第2話 儚げに鳴く少女の声を聴いたネコの話
「ここの公式は期末試験に出るからきちんとノートに取っておけよー」
白、赤、黄のチョークを器用に使い、生徒にわかりやすく説明をする教師に関心しながらもほとんど話を聞いていないクラスの惨状を見て、須堂カノはため息をつく。
午後最初の授業だがクラスの生徒たちはそれぞれゲームやマンガ、友達同士の話で盛り上がっていた。
窓際の後ろから3列目の席からそんな教室内を一瞥したあと、授業を聞かない友人たちに呆れながらもカノは自身の黒髪を耳にかけ、お気に入りのクルトガのシャーペンを使い、黒板の内容をノートに書き写す。
クルトガのシャーペンは企業とのコラボ商品が多く、カノが使用しているシャーペンには野獣に恐れもせずに立ち向かい、受け入れ、愛を掴み取ったプリンセスが描かれている。
数あるプリンセスの中でもこのプリンセスが一番好きなカノは大切に使っていた。
プリンセスの笑顔を見て、癒されたカノはふと、視界の端に白いものがチラチラ映ることに気づく、そのまま視線をずらし、外を見ると雪が降り始めていた。
重たい雪だ、帰るまでに少しは積もるかな、外を見ながらぼんやりとそんなことを考える。
雨と違って雪が降るとなぜ少しだけワクワクするのか、不思議だなと思いながらも、授業中なのを思い出し、改めて丁寧に授業を進めている教師の話を聞きながらノートを取り始める。
終業のベルが鳴り、カノが帰り支度をして席を立とうとすると、
「カノー、今日帰りに遊ぼうよ」
男子生徒が一人、笑顔で近寄ってきた。
「嫌よ、雪降ってきてるし、寒いから早く帰ってごろごろしたいもの」
カノは外を見ながら答える。
「えー、カノと雪合戦したかったのに…」
「コースケ君、雪合戦って…男同士でやりなさいよ」
「ブーブー、付き合い悪いぞー」
ブーブー言っているこの生徒は比屋根コースケ、名字からわかるとおり沖縄にルーツを持つクラスメイトで小学校の頃にこちらに引っ越してきたと本人が話していた。
見た目は彫りの深い顔に軽くツイスト風のパーマがかかっており、赤みがかった茶色の髪の毛、左耳にある黒い石のピアスが特徴だ。
ピアスは親からもらったものだと話していたのをうろ覚えながら記憶していた。
「じゃ、方向一緒だし、帰るだけ、ね?」
「まったく」
そう言ってカノは鞄を持ち、コースケに先導されて一緒に教室から出ようとする。
「おー、デートかな、クールビューティな須堂と帰れるなんてコースケはモテ男だなぁ」
「ちょ、お前らは黙ってろって」
扉の近くまで行くとチャチャを入れてくる男子生徒がいたのでコースケは転がっているゴミを蹴って黙らせていた。
「カノー、明日は私たちと一緒に帰ろうねー」
カノはコースケの対応を見てクスリと笑顔を見せていると、女生徒から声を掛けられたのでそちらを見て頷きながら廊下に出る。
「じゃあな」
それを見たコースケはクラスメイトたちに一声かけ、カノを慌てて追いかける。
サクサクシャリシャリ
置き傘を持ち、校門から出て、道路沿いを進む。
カノが通う都立トヤマ高校は近隣にワセダ大学キャンパス、ガクシュウイン女子大学と国内でもメジャーな大学があり、通学路である歩道がちゃんと整備されているのもハコネ山を内包する都立トヤマ公園が通学間にあるのもカノは好きだった。
父親の都合で小学5年生までは引越が多かったので小さい頃から地方、都心と何度か行ったり来たりを繰り返しているがその中で自然に囲まれた環境が心を癒してくれるのを知っていた。
木々が立ち並ぶ公園の歩道も雪がある程度積もり、カノは雪が溶けている部分と積もっている部分を学校指定のローファーで踏んで歩く。
「楽しんでるじゃん」
コースケから恨めしそうな声が聞こえる。
サクサクシャリシャリ
「別に雪が嫌いな訳じゃないもの、寒いのが苦手なだけ」
「ふーん、俺もそっち踏みたい!」
そういうとコースケはジャンプして、カノの前にある雪が少し積もっている箇所に飛び込む。
「わっ」
華麗に飛び込み、雪を一掃したコースケは振り返ると満面の笑みでカノを見て、
「きゃっていう方が女の子っぽくていいよ」
「う、うるさい、それに雪が飛んだじゃないの」
コースケの指摘に狼狽えたカノはスカートについた雪を払い、スタスタと今度は雪が解けている歩道を歩き、コースケの横を抜けるように進む。
「ちょ、ごめんって待ってよー」
カノに並ぼうと、大きく足を出した一歩目で足を滑らせ、コースケは後ろに倒れそうになる。
「う、わっ!」
「コースケ君、あぶないっ!」
横目で見ていたカノはすぐさま手を伸ばし、コースケの右手を掴もうとするも伸ばすスピードよりも倒れるスピードの方が速く届かない。
「くっ」
「わわっ」
コースケには見えていないが背後には公園に設置されている大きな岩があった。
カノの視線を見てコースケも後ろを見ようとカノから視線を外した瞬間、コースケは自身の体が倒れる速度が明らかに遅くなったように感じた。
「へっ?」
コースケが速度に違和感を覚え、変な声を発するも、大きな岩を視認してぶつかる寸前、急激に体が止まった。
それとほぼ同時に腕が掴まれた感触。
混乱状態のコースケはカノに向き直る。
カノが手を掴みながらこちらを見ていた。
「ふー、間に合ってよかった。ほら、早く自分でちゃんと立って」
「う、うん」
コースケは右手をカノに掴まれ、左手は無意識に身体を支えるよう地面を抑える体勢になっていた。
そこから立ち上がったコースケは左手の汚れをズボンで払いつつ、自分の手を掴んでいるカノの手を凝視する。
コースケは、身体が倒れるのが止まった方が先だったのか、腕を掴まれた方が先だったのかを思い出そうとしたが、その前に身体が倒れる速度が遅くなったように感じた違和感も併せて思い出され、混乱していた。
一瞬の出来事だっただけに一連の記憶がはっきりしているように感じるが頭がうまく働かない。
不意に、以前、自転車で事故を起こした際の記憶がフラッシュバックした。
事故後、心臓の鼓動が早くなり、頭が働いているようで働いていないあの症状、アドレナリンの効果なのか、今回は痛みがない分あの時よりはマシだが、感覚として事故の時と同じだと感じた。
ただ、掴めなかったはずのカノの手がしっかりと自分の右手を掴んでくれたのが嬉しいのと、魔法のような出来事にコースケは凝視したままカノの手を確認するように触っている。
そんなコースケを見てカノはため息を吐きながら、
「ねぇ、もう離してもらっていいかしら?」
そう言ってコースケの手から自らの手をスッと引き抜いた。
「あ」
名残惜しそうにカノの手を見るコースケ。
「ほら、ここまで来たらハコネ山に登りましょ。でももう飛んだり跳ねたりしないでね」
そういうとカノは再び歩き始める。
「わ、わかったよ。でもありがとう」
カノと自分の手を交互に見ながらコースケも歩き始める。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ」
その様子を見て、コースケを注意しながらカノは普段通りの顔を向ける。
「そうだね」
コースケは普段通りのカノを見て、改めて一緒に帰れることに喜んでいた自分を思い出し、普段通りの笑顔でカノを見た。
シャリシャリサクサク
先ほどとは違い、雨とは違う雪の重みを傘越しに感じながらゆっくりと歩道を歩く。
コースケは改めて気になる子の前で転ぶという失態を犯したことを恥ずかしいと思っていた。ただ、折角の帰り道、何か話したいと沈黙を破った。
「そ、そういえばなんで俺のこと君付けで名前呼ぶの?」
「男子全員にそうしてるじゃない」
カノは当たり前と言う風に返す。
コースケは何となくほっとした、先ほどと変わらない普段のカノだ。
「なんかあだ名作ってよ、カノだけのやつ」
「なんでよ」
「クラスの仲いい女子で君付けなのカノだけだから、何か嫌だなって」
呆れた顔でコースケを見るカノ、そのまま正面に向き直る。
「そんな理由で・・・まぁ、付けるとしたら決まってはいるけどね」
シャリシャリサクサク
カノは速足でコースケの前に出ると傘に積もった雪を傘の柄を回転させることで落とす。
それを後ろから見るコースケは綺麗だなと思いつつもあだ名が決まっていると言うことに驚きを隠せず、カノの隣に舞い戻る。
「なになに?」
「そうね、普段から飛び跳ねたり、ちょこちょこしてるし」
「ちょこちょこ」
「心の壁を不用意に乗り越えてくる感じとかも似てるし」
「不用意」
「名は体を表すって言うし」
「う、うん」
カノは一泊置き、静かにコースケに向き直る。
コースケは雪が降り続ける誰もいない公園に2人きり、しかもカノの綺麗な、それでいて凛とした目に見つめられる、というシチュエーションに心臓が高鳴っていた。
「ネコ、ね」
「ネ、ネコ?・・・どこらへんが名前に・・・」
「比屋根コースケ、真ん中がネコ」
項垂れるコースケ、それを見て笑い出すカノ。
「そこかーー」
「ネコで決まり」
「決まったにゃん」
笑いあいながら歩く、標高44.6メートルのヤマノテ線内最高峰の小さな山の頂上はもう目の前だ。
ふと、横を歩いていたコースケが立ち止まる。
「どうしたの?」
「シッ」
コースケが立ち止まったまま、周囲を伺うように目線を動かしている。
その様子を見ていたカノは先ほどより周囲の空気が重くなったと感じた。
「何か、あったの?」
コースケはカノの問いに答えず、左手で左耳を覆うように耳を澄まし、目を瞑り、何かを聞いているように見える。
「女の子が泣いてる」
「え、どこ??」
カノも同じく耳をすませて、周囲を見回す。
公園内だが特に女の子の泣き声は聞こえない。
「あっち」
ただ、そんなカノの行動とは裏腹にコースケは公園の先、ちょうど建物の間に見える西シンジュクにある高層ビル街が見える方を指さした。
「え?」
カノが疑問に思った瞬間、そのビル街の手前で光が見えたような気がした。
公園の時計は午後5時を過ぎたところだった。
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