第13話 衝撃

「どう?こんな服?」

「可愛い!」

 今日子供たちの学校が半日だったため、街に買い物にやってきた葵。


「そうだ、どこかで外食して行こうか」

「やったー!」

 はしゃぐ子供たちと商店街を歩く葵は、最近できたばかりの人気カフェ屋を目指した。

 教師たちの研修で臨時休校となった今日の街は、親子連れの買い物客がちらほらとみられた。

「お父さんも一緒だったらよかったのにね」


 葵が仕事で家を留守にする時は、子供たちの食事の支度や身の回りの世話をしてくれる夫。

 夫は、自分以上に子供たちに慕われていると感じることがある。

 以前、お父さんとお母さんどっちが好きかと質問したら、答えられなかった正直な子供たち。ちょっぴり焼いてしまう。


 そんな子供たちと共に過ごす休日は実に楽しい。

 歩道で信号待ちをしていると、ふと目に入った老舗カフェ屋の店内に夫一樹の姿を見つけた。仕事の打ち合わせでもしているのだろうか。誰かと話し込んでいた。

 ネクタイとスーツがよく似合う夫は、とてもリラックスした表情をしていた。

 何だか盗み見しているようで気が引けたが、仕事をしている夫を見るのは久しぶりで、思わず見入ってしまった。

 あまり構ってくれない夫だが、今でも彼のことが好きなのだと自覚した葵。

 その夫から、まさかの離婚話を提示された時はショックを隠せなかった。

 いつもは触れようともしないのに、朝帰したあの日、嫉妬したと言って半ば強引に求めてきた夫。

 実のところ、夫が何を考えているのか全く理解できない。


 ――それにしても綺麗な人・・・・・・


 夫の向かいに座るのは、夫とさほど年の変わらないウットリするほど美しい女性だった。


 ――っ!?


 次の瞬間、葵はナイフで胸を一突きされたような衝撃に、ヒュツと息を呑む。

 葵は、一目でそれを理解した。

 夫はその女性と、テーブルの上で人目も憚らず手を繋ぎ合っていた。


 突然、視界がぼやけて見えた。

「お母さん?行かないの?信号青だよ」

 子供たちの声に、我に返った葵。

 夫の姿を子供たちに見られないように、葵は子供たちの手を取るとその場から逃げるように歩き去った。

「お母さん?急にどうしたの?」

 今にも泣き出してしまいそうだったが、子供たちの前で泣くわけにはいかない。

 葵は感情を押し殺し、涙をぐっと堪えた。




 ここのところ帰りが遅い夫は、今日も日が変わる頃帰宅した。

「お帰りなさい・・・・・・」

「ああ、ただいま・・・・・・まだ、起きていたのか・・・・・・」

 いつもと変わらない様子の夫。

「夕飯は・・・・・・」

「外で済ませてきた」

「・・・・・・そう・・・・・・」

 

 あの後も女性と一緒だったのだろうか。そう思っただけで、胸が苦しくなる。

 葵は、例の女性のことが気になって仕方がなかったが、口に出すことができない。


「仕事・・・・・・忙しい?」

「ああ。仕事を自宅にまで持って帰りたくないからな・・・・・・」


 もっともな理由で、昼間の女性と過ごしていたんだろうか。

「そう、なんだ・・・・・・それは、大変ね・・・・・・」

 

 思い切って、女性と手を繋ぎ合っているところを見たといってみようか。

 夫はどんな反応をするのだろうか。

 だが、面と向かって聞き出す勇気がなかった。


「じゃあ、私、先に寝るね・・・・・・」

「ああ、おやすみ・・・・・・」


 あれは、自分の勘違いだったのかもしれない。夫が公の場でそんなことをするわけがない。葵は、そう信じたかった。

 夫は、葵が朝帰りしたあの日以来、余分な口をきかなくなった。

 その後、離婚話は夫の口から話されることもなく、これまでと変わらない日常生活を送っていた。


 ふと思う。夫は自分の何に不満だったのだろうか。

 もう随分と前からセックスレスだが、喧嘩になるようなことは記憶にない。

 気づけば、夫は自分に触れなくなっていた。悪夢に魘されるとき以外は。

 どうしてそうなったのか、どれだけ考えても思い当たらない。

 夫は、何か言うに言えない秘密を抱えているのかも知れない。

 夫の心を知るには、それなりの覚悟が必要だと感じた。

 ひょっとしたら、夫は私では満足できなかったのだろうか。それが、離婚したい原因なのかもしれない。

 葵は女性としての自身を喪失していた。




 ここのところ、衝撃的な出来事が立て続けに起こり、多忙業務も相まってキャパシティーオーバーとなった葵。一日中ため息をついては、ボーッと考え事をする日々を送っていた。


「東雲さん、どうかしましたか?最近元気がないようですが・・・・・・」

 葵の変化に逸早く気づいた救急救命士の谷崎。

 彼は、間もなくこの病院での研修が終わろうとしていた。


「どうやら、皆さんに迷惑をかけているようですね。しっかりしなくては」

 笑って見せる葵だが、谷崎には泣いているようにも見えた。

 何があったか分からないが、そんな葵を見ているのが辛かった。


「東雲さん、新しくオープンした串カツ屋を知っていますか?」

「ああ、大阪で有名なあのお店でしょ」

「はい。今度、研修医の皆さんと行くことになったのですが、東雲さんも誘うようにとのことでした。一緒に行きましょう」

「う~ん。お酒の席は、この間飲み会に出席したばかりだから・・・・・・」

「飲まなくても、食べるだけでもいいじゃないですか」

「・・・・・・そうね。考えておく」


「いい返事を待ってます。皆、東雲さんが来るのを楽しみにしてますから」

 葵は、困り顔して笑って見せた。

 夫と桐生のことで頭がいっぱいで、今の葵は心に余裕がなかった。




 結局、押しに弱い葵は研修医たちと夜の街に繰り出すことになった。

 今日はお酒を飲まず食事だけと決めていた。

 気が重かった研修医たちとの飲み会は、案外楽しいものだった。

 相変わらず研修医たちの下ネタの餌食となってしまった葵だが、夢を語って真っすぐに進む彼らを見ていたら何だか眩しく見えた。


 もし人生やり直すことが出来たならば・・・・・・ふとそんなことを考えた葵。

 そしたら、もっと別の人生を歩んでいたに違いない。

 その時は、今の彼らには会うことはなかっただろう。そう、桐生とも・・・・・・。


 間もなく研修が終わる谷崎は、葵との別れが名残惜しいと言ってくれた。

 彼は実習にきた頃に比べ、格段に手技の腕をあげた。

 葵は現場で活躍する彼を想像し、今の彼ならば安心して送り出せると誇らしげに思った。




 葵は皆と別れ駅に向った。街ゆく人波の中に一樹の姿を見つけた。

 たまには一緒に帰ろうと思った葵は、夫を驚かしてやろうと早歩きで追いかけた。

 夫の背中まであとちょっとのところでぎょっとした葵は、伸ばしたその手を思わず引っ込め息を殺し気配を消した。


 ――え・・・・・・!?


 そこいたのは、夫を見つめ楽しげに肩を並べて歩くこの間の女性だった。

 しかも、指を絡めて歩く二人は恋人そのもので・・・・・・。

 一樹の腕に甘えるように寄りそう女性を、愛おしそうな眼差しで見つめる夫。

 突如、息苦しさを覚えた葵は胸元を握りしめた。


 過換気症候群――

 ハァハァと息苦しさに身悶えながら、遠のく夫の背を追うのに精一杯だった。


 ――かず君!お願い・・・・・・どこにも行かないで・・・・・・!

 無情にも、声にならない心の声は夫に届くことなくただ苦しさだけが募っていく。

 葵は、歩くこともままならない程の苦しさを堪えながら、残酷なまでの現実を目の当たりにする。

 寄り添う二つの影は、とある建物の中に姿を消した。


 ――そんなことって・・・・・・


 絶望的な瞬間だった。

 苦しくて、悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうだった。

 心の苦しみは、惨めな自分を嘲笑い追い詰めるかのように、己の喉を締め付けた。


 ――かず君・・・・・・どうして・・・・・・?私じゃダメなの・・・・・・?




「・・・・・・い?分かるか?葵!?」

 何度も自分を呼ぶその声音に薄っすらと目を開けると、そこには今にも泣き出しそうな顔をした桐生が、食い入るように葵を見つめていた。


「桐生・・・・・・先生?」

 葵は、白衣姿の桐生を見てここは病院だということに気づいた。


「私・・・・・・」

「街で倒れているところを発見され、救急搬送されたんだ」

「・・・・・・あれは、夢ではなかった・・・・・・・・・」

 表情を曇らせる葵。


「どうした?何かあったのか?聞いてやる」

 桐生の優しい声音に、葵の瞳からポロポロと涙の雫が零れ落ちていった。





「葵!」

 深夜になって、葵より一回り年上と思われる男性が慌てた様子で病室に入ってきた。桐生はその様子から葵の夫と理解した。


 ――ん?この匂い・・・・・・


 この時、「ああ」と何かを悟った桐生は、怪訝な表情を浮かべると葵の夫に冷たい視線を送った。


「葵!大丈夫か!?」

 夫は葵に歩み寄り、心配そうな面持ちで顔を覗き込んだ。


「お静かに願います。葵さんは今薬で眠っています」

「あなたは?」


「初めまして。葵さんの主治医の桐生健と申します。葵さんにはいつもお世話になっております」

「桐生・・・・・・」

 夫はその名を聞き、血相を変えた。


「葵の病状は・・・・・・」

「葵さんは、倒れた際頭を打ち軽度の脳震盪と診断されました。今日は経過観察のため入院していただきます」


「・・・・・・葵は連れて帰ります」

「ダメです。主治医として、それは許可できません」

「何故だ?」


「あなたは、葵さんがどこで倒れていたかご存じないのですか?」

「聞いてない」


「でしたら、知らない方がいいかもしれませんね・・・・・・でも。そんなこと言われたら気になりますよね?」

「もちろんだ」


「ホテル街・・・・・・といったら?」

 桐生は冷たい視線を夫に浴びせた。


「!?誰と・・・・・・?」

 夫は桐生の顔を睨みつけた。


「目撃情報によると、街を歩いていた彼女は突如苦しそうにその場に蹲った。だが、苦しさを堪えながら何かを追うように必死に歩き出し、その先で倒れたそうです」


「っ――!?」

 夫はヒュっと息を呑み言葉を失った。


「それから・・・・・・彼女は何か心身に強いストレスを抱えてはいませんか?」

「強いストレス・・・・・・?葵は、毎晩のように悪夢に魘される・・・・・・。だから傍にいてあげなければ・・・・・・」


 ――悪夢に魘される?・・・・・・だとしたら、あれは・・・・・・PTSDか?


「・・・・・・そうですか・・・・・・でしたら今日はお帰り下さい」

「何故だ?」


「今のあなたが傍にいたら、彼女の心が乱れ療養に支障をきたすからです」

「どういう意味だ?お前は葵の何なんだ?」


「僕は、葵さんの主治医。そして仕事仲間。何より、彼女に思慕の情を抱く男です」

「何だと!?葵は俺の妻だ!葵に手を出すな!」


「教えてください。どの口がそうおっしゃるのか。他の女性にうつつを抜かし、長いこと妻をほったらかしにするあなたがよく言えたものですね」

「なんだって!?葵がそう言ったのか?」


 桐生は口元に薄ら笑いを浮かべた。

「言われなくても、誰にでも分かります。揃いすぎなんですよ・・・・・・隠しきれない証拠が。妻を迎えにきたという夫から他の女性の残り香が漂っていたら、葵さんがあまりにも気の毒だ。そうは思いませんか?」


「・・・・・・なぜ他の女性と言い切れる?これは葵のつける香水の匂いだ」

「基本的に医療従事者たるものは、香水などつけたりしない。あえて言うならば、葵さんはいつもほのかに甘い花のような香りがしますが・・・・・・そんなこともお気づきになられませんか?」


「くっ・・・・・・」

「当院は付き添い不要です。今日のところはお帰りください」

 桐生はきっぱりと言い放つ。


「・・・・・・」

 一樹は、悔しさに唇を噛みしめ拳を握りしめる。


「あと一つ。葵さんは限界が来ているのでは?気持ちの離れた男の心をいつまでも待ち続けるほど酷なものはありませんから」

「知りもしないで・・・・・・!」


「だから覚悟してください。僕はあなたから葵さんを奪い去ってみせます!」

「!?・・・・・・宣戦布告のつもりか・・・・・・?」


「負けませんよ、この勝負!」

「残念だったな。葵は母親でもあるんだ。お前には絶対靡かない」





 桐生は、ベッドで眠る葵を見つめながら先程の出来事を回顧する。

 葵の様子を見に病室を訪床すると、葵は苦悶の表情を浮かべ魘されている様だった。


「う~ん・・・・・・んん~・・・・・・」

「どうした!?苦しいのか?」

 桐生が駆け寄ると、葵は突如起き上がり彼の胸にしがみついた。


「怖い・・・・・・怖いよぅ・・・・・・誰かぁ、助けて・・・・・・」

 まだしっかり覚醒していないのか。何故か嗚咽しながら幼子のような口調で泣きじゃくる。その仕草までもが幼く見える。


 ――どうした?夢でも見ているのか?いや、これは退行現象か・・・・・・?


 初めて知る葵の姿に、桐生は驚きを隠せない。

「大丈夫だ・・・・・・悪い夢を見ただけだ。もう、大丈夫だよ・・・・・・」

 桐生は、葵を抱きしめたままポンポンと頭を優しく撫でた。


「遥ちゃん、生きているよね。お兄さん、助けてくれてありがとう・・・・・・」

「?」


 桐生は、まだ夢うつつの葵が何を言っているのか全く理解できなかった。

 再び葵は眠りについた。じっと見守る桐生。

 眠る葵の瞼から、つうと涙が零れ出た。


 ――君は一体、どれ程の重荷を抱えて生きているんだ?今の君に、僕がしてあげられることはあるか?


 桐生は、葵の涙をそっと拭ってあげた。


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