灯りを待つ
虹のゆきに咲く
第1話 桜の木の下の君と僕
空を見上げると、桜の花びらがあたかも白き雪のように幻想的に舞い降りて来る。大作は毎日のように木の下で大の字になったまま、小説の構想を練っていた。しかし、全くイメージがわかない大作をあざ笑うように花びらは大作の顔に降り積もっていく。閉じた目を開くと、淡い薄紅色の桜の花びらではなくて白い紙が僕の大作を覆いかぶさっていった。すると、同時に優しくて柔らかい女性の声が少しずつ足音をたてながら聞こえてきた。
「すみません、私の書類がそちらに飛んでいったのですが見当たりませんか。」
大作はとっさに紙を取るとそれは書類であった。
「君の書類はいたずらなのかな、僕の顔を覆っていたみたいだよ。」
大作は立ち上がり、書類に目を通した。どうやら書類には数字が羅列してあり、その下に署名がしてあった。山下すみれと書いてある。
「この書類かな。」
「はい、申し訳ありません。」
「山下すみれと署名してあるけど君がすみれさんかな。」
「はい、そうです、ごめんなさい急いでいますので返してください。」
大作は書類を返すとすみれは北の方向へ急いで走っていった。大作の目には薄紅色の桜の花びらと異なり白く透き通る肌のすみれの恥ずかしそうな表情が残像となって、大作の脳裏から離れなかった。恥ずかしかったが、大作はこっそり彼女の後を小走りで気づかれないように走って追いかけた。すみれのことが気になって仕方がなかったからだ。しばらくすると二階建ての古い木造の大きな建物が見えてきた。すみれが建物の玄関ドアを開けると一人の男性が現れた。
「申し訳ありません、書類の完成が遅くなりまして。」
「構わないよ、君はきれいだから許してあげるよ。」
一見強面の男性の表情が優しくなった急に優しくなった、どうやらここは銀行のようだった。男性は書類の細かい確認作業を行い確認が終えると、古い木造の建物の中へ帰っていった。そして、すみれは振り返り大作に気づき声をかけた。
「先ほどの方ではありませんか。」
「ごめんね、こっそり君の後をつけてしまって。」
「僕は北村大作と言います、今から職場へ帰るところですか。」
大作はとても恥ずかしい想いで話しかけた。本当はこっそり彼女の姿をみたかったのだけだったのだが、このような展開になるとは思ってもいなかったのだ。
「すみません、急いで銀行に帰らないと班長から叱られてしまいますのでここで失礼します。」
すみれは申し訳なさそうに足早に帰って行った。それからだった。大作はすみれのことで恥ずかしながら頭がいっぱいになったのだった。時は大正という時代が終わりを告げ昭和の時代に入ったばかりだった。大作はすみれの姿を見たい気持ちでいっぱいだった。翌日も相変わらず桜の木の下で横になっていた。でも小説の構想どころではなく、すみれの走る後姿ばかりが思い浮かんでしまう。桜は相変わらず、大作の顔に積もっていくばかりであった。それは、翌日のことである。大作は小説のイメージがわかず、イライラしていると背後から女性の声が聞こえたのだ。それは聞き覚えのある間違いなくすみれの声だった。彼女の声が僕を優しくしてくれたのだ。
「昨日は申し訳ありません、今日も木の下にいらっしゃるのですね。」
「確かすみれさんだったね、今日はどうしたの。」
「昨日はろくにお礼も言わず銀行に行って慌てて帰って来たものですから、もしかしてここにいらっしゃらないかと思いまして来たところです。」
「大作さんはここでいつも何をされていらっしゃるのですか。」
「僕は将来、小説家になりたくてここで小説の構想を練っていました。」
「ところで、構想はできたのでしょうか。」
「いえ、昨日は途中までできていたのですが、突然思い浮かばなくなったのですよ。」
「どうしてでしょうか。」
すみれ、大作にそう聞いてきたので、恥ずかしさのあまり会話を彼女の話に切り替えたのだ。
「えっと、すみれさんはどこかの銀行で働いているのですか。」
「沢村銀行です。今、ちょうどお昼時間だったものですからここに寄ることができました。」
「銀行の仕事は忙しいのですか。」
「僕は毎朝、新聞配達をしているだけで、配達が終わると何もすることがないのです。」
それに対してすみれは少し早口でまくし立てるように大作に話したのだった。
「はい、とても忙しいです。」
「でも、小説を書くということは国語力があるということですね。」
「羨ましいです。」
「私は仕事での文章を書くのが苦手で良く班長から叱られています。」
「大作さんをとても尊敬できます。」
「そんなことはないですよ。」
「僕の家は母と二人きりで、生活が苦しくて大学に進学もできないのです。」
「私も実は母と二人での生活なのです。」
「母は体が弱くて私の仕事の収入だけで生活しています。」
大作は幼少の頃から人見知りで友達も少なかった。二十歳になるまでろくに女性とも話をしたこともなかったので、これ以上に彼女に話しかけることは困難であった。彼女もそうなのだろうか、急に黙り込み銀行へ帰っていった。桜の花が散るのと同じように、僕の心も社交性という言葉があるならばそれが散っていくように思えた。大作には上手く話せない自分に腹立たしさを感じたのだ。自己嫌悪とはこのように思いながら、このような自分の性格を変えたいという想いにかられた。恋愛もしたこともないのに、恋愛小説を書こうとしている自分が嫌になったのだったからだ。しかし、それも春になって野原の花達が咲き始めるのと同様なことが訪れようとしているとは、この時は思わなかったのだ。翌日も相変わらず木の下で構想を練っていた。やはり、イメージがわかない。それよりも、すみれがまた訪れるのを期待していたからかもしれなかった。しかし、それは僕にとって杞憂であった。優しい春の風が訪れたのだった。
「大作さん、今日も小説ですか。」
すみれの優しい笑顔が僕を包んでくれた。
「そうだよ。」
大作はそう答えるのが精一杯だった。
「大作さんはどのような小説を書こうとされているのですか。」
恋愛小説を書いていると答えるはずだったけれども、自信も経験すらない僕は推理小説を書いていると答えてしまったのだ。しかし、彼女は僕の消極的な心を見透かしたように積極的に話しかけてきた。困ったことに小説の内容まで聞いてきたので、僕はしどろもどろに答えるのが精一杯だった。動揺する僕に対して彼女は優しく微笑んでくれた。大作は恥ずかしい気持ちでいっぱいだったが、彼女のそばにいるとまるで子供の頃に帰れたような気がした。春の音は静かに訪れたのだった。
カタカタカタ・・・・室内に冷たい電子音が沢村WBG銀行に響き渡った。室内から男性の声が冷たく届いた。
「清美さん、例の書類はできたかね。」
「支店長、申し訳ありません、もうしばらくかかりそうです。」
「早く処理してもらわないと融資先の企業から苦情があるじゃないか。」
「申し訳ありません。」
清美は懸命にキーボードを打つも気持ちは焦るばかりだった。しかし、想う心は清美を待つ子供達の笑顔だった。清美は障がい児施設のボランティア活動を行っていた。清美は子供が好きだった。子供とふれあうと、まるで本当の自分が見えてくるように思えたからだ。銀行から電車で一駅通り越すと清美が活動している障がい児施設があった。そこには咲き始めの美しい蕾達が清美を待っていた。
「清美お姉ちゃんは今日は遅いね。」
小学生の低学年と思われる少年がぽつりと呟いた。
「きっと仕事で忙しいから、今日のボランティアはお休みだと思うよ。」
そのように園長が答えると、少年は園長に元気な声で話しかけた。
「園長先生、僕のね薬指が今日は少し動いたような気がするんだ。」
「そう、雄太君、それはきっと清美さんも喜んでくれますよ。」
「うん。」
少年の目は輝きに満ちていた。園長は白髪交じりの髪に白いあごひげをたくわており、優しい表情で雄太に話しかけた。銀行の窓からは町のネオンが静かに輝き始めていた。清美の前の机の先の男性の瞳も優しく輝き始めながら話しかけた。清美には直哉という恋人がいたのだ。
「清美さん、支店長も帰社したし、後の書類は僕に任せてよ。」
「それは申し訳ないです、直哉さんも仕事で疲れているでしょ。」
「いや、僕はまだまだ頑張れる。」
「清美さんには清美さんを待っている子供達がいるじゃないか。」
「いいのですか。」
「ああ、早く行ってあげて。」
辺りには優しさの風がゆらいでいた。
「ありがとうございます。」
障がい児施設には温かい灯りの灯が光を少しずつ放ちつつあった。清美が施設に到着すると、一人の少年が清美に声をかけた。
「わあ、清美お姉ちゃん、おかえり。」
「僕ね、今日は右手の薬指が少し動いたような気がするんだ」
「本当、すごわね、良かったね、雄太君。」
「うん、お姉ちゃんは仕事で疲れているから、もうアパートでゆっくりして。」
「いいのよ、雄太君、もう少しお話しようか。」
「うん。」
小さな幸せの中にも実は不安があったのだった。
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