17 拒絶

 朝起きると夜着は汗をかいて冷たくなっていた。

 良くない夢を見ていた気がするが内容は思い出せない。


(昨夜――いつ寝たのかも覚えていないわ)


 寝ている間にヴィクトールに何かされるのではと戦々恐々とし、息を殺すようにベッドの上で丸まっていたのだ。


 だが、時計の針が日付を超えても隣の部屋にヴィクトールがやってくる気配がなかったため……、そのまま眠ってしまったらしい。


 朝起きても、ヴィクトールの部屋は空っぽのようだった。


 そのままネリに起こされて身支度をし、通されたのは昨夜ヴィクトールと食事をとった小さなティールームのような部屋。


 今日もまた二人きりの食事だ。


「おはよう、ユーフェ」

「……おはようございます」


 何事もなかったかのように着席するヴィクトールに、ユーフェは硬い口調で挨拶を返した。


「昨夜は大丈夫だった?」

「え……?」

「ずいぶんうなされていたみたいだったから……、起こそうかと心配したんだよ」

「!」


 静かだからいないと思ったが、いつの間にかユーフェの隣で眠り、ユーフェが起きるよりも早く部屋を出たのか。


 警戒対象の側で眠ってしまったことを悔いながら、ユーフェはナイフとフォークを手に取る。この食事だって、ヴィクトールの気分次第で毒が混ぜられていたっておかしくはないのだ。


(ヴィクトールに対して従順な態度を取り続けよう。こちらに寝返る気があるとわかれば隙をついて逃げられるかも)


「平気です。うるさくしてしまったならすみませんでした」

「いいよ。気にしてないから。それと、これ」


 ヴィクトールは手紙を差し出した。


「なんですか?」

「きみのお兄さんからの手紙が届いていたよ。……読む?」


 昨日、ユーフェが来なかったからだ。

 ということは――ノクトはまだこの街に潜伏している? 近況報告を装って何らかのメッセージが書かれていることは明らかだ。だが……。


 ユーフェは僅かに考え、首を振った。


「読まないの?」

「はい」


 ノクトからの手紙はいつもネリを介して渡される。

 ヴィクトール直々から渡されるなんて何かの罠ではないか。今は食事中だし、気分も悪いし、と言い訳を頭の中で考えていると。


「そっか、……良かった」


 良かったってどういう意味? と思う間もなく、ヴィクトールはその場で手紙を裂いた。封筒ごとビリビリに裂いて床に捨てる。


「兄妹仲がいいのは素晴らしいことだけど……、しょっちゅう文通しているのを見て、実はちょっと嫉妬してたんだよね」


 カチカチとユーフェのナイフとフォークが小刻みに皿にぶつかった。


 わたしは今、震えているらしい。


 ヴィクトールの口調はいつも通りに穏やかなのに、彼の目は一切笑っていないからだ。まるで尋問にかけられているかのよう。


「それと、俺の兄上のことだけど」


 兄? アレックスの事?


 最近は大人しく謹慎しているとかでまったく噂も聞かなくなっていた。


 同じ城にいると言えど、住んでいる区画が違うのでユーフェも姿を見かけることはなかった。そのアレックスが、


「……実は体調を崩されて、先日亡くなってね。次期皇帝の座は俺のものになった」


 アレックスが――死んだ?

 さらりと告げられた内容にユーフェは真っ白になった。


「一月半後まで迫った次期皇帝選定の儀――任命の儀、かな。きみには俺と一緒に儀式に出て欲しい」


「なぜですか」


「なぜって。……俺と結婚して欲しいって言ったよね? まさかもう忘れちゃった?」


 くす、と微笑んだヴィクトール。

 出会った頃の儚げな笑いではなく、すでに人を支配する人間の顔になっていた。


「聖女が皇妃になるだなんてこの国始まって以来のことだ。民たちもきっと喜ぶだろう」


「結婚なんて、できません」


「どうして?」


「わ、たし」

 聖ポーリア国のスパイだから。

「――貴族でもなんでもないし」


「関係ないよ、そんなの。俺は貴族だろうと平民だろうと、聖女だろうと……嘘つきだろうと、きみが好きで一緒にいたいんだから。そう言っているよね?」


(この人、おかしい)


 本気で言っているなら頭がおかしいし、スパイであるユーフェを味方に付ける気でいるなら、皇妃に召し上げるなんて聖ポーリアに盛大に喧嘩を売っているようなものだ。


 ヨハンはユーフェを裏切り者とみなして殺しに来るだろうし、そんな情報が国民に漏れればヴィクトール共々袋叩きにされる。ご丁寧にも最右翼になりそうなアレックスまで排除して――


 殺される。


 ユーフェは本能的にそう思った。


 アレックスが病死なんて嘘だ。ヴィクトールが殺したのでは?

 ノクトだってもしかしたらもう死んでいるかもしれない。


「ユーフェ?」


 わたしのことは?

 ここで了承したら疑わしい? 断ったらどうなるの?


 ユーフェは諜報活動のプロではない。


 ちょっと敵国の皇子に近づいて、有益な情報を得られればじゅうぶんだった。ヨハンだってユーフェが大それたことをするなんて期待していないだろうし、ユーフェ自身も「聖女として利用価値がある人間をすぐに殺したりはしないだろう」と高をくくっていた。


 こんなに親しくなる予定ではなかった。


 どう答えたら正解なのかわからない。


 恐怖に耐え兼ねたユーフェは椅子を蹴立てて立ち上がった。


「……もう、やめてください」

「何を?」

「罰ならいくらでも受けますから……」

「罰って何のこと? 昨日の事? きみはちょっと魔が差してこの城から逃げ出そうとしただけだよね? 違うの? それとも、もっと俺に謝らなくちゃいけないことがあったりするの?」


 畳みかけるようなヴィクトールの言葉。

 じりじりと真綿で絞め殺されるようだ。

 本当は何もかもわかっているんでしょうと叫び出したい。


「座って、ユーフェ。全然食べていないじゃないか」


(わたしはどうしたらいいの)


 ヴィクトールの妻になる? 一生彼の側で怯えて暮らすの?

 逃げる? どこへ? どうやって?


 席に着かないユーフェに焦れたのかヴィクトールが立ち上がった。


「ユーフェ」


 宥めるように肩を抱かれる。

 ユーフェはヴィクトールを振り払った。


「嫌っ!」

「!」


 そのまま発作的に部屋を飛び出そうとしたが、眩暈を起こしてよろめいた。極度の緊張状態だった上、睡眠時間も足りておらず、おまけに汗びっしょりで眠ったせいか悪寒がするのだ。


 ヴィクトールは支えようと手を伸ばしてくれたが、ユーフェは身体を捩って逃れた。


 珍しく傷ついたヴィクトールの顔――そしてそのまま転倒し、床に頭をぶつけたユーフェは意識を失った。


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