浮つく心

浮つく心

 羽田が煙草を吸いながら時間を潰していると千葉先輩は店に戻ってきた。

「もう少しで来るから待ってろよ」と千葉先輩は自信いっぱいにジッポで煙草に火をつけた。千葉先輩の知り合いを待つ間、千葉先輩はママに仕事の話を得意げに話していた。きっと先輩もママと久しぶりに会うママと二人きりで話したいのだろう。羽田は二人の話を邪魔しないよう酒を飲みながらまた煙草に火をつける。羽田は先輩を気遣う息苦しさを感じながら酔いきれない状況に苛立ちさえ感じていた。一人の酒は気持ちが安らぐが、先輩との酒はどうもまずい。気遣いが必要な酒の席は何も解放されない。気の置けない状況で酒を飲まなければならないことに羽田はつまらなさを感じていた。しばらくすると店の入り口が開いた。黒髪ツーブロックにアップバングでおでこを見せながら黒いレイバンのサングラスに白い文字のロゴの入った黒のロングTシャツ、黒のハーフパンツに白いナイキのマークの入ったサンダルを履いた男が肩で風を切りながら入ってきた。いかにも輩という感じだが、雰囲気を作っているというよりも滲んでいるといったところか。男は千葉先輩に富岡選手と呼ばれていた。その名前を聞いて羽田に衝撃が走った。最近の格闘技の番組でよく見る少年院上がりの総合格闘家。YouTubeやアパレルなどさまざまなビジネスに手を広げる現役バリバリのトップランカーの富岡選手だった。

 富岡選手は千葉先輩の席に座るなりママに

「酒は飲めないので、コーラをお願いします」と落ち着きながらも力強いオーラを放ちながら注文をしていた。羽田には信じられない光景だった。ましてや自分と同じ列の席で一流のアスリートが同じ店にいるなんてあり得ないと興奮を隠しきれずにいた。そのオーラに圧倒されながらも

「富岡選手ですか?」と羽田はわかりきったことを質問する。

「そうです。千葉さんの後輩ですか?今日はお互い楽しくやりましょう」と柔らかく答えた。富岡はそのオーラにうっとりしながら

「羽田と言います。よろしくお願いします」と答えた。興奮のまま格闘技やその他のビジネスの話、過去の喧嘩話の質問を繰り返す羽田に富岡選手はクールにしかし、力強いオーラを放ちながら落ち着いて答えていた。千葉先輩はその様子を満足気に見ている。ママは富岡選手を知っているが生い立ちやどんな人かは知らないようで羽田と一緒に興味深く話を聞いていた。羽田は堰を切ったように次から次へと質問をぶつけ出した。羽田にとっては先ほどまでの退屈な空間が一瞬にして変わった。羽田はこんな有名人と会うことは今後二度とないだろうと考え、5分前まで気にしていた気遣いなど忘れ千葉先輩を挟んで話し続けた。この際、富岡選手に嫌われたって構わない。どうせもう会うことなどないのだから図々しくいろんなことを質問してみようと羽田は喋り続けていた。

 21時になりチーママが顔を出す。金髪で40代のチーママだ。いつもノリが良く楽観的な人で器の大きな人だったので羽田は慕っていた。鼻は高く整った顔立ちに鋭く尖る目尻が上品さを際立たせた。店のカラオケでその美声を披露し男性客の中にはこの女性を口説きに来店する客も多い。店に入るなりチーママは

「あれ?富岡選手じゃない?」と本人に直接声をかける。富岡選手は

「そうですよ。知ってるんですか?」と落ち着いて答えるとチーママも

「もちろん知ってます。こんな店にどうぞいらっしゃいました。しがない下町のスナックですけど楽しんでいってください」と富岡選手に声をかける。ママは

「こんな店じゃありません」とチーママに笑いかけた。チーママは照れ笑いを浮かべながら何度か頭を下げてカウンターの奥へ入った。

 チーママを混ぜてさらに話が盛り上がり羽田はこのまま帰るのが億劫になっていた。時刻は22時30分。羽田の妻はあと30分で家に帰ってきてしまう。悩んだ結果、羽田は妻を店に呼ぶことにした。家に一人で帰らせて放置するより、この場に呼んで一緒に楽しんでもらえれば妻も許してくれるだろうと考えたからだ。

「是非富岡選手に合わせたいので妻も呼んでいいですか?」と羽田は繕った。

 その場にいた全員が承諾した。

「いいじゃない。羽田くんの奥さんに会うの初めてよ」とママが声を掛けた。ただこの楽しい空間にもうしばらくいたいという一心で妻を利用したことに軽い罪悪感を覚えながらも羽田は妻にメッセージを送った。しばらくすると妻は喜んでやってきてその場にいる全員に

「はじめまして」と挨拶をしハイボールを持って全員に乾杯をする。羽田はいつも他人に対して無愛想な妻にこんな人懐っこい一面があるのかと感心していた。すると千葉先輩が酔いに任せて

「よし、みんなで出かけよう」と大きな声を出した。羽田は賛成だった。こんな幸せな瞬間を過ごせる機会はもうもうない。流れに身を任せこのまま外に出ようとした。富岡選手もノリ気で席を立ち上がった。妻の表情を見るとジョッキを口につけたまま目を見開き羽田に目をやった。肌が小さく頷くと残った酒を飲み干し

「私もいきまーす」と手を挙げた。チーママもママを差し置いて

「私も同行しますよー!」と酔った勢いに任せて大声を出していた。ママは勢いづいた子どもを見送る母のように

「明日に支障がない程度に遊びなさいね」と皆に声をかけた。

 

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