エピソード20

祭りの次の日から一週間、私と蓮さんは毎日いろんな所に出掛けた。

早起きして水族館や遊園地に行ったりした。

意外な事に料理が上手な蓮さんと一緒にお弁当を作って公園に行ったりもした。

一緒にと言っても、料理をしたことがない私は『卵を割って』と言われて緊張の余り卵を殻ごと握り潰してしまった……。

おにぎりを作っても蓮さんのきれいな三角形のおにぎりに比べて私が作ったのは歪すぎて三角形には程遠かった。

そんな私を見て蓮さんは楽しそうに笑っていた。

結局何も出来ない私は洗い物係りに任命され、使い終わった調理器具を洗いながら、慣れた手つきで料理を仕上げていく蓮さんの手元を見つめてた。

蓮さんは何でも出来るんだと感心しながら……。


夜は、毎日のようにケンさんからお誘いの電話が掛かってきた。

祭りの2日後にケンさんと会った時に勝手にクラブを飛び出したことを謝ろうとしたら先に『気にしないで』と言ってくれた。

でも、突然いなくなった私を探す為にケンさんがチームを動かしてくれたのは確実で……。

申し訳ない気持ちで一杯になっていると『美桜ちんを見つけるのが後5分遅かったら、蓮は自分の組の人間を動かしていたよ』と恐ろしい事を楽しそうに話していた。

それ以上は怖くて聞くことが出来なかった……。

一日おき位のペースで一緒に夕食を食べた。

ケンさんと一緒に葵さんも来てくれた。

毎回、何を食べるか決める度に『焼肉!!』と叫ぶケンさん。

その度に葵さんが激怒して、ケンさんは焦りモードに突入していた。

そんな葵さんのお陰で焼肉コースは2回に留まった。

4回行ったうちの2回……。

でも、葵さんがいなかったら毎回焼肉コースだったと思うと、本当に葵さんに感謝するしかなかった。

葵さんにも『心配をかけてごめんなさい』って謝った。

『私も美桜ちゃんと同じような経験があるから』と言ってくれた。

『あゆちゃんもね』と付け加え無邪気な笑顔で笑っていた。


私と蓮さんの距離は祭りの日の出来事で少し近付いた気がする。

蓮さんの過去にヤキモチを妬いた事で自分でも気付かないうちにかけがえのない存在になっていると分かった。

そう認めた途端一緒にいれることが本当に幸せだと思った。

それと同時に大きな不安にも襲われた。

蓮さんが私から離れてしまう不安……。

メイの言葉を信じる訳じゃない。

私が信じるのは、蓮さんと蓮さんの言葉だけ。

でも、『一回で終わり!!』と言う言葉が頭の中を駆け巡る。

何でもお見通しの蓮さんがそんな私に気付いているのか、いないのか私には分からない。

今までと同じように蓮さんと私はキスをしたり一緒にお風呂に入ったりしてる。

変わった事と言えばお風呂に入った時、バスタブの中で向き合っていた私を蓮さんが膝の上に載せるようになった事くらい。

私の腰に手を廻して離そうとしない蓮さんに初めは戸惑ったけど背中に感じる蓮さんの鼓動がとても心地良くて……。

この頃では『来い、美桜』と腰に手を廻されると素直に蓮さんの膝の上に座っている。

だけど、それ以上は何もない。

多分、蓮さんは私の心の準備が出来るのを待っていてくれてるんだと思う。

今は蓮さんのその心遣いに甘えていようと思う。

時間が私の不安を取り除いてくれそうな気がするから。

私の身体の傷を癒してくれたように。


「もうすぐ蓮さんの休暇も終わりだね」

バスタブの中で蓮さんの膝に載ってお湯に浮かぶ泡を手で掬いながら呟いた。

「あぁ。お前もだろ」

「……?私も?」

何の事だかさっぱり分からない私に蓮さんは溜息を吐いた。

「学校だよ。もうすぐ新学期始まるだろ」

「……あっー!!忘れてた!!」

そうだった。

すっかり忘れていた。

私、聖鈴に通うんだった……。

真後ろから盛大な溜息が聞こえた。

「今日の夜から始めるぞ」

「……なにを?」

「勉強」

そう言えば蓮さんが教えてくれるって言ってたんだ。

でも。

「今日からで間に合うの?」

もう、新学期まで10日しかない……。

「楽勝だ。俺が教えるんだから」

そう言った蓮さんの笑顔を見て私はものすごく嫌な予感がした……。

その日の夕方マサトさんが聖鈴の制服と大量の参考書を持ってやって来た。

聖鈴の制服は有名なデザイナーが作ったらしく可愛いと評判がいい。

白のYシャツに茶系のチェック柄のスカートにベスト。

冬はそれに茶系のブレザー。

ネクタイは中等部と高等部で色が分かれている。

中等部が赤で高等部が緑。

ハンガーに掛かった制服を私は不思議な気持ちで眺めていた。

これを着て聖鈴に通う事が今でも信じられない。

マサトさんはいつもと同じように蓮さんと主語のない会話をして帰っていった。

テーブルの上に大量の参考書を残して……。

私はそれを唖然と見つめていた……。

「……これ全部やるの?」

「あぁ」

「……誰が?」

「俺がやっても意味ねぇだろ?」

「10日間で?」

「楽勝だろ?」

そう言って余裕の笑みを浮かべる蓮さん。

……楽勝……?

何を言ってるんだろう?

なんか日本語が分からなくなってきた。

あぁ、きっと私、熱があるんだ。

これは、夏風邪だ。

間違いない!!

そんな時は、寝たほうがいいに決まってる。

夏風邪って拗らせるとなかなか治らないって言うし。

よし、今日はもう寝よう!!

私は、立ち上がると深々と蓮さんに頭を下げた。

「おやすみなさい、蓮さん」

そのまま寝室に向かって歩き出そうとして、

……すぐに蓮さんに手首を掴まれた。

「なんで寝るんだ?」

「……ちょっと風邪っぽくって……」

蓮さんが掴んだ腕を引くから私は膝にすっぽりとはまってしまった。

「風邪?」

「う……うん……」

上から見下ろされた私は瞳を泳がせながら答えた。

蓮さんは私の顔を両手で挟んでおでこ同士をくっつけた。

今にも触れてしまいそうなくらいの至近距離にある蓮さんの顔に鼓動が速くなってしまう。

瞳を閉じた蓮さんのまつげが長くて見惚れてしまった。

ゆっくりとおでこを離した蓮さんが瞳を開け言った。

「熱はねぇな。薬飲んどくか?」

「……!?」

その言葉に私は大きく首を横に振った。

「だ……大丈夫!!もうよくなった!!」

怪訝そうな表情の蓮さんの膝から慌てて飛び降り、参考書の山の一番上から一冊取って開いた。

「……ねぇ、蓮さん」

「うん?」

「……これ、小学五年生の問題集なんだけど……」

「そうだな」

蓮さんはそれがどうした?みたいな瞳で私を見つめている。

……いや、可笑しいでしょう?

「私、中3なんだけど……」

「知ってる」

……知ってる?

じゃあ、なんで?

もしかして、私、相当バカだと思われてる!?

納得いかない表情の私に苦笑する蓮さん。

「よし、分かった。じゃあこれ解いてみろ」

そう言って蓮さんが差し出してきたのは公立高校の入試問題集。

「時間は60分な」

蓮さんは、時計を確認した。

私は黙々と問題を解いた。

静かな部屋に、シャーペンの芯が紙に擦れる音だけが響いている。

フローリングに座る私の斜め後ろにソファに座っている蓮さん。

見えないから分からないけど、多分ソファの背もたれに上半身を預けながら私を見つめているはず……。

私がそう思ったのは背中に優しい視線を感じたから。

「……できた」

私はシャープペンを置いて5枚の紙を揃えた。

「早ぇな」

蓮さんがその5枚の紙を手に取る。

私は大きく背伸びをした。

久々に文字なんて書いたから肩が痛くなった。

こんなんで新学期から学校なんて通えるのかな?

私は少しの不安を感じたけど、すぐに組長の顔を思い出して慌ててその不安を振り払った。

「すげぇじゃん。大体出来てる」

蓮さんの声に私は視線を向けた。

驚いた様子の蓮さん。

……やっぱり……。

蓮さんは私の事を相当バカな子だと思ってたんだ。

まぁ、仕方ないけど。

確かに今まであんまり学校に行ってないって言ってるし。

「お前、勉強出来るじゃん」

「テストの点だけはまあまあなの。学校に行かないだけで」

一応テストの成績は学年の上位に入っていた。

生活態度が悪くてもそれなりの成績を取ってれば先生達はそこまで煩く言わないし……。

できれば人と関わりたくない。

それは、学校の先生も例外じゃない。

「これなら聖鈴に行ってもついていけんじゃねぇか?」

そう言って5枚目の紙を見た蓮さんの眉間に皺が寄った。

「美桜」

さっきまでの笑顔が消え険しい表情になる。

私はその理由を知っているから肩を竦めた。

「……なに?」

分かってるけど聞いてみる。

蓮さんが見つめているのは一番下に隠すようにしていた数学の答案用紙。

「……なんで白紙なんだ?」

答案用紙から私の顔に向いた視線に思わず瞳を逸らしてしまった……。

不自然なくらいに勢いよく。

「……分からないから」

答案用紙をテーブルに置いた蓮さんが両手で私の頬を押さえガッチリと固定した。

無理矢理、合わせられる視線。

「どの問題が分からなかったんだ?」

まっすぐに正面から見つめられた私はただ瞳を泳がせる事しかできなかった。

「……全部……」

私が聖鈴に行っても勉強についていけないと言った理由はこれ。

私は、数学が苦手。

公式や図形を見ただけで眩暈がして、数字の羅列を見ると意識が朦朧としてしまう。

だから、他の教科は学年上位の点数でも数学だけはいつも白紙……。

せめてもの救いは数学担当の先生が定年間近のおじいちゃん先生で数学の答案用紙が白紙でも何も言わなかったこと。

だから、数学は全く分からない。

いくら考えても答えなんて出ないんだから考えるだけ無駄。

それが、完璧な習慣になってしまっていた。

何時まで経っても視線を合わせず瞳を泳がせ続ける私に蓮さんは盛大な溜息を吐いた。

「とりあえず、数学だな」

その言葉に私はものすごく嫌な予感がした。

私の嫌な予感は見事に的中してしまった。

その日から毎日毎日、数学漬けの日々。

数学で一日が始まり数学で一日が終わる。

その、生活の中で食事の時とお風呂の時だけが一息吐ける時間。

昨日までは、寝ている時もだったけど今日の明け方数字と図形に追いかけられる夢を見てしまったから……。

蓮さんは、予想通りのスパルタ先生だった。

私の正面に腕を組んで座ってずっと見張ってる。

閻魔大王みたいな表情で……。

でも、蓮さんの教え方はとても分かりやすい。

毎日、最後にするテストの点数は確実に上がっていった。

明日から新学期という日のお昼すぎ、問題集に取り掛かろうとしていたら、目の前に座っている蓮さんが突然口を開いた。

「もう、勉強はしなくていい」

私は、一瞬自分の耳を疑った。

勉強のしすぎで耳が悪くなったのかも……。

いや、もしかしたら私がバカだから蓮さんも諦めたのかも……。

それはそれで有り難いけど……。

その言葉に首を傾げる私に蓮さんが優しく穏やかな瞳を向けた。

「よく頑張ったな美桜。そのレベルなら聖鈴でもついていける」

蓮さんの言葉に私の全身の力が抜けた。

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