夢綴Ⅱ

瀬戸口 大河

漂い人

漂い人

 仕事が終わると羽田は1人スナックへ向かった。

「仕事終わりに飲む酒が1番美味い」これが羽田の口癖だった。仕事は公務員。いつも書類や決裁、手続きに追われていた。羽田の働く役所は地方の街にあるため、予算が少ない。結果的に公務員は未だに紙媒体でのやり取りも多く、メールではなくFAXのやり取りがほとんどであるため、羽田はアナログな職場を奔走していた。仕事が終わると羽田は酒を飲みたがる。職場は駅から近いためバスで出社し、帰りはタクシーに乗っても1000円で家に到着する。20時にスナックへ向かうとママが声をかける。

「ちょっとあんた仕事終わりにまたこんなとこに来ちゃって。奥さんに怒られやしないの?」と60歳近いが身なりを整えた綺麗な女性が迎えに上がる。

「いいんだよ。酒の少しは飲んでもバチは当たらないさ」

 羽田はいつも通りママの挨拶を冷静に流して、黒く塗られた壁に包まれながら真っ赤なカーペットの上を歩いていく。カウンターの奥には名札のぶら下がった麦焼酎と芋焼酎が綺麗に分けられた状態で並べられていた。反対側にはボックス席が二つあり壁にはママの趣味であろうマリリンモンローが大きく口をけているパズルとローマの休日のワンシーンを切り抜いたパズルがかけられていた。

 カウンターに座ると以前入れた麦焼酎をママが作る。20時だというのに羽田を除いて誰もいない。いつもの騒がしさがないことに羽田は寂しさを感じていた。

「今日は客が少ないようだね」と羽田がママに伝える。するとママは

「最近はこんなもんよ。新型ウィルスの第七波が来てお客さんもめっきり減っちゃって。今じゃこの店にやってくるのはあんたと千葉くんぐらいよ。だから今日はチーママが一人、9時ごろに着く予定だわ」と流暢に話しながら羽田の前にあるコースターに酒を静かに置く。

「そっか。少し寂しいね」と羽田はグラスを手にゆっくりと酒を流し込む。羽田は口の中でほのかに広がる麦の香りを押しのけながら喉を通る冷たい液体に開放感を感じていた。羽田はこの瞬間がなによりも好きだった。酒が好きなわけでも、酔うのが好きなわけでもない。アルコールを摂取したことにより、運転もできなきゃ、仕事もできない。逆を返せば何もしなくていい。いろんな責任から逃れるため羽田は毎日酒を飲む。

「そういえば最近、千葉くんが店に来ないのよ。今度会った時にママが寂しがってると伝えておいてね」とママが図々しく言う。ママの言い慣れた様子を見ると羽田には水商売の女性の典型的な誘い文句のようにも聞こえた。

「ああ、伝えておくよ」と羽田はグラスを持ったまま円を描くように燻らながら、仕事の疲れを酒でしか発散できない自分に少し嫌気が差していた。22歳でこの仕事を始めて独身の頃からこの店に足繁く通い、結婚した今もこんなふうに店に通っている。本当なら妻のために時間を使うのが良き夫なのだろうけど妻も仕事をして帰宅が23時と遅いことを言い訳に外をふらついている自分に情けなさと妻に縛られない男らしさを感じていた。羽田は汗をかいたグラスに浮かぶ氷を眺めながらママに尋ねた。

「妻帯者で27歳の男が家にも帰らずこんな店で酒を飲んでるなんてやっぱり世間様からしたらおかしなことなのかな」

「別にいいのよ。生き方なんて人それぞれなんだから」とママは頬杖をつき柔らかな笑顔で首を傾げた。艶やかな白い陶器のような肌に彩られた紺色のドレスがよく映え、ドレスの色とは相反する温かな表情に惹かれる。やはり長年スナックを経営しているママなだけあって、その魅力は年老いても健在なようだと羽田は感心した。

「それとこの店をこんな店と言わないでちょうだい」と表情と声色を崩さず口にする。

「すまない。つい口が滑った」と羽田は自分のぶっきらぼうな物言いに反省した。昔から口が悪くよく誤解をされることがあった羽田は吟味せずに口にした言葉に後悔をした。続け様にママは

「反省してるの?あらかわいい。ボトル入れたら許してあげる」と酒を勧める。

「俺も立派な太客になったもんだね。ボトルの一つせびられても悪い気すらしないよ」と羽田は自分自身をただの客であると自分に言い聞かせるように呟いた。羽田は仲が深まると際限なく浪費してしまう癖があり学生の頃、ガールズバーの店員に入れ込んで散財を重ねたがその金は酒になって飲まれただけでその女性とは客と店員以上の間柄になれなかった苦い経験もあった。

 羽田がふとスマートフォンを覗くとさっき話に出た千葉先輩から連絡があった。千葉先輩はあまり気の使えない男だが、豪快な面もあり仕事で皆が悩むような問題を体当たりで解決しようとする。大事な書類を部下が無くしてしまった時も先頭に立って所長に電話をし

「書類を紛失したので再度、決裁に回します。よろしくお願いします」と悪びれる様子もなく伝えたところ、所長もなぜか二つ返事で許してしまう。千葉先輩の真っ直ぐな漢気キャラを誰もが認めているし、反論する者がいようものなら千葉先輩は上司であろうと語気を強めて真っ向から勝負をする。そんな真っ直ぐさを誰もが認め頼りになる存在だった。

 羽田が「千葉先輩から連絡がきたからちょっと外に出る」とママに告げると小さく頷いた。外を出ると住宅街の隙間から星空が広がる。独り占めしたくなるようなその輝きを前にすると電話などせず、一人で街をうろつきたくなるものだが先輩の電話を返さないわけにはいかないとまだ、酒が回りきっていない羽田はスマートフォンを握りしめていた。千葉先輩に電話をかけると1コールを待たずすぐに電話に出た。

「今スナックにいるか?」と千葉先輩の低い声が聞こえる。

「はい。一人で飲んでます。もしよかったらぜひいらしてください」と羽田が言うと後ろから誰かに肩を叩かれた。

 振り向くと羽田の前には千葉先輩が立っていた。どこかで飲んできたのか少し顔は赤く身長184センチの柔道部で骨格はかなりいいが脂肪がかなりつきふくよかな体型がその印象を和らげていた。

 羽田と千葉先輩が店に入るとママは喜んで

「千葉くん久しぶり」とカウンター越しに肩を軽く叩く。千葉先輩も

「ご無沙汰です」と返事をしいつも飲んでいるウィスキーのストレートを頼んだ。

「最近見なかったじゃない。何してたの?」と言うママに千葉先輩は

「いや、最近仲良くなった人がいてしょっちゅう遊んでるんだよね。羽田も知ってる人だけど来たら喜ぶと思うから声かけてみる?」と意気揚々と話しかけてきた。

 羽田は自分の知ってる人間で喜ぶ人?と記憶を辿るがさして思いつかない。千葉先輩との共通の友人なんて職場の人間しかいない。疑問を抱えながら考える。しかし、誰も出てこない。ママは

「誰々?ちょっと呼んでよー」と何かを期待しているような眼差しを向けていた。店に客が増えて売り上げが出るのが嬉しいのだろうと羽田は少し冷めていた。しかし、羽田はここで空気を壊すのは大人としてみっともないと思い

「そうなんですか。ぜひ読んでいただきたいです」と満面の作り笑いをした。

「わかった。ちょっと待ってて」と千葉先輩は店の外に出る。羽田は軽く酔ってぶれる視線をグラスに集中させていた。千葉先輩の帰りを待つ羽田はカウンターの脇に重ねられていた灰皿を一つ取り煙草に火をつけた。ふらふらと自由に宙を舞う煙が換気扇に吸い込まれて消えていく様を自分に重ねていた。ふらふらと気持ちの赴くままに動き続け最後には何も残らない。そんなことをこれまで重ねてきた自分から卒業したいと思い始めた。

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