雲が逃げてしまわないように

橋広 高

雲が逃げてしまわないように

 高校から家までの帰り道は緩やかな上り坂を二十分、自転車を漕いで帰る道だ。その日は8月、昼までの部活の帰りともあって、ジワジワとアスファルトから反射する熱で、俺は蒸されてしまいそうだった。ペダルに体重を乗せるたび、顔の表面から絞るかのように汗がしみ出る。暑さにあえいで開いた口の中に汗が入り込んで酸っぱい。目の中に汗が入ったのか激痛が走り、俺は肩にかけた白いタオルで顔の汗を拭き取った。前を向くと、一人の少年が走っていた。身長は大体俺と同じくらい、どこの学校かは知らないが、白いシャツと紺色のズボンを身につけていた。奇特なのは足元で、ずっと走ってきたのだろうか、靴の裏が擦り切れ中の靴下も繊維がビリビリに破けて、時折見える足裏は皮はズルズルと剥けていて真っ赤で、見てて痛々しいものだった。俺は自転車の速度を上げ、彼に興味心から近づいた。

「何、ハァ、してるんだ?」

 酷暑の中、彼の速度は全く衰えず、なかなか距離は縮まらなかった。しかも案外早かったので、背後に追いつくのにも予想以上の労力を要した。汗で湿ったハンドルは握るのも気持ち悪かった。

「雲を追いかけているんですよ」

 彼は振り返らず真っ直ぐ前を向いたまま、呼吸一つも荒れずにそう答えた。なんで振り返らないんだと思ったが、真夏の真っ昼間、靴下まで擦り切れそれでも走るようなやつの顔を見るのが少し怖かったので口には出さなかった。彼の返答を聞き、俺は空を見上げた。じめりとした粘着性の空気をすべて地上に押し付けてどこまでも澄んだ青空の中心に、巨大な入道雲がそびえ立っていた。真っ青なキャンバスに白の絵の具をベタベタと塗りたくった存在感のそれを彼は追っているようだった。

「なんで雲を追ってるんだよ」

「雲を追いかけてるからですよ」

 俺は何も言わず自転車を漕いで彼を追い越さないようにしていた。ややあって少年が話しかけてきた。

「なんでついてきているんですか?」前を向いたままだった。

「いや、ここ俺の帰り道だし」

 小さい雲がゆっくりと流れる中、入道雲はまるで世界の中心かというほどどっしりと存在していた。俺と彼の二人は言葉もなく坂を登っていく。俺は彼を追い抜かないようにゆっくりと走っていたため、熱くてぬるい風が顔を撫でて汗腺に沁みた。毛穴からなにかがふつふつと漏れ出る嫌な感覚が背中を伝う中、俺はあることが気になって彼に話しかけた。

「なあ、あんた」

 返事はなかった。仕方なくもう一度問い直す。

「なあ……」「聞こえてますよ」

 今度は間髪を入れず返答があった。聞こえてるなら最初から返事しろよ、と聞こえないように呟いた。

「あんたさ、水分取らなくていいのか?首真っ赤だぞ」

「大丈夫ですよ、僕もう体内に一滴も水分が残ってないので」

「は?病院行けよ、死んでるじゃねえか。後早く水飲めよ。死ぬぞ?」

 奴の意味不明な返答に俺も支離滅裂な返しをしてしまった。こんな変人でも、目の前で死なれてもらうとやっぱり気分が悪いし、なによりこんなやつが俺のトラウマになることは阻止しなければと思った。やつが口を開く。振り向くことは決してなかったが、斜め後ろから見ると顎が動くのが目に入る。

「嫌ですよ。僕はもう走っていないといけないんですから。僕に止まれっていうのは直ちにその場で死ね、って言うようなものですから。わかってます?」

 俺は諦めと困惑で頭を掻いた。髪の毛に付着した汗で右手がしっとりと湿る。奴のことを、心の中でミイラと呼ぶことにした。入道雲は相変わらずそこにあった。

 五分ほど何もない時間が流れ、鞄の中の水筒が空になった。二人は雲を目印に住宅街を通り過ぎようとしている。ここを右に曲がれば俺の家だ。そもそもミイラと俺には何の接点もないのでここで分かれるのが普通で当然だ。だけど気付けば俺は直進していた。俺は気になったのだ。こいつが本当に雲に追いつくことができるのか。こいつがこれほどまでに惹かれているあの入道雲は他のと何が違うのか。俺も雲を見たいと思い始めていた。この決断に、迷いはなかった。

「まだ家についてないんですか?」

「あ〜、さっき通り過ぎたな」

「え?ならなんでまだついてきてるんですか」

「いや、別にマクド寄ったって言えばいいんじゃない?」

「そういうことじゃないですよ」

「あんたさ、マクド派?マック派?俺はマクド」

 俺はペダルに力を込めた。セミがガンガン鳴いていて、入道雲は高く広く空にはばかっていた。

 もうすぐ頂上に着くのか、傾斜は少しずつ緩やかになっていった。来たことのないような道で、手入れのされていない街路樹が道の上に木陰を作っていて若干涼しい。雲は相変わらず視界の中央にいたが、距離はあまり縮まっていないように思えた。表面はでこぼこしていて、陰影がくっきりとしている。

「なあ」

「なんですか?」

「雲に追いついたら、あんた何するつもりなんだ?」

「え?」

 虚を突かれて驚いたような声が喉奥から漏れた。鳴いているセミの喧騒の中に、その声が沁みて消えた。

「逆に、なんで追わないんですか?」

 予想通りの反応に、俺は雲を見て、その大きさに俺の中身を全部吸い取られて、こんな些細なことどうでもいいと思った。

「まあ確かに、そうだな」

「ならあなたならどうするんですか?」

 俺は緩やかにブレーキを掛けた。自転車を止め、両手で写真を撮ったり絵の構図を考えたりするときのように四角を作り、その中に入道雲を入れる。夏の雲は明るいところも暗いところも包み隠さず青空に映し出す。雲の影がテラスやベランダに見えたので、

「そうだな、とりあえず住んでみるか。雲の城っつって。いい響きだな」

 なんて漏らしてみる。四角の高さをどんどん下げて、腕が地面と平行になると、すでに遥か彼方を走っているミイラが見えて、もう下り坂に差し掛かるのか、足元から姿が消えていく。

「やっぱアイツ、血も涙もねえんだな」

 皮肉交じりに呟いて俺は彼を追いかける。坂道を登りきると眼下には下り坂が真っ直ぐ伸びていて、どこまでも雲が追えそうな気がした。重心を前に倒し、坂を猛スピードで走り始めた自転車に、俺はすべてを任せた。顔を裂くように吹く風が怖くて心地よくて懐かしい。俺がもっと幼かったとき、こんなふうに後先考えずにバカやってたな、と今よりも熱くて、今よりも楽しかった夏を思い出す。中学校になって別々の学校に進学して疎遠になった親友の吹き抜けるほど爽快な笑い声が脳内に反芻する。俺は風をより浴びようと背筋を伸ばした。突然ハンドルがガタガタと揺れ始める。

「ちょ、ちょちょちょちょ」

 揺れが次第に大きくなり、加速が止まらなくなって、自転車が制御できなくなってくる。夏の暑さで頭がやられて笑いが止まらなくなってきた。

「ハッハハハハ」

 遂にミイラを追い越してしまった。坂を馬鹿みたいに落ちていくのが楽しくて楽しくて顔を見ていなかった事に気づいたとき、俺は自転車ごと坂の脇に転げ込んだ。全身擦りむいてヒリヒリする。ズボンの繊維もビリビリに裂けてしまった。我に返り、落ち着いて斜面に仰向けになる。桃の実が木になっているのが見える。その奥に、白い雲が視界の背景を占めるように浮かんでいると、やっぱりどうでもよいと感じてくるのであった。

 俺の前に、腕が一本伸びてきた。

「ちょっとちょっと〜、大丈夫ですか?」

 俺の前に回り込んだミイラが、立ち止まって俺に手を差し出してきたのだった。

「そんなこと言って、あんたは止まっちゃって大丈夫か?」

 ミイラはクスクスと笑った。彼の顔を覗いてみると、至って普通の少年の顔だった。

「もう、そんなこと言っちゃって〜、自転車から盛大にずっこけたような人から……そんなこと……」

 その顔が言葉を紡ぐたびに少しずつ恐怖に歪んでいく。というよりは俺の後ろにある何かを恐れているようだった。震える唇から音が漏れる。

「嫌だ、終わりたくない。戻りたくない。終わらせたくない。引き戻さないで。夏から引き戻さないで。おねがい」

 俺は何気なしに後ろを振り返った。

 はじめは雲もなにもない坂だった。しかし次第に頂上から滲み出てきた声が耳を圧迫し始める。戻ってきて、夏は終わったのよ。あなたの夏は終わったのよ。覚めなさい。現実に戻ってきなさい。続けてゾワゾワと、真っ黒な腕が地面を這って下ってくる。声を出して逃げようと思ったが、体が動かない。高速で降りてきた手々が俺の顔を掴みかかり、その瞬間俺は目が覚めた。

 最初は状況が把握できなかったが、天井の白と腕に刺さった点滴を見て、俺が熱中症で搬送されたことを知った。看護師がいくつか俺に質問をして、医師を呼んでくると病室を去っていった。換気の為開いた窓から、青空の一端が見えたので、ベッドから降りて窓際に寄った。空には大きな雲が浮かんでいた。追おうとは思わなかった。

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