令和版 魔像屋敷
久佐馬野景
上
妖怪の実在が証明されてから十年が経った。
妖怪が日本中を練り歩いたあの夜――〈大祭礼〉から十年。かといってこの国が大きく変容したかといえば、特に変わったところはない。生活は続き、妖怪は息づいている。
国中どこでも妖怪が常時湧いて出るというようなことは起こっていない。妖怪はしかるべき時と場所と場合に応じて出てくる――出てくるということがどれだけ異常なことであるか、というまともな判断能力が残っている人間は今ではもう少数派だ。妖怪はいることが当然のものとして受け入れられ、信じる信じない、いるいないの議論は無意味と化した。十年前の時点で無意味な議論であることは一部では当然のことであったが、現在では無意味の方向性が異なる。妖怪は実在することが証明されてしまったのである。
「お久しぶりです、
F県F市内の繁華街のコーヒーチェーン。その一番奥まったテーブル席に座っていた九鬼に声をかけた相手は、九鬼の反応を待たずに向かいの椅子に腰を下ろす。
「窶れましたね」
九鬼の不躾な第一声に、相手は嫌な顔ひとつしない。だが冗談として受け流すこともしない――できない。愛想笑いすら難しいほどまでに疲弊し切っている。
「宮仕えの辛いところです」
もし自分がまだ陰陽寮に残っていたら、きっとこれより酷い顔になっていた。
民間の妖怪ハンターとして事務所を開いている九鬼に面会を求めてきたのは、古巣である陰陽寮に所属する陰陽師であった。
九鬼は〈大祭礼〉から二年後に陰陽寮を辞めた。これからは妖怪への対処法を心得た人材が民間でも広く必要になることを見据えたのもあるが、一番は陰陽寮という組織への落胆であった。
平安時代から続き、明治になり表向きは廃止されたが実際は宮内庁の中に残り続けた行政機関である陰陽寮は、結局行政機関という宿痾に蝕まれていった。
ここ十数年で政府がどういう態度を取り、覚え、開き直り、のさばってきたか。その合うはずのない辻褄を合わせるために、どれだけの行政がねじ曲げられ、虚偽と改竄を重ね、人間の尊厳と命を奪ってきたか。
公的組織という肩書きは、今や威圧に使われこそすれ、誇りや高潔さといったものとはまったくの無縁となってしまった。それは公にされていない公的組織である陰陽寮も例外ではない。むしろ公にされていない分、政府による介入は度を超えていると聞く。
九鬼は陰陽寮が骨抜きにされる前に、さっさと見切りをつけて陰陽師の職を辞した。それでも一度陰陽寮に籍を置いた過去は消えないし、陰陽寮が抱える膨大な機密の一部を知ってしまっている九鬼には、陰陽寮について一切の口外を禁じ、破った場合には命すら奪う呪いを両者同意のもとで受けている。
「話は手短にお願いします」
氷の溶け始めたアイスコーヒーを一口飲んで、今日ここで待ち合わせを行った目的を訊ねる。電話もメールも危険だと判断しての面会であろうから、間違いなく内容に不安はあったが、それを相手に悟られるような九鬼ではない。
「魔像をご存知ですか」
いきなり聞きたくもない単語をぶつけられ、九鬼は眉を顰める。
魔像――江戸時代以降にF県内で製作されたと伝わる、妖怪の姿を象った木像。その数は三十六体とも、百体を超えるとも言われている。
だが――
「あれは現代の作でしょう」
江戸期製作と説明されているが、魔像には明らかに不審な点が多すぎる。
三十六体の立像は、頭部がそれぞれに特徴的な妖怪の姿をしているが、首から下はなぜか皆一様に同じ、褌を巻いた人間の形となっている。
一方の特徴的な頭部であるが、これはたしかに妖怪を象ったものが多くを占める。問題はその妖怪の形というのが、なぜか江戸から明治にかけての妖怪画と同じフォルムばかりであるというところだった。
明治に描かれた妖怪画をデザインに取り入れている時点で、これが江戸期製作というのには無理が生じる。そしてこれらの妖怪画を収集してデザインに取り入れようとなると、その資料の広範さと希少性から、江戸から明治にかけての人間ではまず不可能であるとわかる。
ところがある期を境に、これらの妖怪画像が手軽に参照できるようになる。妖怪がブームとなり、過去の妖怪画がまとめられたり、妖怪本の中に参照画像として載るようになる――二十世紀以降ならば。
少なくとも九鬼の見解としては、魔像とは現代の作家が製作した木像であり、妖怪作品としての価値はたしかにあるかもしれないが、歴史的な資料価値は存在しないものとして扱うべきものであった。
「そこはノーコメントで。今や魔像は妖怪と人間をつなげる象徴ですからね」
暗澹たる表情になる相手を見て、九鬼は飲み干したアイスコーヒーの氷を噛み砕く。
現在の日本政府は、人間と妖怪の共生を謳っている。妖怪相手に共生もクソもないだろうと九鬼などは思うが、妖怪問題を無視するわけにもいかない政府にとって、綺麗なお題目を唱えてあとは専門家に丸投げするのが手っ取り早かったのだろう。丸投げされたのが陰陽寮と、連携する各省庁の部署であり、日夜妖怪対応に追われていると聞く。
そんな中で出てきたのが魔像だった。キャッチーな見た目。歴史のありそうな木像という媒体。昔から妖怪と人間が共生してきたという偽史を作り上げる広告塔として、なんの因果か魔像は担ぎ上げられてしまった。
人々は歴史を求める。過去に誇りを見出す。それが正しいものか、作り物であるかといったことは、実は大抵の人間が気にも留めない。ただ歴史があると言って回って、自分たちがその歴史を受け継いでいると錯覚して酔うことができさえすればいい。
たしかにその点では、魔像は適任であったのかもしれない。「妖怪天国日本」「妖怪の生まれる国日本」「歴史の息づく国日本」「歴史とともに歩む国日本」「妖怪と四季の豊かな国日本」――などといったキャッチコピーの数々も、人々のそういった柔らかい誇りを鼓舞するために作り出された。
「で――その魔像がどうしたんですか」
「はい。立像の魔像三十六体、坐像百体、というのが公式設定なんですが、実は最近、民間に未確認の魔像が流れているという噂がありまして」
「それは――昔からでしょう。オークションサイトやフリマアプリで明らかな贋作が大作家の作として売られていたり、在野のクリエイターが現代の流行に合わせて作った護符や御朱印が仲間内から離れて本物と銘打たれて転売されたりといったことは」
アマビエの時などは目も当てられなかった。
「私どもも最初はそう思っていたんですが、実際に出品されている魔像を落札して確認してみると、これがどうも、魔像なんです」
材質。形状。木の彫り方――三十六体の魔像と、ネットオークションで流通している魔像は、まるで同じ特徴を有していたという。唯一明確に異なるのは――
「顔がですね、違うんです。ぱっと見て元絵に心当たりがあるものもあれば、一見してわからないものもありますが……」
それは魔像も同じだ。明確な元絵が同定できるもの以外に、作者が「妖怪らしい」と考えて彫ったであろう作も混ざっている。それらは妖怪というより、フェネックやハムスターといった動物に近い造形をしているものもあった。
三十六体の魔像を分別するのは、その特徴的な頭部による部分が大きい。三十六種類の頭部こそ、魔像三十六体という冠詞を機能させている。
その、現存する魔像とは異なる顔を持つ魔像。
「新しい魔像――そう呼称する以外にないんです。九鬼さんには、この新しい魔像の出所を調査していただきたい」
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