如何にして私は自らを喰らう羽目になったか 或いはタラバとズワイの抗い難き誘惑

帯屋さつき

1話

「時にきみ、知っているかね」


 黄昏時。五畳一間の狭い我が家にて、私の悪友である明坂は、吐き出した煙草の煙を目で追いながらぽつりと言った。私は返答することも七面倒くさく、こちらもまた煙草の煙を吐き出すことで応えた。


「いやなに、裏の煙草屋で聞いた話なのだがね。何でもヤキニクファイトが行われるらしいよ」

「ほう、そいつは大問題だ。それで、ヤキニクとは何だ」


 どこかで聞いたことのある響きではあったがとんと思い出せない。思い出そうとすると頭の中に靄がかかったかのように『ヤキニク』なるものが隠れてしまう。


「おいおい、ヤキニクはヤキニクだよ。字のごとく、肉を焼くあれだよ」

「……ああ、焼肉のことか。あのジュウジュウやるやつだな」

「そのジュウジュウやるやつだ」


 あまりに久方ぶりに聞いた言葉であったのでイメージと合致させるのに時間がかかってしまった。焼肉など最後に食べたのは私がまだ親元にいたころであろう。一人暮らしを始め、こうして貧乏大学生として生きる今ではめっきり馴染みの薄い言葉である。


「して、ヤキニクファイトとは何かね」


 焼肉のことを考え続けていたら腹が減るのでこの話題は早々に打ち切りたい。そう思いながら明坂に水を向けると、彼は悪巧みしているように、にまりと笑った。


 彼は黙っていれば中性的な顔立ちをした二枚目であるのに、こうして笑うと途端にただの助平にしか見えなくなる。ああいや、確かに助平ではあるのだが。


 彼はその助平な面をして、悪魔のように囁く。


「焼肉などご無沙汰だろう、タン」


 焼肉と言わず、煮た肉も揚げた肉も蒸した肉も、そもそも肉自体ご無沙汰であった。補足しておくと『タン』とは私こと丹野正一のあだ名である。


 明坂は、無造作に積み上げられた週刊誌の上に置かれた灰皿に煙草を押し付けて、少しばかり身体をこちらに寄せてきた。


「無料で焼肉が食えるとしたら、きみどうするね」


 まるで共犯を作るかのようにこっそり言う明坂。私はボロアパートの薄い壁に背中を預けたまま、なんでもない風を装って煙草をもう一呑みした。ついでに生唾を飲みこんだことも上手く隠した。


「無料で食えるというのならやぶさかではない。が、私は生れ落ちてより今までのこの二十余年で学んだこともある」

「よせよタン。タダより安いものはない。高くついたなら勉強代だ」


 手を振って私の言葉を遮る明坂。悔しいかな、ポーズとしてはうまい話にほいほい乗らない有識者でありたいのに、私の胃袋は正直なもので、先ほどからグルグル動物のごとき唸り声をあげている。


 だって焼肉である。金持ちにのみ許された贅沢。それが焼肉である。網に肉を置いた時のあのジュウジュウ鳴る音。一瞬で広がる白い煙。滴る油。色の変わる肉たち。タレ。レモン汁。塩。どれも肉を最高に引き立たせる。アツアツのそれを口まで運び、そしてすぐに白いご飯をかっこむ! ああ最高だ!


「よし。その話、詳しく聞こうか」


 いやもう限界だ。頭の中にはすでに『無料』と『焼肉』の二文字が踊っている。


「わはは、いいね。きみのそういうところが好きだよ」


助平顔で喜ぶ明坂。そうして彼は背後から一枚のビラをごそりと取り出した。この悪友はこと面白そうなことに関しては手が速いのである。


「見たまえ。明日の十三時より、『肉の村松』なる店でヤキニクファイトが開催されるらしい」


 渡されたビラの中には、ポップな文字で大きく『ヤキニクファイト』という文字が躍っており、かわいくデフォルメされた男の子のイラストが吹き出しで「喰らいまくれ!」と見るものを煽っていた。


「明日か……。それはまた、急な話だな」

「チャンスはいつだっていきなり訪れるものだよタン」


 よくよくそのビラに目を通してみると、受け付けは不要、参加費無料と書かれてあった。


「……ずいぶんと、うまい話だ」

「違いない。美味い話さ。――さて」


 明坂はすっくと立ち上がる。それだけでこの狭い我が家においては圧迫感を覚えてしまう。


「僕はそろそろ行くとするよ。『ヤキニクファイト』に参加すると言うなら腹を空かせておかねば」

「ふむん、確かに。食べ放題だと言うのならできるだけ空腹で行かねば損だな」


 どこにどんな利益があるのかはわからないが、本当にタダであるらしいので、出来るだけ食べておきたいと考える哀れな貧乏学生の姿がそこにはあった。


 明坂はひらひらと手を振って我が家から去っていく。腹を空かせておく、とのことであるし、ひょっとしたらひとっ走りでもいくつもりなのかもしれない。私もそうしようかしらとふと思ったが、走っている自分を想像しただけで息切れがしてきたのでやめておく。


 有効な時間の使い道など一つしかない。眠れば良いのだ。はからずも今日の夕飯を抜く口実もできてしまった。万年床へとごろりと身体を転がせる。


 流石に眠りにつくには早い気もしたが、ええい、寝ろ。寝てしまえ。明日の今頃には肉ではちきれんばかりになった腹を持てあますことになるのだ。その時のための体力を今から養っておかねば。


 身体は正直なもので、横になっているだけでうとうとと睡魔がこちらへと歩み寄ってきた。ううむ、我ながら単純なものである。


 そうしてあと数秒後には夢の世界だという心地の中、ふと思い出した。


――結局『ヤキニクファイト』とは何ぞや?


 その解を見出す間もなく、私は旅立った。おやすみなさい。







「おおい、こちらだタン」


 人、人、人。人の波をかき分け、その声がしたところへ歩いていく。


 翌日の十三時、『肉の村松』の前にはちょっとした祭りのごとき人数が集まっていた。


「いやあ参ったね。よもやこんなにも人が集まるとは」


 先に来て待っていた明坂は、どこか達観しているような顔で呟く。私は早くも辟易していた。私の嫌いなものは日光と人の群れである。


「どうせタダ肉目当てで来た図々しい輩ばかりであろう、まったく品性を疑うものだ」

「まったくだねえ。厚顔無恥とは彼らのためにあるような言葉さ」


 各々好き勝手なことを言う。基本的に引き籠りで肌の白い我々は今この場の雰囲気にまったくそぐわなかった。周りを見ればまさしく体育会系の浅黒い巨漢たちが舌なめずりをして立っている。


 何だか途端に心細くなってしまった我々は、人の塊から少し離れて煙草をぷかぷかやり出した。


「なあ明坂よ」

「なんだいタン」

「私はなんだか悲しいよ」

「みなまで言うな。僕も同じ気持ちさ」

「たかだか無料で焼肉が食えるからと、踊らされているな」

「嗚呼悲しいかな、人の業というやつだね」

「悲しいなあ」

「悲しいねえ」

「卑しいなあ」

「卑しいねえ」

「アナタ方も変わりゃあしませんよ」

「うぎゃ」「おわっ」


 突如割り込んできた声に明坂ともども変な声を上げて飛び上がる。

 気付かぬ間に私と明坂の後ろに誰かが立っていたらしい。


「おはようございます、先輩方」


 すらりと背の高い女性だった。黒髪のおかっぱで、整った顔をきりりと引き締めて、半ば睨み付けるみたいにして我々を見ている。というより――


「ん、んん?」


 よくよく見てみるとこやつは――


「明坂、なんだかこの女性、伊勢崎後輩に似ているな」

「うん。ちょうど僕もそう思っていた。見れば見るほど生き写しだ」

「……わたしの記憶が確かなら、わたしこそが後輩の伊勢崎です」


 むすっとした顔で女性が言う。なんだ、こいつ伊勢崎か。驚いて損をした。

 彼女は伊勢崎。私と明坂の後輩である。以上、説明終わり。


「もっとあるでしょう」

「おい、モノローグを勝手に読むな」

「しっかりと声に出していましたよ……」


 おっとっと、これは失敗失敗。伊勢崎は呆れ顔で溜息を吐く。と思えば思い出したように眉をきりりと上げる。


「先輩、これはどういうことですか」


 これとはどれであろう。なんとなく伊勢崎が怒っているらしいことは察したものの、何故かまでは掴めない。

 すると明坂が悲痛な声で教えてくれた。


「十中八九『ヤキニクファイト』のことだろう。かつて彼女はこの忌まわしいイベントで故郷を失っているんだ」


 なんと、そうであったか。つまり『ヤキニクファイト』は伊勢崎にとって故郷の仇のようなものなのか。その衝撃の事実に驚きを禁じ得ない。


「怒りますよ」

『ごめんなさい』


 私と明坂の声が重なる。ちょっとおふざけが過ぎたらしい。伊勢崎のもともとツリ気味であった目はさらにぐぐぐとツリ上がり、今や狐もかくやとばかりになっている。


「なんだ伊勢崎、何故そのように荒ぶるのか」

「ええそうですとも、わたしは――怒っているのです!」


 彼女の好きな『もののけ姫』の台詞にも反応しないところを見ると、伊勢崎は本当に腹に据えかねているらしい。しかし、少なくとも私は本当に彼女が怒っている理由に心当たりがなかった。


「理由があるなら言ってみなさい。聞いてあげるから」

「……その態度にはもういっそ目をつぶりましょう。いいですとも、教えて差し上げます」


 伊勢崎は腰に手を当て、胸を張って、凛とした声で告げた。


「――こんなオモシロイことをわたしに内緒だなんて許せません!」


 ……はあ。私は目を丸くして伊勢崎の言葉を反芻する。彼女が怒っている理由が、私が思っていたものの少し斜め上にあったためだ。


「なんだこいつ構ってちゃんかよ」

「どうした明坂、口調が変だぞ」


 思わず明坂の口調がクライシスするぐらいしょうもない理由だった。ううん、やっぱりこいつは私たちの後輩だ。自分で言うのもなんだが、しょうもなさが私と明坂に通ずるものがある。


「内緒とは言うが、おまえはこうしてここにいるではないか」

「裏の煙草屋のおばちゃんに聞きました」


 君らの情報源は基本的に裏の煙草屋なのか。どの家にも裏には煙草屋があるものなのだろうか。


「とは言うがね伊勢崎。これはつまるところ食べ放題だろう。年頃の女子であるおまえには縁遠い話ではないかね。主に腹回り的な意味で」


 伊勢崎の名誉のためにも言っておくならば、彼女は決して肥満ではない。むしろ痩せ型であり、背の高さも相まって、口を開かなければモデルと言っても通用するであろう。


 だがこの年頃の女性とはとかく肉が付くことに神経質である。どんなに我々男衆が痩せていると思っていても、二言目にはダイエットである。


 だが伊勢崎は言いづらそうに唇を尖らせて、もごもごと呟いた。


「……いや確かにそうですが、わたしだって五十万円が欲しいのです」

「うむ? 五十万円?」


 首を傾げる私。明坂は横で我関せずとばかりに煙で輪っかなど作って遊んでいる。


「ええ五十万円。優勝者に出る賞金です」

「……知らんぞ明坂」

「僕は知っていたとも」


 すまし顔で言う明坂をじろりと睨み付けるが、奴はどこ吹く風といった体で、まったく堪えていない。

 うむむ、それにしても賞金五十万円だとう? 参加費は無料で焼肉がたらふく食えて、かつあわよくば金が貰えるとは。怪しさしかないではないか。なるほど、故に『ファイト』なのか。


 ……ひょっとしたらやめておいた方が良いかしら。明らかにまっとうなイベントではない。


「おいおいタン。まさか今さら腰が引けたんじゃあないだろうな」

「やかましい。そも貴様がいらぬ隠し事をするのが悪い」


 別に隠してはいなかったと言い訳をされる前に言っておこう。こいつは間違いなく賞金のことを隠していた。故意にである。昨日の時点で一言もそれについて触れていないのである、もはや疑う余地はなし。


 いくら明坂がどのような言葉で取り繕おうとも私の慧眼よりは逃れられないのである!


「いや隠してたことは悪かったよ」


 と思ったらあっさり白状した。なんだか一人で空まわっていて少し恥ずかしい。赤面赤面。


「何故隠していた?」

「いやあそっちの方が面白いかと思ってねえ」


 からから笑う明坂に、身体から力が抜けるのが分かった。


「そうだな、おまえはそういう奴だった」

「いやはは、照れるなあ」


 そうして明坂はにんまりと、助平な顔をして笑った。


「ならばタン、僕がこういう時なんと言うのかも分かっているだろう?」

「……おまえの掲げる大仰なモットーだろう。覚えているとも」


『【面白き】はすべてにおいて優先される』


 またも私と明坂の声が被った。テンションの差はあれど、一言一句間違わずに同じであった。気持ちわるっ。


「その通り。故にこんなにも面白いイベントを、見逃す手はないだろう」

「ふむ。その点においては明坂先輩に同意ですね」


 伊勢崎が明坂の肩を持つ。私もそのモットーには深く感じ入るところがあるものの、あくまで楽しめる範囲で、である。私はこやつらのようにリスクマネージメントの出来ぬ愚か者ではないのだ。


「さておき先輩方、そろそろ始まるようですのでさっさと行きましょう」

「いや伊勢崎後輩、私はまだ参加すると決めたわけでは――」

「女々しい! ここまで来て何を仰るんですか!」


 伊勢崎が牙を剥く。何故だか知らぬが彼女はまだ不機嫌であった。私はそこまで彼女を怒らせるようなことをしただろうか?


「仕方あるまいよタン。良しも悪しも口に含んでみなければわからない、諦めたまえ」


 知ったようなことを言う明坂。こいつは私だけでなく、不機嫌な伊勢崎後輩をも含めて眺めながら、楽しそうに笑っている。

 狐の怒り顔の伊勢崎と、助平な笑顔の明坂。その二人に詰められては私も折れるほかない。渋々ではあるが、怪しさ全開の『ヤキニクファイト』に私も参加することに相成った。


 ……前途がまったく不安である!

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