恥ずかしがり令嬢と「普通」の魔法の眼鏡
紫陽花
第1話
「はぁ、今日もクラスの人たちと上手く話せなかったわ……」
私、ローラ・グラフトンは私室のベッドに腰掛け、お気に入りのクマのぬいぐるみを抱きしめながら溜息をついた。
十三歳で入学した王立ソフィア学院に通学することはや三年。しかし私は未だにクラスメートと打ち解けることができずにいた。
王侯貴族の子女が通うソフィア学院は、どの令息令嬢も明るく爽やかでキラキラと輝いている。心に余裕があり、社交を楽しみ、勉学もそつなくこなす、
対して私はと言えば、特徴のない薄茶色の髪に水色の瞳、顔もきっと眼鏡が本体だと思われているだろう。
行動も地味そのもので、休み時間は一人教室の片隅で本を読み、友達がいないので授業でペアを組む時はいつも私だけ余って先生と組むか、どこかのペアに混ざらせてもらったり、放課後も誰かと一緒に残ってお喋りをしたり、遊びに行ったりすることもない、華やかさとは無縁の人生を送っている。
別に、孤高を気取っている訳ではない。周りの人たちがあまりにも素敵すぎるので、恥ずかしがりの私は気後れしてしまって、まともに顔も合わせられず、なかなか交流を持つことができないでいるのだ。
そして一人でいるのは暇なので、読書をしたり勉強に励んだりしていると、周りも声を掛けづらくて余計に仲良くなれる機会を失うという悪循環。まあ、読書も勉強も好きだからいいのだけど。……でもやっぱり友達も欲しい。
今日も、せっかくクラスメートと話す機会があったのに、全然上手に話せなかった。家族やぬいぐるみとは緊張しないで話せるのに、学院に行くとまるでダメなのだ。恥ずかしがりの性格が本当に恨めしい。
私はクマのぬいぐるみを相手に、毎日の日課となっている「今日ダメだった会話のシミュレーション」を始めた。
「グラフトンさん、今年の文化祭の出し物は何がいいと思う?」
「最近、街で流行っているというクレープ屋さんをやってみたいなと思ってるんです」
「まあ、素敵ね! 私もこの間食べてみたの! バニラアイスとベリージャムのクレープが美味しかったわ」
「美味しそうですね。私はグレープフルーツとヨーグルトソースのクレープが気になってたんです!」
「それもいいわね。今度一緒に食べに行きましょうよ!」
「ええ、ぜひご一緒させてください!」
……ほら、シミュレーションなら流れるように会話ができるのに、どうして本番ではこの会話力が発揮できないのだろう。ちなみに、実際の会話はこうだった。
「グラフトンさん、今年の文化祭の出し物は何がいいと思う?」
「え、あの、だ、だし……?」(目線を逸らしながら)
「文化祭の出し物よ」
「へあ、わわ私は、なん、なんでも……」(俯きながら)
「何でもいいの?」
ブンブン!(首を縦に振る音)
「あら、そうなの。ありがとう、じゃあね」
……とまあ、ざっとこんなものだ。
何一つまともな返事ができていなくて、思い出すだけで悲しくなる。こんなに会話に難のある私に話しかけてくれるなんて本当にありがたいのに、小粋なトークは無理でも、せめてつっかえずに言葉を返せるくらいにはなりたい。そう思って毎日こうしてぬいぐるみと向かい合って練習をしているのだけれど、道のりはあまりにも険しい。
そうやってまた落ち込んでいると、コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「ローラ、入ってもいいかな?」
お父様だ。夕食の時間にはまだ早いけれど、何か用だろうか。
「はい、どうぞ」
私が返事をすると、お父様がにこにこと笑顔で入ってきた。何か背中に隠し持っているようだけど、あれはまさか──。
「ほら、ローラが欲しがっていた『星影の峡谷』が手に入ったぞ」
「お父様、ありがとう! すごく読みたかったの!」
『星影の峡谷』は外国の作家による長編小説で、幻想的な世界観と繊細な情景描写、さまざまな登場人物の思惑が絡まり合う複雑なストーリーで大人気のベストセラーだったが、翻訳版の数が少なく、なかなか入手が困難だったのだ。
ずっと読みたいと思っていた憧れの本が手に入って、私は満面の笑みでお父様に抱きついた。
お父様は私の頭をひと撫でして、さっそく本を手渡してくれる。
ああ、こんなに希少な本が私の手に……。装丁も題字もとても凝っていて素敵だ。早く読みたくてうずうずする。
「ローラは、本のこととなると幼い子供のようだな」
お父様が目を細めて言う。
「……本には自分の感情を素直に出せるから楽しいの」
「周りの人にもそうやって接したら、きっとすぐに仲良くなれる。こんなに可愛い子なんだから」
お父様がまた私の頭をポンポンと軽く撫でた。お父様は外で上手く話せない私が心配なせいか、こんな風にすぐ子供扱いするのだ。もう十六歳だというのに。でも、十六歳にもなってそんな心配をかけているほうが恥ずかしいかもしれない。
「……明日は頑張って話してみるわ」
「大丈夫、ローラならできるよ」
そう言って、最後にまたポンポンと私の頭を撫でて、お父様は部屋を出て行った。
「明日こそ、ちゃんと話せるといいんだけどな……」
私は、革とインクのいい匂いのする『星影の峡谷』を胸に抱いて、小さく呟いた。
◇◇◇
翌朝、学院へと向かう馬車の中で私は焦っていた。
昨日やっと手に入った『星影の峡谷』を読み始めたら、とても面白くてページを捲る手が止められず、すっかり夜更かししてしまったせいで寝坊したのだ。
お母様やお兄様からは呆れられ、お父様からも困ったような笑顔で「ほどほどにしなさい」と言われてしまった。
急いで支度を済ませて家を出たが、いつもより十五分も遅れている。外を見てソワソワとしていると、御者から話しかけられた。
なんでも、もう学院のすぐ近くまでは来ていて、あと数分で着くはずなのだが、いつもの道で何か事故があったようで馬車が通行止めになっており、迂回しないといけないようだ。
「迂回してもよろしいですか?」
「うーん、遅刻しそうだから歩いていくわ。徒歩なら通行できるでしょう?」
「はい、馬車だけ通れなくなっているようです。申し訳ありません」
「いいのよ。寝坊した私が悪いもの。ここまでありがとう。また帰りによろしくね」
「はい、行ってらっしゃいませ」
私は鞄を片手に馬車を降り、駆け足で学院へと向かう。往来で走るのは伯爵令嬢として褒められたものではないのは分かるけれど、今は遅刻するかどうかの瀬戸際なのだ。私は走りに走った。幸い、重いドレス姿ではなく、比較的身軽な制服姿なので走りやすく、なんとか間に合いそうだ。
──あそこの角を曲がればすぐに学院の入り口だわ。
そう思って角を曲がろうとした瞬間、角の向こうからローブ姿のおじいさんが現れたのに気づいた。咄嗟に避けようとして体を捻ったが、バランスを崩して勢いよく尻もちをついてしまった。
「お嬢さん、すまんかった。怪我はないかね?」
おじいさんが心配そうに尋ねる。
「大丈夫です。こちらこそ、慌ててぶつかりそうになってしまって、すみませんでした」
慌てて立ち上がっておじいさんの顔を見ると、どうしたことだろう。おじいさんの顔がぼんやりしていて、目が二つ、鼻がひとつに、口がひとつあることしか分からない。しばらくおじいさんを見つめた後、私はハッと気がついて自分の目元に手をやった。
「眼鏡がない!」
そう、私はド近眼なのだ。本の読みすぎのせいではないと思いたいが、とにかく目が悪くて眼鏡がないとほとんど何も見えない。
ちなみに最近、巷では目の角膜に直接装着する「
たしかクラスメートでも何人か「コンタクトデビューだね!」なんて言われていた人がいた気がする。ただ、かなり高価なようで、眼鏡よりも本にお金を使いたい私は特に買ってもらおうとも思っていなかった。
だいぶ話が逸れてしまったが、つまり、眼鏡がないと相当困るのだ。とりあえず、尻もちをついた拍子にどこかに落としたであろう眼鏡を求めて辺りを見回すが、なかなか見当たらない。
「おかしいわね……。あの、おじいさん、この辺に眼鏡が落ちてないですか?」
おじいさんにも尋ねてみると、無情な現実を突きつけられてしまった。
「眼鏡って、この粉々にひび割れた眼鏡のことかい?」
なんてことだろう! 手渡された眼鏡に目を近づけて検めてみると、ガラス部分は粉々で、ツルもひしゃげてしまって、まるで使い物にならない状態だった。
「そんな……。予備は持ってきてないのにどうしよう……」
「悪かったのぅ。弁償しようにも手持ちがなくてなぁ……」
おじいさんはとても申し訳なさそうにしているが、元はと言えば夜更かしして寝坊して、慌てて走っていた私が悪いのだ。弁償をしてもらうなんてとんでもない。
「気にしないでください。勝手に転んだ私がいけないんです」
「でもなぁ……。そうじゃ、眼鏡の魔道具なら持っておったわい」
おじいさんはそう言って、背負っていた籠から金縁の丸眼鏡を取り出した。
「これは、かけると周りが普通に見える眼鏡でな。これならお嬢ちゃんも困らんじゃろ」
眼鏡を受け取って、よく近づけて見てみる。元々使っていた眼鏡と色は違うけれど、形は似ているので、違和感なく付けられそうだ。試しにかけてみる。
「どうだね?」
おじいさんを見てみると、さっきまでぼやけていた顔がはっきりくっきり見える。顎に蓄えた長い白髭以外は特徴らしい特徴もない、どこにでもいそうな顔のおじいさんだ。
「ちゃんと見えます!」
「そりゃよかった。その眼鏡はお嬢ちゃんにあげるから、好きにお使い」
「すみません、ありがとうございます。とても助かります」
「ほっほ。じゃあ、わしはもう行くよ。今度は気をつけて行くんだよ」
「はい、本当にありがとうございました!」
私は親切なおじいさんにお礼を言って角を曲がると、今度は走らず、少しだけ早足で学院へと向かった。
◇◇◇
「ふぅ、なんとか間に合った……」
結局、朝礼の二分前に到着することができた。いつもは十五分前には着いて、朝礼が始まるまで予習をしているのだが、今日はそんな余裕はなさそうだ。自分の席について、鞄から教科書とノートと筆記用具を取り出す。そうこうしていると、先生が教室に入ってきた。
「皆さん、おはようございます。出欠をとりますよ」
──あら、今日は担任の先生じゃないのかしら?
いつも朝礼は担任のスミス先生が来るのに、今日は違う先生がやって来たようだ。お化粧ばっちりの華やかなスミス先生とは対照的に、可もなく不可もない感じの先生だ。髪や目の色は先生と同じだけれど、印象が全く違う。
──でも、こっちの先生のほうが話しやすそうだわ。
私はなんとなくその先生に親近感を持った。
◇◇◇
お昼休憩の時間。食堂でランチをとりながら、私は非常に困惑していた。
今日の学院は何かおかしいのだ。
朝からずっと、いつもの先生とは違う先生が授業をしている。そして、なぜかみんな髪や瞳の色や背格好はいつもの先生と同じで、顔だけ違うのだ。
しかも、みんながみんな、さして特徴のない、いわゆるモブ顔をしているのが不思議すぎる。一体どうしたと言うのだろうか。まさか、いつの間にか私だけ並行世界に転移してしまったとか?
いやいや、そんな馬鹿なことがあるはずない。すぐこういう発想になってしまうのは、私の悪い癖だ。空想小説の読みすぎだろう。でも、あまりにも不可解で、まるで魔法にでもかけられたようだ。
……ん? 魔法?
そういえば、あのおじいさんから譲ってもらった眼鏡は魔道具だって言っていたような……。しかも、
──この眼鏡のせいかもしれない……!
私はパッと顔を上げて辺りを見回してみた。
授業中はクラスメートは後頭部しか見えていなかったし、食堂に来る途中も、輝かしい他の生徒たちと目が合わないようにずっと下を向いて歩いていたので気がつかなかったが、よくよく見てみると、他の生徒たちも全員が凡庸な顔立ちになっている。いつもは学院に漂う空気にもキラキラと輝く星や、色鮮やかな花々の幻が見えていたのだが、今はそれも消えている。
どんなに目を凝らしても、普通の食堂で、普通の生徒たちが、普通に昼食を食べているようにしか見えない。
最初は「普通の視力で見える眼鏡」なのかと思っていたが、これはきっと「人が普通顔=モブ顔に見える眼鏡」であるに違いない。
──それって、なんて素敵なの!!
この眼鏡をかけていれば、これまでは口下手で挙動不審だった私も、他の生徒たちの麗しさに気後れすることなく、家族やぬいぐるみと話す時と同じように、スムーズに会話できるはず。
だって、何のオーラも感じないモブ顔なら緊張なんてするはずもない。なぜか視力まで底上げしてくれるようだし、これはもはや私のために作られた魔道具としか思えない。
──おじいさん、素晴らしい魔道具をどうもありがとう!!
私は心の中でおじいさんに感謝した。そういえば、あの時はおじいさんも平凡な顔に見えていたけれど、それも眼鏡の魔法の力によるもので、もしかしたら風格のある渋いおじいさんだったかもしれない。どこにでもいそうな顔のおじいさんだなんて失礼なことを言ってごめんなさい……と、お詫びも追加しておいた。
◇◇◇
午後の授業や休憩時間は、ひたすら周りの様子を伺ってみた。
みんながモブ顔だと見分けがつかなくて大変かなと思ったが、顔の造作以外は変わらないので、髪と瞳の色や声、体型などで、先生やクラスメートたちは誰が誰だか何となく見分けがついたので安心した。それ以外の人たちは、まあ話す機会もないだろうし気にしなくてもいいだろう。
魔法の眼鏡の効果を確かめた私は、今日は様子見で終わることにし、明日からはクラスメートたちに話しかけてみようと決意した。
放課後になって寄り道もせず帰宅した私は、喜び勇んでお父様のいる書斎へと向かった。
「お父様、ただいま!」
「ローラ、おかえり。ずいぶんとご機嫌だね」
優しく笑いかけてくれたお父様は、とても平々凡々とした顔だった。
うーん、家族が普通の顔に見えるのは、なんだか落ち着かないような変な感じだ。家では魔法の眼鏡ではない予備の眼鏡をかけることにしよう……。
私はモブ顔になったお父様に笑顔で答えた。
「今日はちょっといいことがあったの。明日はお友達が作れそうな気がするわ」
「それは良かった。きっといいお友達ができるよ」
「うん、学院に行くのが楽しみだわ!」
学院に行くのが楽しみだなんて、こんなこと一度も言ったことがない。お父様は普通の顔だけどとても嬉しそうな表情をして頭を撫でてくれた。
◇◇◇
翌日、私は張り切って学院へと出かけた。
入り口の門をくぐり、校舎に入り、廊下を歩く。道ゆく生徒や先生たちが皆いつものキラキラを放つこともなく、何の主張もない顔をしていて、私は喜びに打ち震えた。
──できる! 今日の私ならできるわ! クラスメートへの朝の挨拶を……!
私は自分のクラスの扉を開けると、近くにいた赤い髪色の女子生徒に笑顔で声をかけた。
「おはよう!」
赤い髪の女子生徒は──たぶんバーバラ・アップルトンという名前の子だと思うが、一瞬驚いた表情を見せた後、笑顔で挨拶を返してくれた。
「おはよう、グラフトンさん」
……ああ! 笑顔で挨拶を交わし合うって、なんて素晴らしいんだろう! 私もとうとうリア充の世界へと一歩を踏み出したのだわ!
周りが少し騒めいているような気もするけれど、みんなモブだと思えば大して気にならない。私はにこやかな笑顔を保ったまま自分の席に着いた。
今日の私は、自分で言うのもなんだが絶好調だった。数学の授業では、板書された問題を解くよう指名されても手が震えることなく滑らかな字を書けたし、国語の授業では最初から最後までどもらずに朗読できた。音楽の授業では声が裏返ることもなく上手に歌えたし、美術の授業では自分から似顔絵のペアを見つけて声をかけられた──けど、相手の似顔絵がモブ顔になってしまったので絵心はないと思われてしまったかもしれない……。周りの人たちが微妙そうな反応をしていたけど、ペアになった子が「私って大体こんな顔だもの!」とフォローしてくれた。優しい子だ。
そしてランチの時間になり、食堂へ行こうとした時、朝に挨拶をしたバーバラ・アップルトンさんと、似顔絵を描いたモニカ・ウィリアムズさんが話しかけてきた。たしか二人とも私と同じ伯爵令嬢だったはず。
「グラフトンさん、よかったら一緒に食堂に行かない?」
これはまさか……かの有名なランチのお誘いでは? まさにお友達を作る絶好のチャンス!
私はぬいぐるみと練習した会話のシミュレーションを思い出しながら、笑顔で答えた。
「ぜひご一緒させて! 私のことはローラと呼んでね」
「ありがとう、ローラ。あたしもバーバラって呼んで」
「私もモニカと呼んでほしいわ」
なんというスムーズな会話……! 私にもやっと名前で呼び合えるお友達ができたわ……!
感動のあまり叫びだしたい衝動を抑え、三人揃って食堂へと向かう。こうやってお友達と並んで食堂に行くのもずっと憧れていた。きっと今の私たちは仲良し三人組みたいに見えていることだろう。
食堂について、みんなで日替わりランチを頼むと四人席へと座った。バーバラとモニカが並んで座り、私が向かいに座ると、さっそく二人が話しかけてくれた。
「あたし、ずっとローラと話してみたかったんだ。今朝挨拶してもらえて嬉しかったよ」
「私も美術の授業で声をかけてもらえて嬉しかったわ」
「今まではローラのこと、一人でいるのが好きなのかなって思ってたんだけど、違ったみたいだね」
「私もそう思ってたわ。けど、今日はローラから話しかけてくれたから、お友達になれるんじゃないかと思って」
「……え? 私とお友達になりたいって思ってくれてたの?」
二人からの意外な言葉に、私は心底驚いた。みんな、私のことなど地味で様子のおかしい生徒くらいにしか思っていないだろうと考えていたからだ。
「うん。だってローラって見ていて可愛いんだもん。顔を真っ赤にしながら一生懸命やってる感じがさ」
「そうそう。もじもじしている仕草がいじらしくて放っておけないっていうか」
二人とも、私のおかしな挙動をそんな前向きに捉えていてくれてたなんて……。人って話してみないと分からないものね。そんな風に思い、これまでずっとキラキラに耐えられないからといって俯いて過ごしていたことを後悔した。
それからは、自分の家族構成や趣味などを教え合ったり、今度一緒に遊ぶ約束をしたりして、これまでの学院生活で一番楽しいランチ休憩になった。今までは休憩時間なんて早く終わればいいと思っていたのに、今日はあまりにもあっという間に過ぎてしまって名残惜しく感じた。
「それにしても、ローラって本当に本が好きなんだね。ちょうど今日、ローラが好きそうな本が図書室に入荷されるから見てみたらどうかな?」
食堂から教室に戻る途中でバーバラが言った。バーバラは図書委員なのだ。実は私も図書委員になってみたいとは思ったのだが、委員会でみんなで話し合ったり、本の貸し出しなどで他の生徒とやり取りするのが無理と思って諦めた。でも本は好きなので、図書室にはしょっちゅうお世話になっている。誰とも──本を借りる時に図書委員の人とすら、話さないけれど。
「知らなかったわ。教えてくれてありがとう。放課後に行ってみるわね」
まだ新しく読み始めた『星影の峡谷』が途中だけど、新入荷の本もチェックしておきたいし、面白そうな本だったら借りたいので、放課後は図書室に寄ってみることにした。
◇◇◇
そして放課後。私は図書室に来ていた。人がほとんどいなくて貸切のようだ。少し寂しい気もするが、私はこのひっそりとした雰囲気が好きだった。そっと目を閉じて深呼吸し、本の匂いを楽しむ。
──やっぱり図書室は落ち着くわね。
いつも図書室に来た時にやる儀式を終えた私は、新入荷の本を確かめようと、図書委員の人が読書をしながら座っている図書カウンターに行った。今日の当番の人は、銀髪に藍色の瞳をした男子生徒で、ネクタイの色が青色なので二つ上の最上級生だ。今まで図書委員の人とは一度も話したことがなかったが、今日の私は一味違う。この眼鏡があれば、誰と話すのも怖くない。私はにこやかに微笑んで尋ねた。
「今日、新入荷の本があると聞いたのですが、見せていただけますか?」
「……持ってくるから、少し待っていてくれるかな?」
図書委員の人は、普通極まりない顔に少し驚きの表情を浮かべながら返事をして、本を取りに奥の部屋へと入っていった。誰だかよく分からないが、声には聞き覚えがあったので、今までにもあの人が当番の時に貸し出しの手続きをしてもらったことがあったのかもしれない。その時の無口な私と今日の私があまりにも違うので驚かせてしまっていたら申し訳ない。
1分ほど待つと、図書委員の人が十冊くらいの本を抱えて戻ってきた。
「これが新入荷の本だよ。他に人もいないし、ゆっくり見てくれていいから、借りたい本があったら教えて」
図書委員の人はそう言ってカウンターの席に座ると、先ほどまで読んでいた本をまた読み始めた。図書委員になるだけあって、やはり読書が好きなのだろう。読んでいる本も私の好きな作家の著書で、少し親近感がわいた。
「ありがとうございます。ここで見させていただきますね」
私はカウンターの近くの席に腰掛けて、一冊ずつ本を確かめる。空想小説に、世界の御伽話全集、フルカラーの植物図鑑に、偉人の伝記、星座と神話の物語に、古典文学の解説……。興味深い本ばかりで、どれも借りたくなってしまう。でも、図書室で一度に借りられるのは三冊までなので、よく吟味しなければ……。
結局、三十分くらい悩んで、世界の御伽話全集、星座と神話の物語、古典文学の解説の三冊を借りることにした。私は三冊を揃えて抱え、カウンターでまだ読書をしていた図書委員の人に声をかけた。
「長々とすみませんでした。こちらの三冊を借りたいです」
「この三冊だね。これ、僕がリクエストした本なんだ。興味を持ってもらえて嬉しいよ」
図書委員の人が嬉しそうに言う。
「そうだったんですね。先に借りてしまってすみません……」
「いや、僕はもう自分で買って家にあるからいいんだ。とても面白くて、きっと他にも読みたい人がいるだろうと思ってリクエストしたんだよ」
「そうでしたか! 本当に、とても面白そうでつい借りたくなってしまいました。まだ家に読みかけの本もあるのに……」
「そうなの? ちなみに何を読んでいるのか聞いてもいい?」
「『星影の峡谷』の翻訳版です。まだ半分くらいしか読んでないんですけど、本当に心が揺さぶられて……」
「ああ、あれ! 翻訳版が手に入ったなんてラッキーだったね。僕も今、手配しているところなんだよ」
「ふふ、私たち、本の好みが似ていますね」
同じ読書好きで本の好みも似ているせいか、ついつい話が弾んでしまった。趣味の合う人とお喋りするのがこんなにわくわくするだなんて知らなかった。今日だけではなくて、また今度お話ができたらどんなに楽しいだろう。この眼鏡がなかったら知らなかった感情だ。なんとなく、この縁を終わりにしたくないなと思っていたら、図書委員の人が名乗ってくれた。
「僕はエリック。毎週、火曜と木曜に当番をしているから、また気軽に声をかけて」
「私はローラです。図書室にはよく通っているので、また来ますね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
そうして、本を借りる手続きをしてもらって、私は図書室を後にした。初めての本好き仲間ができて、満ち足りた気持ちでいっぱいだ。私は自然と足取りが軽くなるのを感じながら、帰りの馬車が待っているだろう停車場へと向かった。
◇◇◇
それからあっという間に二ヶ月が過ぎたが、まさに夢のような日々だった。毎日、授業に生き生きと参加でき、休憩時間はバーバラとモニカと一緒に過ごし、学院に通うのが本当に楽しい。休日には三人で街へと出かけてクレープを食べたり、お揃いのブレスレットを買ったりもした。おやつを食べるのも、買い物をするのも、一人のときよりもずっと心が満たされる。他愛もないお喋りをするのも、読書と同じくらい好きになった。
そうやって仲良しの友達と過ごすうちに、他のクラスメートたちも気軽に話しかけてくれるようになった。女子だけでなく、男子からもよく話しかけられるようになり、クラスに溶け込めているのを実感して嬉しくなる。
本好き仲間のエリックとも、ずいぶんと仲良くなった。毎週火曜と木曜の放課後は図書室に行って彼とお喋りするのが日課になっていた。最近読んだ本の感想を言い合ったり、二人で『星影の峡谷』のストーリーを考察したり、図書室の本棚の整理を手伝ったり、エリックは頭がいいので私が授業で分からなかったところを教えてもらったり。
彼はとても穏やかで包容力があって、彼と一緒にいると心が安らぐ。これはバーバラやモニカと一緒にいるときの心が弾むような気持ちとはまた違った感情で、なんとも不思議だ。それに、モブ顔に見える眼鏡をかけているはずなのに、エリックの顔はなぜだか特別印象的に見える。まさか魔法の効果が切れそうなのではと思ったが、他の人は相変わらず究極の普通といった顔にしか見えないので、眼鏡が壊れそうな訳ではないようだった。
そんな風に、憧れのリア充生活を満喫していた私は、今日も木曜の日課の図書室訪問にやって来ていた。
「やあ、ローラ。いらっしゃい」
「エリック、今日は何かお手伝いすることはありますか?」
「ううん、今日は大丈夫。ありがとう」
エリックは他に誰もいなくて暇なのか、カウンターから出てきて出迎えてくれた。
「今日はローラに見せたいものがあって」
「あら、何でしょう?」
「ほら、これ」
そう言ってエリックは胸ポケットから二枚の紙切れを取り出した。
「これ……、ミーシャ・ヘドウィグの個展のチケット!?」
なんと、『星影の峡谷』の挿絵画家であるミーシャ・ヘドウィグの個展のチケットだった。彼女の絵はとても緻密で繊細な筆致と独特の構図が特徴で、大ファンである私はつい興奮して大きな声を立ててしまった。
「そうだよ。ちょうど二枚手に入ったから、一緒に行かない?」
「いいんですか? ぜひ行きたいです! でも……二人だけで?」
「うん、二枚しかないからね。……僕と一緒は嫌?」
「いえ、そんなことないです。ちょっと緊張しそうだと思って……」
「はは、大丈夫だよ。今までだってずっと図書室で二人きりだっただろう?」
「た、確かに……」
言われてみれば、図書室ではずっとエリックと二人きりだった。今までエリックと過ごした時間を思い出す。すると、なぜか急に恥ずかしいような気がしてきた。一体どうしたというのだろう。この眼鏡をかけてからは、緊張や恥ずかしさとは無縁だったはずなのに。どんどん顔が熱くなっていくのを感じる。
そんな私を見たエリックはどこか満足そうな顔で微笑んだ。
「来週の日曜は空いてる?」
「は、はい……」
「よかった。それじゃあ僕がローラの家まで迎えに行くよ。楽しみにしてる」
「は、はい……」
魔法の眼鏡をかけているのに、私はなぜか俯いたまま顔を上げられず、まともに言葉を返すこともできないのだった。
◇◇◇
次の土曜日。私はバーバラと一緒にモニカの家へと遊びに来ていた。モニカが飼っている猫を見せてもらう約束をしていたのだ。モニカの部屋でソファに腰掛け、代わる代わる猫を抱かせてもらいながらお喋りを楽しむ。
「あ〜、あたしも猫飼いたいなぁ! ローラもそう思わない?」
「え、ええ、美味しかったわよね……」
ちょっとボーッとしていてよく聞いていなくて、当てずっぽうで返事をしたら、バーバラとモニカが驚いたような心配そうな顔で見つめてきた。
「ローラ、大丈夫? 昨日から様子がおかしいよ」
「ええ、いつもと違って上の空というか……」
自分では普段通りに過ごしていたつもりが、どうやら友達を心配させてしまうほどの有様だったらしい。でも、原因は分かっている。エリックだ。
今まで彼のことを、同じ本好き仲間で気の合う先輩だと思っていたのに、一昨日お出かけに誘われたとき、エリックは男の人で、今までずっと図書室に二人きりで過ごしていたんだと気づいたら、どうしようもなく恥ずかしいような、幸せで満たされるような、よく分からない気持ちになってしまった。
エリックのことを考えるだけで、きゅうっと胸が締め付けられるような気持ちになって、これではまるで恋愛小説の主人公のようではないか。そんなはずはない、私は魔法の眼鏡をかけているんだから、そんな気持ちになる訳がないのに。そうやってぐるぐると考えてしまって、何も頭に入らなくなってしまうのだ。
「ローラ、悩みがあるなら聞くよ」
「私たち、お友達でしょう?」
バーバラとモニカが気遣わしげに声をかけてくれる。二人になら相談してみてもいいかもしれない。このよく分からない気持ちを教えてくれるかもしれない。そう思って私は、魔法の眼鏡のことは内緒にしつつ、エリックとのやり取りと、それ以来胸が苦しくなるような気持ちになることを二人に打ち明けた。
「あ〜、なるほどね〜」
「ローラって、本当に可愛いわね」
私の話を聞いた二人は、なぜか幼い子供を慈しむような優しい眼差しをして頷き始めた。そして、バーバラが私をビシッと指差して言う。
「ローラはエリック先輩のことを異性として気にしている。つまり、恋しているってこと」
「ええっ! 恋!?」
恋って、何をしていても好きな人のことが頭から離れなくて、その人のことを考えると胸がドキドキして、いつも会いたくて仕方なくなるという、あの恋……?
まさか魔法の眼鏡をかけている私が恋だなんて信じられないけれど、この気持ちが恋だとすると納得がいくような気もする。
「エリック先輩は顔だけじゃなくて、内面も基本的には素敵な人だよ。ローラともお似合いだと思う!」
バーバラは同じ図書委員だからか、エリックのことをやたらと推してくる。私は魔法の眼鏡をかけているから、エリックの顔がどうなのかは分からないが、内面が素晴らしいことは知っている。バーバラの言う「基本的に」というのが変な言い回しで気になるけれど。
「自分の気持ちに確信が持てないなら、来週のデートで確かめればいいんじゃないかしら」
「で、デート!?」
なんということだろう。好きな画家の個展に男女二人で出かけるというのは、よく考えなくてもデートである。どうしよう。楽しみなのは間違いないのに、急に恥ずかしさが増してきた。
「デートって、どうすればいいの……? 自信がない……」
「ローラは可愛いんだから大丈夫!」
「そんな……私なんて地味でしょう?」
「何言ってるの! あたしはローラの亜麻色の髪や、湖みたいな瞳が綺麗だなっていつも思ってるよ」
「そうよ。ローラは顔立ちも可憐だし、仕草も上品で愛らしいわ。最近はクラスの男子にも人気があるのよ」
どこまで本当か分からないけれど、私を勇気づけようとしてくれたことが嬉しくて、二人に笑顔でお礼を言った。
「ありがとう。私、頑張ってデートしてくる」
「ええ、応援してるわ」
「じゃあ、あたしからアドバイスを一つあげる」
「アドバイス?」
「そう、デートの日はその丸眼鏡をやめて、
「ええっ!?」
私は一瞬、魔法の眼鏡のことがバレたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「デートはオシャレが大事だよ。眼鏡を外したら、きっとエリック先輩も喜ぶと思う!」
「そうね。眼鏡を外したら、きっともっと可愛くなるわ」
つまり、この丸眼鏡はダサいから外したほうがいいと……。言いたいことは分かるが、これはただの眼鏡じゃなくて、魔法の眼鏡なのだ。これをかけないと、きっとまた上手く話せなくなる……。
でも、それと同時に、最近もう一つの思いも芽生えていた。バーバラやモニカ、そしてエリックとよくお喋りするようになってから感じていること。
みんなは本当はどんな顔立ちで、どんな表情をしているのだろう?
私だけが本当の顔を知らない。それって何だか寂しい。
以前は、人と緊張せず普通に話せて、親しくできる友達が作れたら、顔なんてみんな無個性のお面のようなもので構わない、むしろそれがいいとさえ思っていた。それなのに、今はそれでは物足りないと思ってしまうのだ。相手をもっとよく理解したい、色んな表情を見てみたい、私にだけ見せてくれる顔を知りたい。渇望にも似た強い思いが心に湧くのを感じる。
「眼鏡、外してみたいな……」
ぽろりとこぼれた言葉はきっと、紛れもない私の本心だ。
「うん! それがいいよ!」
「眼鏡を外したローラが早く見たいわ!」
バーバラとモニカが嬉しそうにはしゃぐ。私は、家に帰ったらさっそくお父様にお願いしてみようと思った。
◇◇◇
その日の夜、私は居間で寛いでいたお父様に話しかけた。
「お父様、お願いがあるのだけど、お話してもいい?」
「なんだい? 言ってごらん」
「あのね……私、
お父様は一瞬きょとんとした表情をした後、安心したような笑顔で頷いてくれた。
「もちろん買ってあげるさ! お友達の言うとおりだ。ローラはもっと可愛い格好をしたほうがいい」
お父様は二つ返事で了承してくれ、さっそく翌日街に出かけて
そして、デートを三日後に控えた木曜の夜。
私は鏡台の前に腰掛けて、出来上がったばかりの
──今までありがとう、魔法の眼鏡さん。私はあなたのおかげで一歩を踏み出せたのよ。そしてこれから、また新しい一歩を踏み出すの。
私は魔法の眼鏡をそっとひと撫でして丁寧に外し、綺麗な飾りのついた小箱にしまった。そして、
その後、家族に見せてもみんな褒めてくれたので、コンタクト姿がおかしいということはなさそうだ。
明日、学院に行ったら、バーバラとモニカも褒めてくれるだろうか。不安よりも楽しみな気持ちが大きくて、私は一人クスクスと笑いながらベッドに入った。
◇◇◇
翌日の朝。学院に着いた私は、自分のクラスの扉の前で深呼吸をしていた。
みんなに挨拶をするのが緊張する……。スーハー。魔法の眼鏡をかけていなくても自然に話せるだろうか。スーハー。でも、いつまでもこんな所で立っている訳にもいかない。スーハー。大丈夫、顔の見え方が変わるだけで、みんな私が知ってる人たちよ。スーハー。
私は扉の取っ手に手をかけ、ガラッと開けると、いつもの笑顔で挨拶をした。
「おはよう!」
クラスメートたちの視線が一斉に集まり、静かに騒めき始めた。
「えっ、グラフトンさん? めちゃくちゃ可愛いんだけど」
「丸眼鏡もダサ可愛かったけど、外してたほうが断然いいな」
「眼鏡外したら美人って反則だろ」
「オレ、デートに誘ってみようかな」
思っていた反応と少し違って戸惑っていると、バーバラの声が響いた。
「男子たち! ローラはエリック先輩とデートの約束をしてるんだから邪魔しないでよね」
すると男子生徒たちの残念そうな声が聞こえた。
「マジか。やっぱあの噂は本当だったんだ」
「エリック先輩じゃ勝ち目ないよな〜」
「仕方ない、オレたちはクラスメートとして仲良くしようぜ」
え、噂って何だろうと思っていると、バーバラとモニカがこちらまで来てくれた。
「ローラ! とても似合ってるよ!」
「ほら、絶対可愛くなると思ってたのよ」
嬉しそうに顔を綻ばせる二人の顔をまじまじと見つめる。本当の顔をこんなにしっかり見るのは初めてだ。
バーバラは少し目尻が上がった勝気そうな顔だけど、さくらんぼのような小さな唇が愛らしい。モニカは垂れ目に口元のほくろが色っぽいけど、包み込むような温かい雰囲気がある。二人のこんな表情は、きっと私だから見せてくれるものだ。そう思うと、言いようのない嬉しさが込み上げてくる。モブ顔じゃなくて、この顔を見ながらお喋りしたい。きっと今、本当の友達になれたんだと感じる。
私は二人に抱きついて言った。
「……ありがとう。二人とも大好きよ!」
◇◇◇
そして瞬く間に時は過ぎ、ついにデート当日になった。
金曜にコンタクトをつけて学院に行った時、緊張したのは最初だけで、クラスメートたちともすぐ普通に顔を見て話をすることができた。顔がモブから少し進化しただけで、中身はいつものみんななんだと思えば、何てことはなかったのだ。だから、エリックとも普通に会話できるはずだ。
とは言え、デートというものが初めてなので、昨日の夜はドキドキしてしまってよく眠れなかった。朝起きてからも、なんだかソワソワして落ち着かない。家族揃って朝食をいただいている時もつい溜息をついてしまった。
「ローラ、どうした。具合でも悪いのか」
「ううん、大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」
「ならよかった。今日は先輩と出かけるんだろう? 準備は済んだのか?」
「ドレスは選んだから、食事が済んだら着替えるわ」
「馬車を使うかい?」
「ううん、今日はエリック先輩が迎えに来てくれるから」
「そうか、エリック先輩が……ん? エリック? まさか男の先輩なのか!?」
突然、お父様が不満げな顔になって文句を言い出した。どうやら、女の先輩と出かけるのだと思っていたらしい。まあ、私がちゃんと言わなかったのだけど。
「男子生徒と二人で出かけるだなんて、ローラにはまだ早い!」
「あなた、こういうのもローラには大事な経験よ」
「そうは言っても、どこの馬の骨とも知れん奴にローラは任せられん! ローラ、その男子生徒はどういう子なんだ」
「えっと、最上級生で、とても頭が良くて、図書委員をされていて仲良くなったの」
「図書室で目をつけられたか……まったく、どこの家の子だ」
お父様がぷりぷりしていると、お兄様が割って入ってきた。
「なんだ、図書委員のエリックなら、グレンジャー公爵家の嫡男だろ。ローラ、やるじゃん」
今年卒業したばかりのお兄様が衝撃の事実を告げる。
「え、グレンジャー公爵家……?」
グレンジャー公爵家と言えば、四大公爵家の筆頭で、宰相やら大臣やらを何人も輩出している文官の超名門だ。
エリックは自己紹介した時も家名を名乗らず、それからも何となくはぐらかそうとしている雰囲気を感じていたので無理に尋ねはしなかったのだが、そんなに立派な家門のご子息だったとは……。お父様とお母様もお互いに顔を見合わせながら、心底驚いている様子だ。しばらく沈黙が続いた後、お父様がゴホンと咳払いして言った。
「ローラ、くれぐれも失礼のないようにな。母さん、後で身支度を手伝ってあげるといい」
「そ、そうね。ローラ、思い切り可愛くしていきましょう」
私は苦笑いで頷いた。
◇◇◇
それから身支度を整えて居間で迎えを待つことにした。もうすぐ来るかしらとドキドキしていたら、私よりも緊張した様子で意味もなく部屋の中をウロウロと歩き回っているお父様を見て、少し冷静になった。
「あなた、少しは落ち着きなさいな」
「お父様、埃が立つので座ってください」
お母様とお兄様にもたしなめられ、お父様はしょんぼりとしてソファに腰掛けた。
すると、ちょうどベルの音が鳴り響き、執事が来客を告げた。
「グレンジャー公爵家のエリック様がお見えです」
ソファに腰を下ろしたばかりのお父様がすぐにまた立ち上がる。家族揃って玄関ホールへと向かい、エリックを出迎えた。
「ご家族の皆様、出迎えていただきありがとうございます。エリック・グレンジャーと申します。ローラさんと外出する許可を出してくださったこと、感謝いたします。無事に送り届けますのでご安心ください」
エリックがにこやかに挨拶をしてくれたが、私は彼を直視できずに俯いている。だって、遠目で見えた彼の顔がびっくりするほど綺麗だったのだ。それに一度目を合わせたら、私の顔が一瞬で茹で上がってしまいそうで、恥ずかしくて顔を上げられない。クラスメートとはすぐに緊張せず話せたのに、どうしてだろう。ひとまず、馬車に乗るまでには何とか心を落ち着けなくては。
「こちらこそ、迎えに来ていただいてありがとうございます。今日は娘をよろしくお願いします」
一言も発しない私の肩に手を置いて、お父様が挨拶をする。
「それでは失礼します。さあ、行こうか」
エリックはとても自然に私の手を取り、馬車までエスコートしてくれる。初めて手を繋いで知ったエリックの手の温かさに、胸の高鳴りが激しさを増す。ダメだ、このままでは心臓発作でも起こして倒れてしまうのではないだろうか。
私はとりあえずエリックには目の焦点を合わさず、深呼吸を繰り返しながら、心を無にして馬車に乗った。スプリングのきいたソファにエリックと向かい合って座ったところで、意を決して顔を上げると、微笑む彼と目が合った。くせのないサラサラの銀髪に、夜空のように美しい藍色の瞳。中性的な麗しい顔立ちで、涼しげな目は優しく私を見つめている。
「ローラ、眼鏡を外したんだね。あまりに可愛くて驚いたよ」
「……はい、コンタクトに変えて……」
「眼鏡姿も素敵だったけど、こっちのほうが好きだな。ドレスもよく似合ってる。こうして制服じゃない格好で会うのは新鮮な気がするよ」
「……ありがとうございます、そうですね……」
ダメだ。やっぱり緊張してうまく話せない……。ただでさえ、予想外に立派な出自と綺麗な顔にびっくりしてしまったのに、図書室で話す時とは違う甘い言葉に、頭がクラクラしてしまう。どうしてもエリックを直視できずに俯いていると、エリックが悲しそうに言った。
「……もしかして、ずっと家名を伏せていたことを怒ってる? 内緒にしていてごめんね。畏まって距離を置かれたくなくて……」
「ち、違います! 今日のエリックがあまりに素敵だから、恥ずかしくなってしまって……。失礼な態度をとってごめんなさい……」
辛そうなエリックを見たくなくて、思わず顔を上げて本音を言ってしまった。すると、エリックはとても嬉しそうな顔で笑った。
「僕を見て、照れてくれたの? 嬉しいな」
こんなエリック、私の知っているエリックじゃない。でも、まるで恋人に対するような言葉や振る舞いが砂糖のように私の心に甘く沁み渡って、幸せでたまらない気持ちになる。もっと彼に近づきたい。もっと触れてみたい。そんな欲が生まれてくるのを止めることはできなかった。
◇◇◇
個展の会場に着いた私たちは馬車を降り、受付にチケットを渡して中へと入る。
すると、ミーシャ・ヘドウィグの繊細で優美な絵の数々が私たちを出迎えてくれた。白黒の線画や幻想的な色使いのリトグラフまで、ミーシャの描く様々な世界が額縁の中から呼びかけてくるようで、私はうっとりと見惚れてしまう。
「さすが素晴らしい絵ばかりだね」
「はい、いつまででも眺めていられそうです」
「はは、じっくり楽しもう」
そうして私たちは「あ、これ『星影の峡谷』の挿絵ですね」「本当だ。あっちは『魔導士シリーズ』の絵だね」「こっちの連作も素敵です」などと小声で話しながら、ミーシャの世界を堪能した。絵を眺めている間に、いくらか心も落ち着き、いつも図書室でエリックと話していた時の感覚を取り戻していた。
個展の観賞を終えた後、私たちは今話題のカフェでランチをし、何軒か古書店を巡って、今は公園のベンチに並んで座って休憩をしていた。初めてのデートはとても楽しくて、あっという間に時間が経ってしまった。もう日が傾き始めていて、そろそろ帰らないとお父様の機嫌が悪くなりそうだ。でも、そう思いながらも、このまま家に帰るのは寂しいような気がしていた。特に話なんてしなくても、エリックと一緒にいるだけで心が満たされるような、ずっとこうしていたいような。そんな想いを胸に秘めて、隣に座るエリックを見ると、彼もこちらを見て微笑んでくれた。
ああ、きっと私はエリックに恋をしているんだ。魔法の眼鏡を外しても他のクラスメートには抱かなかったこの気持ち。
──これが人を好きになるということなのね。
やっと自分の気持ちを確信した私がエリックの名前を呼ぼうとした時、エリックが私の名前を呼んだ。
「ローラ。今日は付き合ってくれてありがとう。とても楽しかった」
「私のほうこそ、誘っていただいてありがとうございました。本当に楽しかったです」
「……日も暮れそうだし、そろそろ帰らないとね」
「そうですね。……でも、ちょっと名残惜しいですね。もう少しだけこうしていたいような」
私がそう呟くと、エリックは驚いたような切なそうな表情をして、私の手をそっと握った。
「……エリック?」
「ローラ、君のことが好きだ」
エリックに触れられて顔を赤らめる私を、彼が愛おしげに見つめる。
「本当は今日言うつもりはなかったのに、君がそんな可愛いことを言うから……。それに、丸眼鏡を外してすっかり垢抜けた君を誰かにとられてしまったらと思うと、我慢できなかった」
エリックが困ったような笑顔で告げる言葉に、私は恥ずかしさと嬉しさで固まってしまう。
「ずっと君が好きだった。今だから言うけど、去年図書委員になって、図書室で君を見かけるようになってから気になって仕方なくて、君が図書室に来るのを楽しみにしていたんだ。恥ずかしがり屋で、本を借りる時さえ赤くなって上手く喋れないのに、本棚で本を選んでいる時や、窓辺のテーブルに腰掛けて読書をしている時は、嬉しそうだったり、切なそうだったり、色んな表情を見せる君に惹きつけられた。でも君は図書室の外ではいつも俯いて人を避けていたから、何とか近づきたくて、翌年も図書委員に立候補して、君が好みそうな本も読んだりした。だから、あの日に君が話しかけてくれた時は、夢じゃないかと思った。本当に嬉しかったんだ」
まさか、エリックがそんなに前から私のことを見ていて、好きになってくれてたなんて知らなかった。
「あの時に私のことを知ったんじゃなかったんですね」
「……うん、ずっと嘘をついていてごめんね。怖かったんだ。君に僕のことを知ってもらいたいけど、こんな執着を抱えた人間なんて嫌がられるんじゃないかと思って……」
知ってほしいけど、知られたくない。近づきたいけど、近づけない。そんな想いは私にも経験があった。
「嫌がるなんてこと、ないです。私はエリックのことを知れてよかったと思ってますし、エリックに想ってもらえるのは嬉しいです……」
「……よかった。僕も、君のことをもっと知れて嬉しかった。図書室で君と過ごす時間は奇跡みたいで、このまま時間が止まってしまえばいいのにと思った」
エリックが握っていた私の手を、両手で覆って閉じ込め、儚げに笑った。
「君が僕だけのものになってくれたらどんなに幸せだろうと、そんなことを考えてしまう。本当に好きなんだ。君は、こんな僕のことを好きになってくれるかな?」
「あの、私はずっと人付き合いが上手くできなくて、友情とか恋愛とかは、本の中でしか知らなかったんです。でも、最近親友と呼べるお友達ができて、クラスの人たちとも話せるようになって、友情を知りました。そして、エリックと仲良くなって……恋も、知ったんです」
エリックが大きく目を見開く。
「私もエリックが好きです。どんなエリックも、これから知っていきたいです」
「ローラ……。本当に君が愛しくて仕方ないよ」
エリックが、握っていた私の手を彼の頬に当てる。
「よし、これから君のご両親に婚約のお願いをしに行こう」
「えっ、こ、婚約ですか!?」
いくらなんでも急すぎやしないだろうか。驚いて声が裏返ってしまった。
「そうだよ。ちゃんと僕のものってみんなに分かるようにしないと。噂だけじゃ不安だし」
「そういえば、クラスメートが、エリックの噂がどうとか言ってましたけど、何なんですか?」
「ああ、君が横取りされてしまわないように、僕が噂を流したんだ。僕は君に夢中だから、君に横恋慕したら公爵家に目をつけられる。あと、火曜と木曜は図書室デートの日だから図書室に近づくなって」
エリックが爽やかな笑顔で教えてくれた。……そんな噂がされていたなんて知らなかった。どうりで、もともと
「ごめんね。嫌わないでくれるといいんだけど……」
エリックが悲しそうな目で見てくるのが可哀想で、私は何も言えなくなる。ちょっとやりすぎじゃないかなとは思うけど、これが彼が私にだけ向けてくれる感情なのだと思うと不思議と嫌ではない。惚れた弱みというやつだろうか。
「一生大切にするからね」
「……お手柔らかにお願いします……」
私の初恋の相手は、少し愛が重そうだけど、現実の恋愛に疎い私にはこれくらい分かりやすく好意を表してくれる人のほうがいいのかもしれない。
魔法の眼鏡をかけてから変わり始めた私の世界。友情を知って、恋を知って、明日はどんなことが待っているだろう。
──いつかエリックにも、魔法の眼鏡のことを教えてあげよう。きっと、家宝にするとか言いそうだわ。
そんなことを考えて、私はふふっと小さく笑った。
恥ずかしがり令嬢と「普通」の魔法の眼鏡 紫陽花 @ajisai_ajisai
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