第8話 インシデントレポート

「んもぅ~どうして来ないの~!患者が待っているというのに・・・・・・」

 本日救急外来にて当直勤務である、病棟副看護師長水谷朱美みずたにあけみは、手にしたPHSを睨みつける。


「どうかしたのですか?」

 葵は通りすがりがてら、水谷に声をかける。


「とっくにね、桐生先生にコールしたんだけど来やしないの・・・・・・。今、再コールしているところなんだけど・・・・・・出やしない!あ~こりゃあ、二度寝したな~!?」


「え?そうなんですか?先生にしては珍しい・・・・・・」

 いつもの桐生ならば、コールに出ないことなど一度もなかった。病棟から緊急対応に呼ばれた場合でも、必ず救急外来に連絡をくれるのだ。


「でさぁ、悪いんだけど。今、休憩室に行って桐生先生を見て来てくれない?」

「え?今ですか?」

「そう。さっき連絡ついたとき、眠そうな声だったんだよね。病棟で急変時の対応とも言ってなかったから、きっと二度寝したと思う。だったら、起こさなきゃ!」

「わかりました。では、様子を見に行ってきます」


 葵は、院内仮眠室の利用者ノートをチェックすると、三番の仮眠室に桐生の名を見つけた。仮眠室の前で、部屋番号を再度確認するとドアをノックした。


 コン、コン、コン――

 静まりかえった部屋から返事はない。


「桐生先生?いらっしゃいますか?」

 再びノックするが全く応答なし。桐生は部屋に居ないと判断し戻ろうとしたとき、ドアが少しだけ開いていることに気づいた。


「桐生先生?いらっしゃりますか?」

 やはり応答はないため不在と思われたが、一応確認のためにと躊躇しつつ部屋の中を覗き見た。


「?」

 すると視界には、暗室の闇色に染まりきらない白い影がぼやけて見えた。

 葵は速く目を慣らすため、両目を瞑り再び開眼すると目を凝らした。

 網膜が暗順応するにつれ、徐々に中の様子が見えてきた。

「え・・・・・・!?」 

 そこには、白衣を着たまま無雑作に床に座りこみ、ベッドに倒れ伏す桐生の姿があった。


「桐生先生!?どうしました!?」

 葵はすぐさま駆け寄り、桐生の肩を叩きながら声をかけた。


「う、うぅ~ん・・・・・・」

 桐生は反応したが、眉間に皺を寄せ苦悶の表情を浮かべた。

 反応がありホッとしたのも束の間。

 突如、桐生は目を瞑ったままむくりと立ち上がったと思いきや、そのままふらりと倒れ始めた。


「ええっ――!?」

 それを見て慌てた葵は、咄嗟に桐生の身体を抱きかかえ転倒の衝撃に備えた。


 ドスン――!

 葵と桐生はそのままベッドに倒れ込み、桐生を庇った葵はベッドサイドの壁に頭部を強く打ちつけた。


「痛ったたたた・・・・・・!」

 桐生の下敷きになった葵は、痛みと重みに身動きがとれない。


「――ぉい・・・・・・」

 桐生は、葵の上に倒れ込んだまま何か呟いた。


「桐生先生・・・・・・?大丈夫ですか・・・・・・?」

 桐生の下敷きになりながら、様子のおかしな彼の顔を覗き込む葵。


「う~ん・・・・・・あ、おい・・・・・・」

 

 ――ん・・・・・・!?今、私の名前・・・・・・気のせい・・・・・・?


 桐生は、甘い囁きにも似た声音で葵の名を呟いた。

 この状況下に混乱する葵。

 ――とりあえず、ここから抜け出さなければ・・・・・・


「う~ん・・・・・・気持ちいい・・・・・・」

 桐生は、上から葵の背に腕をまわしギュッと抱きしめると彼女の胸に顔を埋めた。


 ――えっ!?えええ~!?

 葵は、桐生の突拍子もない奇異行動に声も出ないくらい驚く。

 桐生の身体の下から抜け出そうとするも上手くいかず、完全に逃げ場を失った。


 今度は、葵の白衣の下にスルリと手を滑り込ませ、柔らかな胸に到達すると巧みに揉みしだき始めた。


「えっ!?え!?あっ!き、桐生先生・・・・・・!?やっ、止めてください!」

 葵は桐生の腕を掴み抗うが力及ばず。

 とうとう指先は、葵の敏感な部分を掠めると器用に尖りを捉えた。


「あっ――!んっ・・・・・・!」

 桐生の巧みな指の動きに思わず甘い吐息が漏れ出し、ピクリと身を捩り反応した。

「き、桐生先生!?どなたかお相手を、お間違えではありませんか!?」

 葵は、桐生の肩をパタパタと叩きながら抗った。


 すると、その手が止まった。

 葵は、薄暗い部屋のベッドの上で己の胸元から顔を上げる桐生と目が合った。

「・・・・・・」

「へっ!?」

 目を瞠った桐生は、彼女の上から飛び跳ねるように退いた。


「え!?え?ええ~!?ど、どうしてここに・・・・・・き、君がいる!?」

 桐生は、状況を理解できず、酷く動揺し取り乱した。


「桐生先生に何度コールしても繋がらなかったので、起こしてくるようにと言われたからです・・・・・・」

 桐生は慌ててピッチの着信履歴を確認する。


「ああ、二度寝してしまった・・・・・・!言い訳かと思われるだろうが、聞いてくれ!寝ぼけてた!それで、僕は君にどんな酷いことをした!?どうしてこういう展開になった!?教えてくれないか!?」

 葵は、顔を真っ赤にしながら視線を逸らし、今起こった出来事を説明した。


「それは、すまなかった・・・・・・!セクハラで訴えられても仕方がないな・・・・・・」

 内容を聞いて落胆する桐生。


「あの・・・・・・ひょっとして、どなたかと間違われたとか・・・・・・?」

「え!?ああ、そうなんだ。実は、夢に想い人が出てきて・・・・・・夢の中でいい感じになって・・・・・・気づいたらこうなっていた・・・・・・本当に申し訳ない!この通りだ!」

 

 暗がりの中、困惑の表情を浮かべ必死に土下座をする桐生を見て、葵は桐生の言っていることが嘘ではなく故意ではないことを理解した。


「では・・・・・・インシデントに見舞われたということですね・・・・・・」

 ハッと顔を上げる桐生。


「言っておきますが・・・・・・インシデントレポートの報告は不要ですよ」

 葵は、桐生が気にしないように冗談交じりに笑って見せた。

 そう言って、足早に仮眠室を退室しようした葵はふと足を止めた。


「それと・・・・・・桐生先生の想い人は、偶然、私と同じお名前だったのですね」

「えっ――!?」

 その刹那、桐生はスナイパー葵に心臓を射抜かれた。

 

――うかつだった・・・・・・!よりにもよって、その名を口にしてしまうなんて!


 桐生は、葵が去った後暫くその手をじっと見つめた。

 そこには、妄想の中でしか触れることが出来なかった葵を、その手に確かなぬくもりとして感じた瞬間だったから。




 桐生の仮眠室を飛び出した葵は、先程の出来事を反芻する。

 偶然とはいえ、自分と同じの名を聞いたこともないくらい甘く囁く桐生の色気ある声音・・・・・・。胸には、桐生の温もりと手の感触がいつまでも残っている。

 ドキドキと張りつめる胸の鼓動。足に力が入らず、どうにかなってしまいそうだ。

 なんとか鎮めようと、胸に手をあて何度も深呼吸を繰り返しながら職場に戻る。

 だが、頬に帯びた熱がなかなか引いてはくれない。


「あっ、お帰り~ありがとう!桐生先生から、今さっき連絡入ったよ。やっぱり寝てたでしょ?」

「あ、はい・・・・・・」

 葵は、衝撃的な出来事に興奮冷めやらぬ状態だった。

「どうしたの?ほっぺが真っ赤だけど・・・・・・」

「え!?そうですか?そんなに赤いですか?」

 指摘され慌てて頬を手で覆い隠す葵。気づけばすぐ後ろには桐生がいた。


 ――ああ、今の会話聞かれてしまったかな・・・・・・


 桐生は、葵の顔をちらりと一瞥すると何食わぬ面持ちで業務を始める。

 PCキーボードを打つ手は、集中する度に葵のふっくらと柔らかな胸の感触を想起させた。その度に、桐生の心臓の鼓動は早鐘を打ち頬に熱を帯びていった。

 今宵の桐生は見た目とは裏腹で、気分上々テンションマックスな夜勤となった。




 葵の夜勤明け帰宅後のルーティンは、洗濯しながらシャワーを浴びること。その後ペットの世話をして、子供たちが学校から帰宅するまでの数時間を仮眠する。

 寝るにはもったいない程の晴天の下、葵は暗くした寝室のベッドに潜り込む。

 

 看護師の仕事は、理解ある夫のサポートのおかげで共働きが成立している。

 物腰が柔らかく温和な夫は、皆からイクメンと呼ばれご近所からも評判が良い。

 同世代の母親たちから羨望の眼差しを向けられることも多々あった。


 葵と夫は、世間的には理想の夫婦像として皆の目に映った。

 だが、実際の夫婦関係はとっくに破綻していた。

 セックスレスになってからもう何年になるのだろう。二人目の子を、葵が夫に頼み計画的に妊娠したのが最後だ。葵と夫は、いわゆる仮面夫婦だった。

 以前の夫は、毎日のように葵を求めてきたというのに今では触れてもくれない。

 そんな夫が、唯一葵を抱きしめてくれることがある。それは、葵が悪夢に魘された時だ。その時の夫は本当に優しい。


 自分は、夫を満足させてあげることができないからなのだろうか・・・・・・。

 その結果がこれなのだろうと・・・・・・。

 自分はもう、夫には女性として映っていないのかも知れない・・・・・・。


 葵は、自分は女性としての魅力の無いつまらぬ女なのだと思うようになっていた。


 ――では、夫の心も身体も満たしてくれているのは誰?


 夫は、誰かと不倫でもしているのだろうか。自分が夜勤で不在時に浮気しよう思えばいくらでもできるのだから・・・・・・。

 だとしたら、夫はなぜ離婚話を持ち出さないのだろうか・・・・・・。

 慰謝料の問題?バレなければいいと思ってる?それとも、許されぬ恋の相手とか?

 確か夫が若い頃、結婚前提にお付き合いしていた女性がいたと言っていた。

 夫は、今でもそのひとの写真を大切に持っている。葵は知らない振りをしているだけ。


 言いようのない虚しさが胸にこみ上げ、息苦しさを覚える。

 初めて妊娠したことが分かった日の晩。

 葵は夫の気持ちを確かめたくて質問したことを思い出した。


『ねぇ、かず君に質問ね。もし、昔すっごく好きだったひとにばったり出会ったとする。そのひとから二人きりでどこかで会わない?って誘われたらどうする?その場に私がいなかったとしてだよ。でね、私に言わなければわからない場合・・・・・・』

『そうだな・・・・・・会うだろうな・・・・・・』


 正直者の夫は悪気なくそう答えた。

 その時、葵の胸がチクリと刺されたような痛みを覚えた。

 自分は夫の最愛ではなかったんだって・・・・・・酷くがっかりした。

 だから暫く、夫に妊娠の報告をすることが出来なかった。


 あの時、嘘でもいいから「会わない」と言って欲しかった。だたそれだけだった。

 葵は毛布を頭までかぶり、子供のようにうずくまって泣いた。


 


 夜遅くになり夫が帰宅した。

 葵は、夫のために夕食を温め支度した。


「子供たちは?」

「ちょうど眠ったところ」

「そうか・・・・・・」

 夫は酷く疲れた様子だった。


「葵、話がある・・・・・・こっちに来てくれないか」

 葵は、いつもとは違う夫の改まった態度に、何か良くないことと感じた。


「何?どうしたの?改まっちゃって・・・・・・」

 ダイニングテーブルに夫と対面して座る葵。


「葵・・・・・・俺たち・・・・・・離婚しないか・・・・・・?」

 葵の頭の中は一瞬真っ白になった。


「かず、君?どうしちゃったの?急に・・・・・・なんかあった?」

「・・・・・・その方が、お互いのためかと思って・・・・・・」

 まさかとは思ったが、浮気は本当だったんだとこの時悟った。

 胸が抉られたみたいに痛くて、苦しかった。


「ねぇ、かず君・・・・・・それ、本気でそう思ってる?」

「ああ・・・・・・」


「かず君、好きな人でもいるの?」

「・・・・・・」


「私、かず君の一番じゃなくてもいいよ・・・・・・このままずっとセックスレスだっていい・・・・・・かず君は好きなひととの関係を続けてくれても構わない・・・・・・仮面夫婦でもいい・・・・・だけど、子供たちのために父親でいて欲しい・・・・・・」


 葵は、エプロンをぎゅっと握りしめた。

 ――そう、私が耐えればいいだけのことだから・・・・・・


「・・・・・・違うんだ・・・・・・そうじゃない・・・・・・」

「じゃあ、何だっていうの?かず君のいいたいことがよくわからない・・・・・・」

 俯く夫は、唇を噛みしめたままそれ以上は何も語らなかった。

 葵は居たたまれなくなって、その場から席を外した。




 夫からのまさかの離婚話に、ここのところ不眠が続いた葵は、朝から疲労の色を滲ませていた。


「誰!?このルートからこの薬を接続したの!」

 よりにもよって救急外来で一厳しい看護師といわれる沢田さんに発見された。


「私です」

 葵は正直に申し出る。


「これインシデントだから!まさか、このルートに接続してはいけない薬剤だってこと、知らなかったとは言わせないから!あなたのミスが患者の命に直結するの!」

 患者の前でも容赦なく怒鳴り散らす沢田は、葵より年下であるが物言いがきつく患者からもクレームがくる程だった。


「・・・・・・すみませんでした・・・・・・」

 言い訳などせずミスを認める葵。


「インシデントレポート提出して!看護師長さんには私から報告しとくから!」

 なんと言っても語気がきついし、顔が怖い。年下の独身女性と思えぬほどの迫力にいつまでたっても慣れない葵。


「はい。今後気をつけます。申し訳ございませんでした・・・・・・」

 ミスしたのは自分だ。反論などない。


「私に言われても困るから!謝るなら、患者さんに謝って!」

 まさにその通り。ぐうの音も出ない。

「はい・・・・・・」


 その後葵は、患者に嘘偽りなく事の状況をきちんと説明し謝罪した。

 葵の真摯なまでの対応に、患者は責めるどころかむしろ彼女を励ましくれた。


 医療の現場はミスが許されない。ミスは患者の命に直結する。

 何か実施する際は確認作業を怠ってはいけない。


 だが人のすること。環境や体調、その時の心理状態によってはヒューマンエラーが生じることがある。

 それを未然に防ぐためにダブルチェックというものがあり、更に時間毎、訪床時、勤務交代毎など複数回に及ぶ確認作業が行われる。

 それでも、事故は起こる時は起こるのだ。


 今回、葵の起こしたミスは実施直後の確認作業の段階で発見された。

 しかし、ミスはミスである。重く受け止めなければならない。ミスに至った要因を知り、今後二度と起こさないように気をつけるしかないのだ。

 気の抜けない医療の現場にも関わらず、今の葵は集中力が欠如していた。


「聞いたわよ・・・・・・あなたらしくもない。なんかあった?」

 救急外来看護師長、安曇はここのところ様子のおかしな葵を気に掛ける。


「ないと言ったら嘘になりますが・・・・・・ご迷惑おかけしてすみません。気を引き締めて参ります」


 葵は鏡に映る自分の顔を見つめ、両手で頬を二回叩き喝を入れ大きく頷いた。

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