第17話 彼女の秘密 その2

 その日、まだ日も明けぬ時刻に、イジュ邸に早馬が駆けつけた。執事は急いでまだ寝ていた屋敷の主人ーーイジュ伯爵を起こし、伯爵は早馬の伝令による知らせを聞き、廊下を走ると息子を叩き起こした。

 こうしてイジュ家は、早朝から大騒ぎとなった。

 まだ薄暗い屋敷で伝えられたのは、ショッキングなニュースだった。

 南の島からカメオの材料である貝を運ぶイジュ家の貿易船が、座礁したのだ。

 この貿易船は海運業に乗り出そうと、イジュ家が新たに購入した船だった。

 運んでいたのは貝だけではない。

 新事業として、海運事業に乗り出すため、他社から預かった荷物を試験的に破格の運送費で載せていたのだ。

 船員達の被害は数人の軽症で済んだものの、貨物の大半は商品価値がなくなってしまった。

 イジュ家は自分の会社の資産だけでなく、預かった商品の価値も台無しにしたのだ。


 昼になると、荷主たちは屋敷にまで駆けつけた。

 説明を求める彼らが大挙して詰めかけ、応接間で父に詰め寄る光景に、シエーナは震え上がった。

 妊娠中のメアリーを動揺させまいと、屋敷の奥に連れて行き、来客の対応に忙しい侍女達に代わって紅茶を淹れて、義妹になんとかいつも通りに過ごしてもらえるよう務めた。

 なるべく普段通りに過ごしてもらうために、シエーナもメアリーの前では暗い顔をしないように気をつける。

 だが一人きりになると、恐怖が全身を這い上がってきた。


(何かが、崩れようとしているんだわ)


 そう、イジュ家の繁栄が。

 ル=ロイドとの約束を忘れたことは、一日もない。支払いを忘れるか、もしくは契約を誰かに話した時。魔法は夢のように消えてしまう。

 対価をシエーナが払っていないために、魔法によって築かれた楼閣の土台に、ヒビが入り始めたのかもしれない。

 これ以上、待てない。

 魔術師の助手になり、魔術について勉強してきたのは、イジュ家にかけられた魔術を調べるためだ。

 ずっとル=ロイドの施した魔術の術式を、この館の書物をあたって探そうとしてきた。だが、術式は分からずじまいで、魔術の進行を止めることができない。

 契約の最後の発動――後払いがない場合の家の破滅だけは、防がなければ。

 けれど、ル=ロイドがどうやってイジュ家の未来を変えたのかが、どうしても分からない。デ=レイもその場にいない者の未来を変えることはできない、と言っていた。

 本来なら、自分の聖玉を今すぐ差し出したっていい。でも、差し出すことになっていたル=ロイドがもう、この世にいない。

 となれば、残された手段は一つだ。


(この方法だけは取りたくなかった。でも、もうこれしかない)


 正攻法で魔術が中断できないのなら、物理的かつ強制的に止めるしかない。

 すなわち、「契約書を破棄」するのだ。


 最も簡単かつ単純な方法だが、通常は術者に残りの魔術が跳ね返り、打撃を与えるためにこの乱暴過ぎる手段は行われない。

 だが、ル=ロイドは既に他界している。となれば、問題はないはずだ。

 むしろ問題は、契約書を探し出さなければならないことだ。


(悠長にル=ロイドの魔法を探る時間はないわ。もう、今すぐにでも契約書を見つけて、破るしかない!)


 それはシエーナが思いつく最終手段で、なるべくなら取りたくなかったが、幼い頃の過ちは大きすぎて、誰にも迷惑をかけずに自力で解決するには、この方法しか思いつかなかった。




 イジュ家の貿易船が沈没してから、一週間後。

 箒を片手に魔術館の玄関を掃除していたシエーナは、空から舞い降りる白い雪片に手を伸ばした。

 雪は手のひらに乗っても、なかなか溶けずにその形を保っている。

 どんどん激しくなっていく雪の降り方に、シエーナは密かに安堵した。


(今日はきっと、積もってしまって歩いては帰れなくなるわ。もっと降ってくれれば、馬車の運転も危ないかもしれない)


 本来なら悲観するところだが、今日は別だ。

 大雪で魔術館に缶詰状態になれるなら、ル=ロイドの契約書を求めて、夜通し館の中を探しまわれる。


 夕方になるとシエーナの切なる願いが天に通じたのか、天候は一層悪くなった。

「今日は早退しなさい」とのデ=レイの指示を受け流し、シエーナはいつもの就業時刻まできっちり働いた。

 外套を着込み、鞄を持って帰る支度をして、玄関の扉を開けた瞬間。

 降りしきる雪が玄関ホールに強風と共に舞い込み、息さえできない。

 バン!と扉を閉めると、デ=レイは玄関で棒立ちになるシエーナを見下ろして頭を抱えた。


「だから今日は早く帰るよう、何度も言ったのに」

「こ、こんなに激しい吹雪になるなんて、思っていなかったんです。ーーこれでは、屋敷から馬車を呼んだとしても、車輪が埋まってしまってとても進めませんーー」


 悪天候のせいで日没も早く、外は急激に暗くなっていた。吹雪のせいで館の外の全てが、灰色に濁っている。

 シエーナは勇気を総動員して、デ=レイに尋ねた。


「あの、父には帰れないと手紙を出しますわ。飛ぶ鳥になる手紙の術は、得意ですの。雪の中でもきっと家まで飛んでくれます。ーーその、それだから、あの、こ、こちらに、」

「わかった。仕方がないな。ーー今夜はここに泊まってくれ」

「よろしいんですの?」


 心から安堵して、シエーナが顔色を明るくさせる。

 デ=レイは首の後ろを掻きながら、小さくため息をついた。


「大した食べ物はないが、二階に風呂と客用の寝室はある。他にも入り用なものがあれば、言ってくれ」

「申し訳ありません。ご迷惑おかけします。明日の朝すぐにでも、雪が止んだら出て行きますから」


 ああ、作戦どおりだわ。

 心の中でそうつぶやきながら、シエーナは今晩のことを考えて気合を入れて館の中に戻っていった。


 今夜が正念場だ。

 デ=レイが寝静まったら、家宅捜索をする。





 ドルー渓谷の魔術館で、夜に調理場で誰かが料理をするのはデ=レイが魔術館を継いでから初めてのことだった。

 食糧庫にベーコンやちょっとした野菜があるのを目にしたシエーナが、夕食作りをかって出たのだ。


「お師匠様、座って待っていてください。あと少しですし、簡単なスープを作っているだけですもの」

「いや、それでは流石に申し訳ない。助手の職掌に食事作りは含まれていないぞ。そもそも、君は伯爵令嬢じゃないか」


 自分も公爵であることなど忘れて、デ=レイはシエーナが作ったスープの配膳を率先して行う。

 スープの具はベーコンとキャベツ、それに玉ねぎだけだったが、吹雪舞う窓の外を見つめながらつましい灯りの中で食卓に載せると、目にも心にもとても温かで美味しそうだ。


 二人で食卓を囲み、パンと一緒にいただく。

 パンは少し古くて硬くなっていたが、スープと食べるとちょうどいい塩梅だった。

 豪華さはまるでないが、今日来た客や常連客の四方山よもやま話をしていると、それ以上望むものなどない楽しい夕餉に思える。

 デ=レイは満ち足りた気持ちで食べ進めだが、向かいに座るシエーナの口数がいつもより少ないことが気になった。時おりシエーナは、苦しげな表情を見せた。

 いつも彼女が食べる量を考えれば、きっと足りないからかもしれない。

 そんな風に思われているとは露知らず、シエーナは葛藤していた。


「もっと食べた方がいい」


 とパンを勧めるデ=レイの優しさが、こたえた。

 これからコソ泥のようなことをしようとしている自分に、優しくされてしまうと、罪悪感に押しつぶされそうだった。

 いっそデ=レイに全て打ち明けて助けを乞いたい。けれど自分の惨めな子ども時代のことを話すのは、どうしても抵抗がある。

 それに、どこまで話せばル=ロイドの言ったように、魔術が解けてしまうのかが分からない。そんな危ない賭けには出られない。

 シエーナは緊張でうまく飲み込めない堅いパンを、紅茶でなんとか流し込みながら思った。


(いいえ。違う。一番怖いのは、義母を出ていかせたり、お金持ちになりたい、だなんて浅ましいことを私が望んだことを、お師匠様に知られることだわ……)


 そんな醜い自分を、デ=レイに知られたくない。

 呆れられてしまうし、嫌われてしまうかもしれない。

 デ=レイには相談できない。けれど、契約の最後に書かれた「対価を支払わねば魔術は消える」という条文を、発動させるわけには断じていかない。


 シエーナは食事が終わると、鞄の中から紙袋を取り出し、食卓に載せた。


「実は、仕事中に小腹が空いたら間食に食べようと、お菓子を持ってきていたんです」


 紙袋の中はクッキーだった。

 一緒に食べて、気を紛らわせたかった。


「私、食事の最後には甘い物を食べないと、終わりという感じがしないんです」


 シエーナがクッキーをつまみ上げて自分の口元に持っていく。

 サクッと小気味良い音がして、デ=レイも食欲をそそられる。


「お師匠様も、どうぞ」


 勧められるままクッキーをもらうが、それにしても随分な量だ、とデ=レイは密かに苦笑した。彼が知る貴族のやたら細い貴婦人たちが見たら、目を剥いてしまうに違いない。


(でも、こっちの方がいい。気取って上品ぶる美の追求者のような彼女たちより、この素朴な弟子の方が遥かに……)


 そこまで思考して、はたとデ=レイは首を傾げた。

 遥かに、なんだというのか。自分は何を言おうとしたのか。


「美味しいな。アーモンドがたっぷりで」


 つましい食卓で掻き乱されてしまった気持ちを隠すように、デ=レイはもう一枚に手を伸ばした。

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