第7話「結婚」
「…………え? ま、まさかわたくしの正体を知って――」
「くっくっくっ」
アブデュル殿下が抱擁を解きます。
薄暗い船室で二人、至近距離で見つめ合う形となります。
「アイゼンベルク家は我が帝国の西進事業を長年阻み続けてきた宿敵だぞ? そりゃあ調べるに決まっているだろう。アイゼンベルク港にはトゥルク商人も多数出入りしているのだから」
……それもそうですわね。
「アイゼンベルク家を攻略するための策は、たくさん用意してある。その内の一つが、お前を落とすことだ」
男性版ハニートラップというわけでございますか。
まぁ、国が国を落とすためなら、しかも血を流さずに済むというのなら、そのくらいはやりますわよね。
「狙っていた獲物が俺の腕の中に落ちてきたときには、心底驚いた。最初は洗脳魔法で操縦してやろうかとも思っていたのだが、コロコロと表情を変えるお前を見ているうちに、すっかり夢中になってしまってな」
アブデュル殿下が熱い眼差しをわたくしに向けます。
「今、気づいたよ。俺が感じていた胸の高鳴りは、恋だったんだな」
……たぶん、それは偽りの感情です。
『一生のお願い』によって心を操られているのですわ。
「で、殿下――」
人の恋心を操るだなんて、やってはいけないことだと思います。
今までさんざん、人を裸踊りさせたり、武器商の計画を狂わせたり、いくつもの国の外交官に不利な条約を結ばせてきたわたくしが、今さら青臭いことを言うなという話かもしれませんけれど。
「その気持ちは偽り。『一生のお願い』です。本心に目覚め――」
…………いや、ダメだ。
今ここでアブデュル殿下が恋から冷めてしまったら、わたくしはきっと酷い目に遭います。
心苦しいですけれど、ここはアブデュル殿下の気持ちを利用するしかありませんわ。
「ありがとうございます、アブデュル殿下。どうか末永く、わたくしを可愛がってくださいませ」
こうしてわたくしは、敵国の皇太子・アブデュル殿下と結婚しました。
◇ ◆ ◇ ◆
戦争は速やかに終結しました。
トゥルク軍はビザンティヌス帝国に対するあらゆる敵対行為を停止し、撤兵。
両国は講和を結びました。
国土はトゥルク侵攻開始前の状態――つまりポスボラス海峡を挟んだ状態に。
講和の条件としてトゥルクが求めたものはただ1つ。
アイゼンベルク家長女の身柄。
それも、人質ではなく妻として。
1ヵ月後の結婚式では、わたくしはトゥルク帝国民に温かく祝福してもらいました。
そうして今や親戚同士となった両国は、ともに平和的に発展していくことを誓ったのです。
アフロディーテのことは心配でしたが、父上が出兵するようなことはございませんでした。
まだまだ研究不足ですが、『一生のお願い』にも限界というものがあるのでしょう。
仮にアフロディーテが父上に、『娘もろともトゥルク軍を殲滅しろ』というような『お願い』をしたとしても、より上位の存在――皇帝陛下からの終戦命令には逆らえない、とかでしょうか?
分かりません。
分からないことだらけです。
ただ、確かなことが一つだけ。
「どうした、ヘラ? 浮かない顔をして」
落ち着いたトゥルク調の一室で、アブデュル殿下がわたくしの頬に触れてきます。
「いいえ、何でもありませんわ」
わたくしは今、間違いなく、愛されているということ。
……
…………
………………
……………………
◇ ◆ ◇ ◆
そして、3年の月日が経ちました。
いろいろなことが、本当にいろいろなことがありました。
領都アイゼンベルクにはトゥルク大使館が、また海峡東側の都市トゥルキスタンにはビザンティヌス大使館が立ち、両国が小競り合いを止めたことから、両都は空前の大発展を果たしつつあります。
今やポスボラス海峡は『西と東をつなぐ玄関口』と呼ばれ、両国は戦争せずとも貿易だけで発展し続けられるという展望を得ることができました。
トゥルキスタンの街をお忍びで歩けば、人々の顔は明るく、希望に満ちています。
そうして、わたくしも。
「体の調子はどうだ?」
寝室に、アブデュル殿下が入ってきました。
「順調ですわ」
わたくしはとびきりの笑顔で迎えます。
「何もかも、殿下のお陰です」
本心でした。
『一生のお願い』に操られているはずなのに、殿下はあのときの言葉のとおりわたくしを愛し続けてくれました。
『一生のお願い』の効果が3年経った今も続いているのでしょうか?
少なくともあのバカ殿下――じゃなかった、バッカス殿下は、裸踊りを一晩し続けた後、正気に戻りました。
『一生のお願い』には、踊り続けて衰弱死させるほどの強制力はないのです。
他方、前回のわたくしはアフロディーテの『一生のお願い』で自刃しました。
やはり、『一生のお願い』は時間経過によってその効果を減衰させていくのだと思われます。
ですがアブデュル殿下は違いました。
『一生のお願い』による効果のはずなのに、言動に危うさはなく、理性的で、トゥルク軍将軍としての軍務を精力的に行いつつ、わたくしのことも蔑ろにしないというバランス感覚を有しておいでです。
そして3年経っても変わらず、わたくしを愛してくださいます。
……自惚れでなければ。
殿下が仰った、わたくしに『一目惚れした』という発言は、殿下の本心だったのかもしれません。
「動けるようなら、診察の後で少し庭を歩こうか」
「軍縮計画立案でお忙しいでしょうに、よろしいのですか?」
「定期的にお前と一緒にいないと、かえって仕事が非効率になるからな。3日も会わないでいると、もう、お前のことで頭がいっぱいになってしまうんだ」
「まぁ、お上手ですこと」
「世辞などではないさ。何なら今、試してみるか?」
――ぎし
ベッドに上がってきた殿下と口づけを交わした後、わたくしは殿下の胸板をそっと押し返します。
「いけませんわよ」
「分かっているさ。ちょっと仕返しがしたかっただけだ」
「ふふ」
こういう、わたくしだけに見せてくれる子供っぽいところも、堪らなく愛おしいものです。
――コン、コンコン
「お医者様がいらっしゃいました」
侍女の声とともにドアが開き、お医者様が入ってこられました。
――そう。
わたくしのお腹の中には今、もう1つの命が宿っているのです。
……男児だと良いのですが。
いえ、殿下は『どちらでも構わない』と仰ってくださっておいでです。
『女児なら、男児が生まれるまで続ければいい』だなんて、なんともまぁ、うふふ。
幸せです。
この幸せはきっと、この先5年、10年、数十年と続いていくのでしょう。
――――どさり
「…………え?」
お医者様が倒れ、わたくしと殿下は首をかしげました。
と同時、
「『一生のお願い』です。アブデュル殿下、自害してください」
侍女が――
頭巾を外し、巨大なアフロ頭を露出させたアフロディーテが、言った。
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