ナナフシの女の子

夏鎖芽羽

ナナフシの女の子

 小学生の頃、何度か山に泊まった。

 いわゆるサマーキャンプというやつで、二泊三日で山間の宿泊施設に泊まり虫を取ったり川遊びをしたりフィールドワークしたりするやつだ。大人になって【サマーキャンプ】という単語自体すっかり忘れてしまい、さっき「小学生、山、夏休み、泊まる」という雑なキーワード検索でその単語を思い出した。サンキューGoogle。


 そんなサマーキャンプで起こったちょっとした出来事の話をしたいと思う。


×   ×   ×   ×   ×


 ナナフシという昆虫を初めて見たのは人生で二回目に参加したサマーキャンプでの出来事だ。電車で二時間、バスでさらに三十分ほどの場所にあるロッジが連なる宿泊施設に着くとロッジ横の看板に数匹のナナフシがくっついていた。ナナフシという昆虫について解説するとほとんど木の枝のような虫だ。節ばった体に信じられないほど細い脚でその割り箸くらいの太さの体を支えている。それが子どもの手のひらサイズほどの大きさなのだから初めて見た僕にとっては衝撃的だった。

 ナナフシの一匹の頭とも背中とも言えない箇所を人差し指と親指で摘み左手に載せる。想像以上にずっしりとしたその重さはカブトムシともクワガタとも違う【昆虫を手に取る】という感動があり、夏休みになればセミを乱獲していた僕にとって衝撃的な出来事だった。


「それなに?」


 背後から女の子に声をかけられる。僕が小学生だったころには珍しいショートカットの髪に、前髪をピンで留めてTシャツにショートパンツにサンダルという姿は、髪型以外はサマーキャンプに参加している他の女の子に紛れてしまえばわからなくなってしまうような、そんなありふれた格好だった。


「ナナフシ」

「ナナフシ?」

「虫だよ」

「虫なんだ」


 触ってみる? と聞くと女の子は純粋な瞳でうんと頷いた。

 興味津々な女の子の手のひらに自分の手から引きはがしたナナフシを乗せる。


「これが虫なんだ。木の枝みたい」

「不思議だよね」

「うん」


 ありがと、と女の子からナナフシの乗った手を差し出される。僕はナナフシを優しく掴んで元いた場所に戻してあげた。


「ジェー班?」

「うん。そうだよ」


 サマーキャンプではAからNまでの班に分かれて活動することになっていた。一つの班に男女三人ずつの合計六人。寝る場所は男女別だが基本的にこの六人で行動することになっていた。


「それじゃよろしくね」

「うん。よろしく」


 こうして僕と女の子のサマーキャンプが始まった。


×   ×   ×   ×   ×


 僕はJ班で班長をすることになった。なんでも一緒にいる二人の男の子は【札付きのワル】らしい。らしいというのはJ班を担当してくれるインストラクターのおじさん(今思い返すとこのインストラクターの方は三十代くらいだったと思うのでおじさんは失礼だと思う)にそう言われたからだ。札付きもワルもよく理解できなかったが、なんとなく問題がある男の子たちだということは理解できたので僕は班長を引き受けることにした。ちなみにナナフシの女の子は見るからにぼーっとしていて、他二人の女の子は見るからに嫌々サマーキャンプに参加しているといった感じで班長をやらせる感じではなかったので、消去法で僕が班長になったのだろう。

 とはいえ、当時の僕はそんな事情は全然知らず班長を任せてもらえることに静かに高揚していた。人生で初めてだったのだ。全く知らない男の子や女の子たちの中で班長をするという経験は。

 班長の仕事はまず先陣を切って自己紹介をするところから始まった。僕は虫や魚が好きなことを意気揚々と語った。数年前から両親は共働きで料理も少しできることを話すと「なら明日の夜のカレー作りは安心だな」と問題児らしい男の子に言われた。虫や魚が好きだという話よりもそちらの方が男の子にも女の子にもウケがよかったことに驚きながらも概ねうまくいった自己紹介に満足してみんなの自己紹介を聞いた。聞いたのだが如何せん十五年も前のことだ。問題児な男の子たちの名前も、嫌々サマーキャンプに参加している女の子たちの名前も、ナナフシの女の子の名前も思いだせない。覚えていることは僕とナナフシの女の子が小学四年生で、問題児の男の子たちと嫌々サマーキャンプに参加している女の子たちが小学五年生だったということだ。そして問題児の男の子たち同士と嫌々サマーキャンプな女の子たち同士は友達で、僕とナナフシの女の子だけが友達が誰もいないという状況だった。必然的に班の中での行動単位は僕とナナフシの女の子になった。


×   ×   ×   ×   ×


 サマーキャンプ初日の活動は山の自然をスケッチするところから始まった。どこでもいいから班で絵を描く場所を決めなければならなかったので僕は配られた地図を見て小川の近くを提案した。小川の近くを提案した理由はこんな綺麗な山なら地元ではなかなか見られないオニヤンマやギンヤンマ、あわよくばイトトンボなんかが見られるかもしれないという下心があったからだ。でもこの提案は正解だったようで、問題児の男の子たちからは「川遊びできるぜ!」とスケッチという本来の目的を忘れて盛り上がり、女の子たちは「暑いから涼しい場所で良さそう」という反応だった。


 インストラクターの方にここで絵を描きますと報告して僕たちは小川に向かった。道中でいきなりオニヤンマに遭遇して僕のテンションはハイになった。地元で見つかるシオカラトンボやアキヤンマの比じゃない大きなトンボはナナフシより僕の心をくすぐった。

 小川にたどり着くと、大きな木の下で僕たちはおしりを並べて座った。僕は先ほどから度々飛んでくるオニヤンマを描いた。しばらくすると男の子たちは「もう描けた!」と小川で水をかけあい石で水を切る遊びで盛り上がり、女の子たちは小川で足湯ならぬ足小川をして涼を楽しんでいた。

 僕とナナフシの女の子は一生懸命に絵を描いた。下書きが終わり複眼までみっちりと書き上げたオニヤンマに色鉛筆で命を吹き込む。その時になって僕はようやくナナフシの女の子の絵を見た。


「すごい……」


 ナナフシの女の子が描いていた彼女が今座っている場所から見える景色だった。景色の特徴を捉えていて純粋に絵としてすごかった。それ以上にすごかったのはその色使いだ。目で見える景色には存在しない黄色や紫色をふんだんに使って彩色された世界は不思議な奥行きがあった。


「絵、好きなの?」

「うん」

「すごく綺麗でびっくりした」

「きれい?」

「うん」

「そっか」


 嬉しいなとナナフシの女の子は呟いた。これはあとで聞いた話なのだが、ナナフシの女の子は目に見えていない色を使うと怒られていたらしい。ちゃんと見たままを描きなさいと。色盲の心配もされたりしたらしい(当時色盲という言葉の意味すら知らなかった)。そんな事情から様々な色を使うことに抵抗感があったらしい。でもサマーキャンプでそんなことを指摘する大人もいないからと久しぶりに様々な色で絵を描いたらしい。


 そんな一場面が僕とナナフシの女の子の心をつないだらしい。元々の班の状況も手伝って僕とナナフシの女の子はサマーキャンプの間、常に隣同士でおしゃべりしながら行動した。配られたお弁当を一緒に食べ、魚を手づかみし、ちょっとした山を登り、川で遊んだ。様々なイベントで僕たちは色々な話をした。


でもそうした場面で何を話したか、ナナフシの女の子がどんな表情をしていたのか全然覚えていない。まるで必要のないと言わんばかりに、ナナフシが足を自切したかのように、サマーキャンプの記憶がない。僕が大人になってしまったから忘れてしまったのだろうか。それとも事実を優先して体験を無視した記憶の形質の問題なのだろうか。

 

ナナフシの女の子について覚えていることはあと二つばかりだ。一つはカレー作りでの出来事、もう一つは夜のモモンガ観察の出来事だ。どちらも明日になったら家に帰れるという二日目の出来事だ。


×   ×   ×   ×   ×


 二日目の夜、僕たちは予定通りカレーを作ることになった。この頃になると僕は問題児の男の子たちの扱いにも、嫌々サマーキャンプに参加している女の子たちの扱いにも慣れていた。問題児の男の子たちには火起こしを命じて、女の子たちにはご飯を炊くことをお願いした。男の子たちには”盛り上がる”ことを、女の子たちには”面倒くさくないこと”をしてもらえばいいのだ。火起こしはワイワイ騒ぎながらやれるし、ご飯はお米を研いで飯盒に規定の量の水を入れればそれほど手間はかからない。

 僕とナナフシの女の子で野菜を切ることになった。この頃には家で包丁を扱っていた僕にとって包丁を扱うことは鉛筆を扱うことと同義で大して苦労せずに野菜を切っていた。ナナフシの女の子はゆったりと野菜を切っていたので、彼女に少し優越感を覚えていた。しかしそんな油断で僕はピーラーで左手の人差し指を切ってしまった。

 最初は大したことのなかった出血も、子どもの早く動く心臓につられるようにどんどん溢れてきた。僕はあわてて水道で血を流した。


 そこにナナフシの女の子がやってきて、血が流れる僕の人差し指を右手で握りしめた。


「ぎゅっとしないと血が止まらないよ」

「う、うん」

「ばんそーこーもらいに行こう」


 僕はナナフシの女の子に手を握りしめられたままインストラクターの方の元に向かった。距離にして三十メートル程度の移動だったと思う。あふれる血がナナフシの女の子の手を赤く染めていく。痛いとか、血で汚してしまって申し訳ないとかそういうこと以前に「この血の色をこの子はどんな色で描くんだろう」なんてことばっかり考えていた。

 インストラクターの方に指を消毒してもらって少しきつめに絆創膏を巻いてもらった。そのころには血も止まっていて、絆創膏を少し血で汚すだけになっていた。


「痛い?」

「ううん。大丈夫。」

「よかった」

「手、汚れちゃったね」


 僕がナナフシの女の子の血が付いた手を見ると、ナナフシの女の子は突然血をペロッと舐めた。


「汚いよ」


 反射的に言うと同時にちょっとした不気味さを覚えた。血を舐める、それも他人のものを。そこに抵抗を抱かないナナフシの女の子にこの頃の僕の常識外を感じてしまったのだ。


「洗った方がいいよ」

「うん。そうする」


 先に炊事場の方へ戻っていったナナフシの女の子と少し距離を空けて僕は炊事場に戻った。


×   ×   ×   ×   ×


 僕たちは完成させたカレーを食べて(僕が怪我をするというハプニングはあったが、どの班よりも先にカレーを完成させた。焦げ付かせることもなく美味しいカレーができたと思う)モモンガ観察に向かった。

 夜の山に入ってモモンガの巣がある付近で彼らが滑空するところを見ようというイベントだ。最初にレンジャーの方の十分くらいモモンガの話を聞いてから、僕たちは十分くらい歩いて、モモンガが出てくるのを十分くらい待った。モモンガがいるらしい巣箱にはモモンガがびっくりしないように緑色のライトが当てられていて、まだ視力が2.0もあった!(今は左目なんて視力が0.01とかしかない)瞳でモモンガが出てくる瞬間を待った。


 どれだけ時間が経っただろう。モモンガが顔を出したかと思ったら、瞬く間に滑空で夜の森に飛び立っていった。おぉーと僕を含めた子どもたちが声を上げる中、隣にいたナナフシの女の子はモモンガが飛び立つ瞬間のガサガサという音にびっくりしたようで絆創膏を貼っていない方の僕の手を握った。


「どうしたの?」

「ちょっと怖い」

「そっか」

「しばらく手握ってていい?」

「うん。いいよ」


 レンジャーの方が再びモモンガのことを解説するのを聞きながら、僕はナナフシの女の子の汗ばんだ手をしっかり握ってあげた。


「サマーキャンプの間ね」

「うん」

「家に帰りたくて仕方なかったの。寝るときとかさみしかったの」

「うん」

「でもずっと隣にいてくれたから、泣かなくてすんだの」


 泣き虫だからさ。ナナフシの女の子が少し強く手を握り返してくる。

 僕には寂しいという感情がよくわからなかった。乳幼児の頃から親には一人で勝手に遊んでいると言われ、実際一人で図鑑を読んだり絵を描いたりしてばかりだった。小学校に入ってからは友達もできて外で一緒に遊ぶことも多かったが、それでも一人で遊ぶ割合は多かった。そうした一人遊びの得意さと両親が共働きで家にいないことの方が多かったから耐性がついていたのかもしれない。寂しいという感情を他人から聞いて理解できなかった初めての瞬間だったし、血を舐める以上にナナフシの女の子との距離を感じた瞬間だった。

 レンジャーの方の話が終わりロッジに戻ることになった。


「行こう」

「うん」


 僕とナナフシの女の子は手をつないだままロッジへ向かった。暗いからか、道中で手をつなぐ僕たちに気づく子どもたちはいなかった。

 ロッジについて手を離した。


「ありがと。また明日ね」

「うん。バイバイ」


 手を振るとすぐにナナフシの女の子は他の子どもたちに紛れて見えなくなってしまった。


 そしてこの「また明日ね」が履行されることはなかった。


 三日目の朝はロッジで朝ごはんを食べるとすぐに解散の流れになりやってきたバスに流れ作業で子どもたちをどんどんバスに詰め込んでいった。班なんて単位はあったものではなく、ナナフシの女の子とは別々のバスになった(なぜか嫌々サマーキャンプに参加している女の子たちと同じバスになりいくつか話をしたが、例にもれずこれも話の内容は覚えていない)。バスが駅に着くとそのまま電車で東京へと送り返された。電車でナナフシの女の子と一緒になるかと思ったが、彼女は駅で親の車に乗って帰ってしまったという。インストラクターの方に電車内で聞いた話だ。


 子どもの頃、こうして一回遊んだきりという子はたくさんいた。でもナナフシの女の子くらいしっかりと覚えている女の子はいない。綺麗な色の絵や、舐められた血、寂しいという感情があること、あまり覚えていないがたくさん話をしたこと。白いワンピースに麦わら帽子でひと夏の恋みたいなお話ではないけれど、人生で二度と会うことのない名前も覚えていない小学生の女の子の記憶が僕にとっての夏休みらしい記憶だ。

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