エピソード19

慣れない下駄の所為で足が縺れそうになる。

浴衣の裾がはだけそうになるのを押さえながら必死で走った。

自分がどこを走っているのか、ここが繁華街のどの辺なのか全く分からない。

分かるのはここがメインストリートじゃなくて路地裏って事だけ。

周りに誰もいない事を確認してから私は足を止めた。

街灯と自販機の灯りだけが道を照らし出している。

乱れた呼吸を戻す為に深呼吸をする。

久しぶりに走った。

多分小学校の運動会以来だ……。

久々の全力疾走に足が震える。

「……運動不足かな……」

私は一人で呟いて近くにあった裏返してあるプラスチックの箱に腰を下ろした。

汗を拭く為にハンカチを出そうと巾着に手を入れた時、振動に気付いた。

その振動している物体を取り出す。

液晶の文字を見て胸が痛くなった。

今、一番会いたくて……。

抱きしめて欲しくて……。

その温もりを感じたくて……。

声を聞きたくて……。

漆黒の瞳を見たくて……。

そして、一番会いたくない人……。

私は、その淡いピンク色の物体を閉じて巾着の中に閉まった。

ハンカチを取り出し汗を拭いて、タバコを取り出した。

口に銜えて火を吐ける。

口の中に広がる冷たい感覚。

その感覚が全身に広がっていく。

こんな時間に一人で外にいるのはどのくらい振りだろう。

一人でゲームセンターの前にいたのってずいぶん前に感じるけど。

まだ一ヶ月も経ってないんだ。

私はゆっくりと煙を吐き出した。

あの頃は一人でいることが当たり前だったのに……。

……一人ってこんなに寂しかった?

そう思った瞬間涙が零れ落ちた。

蓮さんと一緒にいる時は気付かなかった。

いつの間にかそれが当たり前になってたんだ。

離れてやっと気付くなんてやっぱり私ガキじゃん……。


『アンタだって一回で終わりなんだから!!蓮さんが女に本気になる訳ない!!どうせアンタだって遊びの女なんだから……』

メイの言葉に不安を感じた自分が許せない。

何度も言葉と行動で示してくれた蓮さん。

そんな蓮さんを信じる事ができなかった自分が許せない。

(p.279)

そんな私が蓮さんの傍にいる事なんて許されない。

巾着の中から絶える事無く伝わってくる振動が私の胸を締め付ける。

涙は拭っても次から次に溢れてくる。

私はハンカチで直接瞳を覆った。

真っ暗な視界に浮かんでくるのは蓮さんの顔。

……分かっているのに……。

蓮さんがメイと寝たのは私と出逢う前の事だって。

頭では分かっているのに。

蓮さんがメイにキスをしたと思うと……。

あの大きな温かい手でメイに触れたと思うと……。

あの漆黒の瞳でメイを見つめたと思うと……。

……ヤキモチだって分かってる。

こんな事で私が泣いてたら蓮さんを困らせるだけ。

分かっているのに。

……涙が止まらない……。


突然、身体が温もりと香りに包まれた。

ハンカチで瞳を覆っていても分かる温もりと香り。

「なんでこんなとこで一人で泣いてんだ?」

その優しく低い声に涙が一層溢れ出す。

「お前が泣く場所は俺の胸の中だけだ」

強く抱きしめてくれた。

「美桜の涙を拭いていいのは俺だけだ」

そう言ってハンカチを取りあげられた。

涙で滲んだ視界に蓮さんの顔が映る。

「……な……なんで……?」

「うん?」

「私が……ここにいるって……分かったの……?」

次から次に溢れ落ちる涙を知らない私の涙を拭いながら蓮さんが優しく微笑んだ。

「俺の事をナメてんのか?残念だけど、この繁華街で俺から逃げる事なんか出来ない」

悪戯っ子みたいな笑みを浮かべる蓮さん。

「……ごめんなさい……」

私はそう言う事しか出来なかった。

そんな私を責めようともせずにただ優しく包み込んでくれる。

蓮さんの温かい胸で泣き続けた。


涙が完全に止まった頃、蓮さんはゆっくりと私の身体を離した。

「なにがあったか話せるか?」

街灯に照らし出された蓮さんの綺麗に整った顔。

私を見つめる優しく穏やかな漆黒の瞳。

「……」

さっきの出来事を話すつもりが全く無い私は視線を自分の膝に落とした。

「メイか?」

蓮さんの口から出た名前に私は思わず顔を上げた。

「な……なんで?」

私とメイが会ったことをなんで知ってるの?

蓮さんは私の前に膝をついて、私の両手を大きな温かい手で包み込んだ。

「ヒカルが神社で見たって言ってた。一応クラブでも警戒してたけど……まさかトイレの中でお前に接触するとは思わなかった。悪かったな、イヤな思いをさせて」

そう言って蓮さんは私の手に額をくっつけた。

蓮さんは、トイレでの出来事を全部知ってるんだ。

私に謝る必要なんてないのに……。

「……蓮さんが謝ることないよ。……私のヤキモチだから……」

「美桜」

蓮さんは私の手に額を充てたままだ。

私は蓮さんのアッシュブラウンのサラサラの髪を見つめながら言葉を紡いだ。

「……過去の事だって分かってる。私と出逢う前の事だって……。蓮さんも私の過去を受け入れてくれたのに……。私もそうしないといけないって分かってるのに……」

蓮さんが顔を上げようとした。

「ダメ!!」

私の声に蓮さんの動きが止まる。

「……見ないで……」

「なんで?」

「……」

『ダメ!!』って言ったのに……。

『見ないで』って言ったのに……。

『なんで?』って言いながら蓮さんは顔を上げてしまった。

私は両手を蓮さんに包まれているから顔を隠す事も出来ない。

でも、どうしても見られたくなかったから、私は俯いた。

「顔上げろ」

蓮さんの言葉に私を首を横に振った。

「……いや……」

「美桜」

「……」

「お前の妬いた顔を見ていいのは俺だけだ」

そう言って私の顎に長い指を添えて顔を上げさせた。

絡み合う視線。

漆黒の瞳に不安な表情の私が映っている。

「お前が妬いていいのは俺だけだ」

私の瞳から瞬きと一緒に一筋の涙が零れた。

その、涙を拭いながら蓮さんが言った。

「俺が妬くのは美桜だけだ」

その言葉で心の中にあった黒い歪な塊が溶け出した。

それは、涙と一緒に流れ出ていく気がした。

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