ。おじいさんが私を助けてくれた。
おじいさんはおばあさんから包丁を払いのけ、そのまま突き飛ばした。
「大丈夫か!?」
おじいさんが心配そうに私を見つめる。
おばあさんはそれが腹立たしかったのかまた鬼の形相で、今度はおじいさんに飛び掛かった。
「お前が! お前が浮気なんてするからだ! 誰の金で生活できてると思っているんだ! 入り婿のくせに! お前は私のお陰で今の地位があるんだぞ! ふざけるな!! こんな奴に! こんな奴にぃぃぃいいい!!」
後半は聞き取れなかった。
金切声に慟哭に近い叫び声が耳を腐す。
おじいさんは必死におばあさんを宥めようとしていた。
そうか、やっとわかってきた。
このおばあさんはおじいさんのお嫁さんなんだ。
私達の関係がばれたのか。
なんとなくおじいさんは既婚者かもしれないと思っていた。
聞かなかった。聞けなかった。怖かったんだ。この幸せを失いたくなかった。
それがいけなかった。偽りの愛にしがみ付いたツケを払う時が来たんだ。
そうか、そうか。これが私の終わりか……
私はどこか他人事だった。
背中の痛みが、切られた恐怖が、眼前の鬼が、私から現実感を奪った。
呆ける私を見ておばあさんはさらに憎悪を加速させる。
「お前の所為だ! お前の所為で!」
おばあさんはおじいさんの一瞬の隙を突いて、床に転がる包丁を手に取った。
そしてそのまま私に切りかかる。
真一文字に奔る包丁。
遅れてやってくる激痛。
私は叫びのたうち回る。
顔から迸る血の濁流。
顔を切られた。
それはわかった。
だけどおかしい。
痛みがそこだけじゃない。
口の中で更なる激痛があった。
私はトイレに駆け込み備え付けの鏡を見た。
頬を寸断する傷跡。
そして、口を開くと、舌がだらんと半分落ちた。
おばあさんの包丁は私の口を貫き、舌を半分裂いていたのだ。
黒い血がドバドバと流れ落ちていく。
私はそこで意識を失った。
幸せが音を立てて崩れていく。嘘と偽りの愛で組みあがった幸せはなんと脆いことだろうか。
幸せを失う。それだけが溜まらなく怖かった。
気が付いた時私は病院にいた。
口元は包帯で覆われている。背中の傷は痛みを訴えていた。
それから病院の先生に説明を受ける。
どうやら私はあのあと病院に搬送されたそうだ。
そして顔と舌、背中を手術で縫合してもらったらしい。
背中は問題ないらしい。
ただ、舌はリハビリが必要で、顔の傷は完全には癒えないそうだ。
私は病院のベッドから外を眺めた。
曇天が空を覆う。
凩が外を行きかう人たちを襲っていた。もう雪は降っていない。
その日の夜、おじいさんが来た。
「大丈夫か?」
そう言うおじいさんは見る影もなくやつれていた。
逞しい身体は萎れ、優しかった貌はみすぼらしい。
私を見るその瞳に宿るのは悔恨? 懺悔? それとも哀れみ?
私にはわからなかった。
おじいさんは只管謝った。そして事件にしないでほしいと頼んできた。
私にそんな気はない。そう伝えるとおじいさんは笑った。
手付金と見舞金といっておじいさんは私の手元に百万を置いていった。
そして病院代も全て払うと言った。
少し沈黙が流れた。
「すまんかった」
おじいさんはそう言って出て行った。
何故か私は泣いた。涙が止まらなかったんだ。
決して祝福される関係ではない。
それでも私は夢を見た。この夢が覚めなければいいと願ってしまった。
だけど夢は覚めた。最悪の形で。
私は自分でもわからない感情の赴くまま泣いた。子供のように、声を上げて泣いた。
あぁ、もう私を愛してくれる人はこの世にいないんだ……
退院してすぐ私はネットカフェに向かう。
そこでおじいさんの本名を入力した。私はおじいさんに隠れて、一度だけ財布の中にあった免許証を見ている。
だからおじいさんの名前は知っていた。
一度も呼んだことのないその名前を入れると、とある会社のホームページが出てくる。
おじいさんの素性はすぐにわかった。
とある一流企業の社長だ。
さらにネットの海を泳ぐとおばあさんの正体もわかった。
おじいさんは婿養子で元々その会社はおばあさんの父親のものだったそうだ。
だから『入り婿のくせに』か。
私はネットカフェを出る。
そしてホームセンターであるものを仕入れた。
準備はすぐ終わる。
最後におじいさんと出会った思い出の公園に赴いた。
ここで貴方に出会えた。感謝しています。私を拾ってくれた貴方に。
私が愛した人はもういない。私を愛してくれる人ももういない。
私は泣いた。声を上げずに、静かに泣いた。
曇天から覘く太陽だけが私を慰めてくれていた。
数日後、私はネットカフェで調べたおじいさんの家の前にいた。
あれからおじいさんの家をずっと張っている。
時間だけは馬鹿みたいにあるから苦ではなかった。
それでわかったことがある。
おじいさんとおばあさんは水曜日だけ一緒に行動していた。
どでかいマンションから出て道路に止めたこれ見よがしの大きな車に乗り込む。そして会社に向かうようだ。
この日もその通りに動いていた。
朝から不機嫌そうなおばあさんに付き従うおじいさん。
その姿に私は驚く。
精気に溢れた顔は枯れ果てていた。筋肉は落ち、髪もどこか寂しい。もう本当におじいさんになってしまっていた。
私が愛した人は完全に死んだみたいだ。
私は天を仰ぐ。
青い空は何処まで高く、透き通るように青かった。雲は一つもなく、春の匂いがすぐそこまで来ているようだ。
だけどもう私には関係がない。
激痛が吐き気を伴う。目が霞み、意識が時々消えそうになった。
ポタポタと下腹部から気持ち悪い雫が落ちる。
私は奥歯を噛み締め、痛みに耐えた。
病院からもらった痛み止めを私は一度も飲んでいない。そして朝方、溜め込んだ薬をいっぺんに使った。
その後遺症だろう。この激痛も、倦怠感も、吐き気も。
頭は深海にいるように微睡んでいるのに、身体は千切れそうなほど激痛を訴えている。
それが溜まらなく辛かった。
だけど、私は精神力でそれをねじ伏せる。
どうせ……もういいんだ。
私は親から捨てられた。世間から捨てられた。そしておじいさんにも……
もう思い残すことはない。
私はまた奥歯が割れるほど噛み締めた。唇が切れ、血が滲む。
古傷が開いて、舌からぬめっとした血が零れた。口の中に鉄の味が拡がる。
私は最後の力を振り絞った。
そしてバイクのアクセルを回す。昨日、適当に盗んだ原付のバイクだ。
アクセルを吹かすたびにバイクにエネルギーが回る。
覚悟を決め、私はバイクを走らせた。
狙いはただ一つ……おばあさんだ!
「ん? う……うわあああぁぁぁ!!」
猛スピードで私ごとバイクはおばあさんに突っ込んだ。
激しい衝撃が轟く。
私は道路に叩きつけられた。
おばあさんは外壁に吹っ飛ぶ。
無様に転がるおばあさん。手応えは完璧だった。上手くいった。私はおばあさんだけを見事に轢いたんだ。
「な!? お……お前は……すずめ?」
おじいさんは混乱していた。それもそうだろう。縁を切ったはずの愛妾が本妻を轢いたんだ。どんなに頭がよくたってすぐに理解なんてできるわけがない。
急がないと。
道路に停めてあった車からお付きの連中が出てくる。
私は懐から小さな箱を取り出した。多少崩れて変形しているが中身は無事だった。
良かった。
私はそれをおじいさんに渡す。
「お……あ……」
私は腰に下げていた包丁を取っておばあさんに近づいた。
おばあさんは虫の息ながら私を睨む。
私は包丁でおばあさんの胸を貫いた。
「ぎやあああ!!」
おばあさんは汚い断末魔を挙げる。その醜い貌のままおばあさんは動かなくなった。
私はにっこりと笑っておじいさんを見据える。
おじいさんは声も出ずその場に崩れ落ちた。
その衝撃で渡した箱が落ちて中身が飛び出す。
「ひぃぃ!!」
おじいさんはそれを見て驚き仰け反った。
悲しいな。
あんなに愛してくれた私の身体の一部なのに。
箱に入っていたもの。
それは……
私の男根だ。
男でありながら、男の人を好きになってしまった私の亡骸ともいえる大切な一部だ。
私は親から捨てられた。世間から捨てられた。そしておじいさんに捨てられた。
あの時、私は顔を切られようが、舌を切られようがどうでもよかった。
おじいさんさえ居てくれればそれでよかった。
手付金なんてものを渡して私と縁を切ろうとしたおじいさんが溜まらなく憎くなった。
どうして私を捨てるの?
私と一緒になってよ。私を愛してよ。私と生きてよ。
全て幼稚な考えなのはわかっている。
それでも私はおじいさんが憎くなってしまった。同時にまだ愛していた。
だから……
こうすれば……おじいさんは私から一生離れられない。
これは呪い。
一生私を想い、私を愛し、私のために生きる呪いだ。
「さようなら、おじいさん。愛しているわ」
私はそこで力尽きる。
下腹部からは濁流のように黒い血が流れ続けた。
限界だ。
最後におじいさんの顔が見られた。
その表情は怯え、戸惑い、まるで怒られる直前の幼子のようだった。
私は微笑む。
何一つ後悔なんてしない。
だって私……最後に……愛を手に入れたもの……
それが偽りだとしても……
私は満足……
さようなら……
私が愛した人……
さようなら……
した切りすずめ 京京 @kyoyama-kyotaro
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