天壌霊柩 ~超高層のマヨヒガ~ 第16回

 ――幻覚? それとも夢?

 一瞬とまどった拓也の隙を突くように、ずん、と手先の加重が増えた。

 真弓の顔が、また床の陰に沈む。

 これまでの倍近い重量に、二人の両手が離れかける。

 真弓の甲高い悲鳴を聞きながら、拓也はぎりぎりと歯を食いしばった。

 かろうじて、まだ手は離れていない。しかし、何者かが穴の下から真弓を引いている。このままでは拓也の踵が溝から外れ、二人とも滑り落ちる。

 拓也は思考から雑念を遮断した。

 これが幻覚や夢なら、主導権は自分自身の深層意識にある。この理不尽な穴に真弓を引きずりこもうとしているのが何者であろうと、心を折らなければ勝てる――。

 真弓を見捨てるという選択肢は、もとよりなかった。今、彼が手段を尽くして排除するべきは、この不合理な状況そのもの――正体不明のマイナス要因そのものだった。今握っている手が、真弓ではなく誰の手であっても同じ事だ。赤の他人はもとより、佐伯沙耶、あるいはあの犬木茉莉でさえ、この状況で放棄したら自分は敗者になる。

 拓也は獣のように咆えながら、全身の筋力を振り絞った。

 真弓の顔が、再び、じりじりと上がってくる。

 恐怖に歪んでいても、やはり可憐である。

 その可憐な顔の陰から、強烈な異臭が拓也の鼻を突いた。

 無論、真弓の匂いではない。

 それは拓也の知る限り、動物の腐臭に似ていた。

 まだ古い町に住んでいた頃の夏休み、河原の草叢で見つけてしまった犬の死骸――おそらく何日も前に息絶えて、腹部が豚のように膨張し、毛皮と蛆の見分けもつかなくなった赤黒い死骸――その臭気をさらに煮つめたような、目にしみるほどの悪臭だった。

 真弓の両肩に、ぬめり、と黒ずんだ指が現れた。

 汚物にまみれたグローブのような掌が、背後から真弓の肩を鷲掴んでいる。

 そして真弓の顔の右横から、ぬい、と別の顔が覗いた。

 赤黒く膨張し、表皮はなかば溶けてしまっているが、崩れた瞼を内側から押し開いている一対の濁った眼球から、かろうじて人の顔と判別できる。

 拓也は真弓に絶叫した。

「見るな!」

 しかし真弓は、自分の背中に這い上がってきた何者かを、反射的に見返ってしまった。

 声も上げずに、真弓は失神した。

 かくり、と真弓の頭がうなだれ、その両手から力が抜ける。

 拓也は、自分一人の握力と筋力を頼りに、かろうじて耐えた。

 直後、さらに重みが激増した。

 肩から腕が抜けそうな加重だった。

 真弓の両肩の腐乱した掌に重なって、もう一対の爛れた掌が、ずるりとにじり上がってきた。

 右から覗いている死骸の顔よりもさらに膨れあがった、腐った類人猿のような双眸が、左からも拓也を見上げる。

 それでも拓也は持ちこたえた。

 いくら増えても幻は幻だ。幻に物理的な重量はない――。

 拓也は、自分が握りしめている真弓の手首だけを見つめ、意志の全てを集中した。

 その時、狭めた視界の上から、すっ、と別の両手が現れた。

「――!?」

 薄暗い中で判然としないが、やけに細い手首である。薄い干し肉を骨にまとっただけの手首に見える。しかし掌自体は拓也より大きい。

 そんな掌が、骨張った指先をかぎのように折り曲げ、拓也の手先に取りついた。

 その主を見上げても、朧気な黒い影しか見えない。餓死者さながらに痩せこけた人影――骨格標本に干し肉を貼りつけただけの影が、頭上の闇から逆さづりになっている。

 干からびた十本のかぎが、それぞれ拓也の指の間に食いこんだ。

 それから拓也の指と真弓の手首の間を一斉にえぐる。

 外見そとみだけなら、バターナイフがバターをすくうような、軽い指先の動きでしかなかった。

 しかし拓也は、一瞬に消失した加重の反動で、目を見張ったまま背後に吹っ飛んだ。

 リノリウムの床で、激しくバウンドする。

 激痛を感じる間もなく、拓也の意識は途絶えた。

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