第14話 危機管理

 フィルターズの本部施設には、所属しているメンバーのための訓練場がいくつか設けられていた。その中の一つに射撃場があり、この場所には主に弓を扱う者達が練度を上げるために訪れる。ただ、まだ最近のことだが、ここに亜矢が来ている場合は完全に貸し切り状態になっていた。


 その理由は明白だ。彼女と並んで練習をすれば、誰もが自身の才能を疑うことになるからだった。


 今——

 髪を後頭部で結った亜矢が、最大限までしなった弓の緊張を虚空に解放していた。弦の音から一拍を置いて、的に矢が当たる乾いた音が響く。しかも、命中したのはド真ん中だ。さらに、その中心点にはいくつもの矢が刺さっている。他には見当たらないため、どうやら百発百中の様子だった。


 アーチャーフィッシュの水紋によるホーミング能力。それを持つ者は、ちゃんと射形さえ整っていれば、放たれた矢を標的に向けて自動追尾させることができた。動いていないただの的など、練習にもならない。それは亜矢自身も既に分かっていたが、定期的にここを訪れていた。


 いくら百発百中でも、矢が的に届かなければ意味がない。そのため、少しでも基礎的な技術を向上させて、飛距離を伸ばす必要があった。


 また、注文しておいた胸当てが昨日、やっと手元に届いていた。サイズがなくて特注になってしまったが、これでもうどこかに引っ掛かる心配はない。亜矢はどんなに撃っても問題がないことを確認して、非常に満足していた。

「うん……よし!」

 そんな独白をした直後だった。


 突然——

「——調子いいみたいだね」

 真後ろから声が掛かる。

「——⁉」

 亜矢は心臓を一瞬だけ止めてから、慌てて背後に振り向いていた。すると、そこには弟がいつの間にか立ち尽くしている。


「これなら、問題はなさそうだ。安心したよ」

 納得した様子で頷いていたが、一方の亜矢は憤慨していた。

「キー君! いきなり後ろに立たないでよ! びっくりしたじゃん!」

 この当然の抗議に、貴誠もすぐに反省の色を見せる。


「……あ、ごめん。僕も自分の隠密能力の性能を確かめたくてね。アクティア相手にどれほど通用するかを測るために、本部内でもよく使ってるんだ」

 その理由には亜矢も渋々納得していたが、ここでその瞳に猜疑心を忍ばせていた。


「……それはいいけど」

「?」

 貴誠がキョトンとする中——

 一方の姉は、ジト目になって追及する。

「……キー君、その能力……エロいことに使用してないよね?」


 この邪推に——

「——な⁉」

 弟は一瞬で絶句していた。完全に硬直していたが、亜矢は構わずに続ける。

「……例えば……のぞきとか……」

「——してないよ! 肉親に向かって、いきなり何を言うんだ!」

 貴誠が即座に全否定していたが、姉の様子に変化はなかった。


「ふーん……ほんとに?」

「信じてないのかよ! 今の僕は、異性の裸にそこまで反応したりしないんだよ!」

 ただ、この失言に、亜矢が首を傾げる。

「……うん? それって、どういう意味?」

「——!」

 一方の貴誠は激しく動揺していた。性転換している時の自身の身体で、もう見慣れてきている。そんなことは口が裂けても言えなかった。


 ただ、亜矢はそんな本音には気づかない。

「……もしかして、正真正銘の賢者に転職しちゃったとか? ここ、異世界だし」

 この突拍子もない憶測に、弟はいつもの脱力をするだけだった。

「……どこでそんな無駄な知識だけ覚えてくるんだよ……」


 すると——

「——あ! それよりも!」

 と、急に亜矢が何かを思い出していた。

「!」

 その急変に貴誠が驚く中、姉は一気に真面目な様子になって訊く。

「昨晩は帰って来なかったけど、どこに行ってたの? 朝は人目があったから訊かなかったけどさ。出勤したらいつの間にかいるから、びっくりしたよ」


 だが——

 一方の貴誠はそこで押し黙っていた。

「……あれ? キー君?」

 亜矢が思わずその顔を覗き込んでいる。すると、弟は急に真剣な顔つきになって口を開いていた。


「……姉さん」

「うん。何?」

「……腕相撲をしよう」

「へ?」


 だが、亜矢にはその意図が皆目見当が付かない。キョトンとしていると、弟は近くにある机を指差しながら、なおも促していた。

「腕相撲……こっちに来る前も、たまにしてたよね? やろうよ」

 これに、姉は首を傾げる。


「別にいいけど……いきなり、なんで?」

「……気紛れだよ。深い意味はないよ」

「……ふーん。まぁ、いいけど」

 ただ、特に断る理由もなかったため、弓を置いて机に向かっていた。


 次いで、亜矢の方から肘を机上に突く。

「なんにしても……負けないからね! 向こうでは互角だったけど!」

 その宣言に貴誠の方は特になんの反応もせず、無言で同様の姿勢を取っていた。そして、お互いが掌を合わせると、姉の方が当たり前のように仕切る。


「……じゃあ、いつものように、あたしの掛け声でいくよ!」

「ああ……!」

 これに貴誠が応じ——

「レディ——ッ!」

 すぐさま力比べが始まっていた。


 その趨勢は——

『——ッ!』

 終始、貴誠が優勢だ。じりじりと亜矢の方が押し込まれていく。

 そのまま、なんの見せ場もなく——

「——っぷ、は——————ッ!」

 姉の方がすぐに白旗を上げていた。


「……今回は……あたしの負けかー。水紋のおかげであたしの力も上がってるのに……強くなったねー」

 勝負に負けて悔しい反面、肉親の成長を素直に喜んでいる。

 ただ——

「……あれ? キー君?」


 一方の貴誠は、そのまま机上で深刻な顔を作っていた。

「……やっぱり……この姿だと、これが限界……か」

「……キー君? どうしたの?」

 亜矢がなおも語り掛けるが、弟に反応はない。

「……これだと……万が一に対応できない……どうするよ……」


 ただ——

 ここで亜矢はあることに気づき、その言葉に重みを持たせていた。

「……キー君。もしかして、元の世界には帰りたくないの?」

 これには——

「え……?」

 貴誠もすぐに気づき、少しだけ姉の存在を無視していたことを反省する。

「あ……ごめん。全部聞いてなかった……」


 だが、一方の亜矢は、それよりも弟の思考を憂慮していた。

「いいよ。ただ、なんか……よく分かんないけど、ずっとこっちにいることが前提で何か考えてるよね。そんなに、こっちの世界の方がいいの?」

「それは……」


 一方の貴誠はその指摘に、思わず困惑の色を浮かべる。

「……どうなんだろうな。よく分からない」

「分かんないのかーい」

 亜矢が思わず小さくおどけていたが、弟は現在の素直な心境を語るだけだった。


「……元の世界にはゲームなんかの娯楽も多いけど、その反面、社会の息苦しさも半端ない。その点、こっちは正反対だ。それと、この世界には意味不明な災厄もあるけど、あっちの世界にも核兵器とかがある。どっちがいいかなんて、一概には言えないよ」


 ここまで聞いて、亜矢も唸る。

「……うーん……確かに、そうなんだよね。あたしも身近にいた人達には会いたいけど、こっちの正社員待遇は捨てがたいし……」

「なんか、話の規模が違わない?」

 貴誠が思わず指摘していたが、姉は口をへの字に曲げるだけだった。

「あたしにとっては、最も大事なことです!」


 その様子を見て、弟は少しだけ心が軽くなっていることに気づく。そのことに感謝しながらも、現在の無為な討論を終わりにしようとしていた。

「……とにかく、そもそも戻り方が分からないんだ。考えても意味ないよ」

「そう……だよね……」

 亜矢にも異論はないらしい。また、これ以上ここを占拠しているのも良くないため、揃って施設をあとにしようとしていた。


 が——

「——御二方!」

 そこへ、聞き覚えのある声が響く。

『!』

 姉弟が射撃場の出入り口へ同時に視線を向けると、そこには想像通りの人物が。


「やはり、ここにいましたか。緊急ミーティングがあるので、集合してください!」


 リシールのその通知に——

『——ッ!』

 貴誠も亜矢も、一瞬で緊張感を高めていた。



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