*** 二〇二〇年 九月八日 火曜日
再び嗅いだお線香の匂いに僕はまだ慣れそうになかった。手を合わせていた僕がゆっくりと目を開くと、葬式で見た彼女の遺影が僕の目に飛び込んできた。無愛想に映る彼女の姿を見るのはこれで二回目だ。胸の奥底が暗く赤黒い感情に支配されるのと同時に、アリスの笑顔を写した記憶が鉛のように重くなって闇深く沈んでいく。
彼女が笑わなかった理由を、僕はもう知っている。毎日のようにクラスメイトに虐められていた彼女は何を考えて、何を感じながら学校に登校していたのだろう。ただ息苦しくて辛い現実が待っているだけの場所へ自ら向かうことに、何度も玄関前で躊躇したのだろうか。君がこの世界で生きるための意味や希望はあったのだろうか。遺影を見ながらそんな疑問を頭に思い浮かべて問い掛けたが、当然誰も答えてはくれなかった。
手を合わせるのをやめてテーブルの奥側に座っている男女の前に座り直す。目の前の二人に「この度はご愁傷様でした……」と頭を下げる。二人は悲観な表情を出すまいと口元に力がこもっていた。二人とも四十代後半の老け具合で、男性の方は目が細く厳格な雰囲気を纏っており、ボブカットの女性の方が男性よりも身長が低く男性よりも頬の皺が目立っていた。
一度、大きく息を吸う。意を決した僕はゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。
「今日は突然、押しかけてしまって本当に申し訳ありません。実は娘さんの友人としてお願いがあって来ました」
男性の方が「……お願いというのは、どんな?」とゆったりとした口調で呟く。
「単刀直入に言います。琴葉さんの事件に関して詳細な情報を教えて頂きたいんです。ご両親の知っている全てを」
僕の頼みを言った瞬間、なぜかアリスのご両親は目を見開いて顔を見合わせていた。
いま僕はアリスのご両親の住んでいる実家にやって来ていた。父から教えてもらったのはアリスの実家の住所だった。僕一人で調べるには限界があるのは分かりきっていたので、遺族であるアリスのご両親に事件の詳細な情報を教えてもらうと考えたのだ。以前、小説で読んだ際に知ったのだが、被害者連絡制度というものがあり、警察から事件の捜査状況や加害者の氏名などを連絡してもらうことができるようだった。被害者遺族であるご両親であれば何か事件に関する情報を手にする事ができるかもしれなかった。
父が実家の住所を教えてくれた理由は分からない。お線香を上げに行きたいからだと言ったが、警察官である父にはきっとこの嘘はバレているだろう。僕が事件の詳細を聞きに行こうとしているのを知った上で教えてくれたのかもしれない。その場合、たかだか高校生が事件の詳細を知ったところで何もできないだろうと思ったのだろう。
それでもこれは僕にとって唯一のチャンスだった。ご両親の口からしか事件について詳しく知る術はないし、事件の細かな情報を知らずには犯人の検討さえつけることはできないのだ。
僕とアリスのご両親の前に長い沈黙が流れる。ちらっとご両親の表情を見やると互いに何やら考え込んでいるようだった。僕は内心焦り始めていて冷や汗をかき始めていた。ここで失敗すれば、一生アリスの死因について調査しようがなくなる。流石に家に上がり込んで事件の捜査状況をすぐに尋ねるのは唐突すぎたかもしれない。というか普通に考えれば非常識なのだが、早く事件について知りたいがために我慢ができなかった。
それに加えて、なぜあんなにも異常なほど驚いた表情をしたのかが分からなかった。もし、僕の非常識な行動に対して快くおもわなかったのであればすぐにでも怒りを露わにするだろうし、ただ単に驚いたのであればそれにしては面食らいすぎだった。
「……分かった、全て君に話そう。何が聞きたいんだ?」
長かったこの沈黙を破ったのは意外にもアリスの父親だった。とりあえず失敗ではなかったようだった。何も言わずに了承したことに違和感を抱きつつも口を開いた。
「えっと、じゃあまずはどういう風に亡くなっていたのか、教えて頂いてもいいですか?」
「娘は……白骨遺体としてあの家で見つかったらしい。あの家が火事になって、消防車が駆けつけてから鎮火作業の中で発見されたと警察は言っていた。だが通常の火災で白骨遺体になることはないから、自殺や事故よりも他殺の可能性が最も高いいらしい」
ここまでは父から聞いていた内容と相違なかった。どうやら父は僕に嘘をついていなかったらしい。
アリスの父親は「それに……」と続けようとしたが、険しい表情をして口を噤んだ。何か言いたくないことでもあるのかと思った所で彼は無理矢理言葉を続けた。
「それに、他殺が疑われたのはもう一つ理由が……。娘の遺体の一部、頭蓋骨が粉々に割れていたそうだ……。何か鈍器のようなもので粉々になるまで殴られた可能性があると」
「あぁっ――、くぅっ……!」
その言葉を口にした瞬間、我慢できずにいたアリスの母親が声をあげて泣き崩れた。彼女の咽び泣きながら上げる嗚咽が耳に届く中、今度は僕が目を見開いていた。詳しい話を聞くと、どうやらあの木造建築の家は一階しかなく木柱の転倒ではありえない粉砕の仕方をしていたらしかった。通常の火災ではありえない白骨遺体と自然ではない頭蓋骨の破損から警察は他殺の可能性を考えたことになる。
「そう、なんですね。辛いことを尋ねてしまいすいませんでした……」
彼は「いや、大丈夫だ」と短く答える。僕は数秒無言になってから再度口を開いた。
「……これは別の質問になるんですが、家の前や道端には防犯カメラは設置されていなかったんですか?」
「実はあの家には玄関先に一台だけ防犯カメラを設置してある。それと道端にある防犯カメラを合わせると計三台設置されていたらしい。そのうちの二台に怪しい人物が写っていたそうだ。火災事件の前日に玄関先の防犯カメラには娘を虐めていたクラスメイトがあの家を出入りするところ、そして火災が起こる数時間前にも、同じ制服に身を包んだ少女が道端の一台の防犯カメラに逃げるようにして写っていたようだ」
「事件の前日と当日に同じクラスメイトが写っていた……?」
「……警察が言うには娘自らクラスメイトを家に招いていて、約三十分後にそのクラスメイトが焦りながらあの家から去る様子が写っていたそうだ。そのクラスメイトが殺したと睨んで捜査していると言っていた」
自分を虐めていた人間をアリス自ら家に引き入れた? そして火災現場から逃げる様子も写っていた? 新たな情報に僕は困惑してしまった。辻妻が合うようにあの日起きたことを推理しようとしてしまったが、先に話を聞くことが重要だと考えてなんとか思考を止めた。
念のためにその人物の名前を聞いてみたが、まだ事件の犯人だと確定していないため教えられていないようだった。
「……他には何かありませんでしたか? 例えば、何か事件に関係するものが現場に見つかったとか、生前の琴葉さんに何か不審な動きはなかったのかとか」
「……それ以外、特に何も分かっていないらしい」
僕は「そう……ですか」と答える。ご両親から得られた情報は他殺である可能性が高いことを示す根拠とアリスを虐めていたクラスメイトが事件の直前に顔を合わせていたという事実だ。必須ではない細かい情報を除けば警察とほぼ同じ大まかな情報を得たことになり、これでようやくスタートラインに立って、あの日起きてしまったことについて己の手で調べる事ができる。
「色々と教えて頂きありがとうございました。僕はこの辺で失礼しようと思います」
もう何も情報を引き出すことはできないと考えた僕は立ち上がって礼を言おうとした、その時だった。
「少し待ってほしい。君に渡すものがある」
彼はそう言うと立ち上がって、すぐ近くに置いてあったタンスの奥深くから何やら茶封筒と浅緑色をした日記帳を取り出した。彼は渋い表情をしながらその二つを僕の前に差し出す。
「これは一週間前に郵便で届いたもので、差出人は……娘だ」
僕は驚きのあまり、「アリスが……!」と声を荒げて言い慣れた名を呼んでしまう。ご両親は聞き慣れない『アリス』という単語が何を指すのか分からないようだったが何も言わなかった。どうやらその二つはアリスが亡くなる前に郵便局へ持ち運んで日時指定で送れるようにしておいたらしい。
深呼吸を一度してから改めて座り直す。僕はその二つを受け取るとまずは日記帳の中に目を通した。そこには虐めの内容が赤裸々に書かれており、それがアリスの日記だと理解するのにそう時間はかからなかった。日記には秋野さんから聞いたのよりもっと酷い虐めの内容が書き殴られていた。所々、水がシミになって跡が残っていたり、インクが滲んでいたりした。日記にはただひたすら感情が爆発したかのように……苦しい、辛い、そして死にたいっていう言葉が書き連ねられている。
僕は何も言葉を口に出せずにその場に蹲ってしまった。現実味を帯びた内容に頭の中を無数の『なんで?』が浮かんでは次々に覆い被さっていく。なんでアリスがこんなにも精神的かつ身体的な苦痛を味わなければならなかったのか、僕の頭では到底理解できなかった。なぜアリスがこんなにも理不尽な目に遭わなければならなかったのか考える。そんな答えなんて一生出てくるはずもなかった。
……数分が経っただろうか。僕はかろうじて顔を上げる事ができた。葬式の時のように喉の奥から異物が込み上げてくることはなかったが、僕の心は色んな感情や思考が織り混ざってぐちゃぐちゃになっていた。日記の最初の数ページ、時系列的には虐めが始まった五月上旬の部分しか僕は読むことができず、目を背けるようにしてそっと日記を閉じた。今度はもう一つの茶封筒を手にして中身に何が入っているか覗き込む。そこには二枚の手紙が入っているようで、一枚目の中身はこうだった。
『お母さん、お父さん。まずは勝手に死んじゃってごめんなさい。
この手紙を読んでしまっているということは私が自殺に成功したか失敗して殺された時だと思います。親不孝な娘でごめんなさい。
実は私……学校で虐めに遭っていました。外側からは見えない腹部や背中を何度も殴られました。それだけじゃない、雑巾を絞りきったようなひどく汚れた冷水を浴びせられたり、刃物で浅い傷を斬りつけられたりもしました。だんだん痛みに鈍くなっていく感覚、切りつけられた傷口から溢れる血。一度も忘れたことはありませんでした。
こんな悲劇を繰り返してはいけない。だから私は彼女と決着をつけるつもりです。もう二度と会うことはできません。本当に、本当にごめんなさい。虐めの事、相談できなくてごめんなさい。
お母さん、お父さん、仲良くしてね。
二人の子供になれてよかった。できることなら、もっと仲良く一緒に暮らしたかったけど。
さようなら、二人とも愛しています』
この手紙からはいくつか違和感を抱いたが、僕はそれを一旦無視して二枚目に目を通した。
『P.S.この二通の手紙の存在は何があっても警察には絶対に知らせないでください。もしかしたら、同年代の男の子が訪ねてくるかもしれません。その人は私が唯一信頼している人なので安心して二枚目の手紙を渡してください。その人に向けてもう一便、手紙を同封します。君だけがもう一枚の手紙を読んでください。
君へ。
まずは謝罪させてください。本当にごめんなさい。
君がこの手紙を読んでいるということは、私の実家に来てくれたということだと思います。その理由は私には分からないけど、私の死を悲しんでの行動だったら嬉しく思います。
実は私、君と初めて出会ったあの日よりも何年も前にすでに出会っているんです。黙っていてごめんなさい。もしかすると見た目でバレるかもってちょっと期待していたんだけど、君は全然気づいてくれませんでした。一緒に本を読んでくれる唯一の友達だったのに。久しぶりに出会った君は少しだけ違いました。読書が大好きで目を輝かせていた君、少し痩せている君。久しぶりに見た君は落ち着いた雰囲気を纏っていました。君を久しぶりに見かけたあの日、君と再会した日から約一ヶ月前、私の胸の鼓動は高鳴りました。あの頃と同じように君と一緒に過ごせるかもしれないって。
だけど、その日は声を掛けることができませんでした。なぜならクラスメイトから虐められていたからです。あの時の私は虐めによって精神が擦り減っていたから、昔のような女の子らしい顔をしていなかったし酷い顔をしていました。それが猛烈に恥ずかしかったんです。
だから一ヶ月という時間を注ぎ込んで、あの頃と同じ見た目でありながらもお化粧をして綺麗になる努力をしました。ついでに元気な女の子という人格に偽ることで、虐めから程遠い存在だと暗に伝えようとしました。
君と過ごす夏休みはとても楽しいものでした。毎日がきらきらしていて、私の本当の人生の方が嘘なんじゃないかって考えた事もあります。
長くなりそうなので、この辺にしておこうと思います。
最後に私の人生を彩ってくれて、本当にありがとうございました。君は精一杯、人生を生きてください。
さようなら』
読み終えた僕は唖然としていた。この手紙は僕宛で、ついさっきアリスのご両親が不自然に驚いたのはこれが理由だったのかと腑に落ちる。そして脳内で思考が加速してゆくのが分かった。この二枚の手紙から読み取れる事実を上手く理解するために再度手紙に何度も目を通した。アリスと初めて出会った時に抱いた印象やアリスとの関係が一度途切れた時の原因となった夢を思い出す。点と点が繋がっていくような感覚だった。僕が出した結論を確定させるため、冷静さを保ってご両親に一つだけある質問をした。
「もしかして、有栖川琴葉さんは……血の繋がった娘ではなく、施設から引き取った養子なのではないですか?」
「っ!! 何でそれを……」
アリスの母、いや義母である女性は驚いた表情をしていた。同時に僕の想像通りだと確定してしまった。養父である男性も一瞬だけ面食らった表情をしていたがすぐに厳格な表情に戻って「……そうだ」と答え、続けて口を開く。
「娘の琴葉は養護施設から引き取って私たちが育てた」
「……その施設って、
今の僕の発言に流石の彼も驚きを隠せていないようで、僕の予想は的中しているようだった。
相川寮、随分と懐かしい響きだった。僕はその養護施設で約八年間暮らし、八歳の頃に今の家に養子として引き取られたのだ。だから今一緒に住んでいる家族と僕の間には血縁関係がなく、僕は両親のことを父さんや母さんなどと一度も呼んだことはない。八年間も同じ家に住んでいながらも未だに慣れないでいる。
ある程度物心ついた子供が赤の他人を父母と呼ぶことに対して違和感を抱かない訳がない。そもそもこんなにも根暗な人間が誰かと家族と言う意味で親しくなる方が難しいだろう。僕があの家に住むことになった時にはすでに義妹の未希も居て、その中で僕だけが血が繋がっていないという疎外感が今の関係を助長したのかもしれない。あの頃の未希はまだ四歳だったので僕が義理の兄だということは覚えてもいないはずだ。
相川寮の施設内の様子やあの頃の出来事を脳内に思い浮かべる。施設の中央にあるドーナツ型の大きな庭、大図書館のように派手に見えた図書室、そして実はアリスだったあの少女との穏やかで唯一楽しかった幼少期の思い出。なんだか懐かしい気分になった。
しかし、このまま思い出に浸っていても仕方がないので、目の前の現実に意識を戻す。
「この日記帳と二通の手紙、僕が預かってもいいでしょうか?」
僕は目の前の二人に不躾な頼みをした。二人は一瞬だけ悩んだ様子を見せたが、顔を見合わせると「……。えぇ、あなたなら構わないわ」と快く了承してくれた。
僕は最後に礼だけ言うとすぐにその場から去った。得られた情報をいち早く整理したかったからか無意識に早足になっていた。歩を進めながら先程知った事実について考え始める。
アリスの正体は、あの少女だったのか……。その事実に僕は再度衝撃を受ける。
あの夢を見た翌日は過去の少女とアリスが同じ人間じゃないと否定するのに必死だった。似ているのは容姿だけで、読書が苦手だったり明るく振る舞っていたりとそれ以外には何一つ似てやしないから別人だと。もし同一人物ではなくともそれを肯定してしまえば、彼女と友人になりたいと願っていることになる。僕はそれを頑なに認めたくなかった。こんなにもクズな性格をしている自分を露呈したくなかったし、それによって彼女の心を傷つけたくはなかった。
その上で僕は結局、彼女と友人関係を築くことを選んだ。それはアリスが僕の持つ善意の欠如を優しさだと肯定し、少しずつ自分自身のことを認めていけばいいと言葉をかけてくれたからに他ならない。アリスとあの少女は違う人間で、アリスは二人目の友人だと認識することができたのだ。
けどそれは違っていて、アリスはあの少女で間違いなかった。僕のただの思い込みではなかった。となれば読書が苦手なところや明るく振る舞っていたのは彼女の演技だったのだろう。人生で出会った二人目の友人が過去に出会っていて、しかも人生の中の唯一の親友だったとなれば衝撃を受けずにはいられない。けれどもその真実によって、僕の中の何かに変化を及ぼすかと言われればそうでもなかった。僕たちが過去に出会っていたことをアリスは意図的に隠していたようだが、それに対して憤りを感じているわけでもない。できればアリスがあの少女であると彼女の口から聞きたかったが、何も言わなかったということは難しいことだったのだろう。彼女のことだから虐めに遭っていると知られると絶対に嫌われるとか無用な心配をしたのかもしれないし、ただ単純に知られることが恥ずかしかったのかもしれない。
どちらにせよ、アリスとあの少女が同一人物だろうがなかろうが、今の僕には意外にもどうだってよかった。アリスと友人になった事実は変わらないし、あの日起きたことを自分の手で調べ上げたいという意思も変わらない。むしろその意思はより強いものになっている。
アリスの身に何が起こったのか、なぜアリスが死ななければならなかったのか。途中からほぼ走っていた僕はそれら全てを必ず暴いてやると意識を固くして心の中で呟いた。
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