夏と針金
葉島航
第1話 夏(1)
列車の扉が開くと同時に、セミの声が降り注ぐ。悪ふざけにタンバリンを揺さぶったような音。クマゼミだな、と思う。
セミの声をこれだけしっかりと聞くのは久々だというのに、その種類を自分が区別できたことに驚く――もちろんそれが当たっているのかどうかは知りようもないのだけれど。昔取った杵柄、三つ子の魂百まで、そんな言葉が脳裏をよぎるが、微妙にずれている気がしてすぐに思考を手放してしまう。
僕がホームに降り立つと、列車はため息を発してまた走り出す。途方もなく辺鄙な無人駅に、僕一人だ。改札もなく、切符を入れると思しきプラスチックケースが、出入り口の脇にぶら下がっている。これでは無賃乗車し放題ではないか、どう採算をとるのだろう、といぶかしみつつ、臆病な僕はケースへ切符を放り込んだ。それから、無賃乗車が問題になるほどこの駅に利用者がいるとも思えないというとりあえずの解を導き出し、ふむふむと誰にともなくうなずきながら外へ出る。
古い木造の屋根の向こうに、突き抜けた青天と入道雲が現れた。それが絵画やCGのようにも思えて、現代っ子らしい貧相な発想におののく。もちろん僕の目が捉えているそれは、グラフィックの創造物ではなく実際に存在するものである。
久々の里帰りだ――と言っても気分上のもので、僕はここで生まれたわけでも、育ったわけでもない。いや、育ったと言ってもよいのだろうか? その辺の事情はなかなかに込み入っていて、簡単には説明できない。
泥沼のようにとりとめのない思考を一度止めて、バックパックを背負い直す。まずはこの荷物を何とかしたい。そのためには、宿へ向かわなければならない。至極真っ当な判断だ。
道路なのか畦道なのか分からないところを歩き始める。鬱蒼と茂った草むらの向こうには、野池が広がっている。昔、ここで釣りをしたことがある。
――誰と?
僕は誰と釣りをしたのだろう。ここで過ごした記憶は年々、いや、日に日に薄まっている。何か大事なことを忘れてしまう気がする――あるいは、もうすでにそのうちのいくつかを忘れてしまっているのかもしれない。そんな焦りに突き動かされて、大学が夏休みに突入すると同時に列車へ飛び乗ったのだ。宿は列車内でネット予約するという強行軍である。
ともかく、遠い記憶を探りながら野池の脇を歩いていくと、草むらの中からひょっこりと麦わら帽がのぞいた。
「父ちゃん、旅行の人が来た」
麦わら帽が言う。
「あ?」
眠そうな声が、さらに向こうから飛んでくる。こちらの声の主はまだ見えない。
「何よそ見してんだ。もう釣りしないってんなら帰るぞ」
「まだ釣るもん。ねえ、見たことない人がいるんだよ」
「ばかお前、こんなところに観光客なんて来るわけ――」
やがて麦わら帽の少しばかり奥に、ハンチングがひょっこりと現れた。
「本当だな」
「ね」
ガサガサと音がして、ハンチングをかぶった筋肉質な男が僕の前にやって来た。その後ろをひょこひょこと付いてくるのは、麦わら帽の少年である。
「こんちは。あんた、旅行で来たの? なんだってこんな何もないところに」
人懐こい笑みを浮かべている。紺色のタンクトップに日焼けした肌。彫りの深い顔に茶髪。威圧感を覚えるなという方が無理な話だが、少なくとも敵意は向けられていない。純粋に、物珍しくて声を掛けたのだろう。
「そうです。日本国内を旅してまわっていて、ここにもしばらく居させていただくことになると思います」
「あれか、自分探しってやつか」
「それが近いですね。あとは、かわいい女の子と知り合いになれたら――なんて」
男はがはは、と大口を開けて笑った。想像どおり、こういう話題は好みのようだ。
「あんた面白いね、気に入った。俺は草山タケシ。こう見えて、村唯一の小学校で教師やってんだ。んで、こいつが息子のジュン」
ジュンはぺこりとお辞儀をして「こんにちは」と言った。初対面の人間にも物おじしないらしい。
「ここは狭いところだから、滞在しているうちに何度も会うことになるだろうな。ま、困ったらいつでも頼ってくれ」
ありがとうございます、と頭を下げる。再び歩き出そうとしたが、ジュンが僕の腕を捕まえて、釣りざおを差し出してきた。
「ねえ、釣りしようよ」
「おいジュン、何言ってんだ。きっと長旅で疲れてるだろうし」
ジュンがしょぼんとした顔をするので、僕は「少しなら」と応じる。タケシさんは少し面食らったようだったが、にかっと笑って「すまんな」と言った。
ジュンから釣りざおを受け取る。初心者には難しいベイトリール。ジュンはどう見ても小学校二、三年生だが、なかなかの手練れらしい。
ジュンたちはルアーを使ってブラックバスを狙っているそうだ。こんな田舎にも外来種は確実に根付き始めているのだな、と脈絡なく思う。
それにしても、ルアーとは今時珍しい。有名な釣り場では魚がスレて、ルアーでの釣り上げが難しくなっている。今ではワームと呼ばれる疑似餌が主流だ。ここではまだ釣り客も少なく、ブラックバスも警戒心が薄いのだろう。
タケシさんの了解を取り、ルアーのボックスを覗く。なかなかの品揃えだ。仕込まれた釣り針が太陽で光っている。
コレクションの中からスピナーベイトを選び、釣りざおへ取り付ける。
「あ、それ使うの? 重くて糸が切れやすいから、あんまり使ってないの」
スピナーベイトは、「く」の字に曲がった針金のようなものだ。上側の先端には金属のプレートが、下側の先端には魚型のヘッドと、ひらひらしたひも状のスカートが付いている。そのスカートの中に、鋭い釣り針が仕込まれている。
「これね、ぶるぶる震えるの。しかも、プレートがきらきら光るの。この二つのアピールで、バスも寄ってくるわけ」
偉そうに講釈を垂れてみると、ジュンは「そうなんだぁ」と無垢な声を上げる。この時間帯なら、まだブラックバスもアクティブなはずだ。僕は野池にルアーを放つ。
結果として、僕は二十分あまりでブラックバスを三匹も釣り上げることに成功した。タケシさんはぽかんとしていたし、ジュンは「すごい」を連呼している。
釣りざおを返すと、ジュンが「今度、釣り教えてね」という。こんなふうに認めてもらえるのは久々だ。一も二もなく、僕はそれを請け負う。
「あんた、すごいな」
タケシさんはまだ目を丸くしている。
「子供のころ、毎日釣りばっかりしている時期があったんです。最近は全然ですが」
「ジュンがこんなに喜んでるのは久しぶりだ。あんたの行く宿は『なつみ』だろう? 俺んちもすぐ近くだから、遊びに来てくれ」
頭を下げ、僕はまた歩き始める。額からも首からも汗が流れているが、不思議と不快ではない。
この村に宿屋は一軒しかない。老夫婦の営む民宿『なつみ』がそれだ。と言っても観光客の少ないこの村で、民宿として生計を立てるのは難しい。だから普段は定食屋としても営業しているそうだ。
地図がなくとも、この辺りの地形は見覚えがある。野池の並びを抜けた先に、道が舗装されたものへと変わり、民家の並びも現れるはずだ。『なつみ』の立地も、おぼろげながら記憶にある。一度、手の甲で汗を拭い、僕は歩を進めた。
少し大きな一軒家――『なつみ』はそんな印象だった。平屋の古民家。よく手入れはされているようで、歴史は感じるものの全体的に小ぎれいだ。しかし看板もなく、全くもって商売っ気がない。僕にしても、付近を散々さ迷い歩いた挙句、玄関の暖簾に小さく「民宿」の文字を発見してたどり着いたありさまだ。昔懐かしい引き戸に手を掛けて開ける。
カラカラカラ、と軽やかな音がする。線香の匂いが鼻を突いた。
「だぁーから、ここ押してみろって言ってんだい」
「アホたれ、ここはたぶん上書き保存のボタンじゃろがい。おかしくなったまま保存する気か」
「馬鹿の一つ覚えみたいにそればっかり。これで『上書き保存』のボタンは3個も存在することになったね」
「これだからピーシィで管理なんてやめた方がよかったんじゃ」
「あんたがそれ言うかい。こうしようって言ったのはあんたなのに」
「違う違う、今はそうじゃなくて、これをどうするかって話じゃろ」
「もう誰か若い衆を呼んだ方が――」
帳場の中で、老夫婦が激しく言い争っている。二人の目がこちらを向いた。
「若者じゃああああああっ」
「ひっつかまえろぉぉぉっ」
鬼のごとき形相で僕に手が伸ばされる。
「ひいぃぃぃぃぃぃぃっ?」
数秒後、僕は帳場の中へと引きずり込まれ、パソコンの前に座らされていた。
老夫婦の言うことには、パソコンの表計算ソフトを使って帳簿の管理をしていたのだが、何かの拍子に、合計金額が正確に算出できなくなってしまったらしい。その解決策をめぐって言い争っていたところに若者が顔を出したものだから、捕獲して――「ひっつかまえろぉぉぉっ」――修理させよう、という魂胆だった。
それにしたって、外部から来た旅行者に、店の帳簿など見せてしまってもよいのだろうか。まあきっと、田舎らしい「義理と人情」的考え方なのだろう。僕としても、これで見知った情報を悪用するつもりなどさらさらない。
「こんな小さい集落でもね、年に1ぺんほどは役所の監査があるでね。それが近いもんだから、もう泡食っちゃって」
おばあさんが湯呑みを差し出してくる。湯気が立っているのは気のせいだろうか? おばあさんの隣で、おじいさんが冷たそうな麦茶をグラスに注いで飲んでいるのは気のせいだろうか? なんだか強烈な人たちだ。
ひとまずパソコンのデータを注意深く見ていく。僕もこういった機器に明るい方ではないが、それでも大学の授業などでこのソフトを利用したことは何度もある。
合計金額を算出する計算式が、見事におかしくなっていた。おそらく数値を入力していくうちに、計算式まで打ち換えてしまったのだ。
そのことを伝えると、おじいさんは「ほぉーん、そうか、計算式が数値でね」と明らかに理解していなさそうだったし、おばあさんは「んなこたぁいいから早く元通りにせんかい」と手厳しい。汗を乾かす間もなくパソコンの前に座らされ、何の嫌がらせか熱いお茶を出されている――正直、自分は何をしているのだろう、と思う。
それでも原因が分かれば何のことはない。正しい計算式を入力し直し、手計算でそれに間違いがないことを確認する。最後に、合計金額の欄に保護を掛け、勝手にいじれないようにした。同じことが起きないようにという配慮だ。
「はい、直りました」
「えらい早いなあ、適当にやったんちゃうか」
お、おばあさん、なんてことを……。
「ご覧になってください、とりあえず正しい金額が出てますから。それと、また打ち間違えが起きないように、この部分が変えられないように設定してあります」
分かったふりのおじいさんが「ほんほん、設定金額ね」とうなずいている。もはや別の熟語になっているが、大丈夫か。
おばあさんがキーボードをいくらか操作して、満足げに鼻を鳴らした。僕が出まかせを言っていないことは、確かめられたようだ。
「若いのに大したもんだね。助かったよ」
初めての褒め言葉に、どう反応すればよいか分からない。おじいさんも大げさに手を合わせながら「ありがとさん」と言ってくる。
おばあさんが帳場の脇にある椅子へどっかりと腰を下ろした。
「お礼に、宿泊代ただにしてやる」
「えっ」
声を上げてしまう。それはありがたいのだが、連泊する身としてさすがに申し訳ない。
「いやいやいや。お気持ちだけで――」
「黙ってなクソガキ」
「く、くそがき?」
「年長者の言うことは黙って聞くもんだよ。一週間かそこらの滞在だろ? うちは定食屋として儲けてるんだ。痛くもかゆくもないね」
宿を予約する際に、ひとまず一週間を申し込んでいた。この宿は格安だったが、それでも合計金額は二万円近い。パソコンのソフトを少しいじった見返りとしては大きすぎた。だがこれ以上遠慮すると、おばあさんがブチ切れそうで言い出せない。それを見透かしたように、おばあさんがまた鼻を鳴らした。
「もし申し訳ないと思うなら、ぜひとも宿泊を延長してほしいね。ただにするのは一週間分だけ。それ以降も泊まりたいなら、そこからは費用発生。いいね? それと、たまにじいさんの将棋の相手でもしてもらおうかね」
問答無用、という雰囲気。僕は素直に「あ、ありがとうございます」と頭を下げるほかなかった。こうして、僕の長い夏休みが始まったのだ。
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