ノー・モア・ナガサキ
江坂 望秋
浦上の惨劇
一九四五(昭和二〇)年八月九日午前十一時二分。西太平洋の小島テニアンから出撃したB29通称“ボックスカー”が長崎の松山町上空約五〇〇メートルに一発の原子爆弾(以後、原爆)通称“ファットマン”を投下、炸裂させた。すぐさま眩い閃光と全てを薙ぎ倒すような爆風、鼓膜を破るような大きな爆音が長崎の街を包み、広い一帯を地獄へ一変させた。死者はおよそ七万四千人。人類史上最大で最悪な非人道兵器が、民間人の頭上にてまた使用されたのである。
この原爆はプルトニウム型で、広島に落とされたウラン型とはまた違い、威力はより強大だった(強大だったからって、どうこう言うわけではない。殺人兵器は全て悪だ)。長崎特有の山に囲まれた地形は、その威力を限られた範囲の土地に収めることが出来たが、反面その限られた範囲の土地を凄まじい衝撃波が何往復もすることとなった。
その凄まじさを語る上で欠かせない遺構がある。赤レンガが特徴の『浦上天主堂』である。原爆によってほぼ全壊した。今は再建され、多くの観光客、修学旅行生が訪れる場所となっている。建っている浦上の地は、かつて何度かあった『浦上崩れ』と呼ばれるキリスト教徒弾圧事件の舞台となった地域であり、浦上天主堂はその最後、明治初期にあった浦上四番崩れで生き残ったキリシタンたちが建てた小教会が始まりと言われ、原爆以前からも悲惨な歴史を持つ教会であった。
浦上天主堂内には、『被爆マリア』や『顔のない聖人像』。また、威力という点で言うと、天主堂脇にある『旧鐘楼』が印象に残りやすい。かつて、そして今も浦上天主堂を正面から見ると左右に二つの塔が建っている。北と南と。原爆以前はこの北と南に直径五・五メートル、重さ推定五〇トンの大きな鐘楼があったという。原爆はこれを吹き飛ばした。北の鐘楼は倒壊した天主堂の瓦礫の下に。南の鐘楼は横の川辺に。南の鐘楼は今でも見られる。とても大きい。そして天主堂の敷地とはいえ、数十メートル離れた場所に鐘楼は落ちている。丘になっているので転がったりしてそうだが、それでも巨大で重量のある鐘楼を吹き飛ばしたという事実は、いかに原爆の威力がすごいか教えてくれる。
有名な話だが、元々の投下目標は長崎ではなく小倉だった。広島で新型爆弾が使われた報せを受け、重要な工業地帯(原爆はそういうところを狙って落とす)である小倉は工場群の煙突からモクモクと煙を出し空に煙幕を張っていた(前日に大空襲もあったので、その煙の可能性も捨てきれない)。“ボックスカー”は視界不明瞭として、次の目標である長崎へ向かったのだった。長崎では元々、もっと市街地の方に落とす予定だった。詳しく言うと、常盤橋という中島川(浦上のもっと南に流れる川。眼鏡橋が掛かっている川)に掛かる橋が目標だった。しかし、“ボックスカー”が長崎上空に来たときは、厚い雲に覆われて街が見えなかった。目視による投下は難しく、命令違反のレーダー爆撃を行おうとしたとき(そこまでして民間人を殺したいのか?)、雲の切れ目を見つけた。眼下には街がある。“ボックスカー”の乗組員たちは、上空約九〇〇〇メートルから急いで“ファットマン”を手動投下する。その時刻、午前十時五十八分。そのまま四分間、放物線を描きながら、浦上の松山町へ向け落ちていった。
長崎には浦上天主堂の旧鐘楼をはじめ、多くの原爆遺構や慰霊碑、モニュメントが残っている。平和公園には長崎県南島原市出身の北村西望さんによる平和祈念像。右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る(水に囲まれた台座の裏の文字板に書かれている)そのポーズは、長崎原爆の象徴的存在であることを教えてくれる(長崎原爆だけではないと思う)。平和の泉も平和公園内にある。平和の泉の噴水は鳩、あるいは折り鶴(いづれも平和のシンボル)が羽ばたいているように吹き上がり、その翼と翼の間には荘厳な面持ちで犠牲者を慰霊する平和祈念像が見られるように設計されている。泉の「のどが乾いてたまりませんでした……」の黒い碑文の前から、その光景を望める。そのときに抱く感情というのは、決して忘れてはならないものだと思う。また、平和公園には各国から届いたモニュメントが多くある。是非、訪れて見ていただきたい。
平和公園のエスカレーター横にある防空壕も忘れてはいけない。爆心地直下で唯一の生存者がいた壕だからだ。なぜ一人なのか?長崎原爆は敵機来襲の空襲警報が鳴り、一時はみんなちゃんと避難したのだが、投下前に警報が止み、多くの人々が出てきてしまった。壕の中に一人がいた状態で、午前十一時二分を迎えた。
平和公園からすぐ、爆心地公園には黒い石柱がある。この石柱の上空約五百メートルで炸裂したのは原子爆弾。つまり、爆心地碑。その近く、公園の脇には赤レンガの柱のようなものが建っている。これは前述の浦上天主堂の倒壊を免れた一部だ。その奥には千羽鶴が掛けられる場所がある。
爆心地の石柱を背に歩いていくと、公園脇を流れる川に降りられる場所がある。そこでは被爆当時の地層が見られる。川を渡ると、正面に二つの分かれ道がある。右に行けば公衆便所、左に行けば原爆資料館。もしこの分岐に差し掛かったとき、ほとんどの人が左に向かうだろうが、わたしは一度右に行って行ってほしいと思う。皆さんの便意を心配しているわけではなく、そこにも慰霊碑が二つあるからだ。一つは電気関係に従事した人たちへの慰霊碑。もう一つは朝鮮人への慰霊碑。特に朝鮮人への慰霊碑は私の盲点であった(今は盲点ではない。さらに、広い視野を手に入れられた)。日本人だけではないのだ。このショックは違う意味での浦上の惨劇である。
最後に今年の平和祈念式典で歌われるであろう『あの子』について紹介したい。
あの子
作詞 永井隆 作曲 木野普見雄
一
壁に残った 落書きの
おさない文字の あの子の名
よんでひそかに 耳すます
あぁ あの子が生きていたならば
二
運動会の スピーカー
聞こえる部屋に 出してみる
テープ切ったる ユニフォーム
あぁ あの子が生きていたならば
三
ついに帰らぬ 面影と
知ってはいても 夕焼けの
門に出てみる 葉鶏頭
あぁ あの子が生きていたならば
歌詞を打ち込みながら、涙ぐんでしまった。
この曲の作詞は永井隆という医者だ。長崎医大の助教授で原爆によって自信も怪我を負いながら、人々への救護を行った人物である。敬虔なカトリック教徒でもあった。
原爆投下前には、レントゲンを使いすぎ放射線障害を負っていた。原爆投下によってさらに骨髄障害を受けた。その闘病しながら、怪我を負いながらの救護は壮絶な苦痛を共にしていただろう。その苦痛へさらに、妻が原爆によって死亡。ロザリオだけが形見として残っていた。サトウハチロー作詞、古関裕而作曲の『長崎の鐘』は博士の同名自伝小説から。一節の ~形見に残る ロザリオの 鎖に白き 我が涙~ はこの場面を歌ったものである。被爆から約三年後、博士は浦上天主堂近くの上野町に『如己(如己愛人──己の如く人を愛せよ)堂』という二畳一間の小さな家屋で療養、原爆症の研究、執筆作業を開始する。その近くにある、これもまた赤レンガが特徴的な山里小学校は原爆投下前には一三〇〇人いた児童が、十数名になるなど大きな被害を受けた。
『あの子』はこの小学校の第二の校歌であり、平和祈念式典では二年に一度、六年生によって歌われる(間の一年は爆心地に近いもう一つの城山小学校による『子らのみ魂よ』)。
博士は一九五一年に、四十三歳の若さで亡くなった。葬儀は廃墟の浦上天主堂で……。
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