Girl's Falsetto

帯屋さつき

Girl's Falsetto


 亜紀の体温が、薄いシャツを通してわたしに伝わる。体温だけじゃなく、体重も、吐息だって感じ取れる格好でわたしたちは重なり合っていた。


 重なる、というのは文字通り、亜紀が仰向けになったわたしに覆いかぶさっている今の状態を指す。亜紀はわたしの両の手首を抑え、胸に耳を押し付けて鼓動を聞いている。亜紀はそうするのがとても好きなのだ。


「――重い?」


 胸に頭を乗せたまま亜紀がそう言った。人一人の重みこそあれど、亜紀はきっと他の人に比べたらずっと軽いはずだ。もし亜紀が重いというのなら、わたしなんてどうなってしまうのだろう。


「平気。少し暑いけど」


 そう答えると、亜紀がふふふと笑ったのが分かる。それが少しくすぐったくて身をよじると、亜紀が唇をわたしの首に寄せた。そうしてそのまま大きく口を開けて、わたしの喉を軽く噛む。痛みはなく、でも少しだけ息苦しさを覚える程度の強さで。彼女の唾液が熱い。喉を歯で圧迫されるというのは正直いい気分ではないが、この時間は亜紀のその行為で終わることが暗黙の了解になっていた。


「もうこんな時間ね」


 言って、身体を起こした亜紀にはさっきまでの陶酔していた雰囲気はかけらもなく、わざとらしいぐらいまでに普通を装っていた。恥ずかしくなるくらいならやらなければいいのにとは思うが、口には出さない。この関係を望んでいるのはわたしだってそうなのだから。亜紀とは違う理由で、だが。


 前に一度聞いたことがある。最後に首を噛むのは何の意味があるのかと。もしかしてわたしを食べたいのかしらと思っての質問だったのだが、亜紀はいつものように優しく微笑んで、私は食べるよりは食べられたい、などとよくわからない返答をくださった。


 うやむやにされてしまったうえ、結局首を噛む行為自体に何の意味があるのかは亜紀のみぞ知る、である。


「帰ろうか」


 現実に帰還したわたしたちは現実的なことを言う。ここは先ほどまでの耽美的な宇宙空間ではない。重力のある、放課後の薄暗い空き教室だ。


 時計はとっくに午後の七時を回っている。お喋り好きな女子たちだってもう校内には残ってはいないだろう。適当な机にかけてあった鞄を手に取り、あくびを一つして亜紀の方へと向き直る。


 亜紀も制服に付いたしわを伸ばしながら鞄を手にしていた。


「行こう、夕子」


 亜紀の言葉に頷いてから、わたしたちはさっさと空き教室を後にした。




 亜紀とわたしは友達だ。そしてこの行為に意味はない。ただじゃれあっているだけだと、少なくともわたしはそう理解している。


 亜紀は、違うと言う。私のは夕子とは違う、と言う。その違いがわたしにはいつもわからない。亜紀はそんなわたしを見てもどかしそうにするものの、結局なにも言わずにいつも黙り込む。


 不思議なものだ。こんなに近くにいて、時には吐息も体温も感じるくらいに近くにいて、でも互いの気持ちがわからない。重なっているときはひどく安心するのに、その実なにも繋がっていないのだから。


 校舎から外に出ると、冷たい風がわたしたちを出迎えてくれた。とっくに日は暮れて、欠けた月が頼りなく輝いている。


「夕子は」


 なんとなく黙って歩いていた中、口を開いたのは亜紀の方だった。


「きっと、私じゃなくてもいいのよ」

「へえ」


 さっぱり意味はわからないけれどとりあえず相槌を打っておく。亜紀は気を悪くした風もなく、前を見つめて、歩む速度を変えることもなくぽつぽつと続けた。


「でも私は、夕子じゃなきゃダメなの。だから、ずるいとは思うけど、このままでいることを選ぶの」

「ふーん」


 重ねて相槌を打つけれど、全然意味がわからない。でも茶化すような雰囲気でないのは間違いない。わたしも真面目な顔を保ったまま、横目で亜紀を見ながら言った。


「亜紀は、なんでわたしじゃないとダメなの?」


 わたしがそう聞くと、亜紀は不意に立ち止まった。数歩先に進んだわたしが振り返ると、じっと見つめてくる亜紀と目が合う。


「嫌だから」


 そのまま、亜紀ははっきりと言った。


「夕子じゃないと、嫌だから」


 あまりにもまっすぐそう言われ、わたしはなにも返すことができなくなる。情けなく口を半開きにしたまま、そこから出す言葉を探している。


 そんなわたしを真剣な顔で見つめていた亜紀は、ふっと微笑んだ。途端にその場の空気が少し軽くなったような気がする。


「それじゃあ理由にならない?」


 柔らかく笑う亜紀。わたしは、彼女の瞳から目を離せないまま小さく頷いた。


「――うん。それなら、仕方ないね」


 亜紀は声もなく、優しく笑っていた。



 わたしと亜紀が校内で話すことはまずない。女子にははっきりとしたグループが形成されており、わたしたちは互いに違うグループに所属しているからだ。


 放課後ともなればふたりでこっそりと集まって、誰もいないところで重なり合ったりするけれど、その行為が行きつく先を私は知らなかった。


 わたしは亜紀のことを何も知らない。


 亜紀は温かくて、いい匂いがする。柔らかくて軽い。くっきりとした目鼻立ちは同性のわたしから見ても美形だと思うし、頬に触れる髪の毛はとても美しいとも思う。


 でも、そんなことしか知らない。彼女の好きな音楽を知らない。好きな食べ物を知らない。家族構成を知らない。住んでいるところを知らない。昨日見た夢の内容を知らない。


 わたしたちはお互いを必要としあっているけれど踏み込みはしない。きっとどちらも怖がっているから。この関係が終わってしまうことを、恐れているから。だからどちらも立ち止まって、周りの風景から目を逸らしている。



 わたしたちが立ち止まっていても他のすべては止まらない、なんて当たり前のことを、忘れてしまっていたから。



「告白されちゃった」


 はあ、と間抜けな声が出た。


 放課後いつものようにこっそりと空き教室にあつまり、いつものように二人重なって首を噛まれた後、いつものように帰り支度をしているときに亜紀がふと思い出したかのようにそう言った。


 スカートをぱたぱたとはためかせ、ほこりを払いながらなんでもないことみたいに言われてしまい、わたしはしばし黙り込む。


「えっと、誰に?」


 やっと出た言葉はそんなもの。知ったところでどうなるわけでもないのに。


「二組の相川くん。ほら、バレー部の眼鏡かけてる」


 亜紀の言う相川くんには見当がついた。クラスのムードメーカーとも言うべき明るい男子で、女子からもそこそこ人気のある人だ。そんな彼が、亜紀に告白をしたらしい。


 確かに亜紀は器量よしで、よく告白をされていると聞く。でもそれは大概終わった後に人づてに聞いたり、亜紀本人から聞いたりしていた。こうやって、告白されたことを亜紀から直接教えられたのなんて初めてだ。


「そうなんだ」


 頭の中がぐるぐる回って何を考えたらいいのかわからない。こういう時どんな反応を返すのが正解なのか、どういう反応をしてほしいのか、わからない。でも何故だか、ちょっと苛立った。


「いいんじゃない? 相川くん人気あるし、かっこいいじゃん」


 気付いたら言っていた。頭の中で言葉が組み立てられる前に、熱に浮かされるみたいにして。


 亜紀はじいっとわたしを見つめながら、わたしの言葉を聞いている。


「亜紀は美人なんだから、そもそも彼氏がいないのがおかしいんだよ。相川くんだったら釣り合ってるし、ちょうどいいと思うよ」


 ぺらぺらと好き勝手にわたしの口は動いてくれる。実際に、頭の中ではまったく関係ないことを考えてる。具体的には、今日の晩御飯なんだろう、とかぼんやりと。


 ただ、自分の口が動くにつれて自分の頭も重くなっていくのがわかる。緩やかに泥が積もっていくように、困惑が頭の中に満ちていく。


「だからさ、」

「わかった」


 わたしの雲みたいに軽い言葉の大軍を、亜紀は一言で遮った。少しほっとする。このままではなんだか泣いてしまいそうだったからだ。


「夕子は、それでいいのね」


 なにが? と返そうとして、でも口が動いてくれなかった。それを言ってしまうと本当に終わってしまう気がして。


 亜紀はいつものように優しい笑みを浮かべてはいなかった。無表情でわたしのことをじっと見つめるその顔を、わたしは知らない。



 ねえ、なんでそんな顔するの?


 なんでそんな目でわたしのことを見るの?


 わたしが悪いの? 間違っているの?


 間違っていたのはわたしたちじゃないの?


 相川くんと付き合う方が、正しいんじゃないの?


 わけわかんない。意味わかんない。


 亜紀は机にかけてあった自らの鞄を手に取り、わたしに背を向けた。それがひどく冷たい行為に思えて、わたしは自然と目に涙が集まるのがわかった。


 出ていこうとする背中。ここで行かせてしまったら本当に終わりだという焦りが、わたしの口から突いて出た。


「だって!」


 亜紀は足を止める。振り向かず、そのまま立ち止まっている。なんだか急に悲しくなって、虚しくなって、腹立った。


「だってわたしは亜紀のこと何も知らない!」


 なにも、なにもだ。亜紀はそのまま動かずに聞いている。その憎たらしい背中にぶつけるつもりでわたしは叫ぶ。


「亜紀の好きな音楽を知らない! 好きな食べ物を知らない! 家族を知らない! 住んでるところを知らない!」


 あなたがこの関係をどう思っているか、知らない。


「柔らかくて、温かくて、いい匂いがして。そんなことしか知らないんだよ、わたしは」


 尻すぼみになるわたしの言葉を聞きながら、亜紀は小さく震えていたかと思うと、ぐるりとこちらに向き直った。その瞳には、わたしと同じように涙が溜まっていた。


「ポルノグラフィティとヘヴンスタンプが好き! キーマカレーとツナマヨのおにぎりが好き! 二つ歳の離れた姉一人に両親! 住んでるところは矢良町二丁目八の九! ――ねえ!」


 一息で言い切って、亜紀は涙をぽろぽろ零しながらわたしを見ていた。


「こんなことなの!? その気になったら一瞬でわかるようなことを知らないのが、そんなに大切なことなの!? 馬っ鹿じゃないの!」


 亜紀が叫ぶ。彼女らしからぬ言い方で顔を真っ赤にさせながら。


「柔らかくて温かくていい匂いがする、それだけでいいじゃない! 私はそれだけで言えるよ! 夕子のことが好きだって! 柔らかいから好き、温かいから好き、いい匂いがするから好き!」


 好きって、それだけじゃ駄目なの? そうまっすぐに問われて、わたしは何も返せない。わたし自身、自分の気持ちを知らないのだから。


「わかんないんだもん……」


 素直にそう言うと、亜紀は涙で濡れたままの顔で微笑んだ。わからない、わからないけれど。


「でも、そばにいてよ……」


 わたしがこの関係をどう思っているか、亜紀をどう思っているか。そんなことはわからない。


 でも、これが本音だった。亜紀にどこかに行ってほしくない。それが掛け値なしのわたしの本音だった。


「うん。いいわよ」


 あっさりと亜紀はそう言って、いつものように柔らかく笑った。涙が頬に伝うその微笑みを、わたしはとても美しいと感じた。


「私は夕子が好き」

「わたしはわからない」

「でもそばにいてあげる」

「うん、そばにいて」


 これが独占欲とかなのか、それとも愛情なのかはわからない。でもきっとそれでいいんじゃないんだろうか。好きって、そんな綺麗なものじゃない。


 気付いたらわたしと亜紀は抱き合っていた。やっぱり亜紀は柔らかい。温かくて、いい匂いがする。


 今は、これが答えでいいと思えた。無理に形にしなくても、きっといいのだろう。


 いつもわたしたちは重なっているだけだった。吐息を感じ、体温を感じ、けれど何も繋がっていなかった。


 でも今初めて、わたしたちは少し繋がれた気がした。歩めたような、そんな気がした。



 互いの鼓動を感じ取れる温かな距離。

 わたしは亜紀の首をそっと噛んだ。



Fin

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