魚の心

あべせい

魚の心



「おい、オイ、おまえだ。そんなデッカイ、汚い口で、おれさまをいただくつもりか。止せッ、クサイーッ!」

「夢津男さん、このお刺身、いただいていい?」

「勿論。あなたのために調理させたンです。新鮮なうちにどうぞ」

 料理旅館の一室。

 中年男の夢津男(むつお)が若い女の梨花(りか)と差し向かいで食事をしている。座卓の上には、魚の舟盛りを真ん中にして、魚介を使った揚げ物、煮物、焼き物、さらには牛肉のステーキまで載っている。

 舟盛りの中心は、伊豆の名物、キンメダイだが、その周りにクロダイ、太刀魚、イサキ、極上の黒アワビもある。キンメは、身を削がれているが、まだ息がある。その証拠に、口をパクパクさせている。ほかのイサキ、太刀魚、アワビも、動きはないが、まだまだ生きている。

「どうです。おいしいでしょう」

 夢津男は、壷焼きになっているサザエの身を取り出すのに懸命で、梨花のほうを見ていない。

「夢津男さん、このお刺身、食べたくない……」

「どうかしましたか?」

 言いながらも、夢津男は梨花を見ていない。サザエの蓋が固く、てこずっているのだ。

「このお魚、生きているみたい。口が動いていて……」

「生きているから、新鮮なンです。それを食べないと、ここまで来た意味がない」

 夢津男は、ようやくサザエの蓋を取り外した。

「この野郎ッ。おれさまを食おうというのかッ。チクショー!」

 夢津男は、「もう、あきらめるンだな」とつぶやきながら、外したサザエの蓋を何気なく、キンメダイの口のそばに置いた。

 と、その蓋が、口をパクパクさせているキンメの口に一瞬吸い込まれそうになり、その直後、キンメの口バクに吹き飛ばされて弧を描き、サザエの口に元通り、すっぽり収まった。

「アッ!」

 夢津男は口をあんぐりと開け、閉じるのを忘れている。

「夢津男さん、どうしたの?」

 梨花が夢津男の異様な反応に気付いた。

「このサザエ、往生際の悪いヤツだ……」

「そんなことないでしょ。サザエはこの小さなコンロで自分で焼いたンでしょ。『よしッ、焼き上がったゾ』って、言ったじゃない」

「それはそうなンですが、このサザエには、まだ思考能力が残っています」

「思考能力、って。なにバカなこと言っているの。サザエが考えるわけないでしょ」

「梨花さん、そうじゃなくて。このサザエは焼き足りなかったようです。サザエだって生き物なンだから、人間の脳ほどではなくても、ああしろこうしろと指令するところがあるでしょう。その部分がおれに向かって、訴えている……」

「夢津男さん、あなた、最近おかしいわ」

「なにが、ですか?」

「先週の土曜だって、そう。部屋の外の廊下にまで、『ウー、ウーッ』って、うなり声が聞こえていた、ってスタッフが。悪い夢でも見ておられたのか、って言っていたわ」

「そうですか、やっばり。ぼくはうなされていたンですか。朝、目が覚めたとき、頭がぼんやりして、すっきりしなかったのはそのせいですか……待ってください、思い出してきた……」

 夢津男、その六畳和室の天井を見て、考える。

 昨夜の夢は、こんなだった。

 いつもの通り磯釣りをしていたら、いきなり強いヒキが来て、竿をもって行かれそうになった。夢津男は懸命にこらえたが、ドンとさらに強いヒキがきて、いきなり竿ごと海に引き込まれてしまった。

 深くて、暗い海のなかだ。夢津男はしばらく意識を失っていたのだろう。気がつくと、見かけない家の中。新築らしく、どこもかしこも真新しい。不思議なことに、水中にいるかのように、周囲は水、水、水だ。空気の代わりに、水があるのだ。

 しかし、呼吸は出来る。玄関をあがり、廊下を進むと、左手にドアがあり、それを押し開けるとリビングが広がる。夢津男はリビングに入り、中央に置かれているアームチェアに腰を降ろした。

 目の前に大型テレビがある。リモコンが椅子の肘掛けにあり、テレビをつけようとすると、突然、背後から、

「やめてください!」

 振り返ると、桜鯛のような顔をした若い女性が立っている。

 夢津男がどこかで見た顔だと思っていると、

「もう2度とここには来ないでください。お父さん」

 夢津男は父親と呼びかけられて、改めて女性の顔を見た。

 そういえば、別れた妻に似ている。妻は2人の娘を連れて出て行った。3年前のことだ。しかし、そのとき2人の娘は、まだ9才と7才だった。

 3年たったとは言え、成人しているこの女性が、その1人だということはありえない。

「あなたは、だれですか?」

 夢津男が尋ねた途端、女性の目は吊り上がり、口は大きく裂け、般若の形相に。

「あんたが捨てた女に決まっているでしょッ!」

 と言い、宙を飛ぶように夢津男に接近するや、夢津男の首筋に噛みついた。

 夢津男は絶叫するとともに、首筋から生温かい血が流れ出る感触を味わった。うなされたのは、このときだろう。

 女房と別れてから、先々月までつきあっていた女がいる。梓(あずさ)だ。休日のたびに出かける釣り宿で知り合った。

 梓は、釣りはしない。彼女は釣り宿の女将の姪で、そのときはたまたま遊びに来ていた。年は36。結婚する気はないと言っていた。

 翌週行くと、彼女も来ていて、一緒に釣り舟に乗った。しかし、それがいけなかった。彼女は舟に弱く、酔ってしまった。

 釣り舟は釣り宿のものだったので、すぐに引き返してもらい、夢津男も釣り宿に戻った。それがきっかけで関係が出来てしまった。

 夢津男はすでに離婚していたので、一緒に暮らすことも出来たが、そうはしなかった。離婚の経験から、女性との同居は不向きと思ったからだ。

 彼は梓に会いたくなると、彼女のマンションに出かけた。彼女は、シティホテルMに勤務していた。

 やがて、夢津男は週末になると彼女の勤務先のホテルMに、用もないのに泊まり、彼女と過ごした。

 しかし、都合のいいことは長くは続かない。彼女が勤務後も客室に出入りしているところを同僚に見られ、問題になった。

 夢津男が借りていた部屋はツインだったが、シングル使用だったため、規定違反というわけだ。

 梓はホテルMをやめた。

 夢津男は梓のいたホテルMを不正使用していた問題が後を引き、数日後呼び出された。

 ホテルMのフロント主任をしていたのが梨花だった。

 梨花はホテルオーナーの娘でもあり、夢津男の処分を任されていた。夢津男は「支配人室」と表示されたホテルMの四畳半ほどの小部屋で梨花と会った。

 梨花は、規定違反による反則金は求めなかった。シングルとツインの差額を追加料金として請求しただけだった。そのとき夢津男は梨花に魂を吸い寄せられた。

 それまでにもフロントで彼女の顔は見ていたが、魅力のある女性だと思っていた程度で、恋愛の対象にはならなかった。すでに梓がいたせいだろうか。理由は夢津男にもわからない。

 ホテルMは、東京から特急で約1時間、海に近い駅のそばにあった。夢津男は、ホテルMを釣り宿代わりに使うことにした。梓と出会った釣り宿からは、特急の停車駅としては一駅離れている。

 幸い、いつも釣っている磯には、地理上、鉄道の駅から路線バスで10数分で行ける。釣り宿として問題はなかった。

 梓のマンションに行かなくなって1ヵ月が過ぎた頃、釣り宿の女将から電話があった。

「梓が海で亡くなった」

 と。

 事故か自殺かはわからない。しかし、一週間後、刑事が夢津男を訪ねて来た。

 梓のマンションから、夢津男に宛てた葉書が見つかったと言った。投函するのを忘れたのか。それとも投函するのを途中で止めたのか。それはわからない。

 葉書には、

「どうして、こんな気持ちになったのか。あなたがR女史と会っていることは知っています。わたしもいい人を探せばいい。あなたは、そう思っているのでしょう。ですから、そうします。でも、その前に。しなければならない大切なことがあります。それは……」

 それで全てなのか、それとも書いている途中だったのか、そこで終わっている。しかし、表の宛名には、正しい夢津男の住所と名前を記している。

 刑事は、夢津男と梓の関係をしつこく尋ねた。

 出会いから、最後に会った日のことまで。この1ヵ月会っていないと告げると、刑事は「それはおかしい」と探るように言った。

 夢津男は、梨花に心移りしたことを話した。刑事は納得したのか、どうかわからないが、梨花の連絡先を聞いて帰って行った。

 それからだ。夢津男の体に変調が起きたのは。

 釣り上げた魚の話し声が聞こえるようになったのだ。

「痛いッ。気をつけろ!」とか、「釣り針はもっと丁寧に抜き取るもンだ」とか、「ひとりにしないでくれ。さびしいンだから」など、耳を疑う言葉ばかり。

 夢津男は当初、夢だと思った。しかし、四六時中、夢を見ていることはない。

 釣った魚を知り合いのすし屋などに持ち込み、調理してもらうときに聞こえる。聞こえるというより、頭のなかに直接、響いてくるのだ。

 調理している板前は何も感じないのか、ほかの魚と同じように捌いている。

 夢津男は考えた。これは、自分自身で魚の気持ちを言葉にしているだけなのだ。長年、殺生をしてきた代償なのだ、と。


 この日、夢津男がこの料理旅館に来たのは、梨花が夢津男の誘いに応じて、夢津男が釣った魚を一度食べてみたいと言ったためだった。

 だったら、いつも魚を調理してもらう料理旅館があるから、と夢津男は言い、あらかじめ朝から釣り舟を出して、キンメやクロダイを釣りあげた。

 旅館の女将には、釣った魚以外にも、アワビやサザエも付けて出して欲しいと言ってあった。

 梨花とは午後8時過ぎに、この旅館で待ち合わせた。

 夢津男が梨花と2人きりで会うのは、支配人室以来になる。しかし。それまでも、夢津男は梓の件を処理してもらった後、毎週末ホテルにチェックインした際、フロントに梨花がいなければ、その所在を尋ねた。

 先々週、梨花が直接夢津男の部屋に来たことがあった。

「これは当ホテルからの、ご常連のみなさまへの日頃の感謝の気持ちです」

 と言って、しゃれた小箱に入ったクッキーを差し出した。

 梨花が立ち去ったあと、夢津男はこの機会を逃す手はないと考え、駅ビルの中にある老舗洋菓子店に走った。

 最高級チョコレートの詰め合わせを購入すると、フロントに立ち寄り、

「ささやかなお返しです。梨花さんに、お渡しください」

 と言って差し出した。

 幸い、梨花が奥の事務所にいて、すぐに現れた。

「梨花さん。とてもおいしかったです。こんなことは失礼かもしれませんが、せずにいられなかったので、受け取ってください」

 梨花が大のチョコ好きであることは、前回支配人室で聞いていた。

 彼女は大好きなチョコと知ると、ニッコリして「ありがとう」と言って、受け取った。

 チョコの包装紙を開けると、中に、夢津男の携帯番号に添えて、

「一度、ぼくの釣った魚を召し上がっていただけませんか」

 と書いたカードが忍ばせてあった。

 返事が来たのは、10日もたった4日前、夢津男が勤務先の役所で昼休憩をとっているときだった。

「夢津男さん。一度、あなたのお魚をいただきたいわ。次の土曜日なら、空けておきます」

「ありがとう。段取りをつけて、こちらからもう一度、連絡します」

 それだけの電話で、2人がこの料理旅館に落ち合うことになった。

 ところが、2人がこの部屋に入って、30分もしないのに、夢津男は魚のおしゃべりというか、魚のことばに辟易する事態になった。

 キンメに続いて、サザエもしゃべりだした。しかし、夢津男には聞こえるが、目の前の梨花には聞こえないらしい。

「こいつら、大きな顔をして、よくおれたちが食えるものだ」

「そうだ。特にこの女は、こいつの恋人を殺(や)ったやつだ」

「おまえ、何を言い出すンだ」

「おれは見たンだ。ひとりの女がいつもの磯に来て、ヒールを脱いだンだ……」

「磯に来て靴を脱ぐのは珍しくない。靴や靴下が濡れるのを嫌って脱ぐやつはいくらもいる。まして、ゴツゴツした岩に引っかかるヒールじゃ当たり前だ」

「その女、いい女だったが、靴を脱いで磯の岩に腰をおろした。何か悩み事でもあるのか、沖を見ていた」

「それで……」

「そこに、もうひとりの女が来た。そいつは用意周到なのか、スニーカーを履いている」

「2人はどうしたンだ?」

「先にいたヒールの女が言った。『主任、カレから手を引いてください』そうしたら、後から来たスニーカーの女は、『あなたは何か勘違いしている。わたしはカレとはなんでもない。わたしがここに来たのは、あなたが『うちのオーナーが脱税している。その秘密をカレに漏らす』と言ったから……』と告げた。すると、ヒールの女が、『それは事実。ベッドでオーナーが口を滑らせたもの。わたしは10万円の手切れ金でオーナーに捨てられたことが悔しくて、カレとあんなバカをしたけれど、つきあっているうちにカレのことが本当に大切になった。だから、あなたに警告するの』。すると、スニーカーの女は、『カレにすべて話したの?』って」

「そこから先はおれにも聞こえた。声がバカ高くなったからな。ヒールの女はこう言ったンだろう。『言ったわよ。カレは税務署員よ。いくら管轄が違うといっても、黙っていないと思うわ』。すると、スニーカーの女は、突然怒り、ヒールの女に掴みかかった。2人は磯の上で大立ち回りだ。で、ひとりが海に落ちた。

 もうひとりは、びっくりしたが、磯から海へは急に深くなっているから、どうしようもない。しかし、助けは呼べる。スニーカーの女は、慌てて周りに落し物をしていないか見たあと、そこにあったヒールをきちんと揃えてから、いなくなった。そのあと、3時間もたってから、警察と消防が来た」

 夢津男の顔は、徐々に青くなって来た。梓が彼の誘いに応えたのは、オーナーに捨てられた自暴自棄から。目の前にいる梨花が、ここに来たのは、脱税を管轄署に知らせたのかを確かめるためなのだ。夢津男は、魚のことばがホンモノなのか、それともすべて自分の妄想の産物なのか、わからなくなった。

 しかし、辻褄は合っている。梨花は36.梓は26。どちらも、夢津男に比べれば、梨花は7つ下、梓にいたっては17も年下だ。

 2人とも、通りすがりの男が振り返るような美形だ。そんな女が、くたびれたバツイツの税務署員を相手にすると考えるほうがどうかしている。

「夢津男さん。どうしたの。さっきから、全然お箸が進んでいないじゃないの?」

 梨花が、ふと箸を休めて、夢津男を見た。その目は、深く、猜疑心に満ちている。

「実は考えていたンです。ぼくのような仕事をしていると、いろいろ垂れ込みがあるンです。それをどう処理したものやら。管轄外のものもあるし、ガセもあるだろうし……」

「夢津男さんは、どういう部署なンですか? よく言われるマルサなの?」

「査察課は優秀なひとです。ぼくは凡人ですから」

「マルサじゃないの……」

 下を向いた梨花の顔が微笑んだように見えた。

「でも、マルサには親しい友人がいますよ。そいつとは、よく酒を飲みます」

「夢津男さん。梓さんは気の毒なことになったけれど、その埋め合わせはできると思うわ」

「埋め合わせ?」

 殺しておいて、埋め合わせとはどういうことだ。夢津男に初めて怒りが湧いた。

「そう、埋め合わせ。わたし、今夜は、ここに泊まるつもりで来たの」

「梨花さん、梓が亡くなった日、彼女に会っておられたでしょう?」

「エッ!」

 梨花の顔がみるみる青ざめる。

「ぼく、見たンです。あのとき、あなたは、ぼくがいつも釣る磯で梓と会っておられた。ぼくは、あの日、急に釣りがしたくなって、あなたのホテルを予約しないで海に行った。そうしたら……」

 午後、3時を過ぎた頃だった。

 夢津男は、思い出した。あれは魚のことばなンかじゃない。おれの記憶、いや余りの恐ろしさに、知らず知らずのうちに、潜在意識下に隠してしまったことばなのだ、と。

「あなた、それを知っていて、きょうまで黙っていたの!」

 夢津男は口を閉じた。おれは梓を助けることができた。磯で争っている2人を見ていたのだから。助けを呼ばなかったおれにも罪がある。

「だったら、あなたも……」

「ぼくは、税務署員です。税の不正を知ったら、それを正す義務があります」

「それは建て前でしょう。これからは、建て前抜きで話しましょうよ」

 梨花は、食べるのをやめて、夢津男の体に手を伸ばす。おれは、梓に飽きて、この女に乗り換えようとしている。

 そのとき、イサキが口を開いた。

「この女はもうすぐ逮捕される。するとおまえも同罪だ。見ていたなンて言わなければよかったのに。バカな男だ」

 夢津男は考える。役人として、これまでおもしろいことは何ひとつなかった。目撃者のおれが、証言に手心を加えれば、この先、梨花はどうにでもなる。

「そうだな。梨花は元々磯には行かなかった。おまえが行ったンだ。そして、梓といさかいになった。そうしろ。梓の転落は事故だ。刑期はたかが知れている。刑務所を出れば、梨花も金もついてくるゾ」

 夢津男はそのささやきを、魚が言ったことにして、心の奥底深くしまった。

                 (了)

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魚の心 あべせい @abesei

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