*** 二〇二〇年 九月五日 土曜日
店内は客が羽を伸ばしてゆったりと過ごせるようなBGMが流れていた。窓際からは空上に広がる夕焼けから淡いオレンジ色をした光が差し込んで、各所に並べられた四角いテーブルや木目調の床の一部を照らして彩度を上げている。光と影によって絶妙なコントラストが生まれ、多方面から聞こえてくる音が物静かな空間を作り上げていた。
カフェに設置された木製時計に目をやって時刻を確認すると、彼女との待ち合わせまで残り一分を切っていた。そろそろ例の彼女が現れるはずだった。僕はカフェの入り口へと視線を移動させた。するとタイミングよく入り口の扉が開いて、入店を知らせるドアベルが店の雰囲気を壊さない程度の音量で鳴った。そこには待ち合わせをしていた秋野さんが立っていた。店内を見渡して、すでに席に着いている僕を見つけると、軽くお辞儀をしてからこちらへと向かってきた。
僕の真向かいの席へと腰を下ろすと彼女は近くを通ったカフェ店員にソフトドリンクを注文した。店員が注文を受けてカウンターへ向かうと僕たちの間に沈黙が流れた。僕は彼女の注文したドリンクが運ばれるまで話を切り出さないことにしていた。理由は単純で、カフェ店員にできる限りは話を聞かれたくなかったし、それによって話が中断されることを避けたかったからだ。僕たちがこれから話す内容は決して楽しくもないし、テンションが上がるようなものではない。店員の前で平然と口に出せるような図太い神経は持っていないし、それは彼女も同様のはずだ。故に彼女は視線を机の上に落としたままで、僕に話の切り出しを促してはこなかった。そして、ものの数分でドリンクが運ばれた。店員が再び去るといよいよ本題に入れる雰囲気になったので、僕は大きく息を吸い込んだ。
「今日は来てくれて本当にありがとう。前にも言ったと思うけど、僕は火事で亡くなった有栖川琴葉の学校での様子について知りたいんだ。僕の知っている彼女と本当の姿の彼女には決定的に異なる部分があるんじゃないかって疑ってる。だから頼む。彼女の学校生活について知ってることがあれば全て教えてくれ」
言い終わると同時に僕は両手を膝の上に置いて頭を垂れた。なぜ、一度は学校か警察に通報しかけた女子学生が僕の話を聞く気になったのかは分からない。けれど、待ち合わせをしてまで僕の頼みをきいてくれるのだから、誠意を持って接しなければならない。そちらのほうが話をしてくれる確率は格段に上がるだろう。
僕は目の前に座る彼女の言葉を待った。彼女は視線をテーブルの上に落として頭を悩ませている様子だった。おそらく知っている全てを話すべきか迷っているのだろう。何か後ろめたいことでもあるのかもしれない。
数分経ってから、ようやく彼女は口を開いてくれた。
「彼女は……虐めに遭っていました」
……、………………。
アリスの葬式での雰囲気や遺影に写っている表情からなんとなく察しはついていた。それにも関わらず、彼女の一言に僕はひどく動揺してしまった。僕の記憶の断片に映る彼女と遺影の彼女は激しく乖離していた。それはつまり、そのどちらかが演技だということになる。そのことに気付いた瞬間、虐めに遭っているという状況は可能性としてすぐに想像できた。覚悟していたはずなのにその言葉に衝撃を受けた。思わず頭を抱えたくなったが、いち早く全てを聞き出したかったのに我慢した。
「彼女は入学して一ヶ月経った頃から、クラスメイトによって虐めを毎日のように受けてました。少しでも言うこと聞かなかったら服で隠れた箇所を足で蹴飛ばしたり、個室のトイレに閉じ込めて埃で汚れた水を浴びせたり……とか。もっと酷い時には画鋲を……その、下履の中に忍び込ませたりもしていました。彼女は何一つ抵抗せず、ただただ無言で、学校生活を送っていたと、思います……」
彼女は記憶に残っている残忍な虐めの内容を、時には言葉が突っかかりながらも全て語ってくれた。僕の記憶の中にいるアリスは意味が分からないほどに常に笑っていたのに、実際の彼女は学校生活で何一つ表情も変えず陰湿な虐めに耐えていた。虐めとは、被害者が持つ自尊心を土足で踏み躙るような行為だ。その卑劣な行動が痛みを伴わないわけがない。
アリスは僕と出会う前から虐めによる苦痛や屈辱を胸に抱きながらも、僕の前ではずっと笑顔で過ごしていたということになる。その状況を想像するだけで胸糞が悪くなった。
「それを、私は……傍観していました。私は有栖川さんを助けようと、しなかったんです。本当にごめんなさい……。ごめん、なさい……」
ひとしきり語り終えた彼女は目を潤ませながら謝罪の言葉を、何度も口にした。今にも泣き出しそうになっていたが、どうにか嗚咽をこらえているようだった。
「君は悪くない。身を挺して被害者を守ろうとするのは勇気のいることだし、ただ怖くて傍観しているのは当然だ。僕だって自分を犠牲にしてまで赤の他人をわざわざ助けようとしない」
「それでも、私は考えてしまうんです。何も行動を起こそうとしなかった……。何か、できることがあったはずなのに」
「なら、いつまでも悲観していないで前に進むべきだ。今後同じような状況に陥った時のために自分に何ができるか、どうすれば助けになったのか考えるんだ。厳しいことを言うようだけど、もしここでいつまでも後悔していたら、それはきっとただの自己満足で偽善になるだけだ」
彼女の目は僕の両目を捉えて、視線を逸らさずじっと見つめている。
「……誰にだって人前で後悔することはできる。『私はこんなにも他人を思い遣ることができる優しい人間です』って、見せびらかすことは誰にでもできるんだ。これが自己満足と偽善だ。けど重要なのは、その後悔を次に活かせることかどうかだ。同じ状況に遭遇した時にまた後悔するのか、その後悔を糧にして行動するのか。赤の他人を救うために前を向いて歩く人、そういう人がきっと善人なんだ。だから、もし君が後者なのであれば前に進むべきだと僕は思う」
目の前の彼女は「……後悔しないために、前に、進む」と僕の言葉を反芻して呟いた。彼女が脳内で言葉を咀嚼している間、続けて僕は口を紡いだ。
「だからこそ、君が後悔しないためにも僕に協力して欲しい。有栖川琴葉がどうやって亡くなったのかを僕は知りたい。そのためには学校での様子をできる限り知る必要があるんだ」
心の中で『誰にどうやって殺されたのか』を知る必要があるからと付け加える。
「……わかりました。ぜひ協力させてください。ただ、それは警察に任せた方がいいんじゃないんですか? 一般人が調べるには、限界があると思います」
彼女の疑問は至極当然のものだった。しかし、警察が他殺の可能性も含めて捜査していることは報道もされていないので、アリスが殺されたかもしれないと僕がここで言うわけにはいかないだろう。僕自身の手で彼女の死について調査したいからだと誤魔化しておいた。
「なるほど、わかりました。あなたに協力します。何が聞きたいんですか?」
「そうだな……。事件の前に、虐めに関して何か不審な点や動きはなかったか教えて欲しい。何か言い争いをしていたとか、この日だけ虐めの内容が特に酷かったとか」
秋野さんは目を閉じながら顎に右手を置いて、悩んでいる素振りを見せた。たっぷりと時間をかけて記憶の中を探っているようだったが、中々当てはまるような出来事を思い出せない様子だった。
「すいません。特になかったと思います」
「そう、か……」
わかりやすく落胆したような顔をしたからか、彼女は「力になれず、すいません……」とだけ付け加えた。
彼女の言葉に心の中で僕は勝手ながら納得していた。目の前の申し訳なさそうに座っている女子生徒とアリスは特段仲がいいわけではないのだから、もしそんな出来事があったとしても運良く出くわすとは限らないだろう。学校でのアリスの様子を知れただけでも収穫があったといっていい。
他に聞けるようなことがなかったので僕たちは喫茶店を後にした。
「今日は来てくれてありがとう」
「いえ、あまり力になれずすいませんでした」
「いや、学校での様子を知れただけでも良かったよ。本当にありがとう。あと君の友達にも彼女に何かなかったか聞いておいて欲しい。彼女の様子がおかしい日があったとか、不審な言動をとっていたとか」
「わかりました」
その後、僕たちは連絡用に電話番号とメッセージアプリのIDを交換して解散となった。途中、彼女は僕に向かって「私に優しい言葉をかけてくれて、本当にありがとうございました」と深く頭を下げてからその場を去った。
何故、お礼を言われたのか僕は分からなかった。彼女の言う優しい言葉が何を示しているのか文脈で理解はしているが、僕は彼女のことを本当に思い遣って言葉をかけたわけではなかった。その方が何かを話してくれるだろうと、それっぽいことを話しただけに過ぎない。僕は未だに『優しさ』というものが理解できずにいた。
帰路に着く中で僕は脳内に彼女の学校生活の想像を映し出した。
遺影の面影を残したアリスが誰とも会話をせず淡々と授業を受けている姿、閉じ込められたトイレの個室で汚水を浴びせられて肩が震えている姿、自分という存在を踏み躙られながらその痛みを心の奥底に隠し込んでいる姿。
気付くと爪が手のひらに食い込んで滴っている血が地面へと溢れていた。言いようのない感情が腹の底から湧き上がってきて全身に力が入ってしまっている。アリスを死に追いやった人間がいまだにこの世に生きている、その事実が僕をどうしても苛つかせた。
アリスを虐めていた奴らやアリスを殺した奴を目の前にして、僕は正気を保てるだろうか。家族や学校、人生の全てのものがどうでも良くなった僕はいとも簡単に一線を超えてしまうかもしれない。アリスを除く他人の存在がどうでもいい僕にとって罪を犯すことは容易いことのように思える。
あの日の真実を知るまでは迂闊なことはできないが、全てを知った後はどうなったっていい。その時の自分自身の感情に従おう。
――それがたとえ人間が犯してはならない最上の罪であったとしても。
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