第9話 救急救命士と研修医 1
「本日からこちらで実習をさせていただきます、救命士の谷崎です。よろしくお願いいたします!」
救急救命士の国家資格を取得した谷崎。彼は、救命処置における技術を臨床で実践を通して習得するためにやってきた。
既に救命士の資格を取得し、現場で活躍している者は短期間の研修となるが、初めて資格を取得した谷崎は長期に及ぶ研修となる。
今回、当院での研修期間は三ヶ月。手術室にて気管内挿管の手技を。
救急外来では、患者の既往歴や内服中の薬、現病態など情報収集を瞬時に行うと同時に、予測される疾患に対する病態の観察と処置、対応を学ぶのだ。
「お忙しいところすみません。東雲さん、今よろしいでしょうか」
谷崎は緊張した面持ちで葵に近寄ってきた。
「はい、何でしょうか」
「僕に、末梢静脈ルート確保の技術をご指導いただけませんでしょうか」
一番下っ端の自分が指導するわけにはいかないと感じた葵は、周りを見回す。
すると、葵と目があった看護師たちは、皆見て見ない振りをして何処かにいなくなってしまった。どうやら看護師たちは、ひっきりなしに入れ替わりで実習にやってくる救命士に指導することから逃れたいようだ。
困惑した葵は、救急医に申し出ることに。
「先生、谷崎さんが末梢静脈ルートの確保を見て欲しいそうです」
「ああ、それなら東雲さんが指導してやってよ」
救命救急センター長、葛城医師から指導を依頼された葵は、またかと「ふぅ」と大きなため息をひとつく。
救急救命士は、救急車に乗車し現場にて適応傷病者に対し特定医療行為の適応と判断した場合、地域のメディカルコントロール担当医師に電話などで直接指示を要請し、その医師の指示に従って処置を行いながら医療機関に搬送する。
特定医療行為――救急救命士法で定められた救急救命士に許された行為。
医療器具を使用した気道確保。心肺機能停止、呼吸機能停止状態の患者に対する静脈確保と輸液。エピネフリン(薬剤)投与。低血糖発作時患者に対するブドウ糖液投与他である。
静脈確保は、患者の生命に影響を及ぼす重要な手技となる。
だが、医師や看護師のように経験値の少ない救急隊は現場における救助活動の場で迅速かつ的確な静脈確保は困難である。
そこで、研修にて静脈確保の手技習得は必至であった。
患者が救急搬送されてきた。
谷崎は、搬送してきた救急隊員たちと爽やかな挨拶を交わしていた。
「では谷崎さん、早速ルートをとってみましょうか」
葵のその言葉に、顔を固く強張らせる谷崎。
救急隊員たちは二人の様子を見守った。
基礎となる指導を受けたのみで実践経験が浅い谷崎。針を持つ手が震えている。
事前に行った手技の手順確認では問題なかったが、実践ではどの血管に穿刺にしようか逡巡し、なかなか刺すことが出来ない様だ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。上手くいかなければ何度でも挑戦すればいいのですから。気楽にやりましょう」
谷崎は、葵の柔らかな物言いと優しい眼差しに不思議と気持ちが楽になる。
他の看護師の指導下では、目に見えない重圧に気圧され緊張感に気持ちが空回りし、動揺は針先に伝わり穿刺が上手くいかないのだ。
だが、このほんわかとした癒しとも感じられる葵の雰囲気は、谷崎の緊張感を和らげ心地よささえ覚えた。
葵は、谷崎の手技を見て「フフッ」と柔らかな微笑を浮かべた。
「たぶんそのまま刺すと、血管に逃げられてしまいますよ」
「あっ・・・・・・」
葵の言った通り刺したはずの血管はクリッと針から逃げてしまった。
「こういう時は・・・・・・」葵は谷崎と入れ替わり実践して見せた。
「血管周囲の皮膚をよ~く伸展させて、血管が逃げられないように固定してあげます。やってみてください。そうです、そうです。そうしたら、あとは躊躇せず手早く刺す・・・・・・ほら、入りました!」
谷崎の手を取りながら嬉しそうに至近距離で微笑む葵に、胸の高鳴りを覚えた谷崎。
――なんだろう。胸がドキドキする・・・・・・
「谷崎さん、速くここから点滴ルートを繋げなくては・・・・・・」
葵の言葉にハッと我に返る谷崎。
穿刺する前とまた違った動悸が加わり、谷崎の心臓はやかましかった。
そんな谷崎の心境など気づくことなく処置を続ける葵。
救急隊員たちは引き上げず、まだ葵と谷崎のやり取りをじっと見入っている。
――なんだ?救急隊は何してる?あいつ、やけに東雲さんにくっついてデレデレしやがって・・・・・・
二人の様子を遠くからじっと見つめる桐生は、なぜか面白くない。
救急隊の隊長が谷崎に何やら耳打ちし肘鉄を加えると、わかり易いくらい耳と頬を赤らめた。
デレデレと照れ笑いした谷崎と救急隊たちは一斉に葵の方に振り返った。
葵は何事かと小首を傾げる。
「東雲さん、こいつのこと頼みます!」
救急隊の隊長がペコリと頭を下げたため、葵もつられてお辞儀をして応えた。
その後救急隊は、署に引き上げていった。
「谷崎さん、よかったら私の腕を貸しますよ」
葵は谷崎に自ら腕を差し出し、穿刺の練習台をかってでた。
「いや~さすがにそれは・・・・・・痛いし、第一、東雲さんの綺麗な腕に傷つけることはできません・・・・・・」
谷崎は手を振って拒んだ。
「それならば気にしないでください。私たちも初めの頃はこうして、穿刺の練習をしたものです。ですから、どうぞ」
これまで行った実習先でも、こんなによくしてくれる看護師は葵だけだった。
「ああ、やっぱり。東雲さんは、先輩たちが言っている通りのお方ですね」
葵は小首を傾げる。
「先輩たち?」
「はい。救急隊はいろいろな病院に実習に配属されるのですが。実習に行くにあたり内々でこっそりと申し送りがされるんです。この病院だったら『東雲さんに教わるといい』と言われてきました!」
予想外の言葉に目を丸くする葵。
「そうなんですか?私は大したことは教えていませんが・・・・・・どなたかと間違えていらっしゃるのでは・・・・・・」
腑に落ちないといった表情を浮かべる葵に、破顔する谷崎。
「東雲さんは、救急隊に人気の看護師さんなんですよ」
「え?人気って・・・・・・私はあまり救急隊と関わりがないと思うのですが」
「実際、凄い人気ですよ。皆この病院に搬送となると、東雲さんに会えると浮き足立っていますから。先程も隊長に嫉妬されました!」
谷崎の思いも寄らぬ発言に、顔を朱に染め俯く葵。
「そんな、困ります・・・・・・」
実際、実習にやってくるほとんどの救命士が葵の後についてまわった。
――やはりな・・・・・・にしても、救急隊は搬送時に何を考えている?東雲さん、君らしいといえばそうだが・・・・・・まさか気づいてないとは・・・・・・
背中越しに聞こえてくる二人の会話に耳をそばだてながら、PCを入力する桐生の心中は穏やかではなかった。
「実習に来ていると、搬送した患者のその後を見ることが出来るのでとても勉強になります」
「搬送したその後・・・・・・ですか?バトンタッチすればそれで業務が終わるのに。谷崎さんは真面目なんですね」
「いや、救急隊は皆そう思っていると思いますよ。現場にいち早く駆けつけるわけですから。あの判断は正しかったのかとか、患者はその後どうなったのか気になりますから・・・・・・」
「ああ、それならばわかる気がします。私達も外来から各病棟やオペ室に患者を送るのですが、その後のことは意外とわからないものです」
個人情報保護法により、院内の看護師であっても患者の個人情報を必要以上に引き出してはいけないことになっている。
例えば、病棟に入院となった患者の様子をカルテから参照するなど、業務に関与しない患者情報を必要以上に覗くと、システム課からチェックが入るようになっているのだ。
葵の二つ年下の谷崎は、勉強熱心で人懐っこい性格。弟のように親しみやすく気が合った。
当院の救急外来は、研修医を受け入れているため三か月ごとにローテーションしてやってくる。今回もまた、三人の研修医たちが配属されてきた。
長身で色白、えげつない下ネタ好きで『無駄にイケメン』と称される研修医の武部。同じく、関西で有名な金持ちの令嬢と噂される京極。ほんとか嘘か、社会人になってから生まれて初めてカップラーメンを食べたという『貴公子』と称される鷹司。
葵は、彼らと共に日々業務に負われていた。
「誰ですか!?アソコを出しっぱなしにする人は」
葵は、男性患者のオムツの隙間からはみ出てしまっている下半身の一部に気づき慌てて直した。
「東雲さん、アソコってどこですか?」
PCのキーボードを打ちながら、武部は背中越しに質問を投げかかた。
「・・・・・・お下です」
「お下とは、具体的にどの部位を言っていますか?言葉で伝えてください」
武部の容赦ない質問に真面目に答える葵。
「それは・・・・・・つまり、陰け・・・・・・いや、
葵はやや小声で口籠りながら返答した。
「え!?東雲さん?今何ていいました!?」
救命士の谷崎が驚きの眼で葵の顔を見た。
「そう来たか・・・・・・東雲さん・・・・・・」
武部は、口の端を上げてニヤリと笑いながら振り返った。
葵は武部のその顔を見て、またしても下ネタ遊びに巻き込まれたことを悟った。
そのやり取りを聞いていた鷹司はすぐさま反応した。
「No no no~!東雲さん、それを言うなら『ティンティン』と言ってくれないか~」
葵は額に手をあて、さすがに失敗したと思った。
「では応用編クイズ~!横からはみ出た竿をなんて言う?はい、東雲さん!」
「・・・・・・」
武部にふられて押し黙る葵。
「は~い!『横ティン』!」
「はい正解!ほら、東雲さんが答えないから京極に持っていかれちゃったよ~」
どうやら今回は明るい皆下ネタ好きが揃ったようだ。
「とにかく、鼠径部からの動脈採血後は、直ちに下着を戻してあげてください。意識のない患者であってもプライバシーは守らねばなりません」
ふざけた研修医たちに真顔で返す葵。
「じゃあ次の質問。背格好の変わらない女性の胸の大きさの違いって何だかわかる?」
武部の興味深いその質問に、男たちが前のめりになった。
「武部、またそんなこと言ってる!もう騙されないから」
またも下ネタで困らせられると警戒する葵。
「ヤダな~東雲さん~これは真面目な話ですよ~」
「どうせ、遺伝でしょ?」
武部に乗せられ、拗ねた感じに答える葵。
「違うんだな~これが~」
もったいぶる武部の顔を横目に顔をちらりと覗き見る葵。
「じゃあ、何?」
「気になりますか?」
またしてもニヤリと口の端を上げる武部。
「まあ、遺伝じゃ無いなら何なのか気にはなるけど・・・・・・」
「じゃあ質問。東雲さんは思春期の頃、夜十時には寝ていたタイプでしょ」
「まぁ、確かにそうかも・・・・・・規則正しい生活を送っていたかも・・・・・・」
「京極は・・・・・・もちろん、夜更かしタイプだろ」
「そうよ。私は、将来医者になるために遅くまで勉強していたからね」
「その違い」
武部はニヤリと笑った。
「ん?」
大きなクエスションが頭に浮かんだ。
「それって・・・・・・もしかして勉強したか、しなかったかってこと?」
「違うよ。医学的に考えてみて」
今度は真面目な質問だったと安堵した葵。
「じゃあ、何?ひょっとして・・・・・・成長ホルモンが関与しているとか?」
「そう!その通り!東雲さん大正解!寝る子は育つっていうだろ?思春期に早く寝た東雲さんの胸は、大きく育ったんだね・・・・・・」
その場にいた全員の視線が、葵の胸に釘付けとなった。
武部の視線の動きに男たちの視線もつられ、葵と京極の胸を行ったり来たり。
背格好の変わらない葵と京極。その明らかな違いの結果がそこにはあった。
納得した男たちは皆無言で頷いた。
「何?何?何~!?あんたたち、セクハラで訴えてやるから!」
京極が吠えた。
葵は耳まで真っ赤にして、両手で胸を隠すような仕草をする。
その様子を遠巻きから見ていた桐生は一瞬ドキリとした。
あの日、触れてしまった葵の胸の感触が手に蘇る。桐生と葵の二人だけの秘密。そう思っただけで、桐生の身体に熱が籠る。
――いかん、いかん!俺は、仕事中に何を考えているんだ・・・・・・!
慌ててブンブンと頭を振って煩悩を断ち切ろうと必死な桐生。
それにしても、葵の周りはいつだって取り巻きがあり笑顔が絶えない。
意識せずとも人を惹きつけ、誰とでも打ち解けてしまう東雲葵。
そんな不思議な彼女に心奪われ、皆魅了されてしまうのだ。
研修医たちに乗せられたとはいえ、下ネタで笑いをとる天然な葵を微笑ましく感じた桐生。
桐生の心の中で占める葵の存在は、日増しに大きく膨れ上がっていった。
先程から、無言のままこちらを見つめる桐生に気づいた葵はそちらに視線を移す。
桐生と視線が交差すると、この間の出来事を思い出し慌てて視線を逸らした。
葵に避けられた桐生は、がくりと肩を落とすのだった。
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