*** 二〇二〇年 十月一日 木曜日
座席の背もたれに寄り掛かりながら窓越しに外の様子を眺める。先程までは一軒家やマンションがびっしりと立ち並んでいたはずなのに、次第にはその数は減っていき田んぼや森の方が目立つようになっていた。黙々と畑仕事をしている夫婦や自転車に乗った三人組の男子学生が塗装されていない一本道を全速力で漕いでいるのが見えた。その景色は次々に過ぎ去っていき、また別の森や古民家が姿を現すといった具合に繰り返していた。
ふと視線を外の風景から車内へと移動させる。車内にいるのは僕と腰の曲がった女性のご老人、そして二人組の女子高生だけで利用客が少ないことが窺えた。かくいう僕もこの路線を利用するのは初めてだった。登校する際には逆方向の路線を使っていたし、この辺りには暇を潰せるレジャー施設や日本で有名なコーヒーチェーン店も建てられていないから当然訪れる目的もなかった。極端に言うとこの田舎には森や山しかなかった。隣の座席にはシャベルの入ったケースや懐中電灯などが入った大荷物が置いてある。田舎に何の用があるかと言うと、僕はある物を掘り起こすために各駅停車に揺られながらある山へと向かっていた。どうやらそこには僕が知るべきことが書かれた重要な物が埋められているようだった。
肩にかけたウエストバッグの中から三つ折りになった紙切れを取り出す。その紙切れを開くと中には二つの小数が書かれていた。両方の数字とも小数点以下は十四桁まで数字が羅列されており、一つ目の小数の整数部分は二桁、二つ目の数字の整数部分は三桁の数字で構成されている。この紙は三日前に滝川さんに渡された物で、僕は初めてこの二つの数値を見た時、脳内には中学生から慣れ親しんでいるデカルト座標系が思い浮かんだ。一般的に中高生で習うX軸線とY軸線が直角に交差する座標系のことで直交座標系とも呼ぶらしい。数学教師がこの名称を何気なしに口にしていただけなのだが、僕はそれが数学の奥深さを物語っているようで妙に印象に残っていた。
滝川さんによれば僕の予想はほぼ正解だったらしい。しかし、これは数学世界での座標ではなく地球における座標、つまり緯度経度を表すようだった。彼女の声を頭の中でリプレイ再生する。滝川さんのあの一言に至るまでの会話を電車に揺られながら思い出していた。
「これは……何かの座標なのか?」紙切れを見つめながら彼女に尋ねる。
「……ほぼ、正解です。正確には緯度経度を表しているみたいで……」
「緯度経度? これがどんなふうに琴葉に関係しているんだ?」
彼女は僕にだけ伝えることがあると言った。それはきっと火災事件のことかその事件以降に琴葉がどうなったかを語るのだろうと思っていた。しかし、その話の前に彼女は僕に何かの座標を記した紙切れを渡してきた。このメモと琴葉がどう結び付いているのかは不明だが、先に手渡してきたということはきっと何か重要な意味を持つのだろう。
「そうですね、それについて話す前に私と琴葉さんの関係から話した方が良いと思うので、まずは最初から全て話そうと思います」
「分かった」と僕は返事をして彼女の話に耳を傾ける姿勢を取る。
「……」
しかし、数秒経っても彼女は口を開かなかった。視線を彼女へと向ける。正確には言えば、口は開いていたが声が出ていないようだった。何度も口を開いて話し始めようとするが、口を開いて閉じてと繰り返せば繰り返すほど、喉が詰まったかのように言葉が出てこなかった。
「私は……あの日。わた、しは……、あの、わ……たし……」
次第に彼女の声は小さくなっていき、顔を下に向けた。僕は何も声を掛けず、滝川さんが何を話そうとしていたのか、なぜ言葉が詰まったのか、その理由を考えていた。様々なシーンが僕の脳内を駆け巡る。その中には琴葉の日記に書かれていたような虐めにあっている彼女や琴葉の死を嘆く彼女の姿が映っていた。どんな苦悩や辛さが彼女の身に降りかかっているのかは分からない。あくまでそのシーンたちは僕の想像でしかなかった。僕には彼女がどんな感情を抱いて、どんな気持ちで苦しんでいるのか想像がつかなかった。故に僕は何一つ声を出さなかった。ここで「大丈夫」と声を掛けても何の意味もない。彼女の心情を全く理解していないのに慰める行為はあまりにも無責任だ。
「滝川さん」
僕が名前を呼ぶと、彼女は「ごめんなさい」と一言だけ呟いた。
「正直に言うと、僕は今すぐにでも話を聞きたい。けれど、今の君にはきっと難しいんだと思う。だからこれだけ答えてくれ」
彼女はしきりに申し訳なさそうに体を縮こませていた。僕は手短に今までの推理を話すことにして早口で全てを語った。すると、彼女の顔がみるみる驚きに変わるのが分かった。そして、僕は最後に彼女に尋ねた。
「琴葉は、生きてるのか?」
長い程の間がその空間を支配する。彼女は大きく息を吸い込んで呼吸を整えた。顔を上げて僕の目を見つめる。
全てを吐き出すかのように彼女はたった一言だけ呟く。
「琴葉さんは……今も、生きてます」
彼女の言葉によって、僕の中に根を張っていたただの可能性が事実として昇華し、疑念が確信へと変わった。その言葉を聞いた僕は彼女に礼を言って早足で店を出た。
この座標に全ての答えが埋まっているはずだ。僕は二日かけて準備を整え、すぐにこの座標が指し示す山奥へと向かった。理由は単純だった。真実を明らかにし、琴葉の側へと戻るために僕は全てを知る必要があった。
電車に乗ってから二時間ほど経過して、ようやく目的地の終着駅に到着したようだった。電車の扉が開いてホームに降り立つと田舎特有の青臭い匂いが一気に鼻に抜ける。都会の排気ガスが入り混じったものとは明らかに異なる匂いに僕は少しだけ感動を覚えた。自然を感じられるような匂いや緑豊かな景色がなんだか嫌いではなかった。喧騒の多い都会よりも物静かで自然に囲まれた田舎の方が読書には適しているし、人間関係を築くことがあまり好きではない僕にとっては相性が良いような気がした。
改札口を通り抜けて駅の出口から外へ出ると遠くの方にバス停があるのを見つけた。ちょうどバスが到着したようだったので急いでそのバスに乗車した。ここまで来れば目的地はすぐそこだったようで、案の定二十分ほどで目的地の山奥へと続く階段の入り口に到着した。懐中電灯などが入った荷物とシャベルが入ったケースを背負いながら僕は目の前の山頂へと続く階段を登り始めた。登山道を進んでいく中で高齢者夫婦や四人組の友人グループといった何組かが僕を追い越していたが、そのほぼ全ての人達が背負っているシャベルや大荷物を見ては訝しげにしていた。ある程度登っていくと山頂へと続く曲がりくねった山道が今度は姿を表した。
その山道を視線に捉えると僕は立ち止まってポケットからスマホを取り出した。スマホの地図アプリから現在地と目的位置の距離間を確認し、その後あらかじめ保存しておいた動画を再生し始める。スマホの画面に映る景色が目の前の山道とちょうど重なる。その動画の撮影者が山道をゆっくりと歩き始めると手ぶれのせいで景色が揺れた。動画には撮影者の呼吸音や枯れ葉を踏みつける音といった音声が全く無く、この山道を歩いていることが分かるだけで撮影者に関する情報が一切載っていなかった。だが僕はこの撮影者が誰かを知っていた。
「琴葉……」無意識に彼女の名をぽつりと口にする。
動画の撮影者はまさしく琴葉だった。この映像は滝川さんから話を聞いた後日に彼女から送られてきた二つの内の一つで、彼女曰く具体的な場所までの道のりを示すためのものらしい。動画に映っている琴葉が山道を歩いていくのを片手に確認しながら同じ道を辿っていく。左右には無数の木が空に向かって真っ直ぐと伸びており、色んな種類の雑草が生い茂っていた。枝や葉を手で避けながら前に進んでいく。
すると突然、動画に映る景色が変わったことに気付いた。一度立ち止まって動画を一時停止し、数十秒前からもう一度再生し始める。動画に映る琴葉はさっきまで見ていた通りに同じ山道を歩いている。動画をリプレイ再生して景色が急に変わった場面に戻ると琴葉がどこへ向かったのかすぐに分かった。人が登っていくことを想定して舗装された登山道に比べて、琴葉が突き進んでいる場所は無数の草木や枝乱雑に生えていてあまりにも険しいものだった。片手で掻き分けながら進んでいるので先程とは違って画面がひどく乱れている。
視線を琴葉が進んだ方向へ向ける。到底降りることができるとは思えないようなこの斜面を琴葉はどんな目的があって訪れたのだろうか。他人に見せたくない余程の理由も隠されている気がした。僕は覚悟を決めて目の前の舗装されていない斜面を降りることにした。左右に生えている枝によって体を傷つけないようフードを奥深くまで被り、足元に気をつけながらゆっくりと降り始めた。草木の擦れる音や体を無理やり通すことによる枝が折れる不愉快な音が耳に届く。
十分ほど経過した頃、映像の中で前に進み続けていた琴葉が足を止めた。いつのまにか斜面から平面へと変わっていたことに遅れて気付いた。先程まで下っていた斜面に比べてほんの少しだけひらけた場所に出たようだった。無数の幹の細い木々が約二~三メートルの間隔で生えていた。少しだけ溜息を吐くと再び映像へと目を向ける。
一度足を止めた琴葉は再び歩き始めて、僕も彼女の行動に倣って同じ方向を歩いていく。なんとなくだが琴葉はある木に向かって歩いているような気がした。その予想は見事的中して琴葉は何の変哲もない木の前で立ち止まり、背負っていたであろうリュックや手荷物をそこら中に下ろし始めた。僕も持ってきたシャベルやリュックを適当に置いた。
改めて映像を確認するとなんと映像はすでに終わっていた。どうやらこの場所が彼女の目的地のようだ。ここにあの事件に関する全てが埋まっているのかと考える。僕は早速その真実を掘り起こすために滝川さんから送られてきたもう一つである画像ファイルを開いた。その写真には目の前に生えている木と同じ種類のものが写っており、ある木の前にはさっきの映像で見た琴葉のものと思われるリュックや荷物が置いてあるのが見えた。そして、ある一箇所の木の前をインク使ったかのように赤く囲まれている。おそらくその場所に何かが埋まっているのだろうと考え、シャベルを手に取って地面に眠る何かを掘り起こし始めた。
掘って、掘って、ただひたすら掘り続ける。意外にも体全身を使う動作のせいなのか、ものの数分に息切れを起こし始めた。
掘って、掘って、ただひたすら掘り続ける。一心不乱に土を掘ってはそこら辺に捨てるが一向に目的の物が姿を現さず、二十分経過したところで汗が吹き出し始めた。
掘って、掘って、ただひたすら掘り続ける。ついには掘り疲れてしまい、五分作業しては十五分休憩するという効率の悪さが目立ち始めた。掘り始めてすでに一時間が経過していた。
掘って、掘って、ただひたすら掘り続けていると、カツンとシャベルの刃先と金属がぶつかり合った感覚が手に伝わった。周囲の土を払い除けるとそこには何の特徴もないシルバーのスチール缶が埋まっていた。おそらくこれが琴葉によって埋めたもので、中にはあの日の真実が書かれているのだろう。シャベルで土を掘り、そのスチール缶を土の中から取り出した。
穴のすぐそばに腰を下ろして地面にスチール缶を置く。頑丈に閉まり切った蓋をどうにかして切り離して外すと、中には琴葉の両親から受け取った日記帳の色違いのものと黒に染まったスマホがジップロックに包まれながら入っていた。ジップロックの中に入ったスマホを取り出し、電源を入れようとサイドボタンを長押ししたがバッテリーが切れているようで画面がつかなかった。後ほど帰宅する途中であらかじめ持ってきたモバイルバッテリーで充電することにして、とりあえず色違いの日記帳を開くことにした。
日記帳を開いて一ページ目から順番に目を通してゆくが、いくらページを捲っても何一つ書かれておらず、新品同様に真っ白なページが続いていた。罫線が規則正しく引かれており、何かの絵すら見かけなかった。数分かけて半分ほどページを捲るが何一つあの事件の真実に結びつくような言葉は書かれていなかった。しかし、僕はその手を止めるという愚かな行為をすることはなかった。このような誰一人近づかない森の奥深くに琴葉が訪れたことには何か重要な意味が隠されているはずで、こんな場所に意味ありげなスマホや日記帳を埋めたことに関しても重要な意味を持つはずだ。何もかもを諦めるのは全て証拠を精査してからで遅くはないだろう。
さらに数分かけて日記帳のページを捲り続けていると、ついに何か文字が書かれているページに辿り着いた。見開きの右ページの右下にインターネット関連のサービスを提供している大手企業の名前が小さく書かれていた。一般的にスマホにデフォルトで入っているWebブラウザはこの企業が提供しているものだ。
最後のページまで目を通しても、この日記帳に書かれた文字はこの企業名だけだった。なぜ琴葉はその企業名をここに記したのだろうか。僕はてっきり日記帳にはあの事件の真実や琴葉が何を考えてどのような行動をしたのかを詳細に書き残しているのだと考えていた。可能性のある理由を頭の中に挙げていく。
滝川静香が嘘を吐いたのだろうか。その可能性が一切ないとは断言することはできないが、彼女が嘘をついているとは思えない。それに僕と琴葉が友人関係にあることと僕の名前を知っているのは琴葉と一ノ瀬さんの二人だけで、その情報を他人が知るには限られているだろう。何よりもこの日記帳やスマホを隠したのは琴葉本人なのだ。琴葉が意図的にこの日記帳とスマホを用意して、滝川静香に緯度経度と僕の名前を教えたと考えた方が自然だ。
ならば琴葉はどんな目的があって、ほぼ空白の日記帳を僕に見せようと考えたのだろうか。逆に言えば、この日記帳を僕が受け取ることで何か意味を成すのかもしれない。流石にこの企業名単体では何も意味を持つということは無いはずで、おそらく僕が今持っている情報と組み合わせることで浮かび上がってくるのだろう。それに加えて、組み合わせる情報は琴葉が間接的もしくは直接的に僕に与えたものに限定される。琴葉側からすると僕がどんな情報を持っているか不明なわけで、僕に何か気づかせようとするなら確実に情報を渡す必要があるだろう。そうなると琴葉が書き残した僕宛の手紙や虐めに対する苦悩が書き殴られた日記、そして手元にあるスマートフォンが一番可能性としてあり得るだろう。
次に企業名の意味について考えてみることにした。この大手企業はインターネットサービスを提供しており、具体的には世間的に最も利用されているWebブラウザやアカウント作成が必要なフリーメールサービス、そして個人のファイルをクラウド上に保存できるオンラインストレージサービスが挙げられる。企業名でなくともこのようなサービスのどれかが関係している可能性もあるだろう。
間違いなく今の僕は真の意味を汲み取るために何かしらの情報を琴葉から与えられているはずだ。一見、全く結びつかなそうな要素が僕の予想だにしない所で繋がっている可能性すらある。確実に何か意味が隠されている情報が僕の頭の中には存在しているのだ。しかし、何一つ結びつく気配を見せることはいまのところ存在しなかった。僕宛の手紙はただ単にメッセージを伝えたいだけだろうし、虐めに遭っていた日々を記録したあの日記帳もストレスや苦悩をぶちまけるために使っただけで特に意味はない気がした。大手企業の会社名だって様々なインターネットサービスを提供しているだけで、琴葉がその企業に身を隠しているとかの可能性がない限り何の意味も持たない。
僕の持つ情報にどんな意味が隠れているのか考えれば考えるほどすぐに行き詰まっていった。僕が持つ情報のほぼ全ては琴葉が生きているという結論を導くことに使ってしまっており、それ以上の意味を持つことはない。だからこそこれ以上考えても企業名と結びつくような情報を見つけ出すことはできなかった。琴葉の死を知ってから得た情報の中で利用価値のあるものはほぼ残っていなかった。
探し出すならそれ以外の情報を探るしかない、とまで考えて僕は勢い良く顔を上げた。琴葉の死を知る前に得た情報ならどうだろうか。琴葉から直接的もしくは間接的に受け取った情報の中で、未だに意味を持っておらずずっと違和感が残っているもの。数分ほど目を閉じて探し出していると、頭の中にあるパスワードが思い浮かんだ。
「neRIne0809……。そうか、ウェブアカウントか」
琴葉からショートメッセージが届いた八月二十五日、刑事である父に琴葉の死を知らされたあの日だ。その日の今朝方、琴葉と思われる人物から全く知らないメールアドレスとパスワードと思われる文字列が書かれたショートメッセージが僕へと送られてきた。そして、この企業はクラウド上に複数のファイルを保存できるオンラインストレージサービスを提供している。つまり、このサービスのウェブアカウントにこのメールアドレスとパスワードを入力してログインするというのが琴葉からのメッセージなのだ。オンラインストレージにはあの事件の真実やそこに至るまでの琴葉の行動、そして現在の琴葉の居場所の手がかりがあるかもしれない。琴葉が生きていると結論付けた日から琴葉の足取りを追うことに必死ですっかり忘れてしまっていた。
早速、そのオンラインストレージのログインページへアクセスし、あの日送られてきたメールアドレスとパスワードを入力する。入力を終えてサインインボタンを押すと、そこには一つのファイルが保存されていた。たった一つのそのファイル名には『真実』と書かれていた。
夕暮れ時、僕はその場に座り込んだまま琴葉が書き残した真実に目を通し始めた。
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