第12話 それぞれの想い

「桐生先生、しっかりしてください。ご自宅はどこでしょうか」

「あのマンションの三階だ」

 葵は玄関の中まで桐生を送ると、彼はその場に崩れるように倒れ込んだ。


「桐生先生!?」

「ああ・・・・・すまなかった・・・・・・後は自分でなんとかするよ・・・・・・」

 力なく微笑む桐生は、フローリングにそのまま横になる。


「ここではダメです。さあ、手伝いますからあと少しだけ頑張ってください」

 葵は桐生をベッドまで移動させ休ませた。


「先生、彼女さんに連絡して今すぐにでも来てもらってください」

「そんな人はいない」

「ふぅ」と溜息を零す葵。


「では・・・・・・毛布はどこにありますか」

「冬物はクリーニング屋に預けたきりだ」

「そう、ですか・・・・・・」


 何か代わりになるあたたかなものはないか探したが、物がほとんど置かれていない殺風景な部屋は見るからに寒々しかった。

 部屋を暖かくして、薄い掛物を首元までかけてあげると、桐生は葵の手を握った。


「先生!?」

「ああ、温かい・・・・・・暫くこうしていてくれないか」

 震える桐生の手は氷のように冷え切っていた。

 葵は、桐生の手を両手で包み温めた。

 それでも悪寒戦慄は止まることなく、歯がガチガチと鳴っていた。


「・・・・・・。桐生先生、あちら向きになれますか」

 桐生は、言われた通り葵に背を向けた。


「え――!?あっ、えっ!?葵!?」

 葵は上着を脱ぐとベッドに入り、桐生を背中から包み込むように抱きしめた。

 葵の突拍子もない行動にあたふたと狼狽える桐生。


「今は何も言わず、じっとしていてください・・・・・・」

 桐生は微動だにせず、言われるままに身を委ねた。

 意識が全集中する背に、ピタリと寄り添う葵の息づかいまでも感じられる。

 背中越しに伝わる、彼女の柔らかな胸の膨らみと優しい温もり。


 ――心地いい・・・・・・

 葵の温もりに包まれた桐生は、強い睡魔に意識を手放した。

 桐生の寝息を確認すると、葵もそのまま目を閉じた。



 予測した通り、激しい悪寒戦慄が少しずつ静まっていくのと入れ替わりにどんどん熱があがりはじめた。

 桐生は熱にうかされ、ハァハァと早い呼吸に変わり全身発汗していた。


「桐生先生、大丈夫ですか?さあ、これに着替えてください」

 葵は適当な服を取り出すと、タオルで汗を拭きとり着替えさせ頭や首をこまめに冷やした。


 携帯端末で時間を確認すると、日付けが変わるところだった。

 二次会から姿を消した葵を心配して、皆からメールが何通も届いていた。

 一次会担当だった葵は二次会の心配はいらなかったが、さすがに無断で欠席するわけにはいかない。

 だが、このまま桐生を置いて帰るわけにもいかなかった。

 葵は適当な理由をメールで送信し、そのまま桐生の看病にあたることにした。


 眠る桐生を見つめ、先程の出来事を思い返す葵。

 テーブルの下で皆にこっそりと葵の手を握る桐生。

『本当だ・・・・・・かわいいな・・・・・・』

 悪びれる様子もなく、微笑む桐生。


『今日は、何が何でも来たかったんだ・・・・・・君が、来ると知って・・・・・・』

 意味深な言葉をさらりと言ってのける桐生。


 まもなく三十路を迎えようという葵は、年甲斐もなく胸を高鳴らせた。

 ――桐生は、お酒の席ではいつもこうなのだろう。知らないのは私だけで


 桐生の蕩けるような口づけにすっかりほだされてしまった葵。

 葵は指で自分の唇にそっと触れてみる。彼の唇の感触がまだ残っている。

 思い出しただけでも、頬が性急に熱を帯びていく。

 久しぶりに飲んだお酒のせいだろうか。頬が火照ってふわふわとしている。

 たとえ桐生の気まぐれだとしても、女性として忘れ去ったときめきを思い起こさせてくれた桐生。


『葵・・・・・・君のことが、好きだ・・・・・・』

 真っすぐに真剣な眼差しで見つめる桐生。


『僕は本気だ!君に恋してる・・・・・・』

 桐生の言葉を思い返しただけで胸が高鳴る。


 大きなため息をひとつ零す。

『夫に愛想を尽かされた寂しい女を落とすのは楽しいですか。落ちたらゲームオーバーといったところでしょうか』


『君はそんな目で僕のことを見ていたのか?そんなんじゃない!』

 思い返せば、随分と失礼なことを言ってしまったと、後になって焦りだす葵。


 ――きっと傷ついたことだろう。後で謝ろう


 冷静に考えてみれば、いくら体調が悪いとはいえ、夫以外の男性とベッドで同衾するとは。羞恥の波が彼女を襲う。

 本人に了承も得ず、一方的に桐生の背に抱きつく形になってしまった。


 ――桐生先生はどう思ったんだろう。どうしてあんな大胆なことをしてしまったんだろう・・・・・・ああ、恥ずかしい・・・・・・とても顔を合わせられない・・・・・・


 自分はただ、目の前で苦しむ彼を何とかしてあげたいと思っただけ。彼に対して特別な感情は抱いてなどいない。葵は自分にそう言い聞かせた。




 葵は、カーテンの隙間から差し込む朝日に眩しさを覚えパチリと目を覚ました。

「おはよう!東雲さん」

 至近距離に桐生の顔が迫り、ぎょっとして飛び起きる葵。


「え!?あっ!桐生先生!お、おはようございます!熱は下がりましたか?」

 そうだった。始発の電車で帰ろうとしていつの間にか眠ってしまったのだ。

 しかも桐生のベッドに顔だけ乗せて。


「君のおかげで大分よくなったよ。夜通し看護してもらってすまなかった」

「私は看護師ですから、なんてことないですよ。何でも言ってください」


「そうか・・・・・・では、看護師さんに頼みごとがあるんだが」

「何ですか?」


「また寒気がしてきたから、昨夜みたいに温めてくれないか?」

 桐生は掛物をめくって見せた。


「うっ!?・・・・・・それは。気のせいではありませんか?きっと熱に浮かされて夢でも見ていたのでしょう」

 再び羞恥の波に襲われた葵は、顔から火が出るくらい恥ずかしかった。


 そんな葵を見てクスクスと笑いだす桐生。

「朝まで君を拘束してしまって悪かった。僕としてはラッキーな出来事だったけど。その、家庭の方は大丈夫か?」


「はい。子供は実家に預けてきましたし。今日は朝帰りになると伝えてありますから。と言っても、すっかり太陽昇っちゃいましたけど。さすがに離婚話を提示してきた夫が、私の心配するとは思えませんし」


「離婚って・・・・・・そんなことになっているのか?」

 ベッドから起き上がる桐生。


「・・・・・・一度離れてしまった心を繋ぎ止めることは難しいのですね・・・・・・ああ、まぁ。仕方がないですよね。夫がそう望んでいることですから。私にはもうこれ以上どうすることもできません。あはははは・・・・・・」


 ――ああ、この表情・・・・・・君は今にも泣き出してしまいそうな表情かおして笑うんだ。

 

 そんな葵を見ていたら、居たたまれなくなり気づけば葵を抱きしめていた。

「馬鹿だな。そういう時は我慢するな。泣いてもいいんだぞ。ほら胸を貸してやる」


 桐生の思いも寄らぬ言葉に、葵はたがが外れたように泣き出した。

 子供の前では悲しむ姿を見せたくはなかった。

 夫婦関係のことは両親にだって相談できない。

 どんなに辛く悲しくても、誰にも相談せず一人思い悩んできた。

 これまでがんじがらめに縛りつけられていた葵の心が解き放たれていく。

 二人の間には、これまでとは違う絆が深まりつつあった。


 静まりかえった部屋に楽し気な子供たちの声が届くと、葵はハッと我に返る。

「・・・・・・そろそろ帰らなくては」

 葵は、涙を拭い桐生から離れるとそそくさと玄関に向かった。

「あ、それから。昨夜は随分と失礼なことを言ってしまい、本当にすみませんでした。では、失礼します」


「――!?」

 桐生は、玄関を出ようとする葵の手を咄嗟に掴み腕の中に閉じ込めた。

「葵・・・・・・僕は本気だ・・・・・・このまま君を返したくない」

「桐生先生!?」


 桐生は、葵をドアに押し付け彼女の唇に口づけた。

 桐生のやや強引なまでの熱い口づけに、葵の鼓動は高鳴り身も心も熱くなる。

 昨夜のように蕩けるような魅惑的な甘い口づけに、葵の気持ちは昂り酔いしれ悦びすら覚えた。

 葵は、このまま流されてどうにかなってしまいそうで怖くなった。

 桐生にすっかり魅了され、その場に立っていられないくらい頭がくらくらした葵は、腰を抜かしてその場にしゃがみ込んでしまった。


「大丈夫か!?」

「先生が、あまりにも凄すぎて・・・・・・私、どうにかなってしまいそう・・・・・・」

 

 頬を朱に染め蕩けた表情の葵。

 桐生は、驚くほど男慣れしていない彼女の素の表情や仕草にますます煽られた。


「ごめんなさい・・・・・・私、これ以上応えることは出来ない・・・・・・」

「葵・・・・・・?」


 怯えるように狼狽える葵を見て、フッと微笑む桐生。

「ああ、わかった・・・・・・」

 桐生は葵の頭を優しく撫でた。





「ただいま・・・・・・」

 恐る恐る自宅の扉を開ける葵。

 もうさすがに夫は仕事に出かけていない時間帯であるにもかかわらず、朝帰りの罪悪感は否めない。


 葵はリビングの扉を開け凍り付く。

「お帰り。本当に朝帰りだったんだな・・・・・・」


 そこには、いるはずのない夫の姿があった。

「かず君・・・・・・仕事は?」


「今日は、この間の休出の代休だ」

 夫と十分なコミュニケ―ションもとれていないから知るはずもない。


「そうだったんだ・・・・・・私そんなことも知らなかった。知ってたら・・・・・・」

「知っていたらなんだ?もっと早く帰ってきたとでも言いたいのか?」


 いつも怒りなど露わにしない夫がいつになく不機嫌だった。

「そういうことじゃなくて・・・・・・なんか、今日のかず君、怖い・・・・・・」


「当たり前だろ。今何時だと思っているんだ?もうじき昼だぞ。家庭持ちの主婦が夜遊びにもほどがあると思わないか」


「はい・・・・・・そうですね・・・・・・」

 葵は叱責を受けても仕方がない状況だと反省した。

 ふとダイニングテーブルを見れば、葵の分と思しき朝食が用意されていた。


「あ、かず君、これ・・・・・・」

「いらなかったら、捨ててくれて構わない」


 ふとしたタイミングで、夫の愛情を感じる葵。夫婦関係は別として、家事育児に協力的な夫に不満はない。

 夫から離婚を提示されたとはいえ、夫婦であることには違いない。

 だが、葵は夫と二人でいても寂しさが募っていくばかりだった。

 夫には、自分はどう映っているのだろうか。

 葵には夫の考えが全く分からなった。


「私、シャワー浴びてくる」

 葵は携帯端末をリビングに置いたまま席を外した。


 先程から、続けて鳴る葵の携帯端末にふと目を落した一樹は逡巡した。

 葵の携帯端末はメールを開かずとも内容が確認できる設定がされていたため、内容がすべて読めてしまった。


『葵~生きてる~?一次会の後から姿が見えないから皆心配したよ~』


『幹事お疲れさまでした。葛城先生のお金のおかげで会計はなんとかなりました。先生神だね~!お礼言わなくては。今度でいいから一次会の領収書くださいね。ではまた』


『昨日はどうしちゃったの?急に体調が悪くなったんだって?そういえば桐生先生も一次会の後から行方不明だったよ。どうせ、一次会の後に、若い看護師さんをお持ち帰りでもしたんでしょうけどね。まあ、そんな飲み会だったよ。葵も早く元気になってね。お大事に(^_-)-☆』


「体調が悪いのか?二次会から参加しなかったのにこの時間に帰宅とはどういうことだ?こんな時間まで一体どこで何をしていたんだ・・・・・・」


 その時、新たなメールが飛び込んできた。

 一樹はそのメールの内容を見て言葉を失った。


 葵が浴室からリビングに戻ると夫の姿はなかった。心なしホッとする葵。

 朝帰りしたからには家事で挽回するしかない。

 一通り家事を澄ませると、葵はお茶にしながらリビングテーブルに置きっぱなしにした携帯端末に目を落とす。

 帰宅後から目を通さなかったメールが何件もつらつらと送られていた。


 メールの内容を見て一瞬ヒヤリとした。

 やはり、二次会から姿を消した葵と桐生が話題となっていた。

 だが、二人が一緒だったと疑う者はいなかった。

 胸を撫で下ろす葵。

 桐生からのメールに目が止まり、葵の心臓がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。


『葵、無事家に着いたか?泣きたくなったらいつでも胸を貸すぞ。我慢だけはするな。それと。昨夜は傍にいてくれてありがとう。また温めてくれるか?』


「もう、桐生先生の馬鹿・・・・・・」

 葵は頬を朱に染め独りごちた。


 葵はいつの間にかリビングのソファーでうたた寝をしてしまった。

 目を覚ますと目の前のソファーに夫が座っていた。


「あ、かず君・・・・・・お帰り。どこかに出かけていたの?」

「・・・・・・一晩中遊んで眠いのか?」

 夫はまだ機嫌が悪い。


「そんな、遊び歩いていたわけではないよ」

「じゃあ、どこで何をしていたか言えるか?」


「・・・・・・わけあって、ある場所に朝までいただけ」

「男と・・・・・・寝たのか?」


「かず君!?そんなに私のことが気になる?」

「ああ、そうだな」


「だったら。今までどうして構ってくれなかったの?私がどんなに寂しい思いをしたかなんて知らないでしょ」

「だから浮気したのか?」


「浮気なんて、してない・・・・・・今まで私のことほったらかしていたくせに、急に束縛するなんておかしくない?そんなに私のことが信じられないの?」

「ああ、信じられないね。そんなメールを見たら誰だって信用できない」


「え――!?メール、見たの?」

「あまり鳴るからたまたま見ただけだ」

「酷い・・・・・・」

「お前は俺の妻だ!」


 葵は夫に強く手を引かれ寝室のベッドに押し倒された。


「かず君!?」

 夫は、葵を半ば強引に組み敷きベッドに縫い留め葵の唇を奪った。


「嫌・・・・・・放して!こんなかず君嫌い!」

 夫に押さえ込まれたまま身動き取れない葵は泣いていた。


「・・・・・・頼むから、そんな顔しないでくれ・・・・・・」

 一樹は泣きじゃくる葵を見て冷静になった。


「かず君、私のことなんか好きでもなんでもないくせに!」

「違うんだ・・・・・・本当は・・・・・・」


「これまで触れてくれたことなんてなかったじゃない。どうして今日に限って?」

「・・・・・・嫉妬した。葵を他の男なんかに取られたくはない」


「かず君?離婚しようって言ったのは、かず君の方でしょ!」

「ああ、そうだ」


「私には、かず君が何を考えているのかさっぱりわからない。かず君こそ、私に言えない秘密を抱えていない?」

「それは・・・・・・答えられない」


 何も答えない夫は、葵に知られたくない秘密を隠しているようだった。

 夫婦関係は、以前にも増して溝が深くなっていった。

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