吐いた息は白く濁らない

黒咲侑人

本編

 久しぶりに見るはずの駅のホームは記憶の中と同じ寂れた雰囲気を漂わせていた。相対する二つのホームを見回すとちらほらと電車を待つ学生や社会人の利用客がいる。この駅は僕の最寄駅で通学時に利用していた。上りと下りの線路を挟んだ両端にそれぞれのホームが作られており、相対式ホームと呼ばれる構造をしているらしい。ホーム間の移動には跨線橋が建設されており、改札口は片方にのみ設置されている。僕は通学するたびにこの構造に対して不満を漏らしていた。行き帰りのどちらも橋を使って必ず移動しないといけなかったので、大変面倒くさかったことをよく覚えている。

 僕は改札口が設置されていない側のホームのベンチに腰を下ろす。「はぁ」と吐息を漏らすが吐き出した空気は白く濁っていなかった。

 点在する人々はベージュのトレンチコートや黒のブルゾンなどといった温かい衣服に身を包みながらも寒さに悶えている。ちらっとホームに取り付けられた時計を見ると目的の時刻までまだ時間があった。特にすることも無かったので首に巻き付けたマフラーに顔を埋めてじっと待つことにした。刻々と時間が進む中で電車が何度も到着と出発を繰り返すのを眺める。

 目的の時刻の数秒前、急ぎ気味に階段を駆け下りる音が耳に届いた。ローファーと階段が軽快にぶつかり合う音がしてそちらの方へ顔を向ける。肩まで伸ばした艶やかな黒髪が宙に舞いながらリズム良く上下している。紺色のダッフルコートに身を包んだ彼女は頬を真っ赤に染めていた。お気に入りの赤いマフラーを首に巻きつけて、大事そうに鞄にお守りを括り付けている。間違いない、彼女だ。

 階段を下りきった彼女は僕の真横を走り抜けると最後尾車両に乗り込んだ。僕も立ち上がって同じ車両に駆け込む。ぎりぎりの所でドアが閉まり発車した。息を切らした彼女は呼吸を整えようと肺に酸素を送り込んでいく。徐々に落ち着いてくると彼女は近くの座席に座った。彼女が進行方向の左側の座席に座り込んだので、僕はドアを挟んだ優先座席側の手すりにもたれ掛かる。車内の座席はほぼ全て埋まっていたので、彼女が立たずに済んだのは幸運だった。車内は暖房が効いていたのか彼女は巻きつけたマフラーを首から外して太腿の上に置いた。ごそごそと鞄の中から読みかけの小説を取り出して、マフラーを落とさないようにしながら、真剣な表情で文字を視線で追い始める。彼女は文芸部に所属していて、小説を読むことも書くことも好きだった。学校の休み時間や今のような通学時間には必ずと言ってもいいほど読書に励んでいる。

 僕はドアの窓から見える青空を眺めながら、時々思い出したかのように彼女を盗み見る。彼女の横顔があまりにも綺麗で見惚れてしまうので、意図的に視線を逸らしているのだ。きめ細やかな白い手でページを捲る姿は純白の鈴蘭を想起させた。本人は知らないだろうが彼女は学内で高嶺の花として密かに人気がある。読書家で美人というのはなんとも言い難い雰囲気を纏うものだ。落ち着いた佇まいに誰も告白を実行したことはないが、好意を寄せている生徒は少なくないだろう。僕もその例外ではなかった。

 再度、視線を向けると彼女はご老人に席を譲っている最中だった。彼女が人気になった理由にはこの優しさもあるのだろう。昔から彼女はお人好しで後先考えずに手を差し伸べるような人だった。今のお淑やかな佇まいからはイメージしづらいが小学生の頃の彼女は強気で活発な女の子だったのだ。小学生の頃はいじめを受けているクラスメイトのためにいじめっ子と喧嘩をして強引に解決させたこともあった。中学生の頃に小説と劇的な出会いを果たしてから、今のような彼女になったのだ。

 電車に乗り込んでから二十分経つと乗換駅に到着したので、彼女の後に続く形で僕も遅れて駅を降りる。エスカレーターを登って反対側のホームへ向かう。さすがに都会に近く複数の路線が密集している駅なので人通りが多かった。その中には僕たちと同じ制服を着ている学生も見かける。電車通いの学生の大半がこの駅を利用しているので、徐々に見かける回数も自然と多くなっていた。

 同じ制服に身を包んだ僕たちは到着した電車に乗って目的駅へ向かった。駅に到着すると学校へと続く下り道を歩いていく。周囲には眠そうにとぼとぼ歩いている男子生徒や友人とのお喋りに花を咲かせている活発な女子生徒がいる。彼女はというとお決まりの読書をしながら歩いていた。文字を追うことに集中しているせいで歩を進める速度が周りに比べて遅くなっている。僕は彼女の速さに合わせて少しだけスピードを落とした。

「おっはよー!!」

 急な大声と抱擁に彼女は「きゃっ」と驚いた声を出した。どうやら彼女の友人が飛んで抱きついたらしい。彼女は友人に向かって「やめてよー」と言いながら笑う。一瞬誰だか判別がつかなかったが鞄に取り付けたお揃いのお守りですぐに思い出した。短髪の友人は水泳部に所属しているクラスメイトで、彼女の大親友だ。僕の中の記憶ではこれでもかというぐらい肌が焼けていたのだが、今の彼女はほぼ白に近い肌色をしていた。最後に彼女を見たのはやけに暑かった九月頃だったので、どうりで一瞬気がつかないわけだった。

 彼女は読んでいた小説に栞を挟み鞄へと仕舞い込んで、その褐色肌じゃない友人と会話を交わし始めた。僕は変わらず彼女たちの後ろ姿を視界に入れながら同じ学校へと向かう。正門を潜って昇降口へ着くと、彼女達は学校指定の上履きへと履き替えて廊下を歩いていく。階段を登って突き当たりの教室に入ると賑やかな声が僕達を迎えた。彼女と元褐色肌の友人は窓側の丁度真ん中辺りに席があり、僕は二列離れた右斜め後ろに位置していた。彼女達はクラスメイトに挨拶を交わしながら、それぞれの席へと着いていく。上着を椅子へ掛けて授業準備を済ませると、友人の方から宿題を見せて欲しいと申し出た。彼女は冗談で怒った顔をしながら仕方なく自身のノートを友人に手渡す。僕はそんな微笑ましいやりとりを僕は遠くから眺めていた。

 時間になると担任教師が前方のドアから入ってきて、教壇へと上がりホームルームを始めた。もうすぐ始まる期末テストまでの過ごし方についてや保護者宛のプリントの説明などの必要事項を告げると、一限目のチャイムが鳴ったのでそのままホームルームを終わらせてスムーズな流れで担任教師が現代文の授業を始める。二限目の英語表現や三限目の物理が始まっても、教科書やノートを広げずに僕は机に突っ伏した状態でずっと彼女を見つめていた。読書の時もそうだったが、何か物事に集中している彼女を見るのが僕は昔から好きだった。

 窓から差し込む朝日が彼女の横顔を照らしている。光によって煌く彼女の肌や滑らかに動く指に見惚れている内に昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。このまま昼食を摂る彼女を見ていても良かったが、屋上へ向かって時間を潰すことにした。屋上へのドアを開けるとそこには誰一人いなかった。わざわざ冬の屋上で昼ごはんを食べる人はいないだろうと一人で納得する。設置されたフェンスに寄りかかってその場にあぐらをかいて座り込むと空を見上げた。

 雲の流れをぼーっと眺めていると昼休みが終わる五分前のチャイムが聞こえたので、教室に戻る。教室に入ると同時に四限目のチャイムが鳴った。僕は特に急がずゆっくりと席へ着く。

 四限目の授業は数学だったので、彼女ではなく黒板へと視線を向けた。丁度今日から積分に入るようで微分の復習から授業が始まった。今まで習ったきた導関数の公式や簡易化した微分の公式を書いて赤で囲みながら、教師が解説を行う。久々の数式に僕は心躍っていた。中学生の頃、数学の緻密さに魅力を感じて好きになった。そこから時間はあっという間でいよいよ積分の公式について解説し出した所で、残念ながら終了の合図のチャイムが鳴ってしまった。少し残念がりながらもなんとか五限目の授業も終える。

 担任教師が終礼のホームルームを行い、クラスメイトは各々の目的に沿って教室を出ていく。部室へ向かう生徒や授業の分からなかった所を質問しに行く生徒、自宅へ帰る生徒など目的は様々だ。

 彼女はというとおそらく文芸部の部室へ向かうのだろう。僕は文芸部ではないので大人しく最寄駅へ帰ることにした。椅子から立ち上がって、すでに開いた後方の戸から抜けようとすると、彼女と友人の会話が耳に入ったので足を止めた。

「あれ、部室行かないの?」

「うん。今日はちょっと用事があるから」

「あぁ、なるほどね」

 短い会話を終えると彼女は鞄を肩にかけ、「ばいばい」と挨拶を交わしてから前の戸から出て行ってしまった。僕は最寄駅へ戻るのを中断して彼女の後を追いかける。行きは下り道だった坂を今度は登っていく。緩い傾斜だが長い道のりを登っていく彼女の頬は赤く染まり、白く濁った息を吐き出している。彼女は容姿端麗、頭脳明晰なのだが運動だけは苦手なのだ。

 そんな思いでやっと登り切ると、彼女は駅の方ではなく商店街の方へと体を回転させて歩いていった。後を追う僕は不審に思いつつ遅れてついていく。教室で言っていた用事がこの先にあるのだろうか。案外、目的の場所は商店街に入ってすぐに判明した。彼女は華やかな花達に迎えられて、店内へと入る。どうやら彼女の用事とは花屋と何かしら関係があるらしい。店員に声を掛けると、呼び掛けられた人は彼女と親しげに会話してから店の奥へ消えていった。一瞬、彼女の顔が曇った気がしたがすぐにいつもの表情に戻った。数分経つと店員が白いユリの花を三本手に持って現れる。彼女は花束を受けて支払いを済ませると、御礼を店員に言って駅へと向かい始めた。

 彼女はその花束を誰に渡すのだろう。彼女が渡しそうな人物を頭の中に思い浮かべるが、皆目見当が付かなかった。彼女の両親の誕生日でもないし、用事があると短髪の親友に言っていたので、おそらくその友人も違うだろう。もしや僕が知らない内にできた恋人の誕生日にプレゼントとして渡したりするのだろうか。何を見ても動転しない様に心の準備を済ませておこうと深呼吸を繰り返す。しかし、駅に到着して電車に揺られている間、僕はすでに動転しまくっていた。当然、彼女の様子を伺う余裕なんてなくてずっと頭を抱えていた。

 気が付くと彼女が電車を降りていたので僕も慌てて下車する。すると視界に現れたのは覚えのある駅だった。彼女はごった返す人混みの中を改札口に向かう人々とは別方向に歩を進めていく。幅の大きい階段の真横を通り抜けて、ホームに敷かれた点字ブロックに沿っていく。

 そこでようやく、僕は彼女の用事というものが何か理解して、表情が暗くなった。彼女は大事そうに抱えていた花束を隅にそっと置いてから手を合わせる。その場を見回すと他の人が置いたと思われる花束が少しだけ置かれている。

 初めてみる光景に僕の胸はギュッと締め付けられ、やり切れない気持ちが僕の心を埋め尽くした。合掌を終えた彼女は、目の前の花束たちに向けて話しかける。

「君がいなくなって、もう三ヶ月が経ったよ。君に会いたいよ……紘くん」

 彼女、冬香が僕の名前を呟いた瞬間、僕の顔がぐにゃりと歪んだのがわかった。そうか、彼女は僕のために花束を購入してここへ来たのか。この世にはいない僕のために。そう、僕は幽霊なのだ。約三ヶ月前、僕はこの駅で電車に轢かれて死んだ。あの日、気が付くと僕は駅のホームからはみ出して宙に浮いていて、人混みの中から伸ばしてくれた君の手を掴もうとしたが間に合わず、彼女の目の前で僕は生者から死者へと変わってしまった。

 痴漢が発覚して駅員に追いかけられていた男が無我夢中で逃げていると、電車を待っていた僕にぶつかってしまって僕が線路に放り出されてしまったのだと神は言っていた。たまたま起きた事故だったらしい。

 彼女のいる世界と僕のいる世界が交わることはない。彼女と笑い合ったり、喧嘩したり、悲しみを分かち合ったりすることか出来ない。その事実が僕の心を押し潰そうとする。あの日、死者となった僕は神にある願いを叶えて欲しいと頼み込んだ。死者の基本のルールとして、悪霊になるのを防ぐために現世に降り立つことは禁止されてたが、条件付きであれば現世に降り立つことを許可すると神は告げた。一つは現世に戻らず輪廻の輪に還る選択、もう一つは現世に一週間戻って一人の人間の現場を確認する。そしてーー消滅する選択だ。

 僕は一切迷わずに選択した。そして僕は今日、消滅する。僕は幼馴染である冬香の現在を確認することにして、現世に降り立ったのだ。彼女の顔をもう一度見たかったから。

 いつのまにか僕は、涙を零していた。僕は彼女のことが好きだ。子供の頃から何処かへ行くにしてもずっと一緒だった。大事な友達、いつしかそれは恋に変化していた。あの日、僕は君に告白するつもりだったのに、その矢先にあの事故が起きた。僕はもう君にこの想いを告げることができない。告白どころか、話すことさえも許されない。

「あぁぁっーー!! 嫌だ! 君と離れ離れになんてなりたくない! 君のそばに居たい……!!」

 僕のこの嗚咽混じりの叫び声すらも君にはきっと届かない。そのことがさらに僕の心を押し潰そうとする。

「なんで、僕なんだ!!なんで、消えなくちゃならない!! なんで! なんで、なんで……!! ただ君が好きで、君の側に居たいだけなのに……」

 現世に降り立った一週間前の夜、僕は君の部屋へ向かった。すると僕の目に飛び込んできたのはベッドの上で静かに涙を流し続けている彼女の背中だった。三ヶ月弱たった今でも冬香は僕の死を嘆いてくれている。彼女と言葉を交わしたいのに僕の声は聞こえない。なのに何もできず棒立ちになっていた僕は聞いてしまったのだ。

『私も……好きだったのに』

 そのか細く放った一言が僕の胸に刺さった。彼女は知ってしまったのだろう、僕が君に好意を寄せていたことを。同時に僕も彼女の想いに気付いてしまった。僕たちは互いに想い合っていたのに、秘めた想いを打ち明けることができずに僕達は引き裂かれてしまったのか。冬香も僕に好意を寄せてくれていたことに嬉しいはずなのに、それ以上の虚しさに掻き消されてしまう。僕達が描くことができるはずだった未来はもう、僕の手から離れ去ってしまった。君と過ごせるはずだった未来は永遠にやってこない。だからこの一週間、ずっと君の側に居た。その日が終わると決まって最寄駅へ戻されるので、彼女が駅へ現れるのを待つのを毎日続けていた。

 君と手を繋いで照れ合うことも、初めてのキスに緊張して胸が張り裂けそうになることも、その先に進んで愛し合って幸福を感じることもも、君と温かく幸せな家庭を築くことも、僕は一生経験することができない。

 溢れ出る未来が僕の心をどんどん蝕んでいく。僕は地面に膝を突いて両手で顔を鷲掴みながら声とも呼べない叫び声を上げる。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!!」

 君を残して死にたくない。もっと君とやりたいことがあるんだ。ふと体を見回すと体の一部が光の欠片となって、空に舞い上がっていた。タイムリミットが来てしまったのだろう。

 君の声が好きだ。君の声は心を潤すように透き通っていて心地がいい。

 君の手が好きだ。君の手は繊細な動きをする。

 君の目が好きだ。君の目は温もりが宿っている。

 君の笑顔が好きだ。君が笑うだけで僕は幸福を感じる。

 君の、君の……。

 君の好きな所を挙げるとキリがない。君の全てが好きだ。僕は君を愛している。

 僕の思いに反比例して僕の体は少しずつ消えていく。僕は消滅して、君の笑顔を隣で見ることがもうできないのだ。嫌だ。消えたくなんかない。あのときのように、僕は君に向かって手を差し伸べる。けれど君は気がつかない。僕の手は虚空をかいた。最後くらい、小説や映画であるような奇跡が起きてもいいじゃないか。少しだけ目と目が合ってもじゃないか。神様は僕に奇跡を与えてくれない。

 僕の体の大半が光の粒になって宙へ消えていく中、僕は涙を零しながら彼女の背中目掛けて最後の言葉を呟く。

「君が……好きだ」

 消滅していく僕と共に僕の言葉は、誰の耳にも届かず、ひっそりと空に溶けていく。彼女は瞼に涙を溜めながら僕が消えた空間を横切って電車へと向かった。

 


 

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吐いた息は白く濁らない 黒咲侑人 @YUHTO

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